華やかに彩られた会場。
典雅な衣装と煌びやかな宝石で着飾った人々。
皆が競うようにして美麗に装う中、オレは一際人の目を引く格好をさせられていた。
その衣装はオレには華美を通り越して滑稽ですらあるように思える。
現代の美的感覚からすると狂気の沙汰ともいえるこの衣装は、目立つというただ一点についてのみ追求した派手な仕立だ。
名誉のために言っておくが、断じて自らの意思で着たわけではない。
目玉商品を分かりやすい位置に展示するように、誰から見ても主役と分かるためという余計な配慮なのだ。
そう、この式典の主役はオレとフランス王女イザベラ。
その正式な婚約を祝うパーティーだった。
そして、オレことシャルル・ド・ヴァロワにとっては社交会デビューの場でもある。
周囲より一段高い位置にある天蓋付きの上座に座る者は全部で4人。
オレと王女イザベラ、ホストである父オルレアン公ルイ、そしてその横に当然の如く座るフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールだった。
この会場に母の姿は無い。
パリ追放の身である母は会場に入ることすら叶わなかったのだ。
周囲もまた、それを当たり前のことと認識していた。
母が本来座るべき場所を奪った王妃イザボーもその事実を気にしてもいない。
そのの佇まいはオレの目に、自分こそオルレアン公の妻であると主張しているように、
さらにはこの宴の真の主役、ひいては現在のフランスの主は自分であると誇示しているように映った。
そして、ある意味でそれは事実であった。
宮廷において、イザボーの歓心を買うことが出世に繋がるということは周知の事実だ。
イザボーに文句を言う者は誰もいない。
父オルレアン公ですらその寵愛を維持することに汲々としている。
そういった貴族の態度がイザボーの権勢を示していた。
そして、彼女はそれをいいことに莫大の金銭を己の快楽に注ぎ込み、国庫を圧迫し続けている。
その規模の大きさは、幼い王子王女は食事にすら窮乏していたと噂される程であった。
口さがない者は、そのために王子が夭折しているのだとさえ揶揄する。
そんな状態がフランス宮廷の現状だった。
そんなイザボーは現在、女盛りの30歳。
彼女は14年前、16歳でシャルル6世に嫁いだ。
意外なことに、紛れもない政略結婚であったにも関わらず夫婦仲は相当よかったそうだ。
その理由は至極単純なものだった。
シャルル6世がイザボーに惚れ抜いていたからだ。
実際、イザボーは類なき美女だった。
厳選された職人の手による芸術レベルの衣装、その中から更に選び抜かれた一品によって閉じ込められた豊満な肢体は最高級の香油によって磨きぬかれている。
オレの知る最も美しい女性は母であるが、イザボーの美貌も母に劣ってはいない。
色気という点ではむしろイザボーの方が上だろう。
リリスの如し。
そんな例えが浮かぶ妖艶さ。
イザボーは衣服を纏っていてですら、男の劣情を刺激する女だった。
しかし、それはイザボーの方が女として母より勝っているということではない。
美しさにも種類がある。
母の美が清楚で男を癒すものであるのならば、イザボーの美は華美で男を惹き付けるものであるということだ。
そして、娘である11歳のイザベラは母の血を見事に受け継いでいた。
将来の美貌を伺わせる顔は母と瓜二つで、体は既に幼いながらも薄っすらと色気を備えている。
だが、この親子には決定的な違いがあった。
それは育った環境からくる気質の違いで、奔放で陽気と言われるイザボーに対してイザベラは一目で内気な女性と見て取れた。
今もオレの横で伏し目がちに座り、人の多さに怯えている。
わずか7歳で敵国に嫁ぎ、その中で孤独に過ごした日々がイザベラの人格形成に大きな影響を与えたのは疑いようもなかった。
それを哀れとも思う。
だが、それ以上にオレにとってイザベラという存在は母を貶めたイザボーの子、という認識が強かった。
心の中では分かっている。
イザベラも王族の宿命に振り回された被害者なのだ、と。
オレが気遣わなくてどうすのだ、と。
だが、オレのイザボーへの憎しみが、本人を目の前にしてマグマのようにふつふつと湧き上がって邪魔をする。
オレはそれを抑え込むのに必死だった。
とてもじゃないが、イザベラを気遣うだけの余裕がない。
イザベラの姿がイザボーと重なって見える。
そして、その向こうに母の泣き顔がちらつくのだ。
今のオレは必死に己を律し、気を逸らさなくては逆にイザベラを傷つけかねなかった。
後で必ずフォローを入れる。
そのために心の平静を取り戻すべく、オレはじっと前を見据えて儀典官のぶら下げる大きな金の鍵を見つめ続けた。
そんな風にオレに活用されている儀典官とは宴の進行係のことだ。
彼は先程から出席者の間を歩き回り、宴の第一段階である乾杯の歌を皆に奉げている。
この時代の宴は芝居がかったエンターテイメントであり、示威活動であった。
平民であろうと貴族であろうと有力者である者は無駄な行動はしない。
一挙手一投足には何らかの意味があり、宴を主催する場合はそこに複数の効果を狙っている。
今回の婚約式典もそうだ。
オレがすぐに思いつく限りでも最低3つの効果は期待できる。
中立派にオルレアン公の財力と権力を見せ付けること。
王妃イザボーとの信頼関係を知らしめることによって、ブルゴーニュ公の陣営を動揺させること。
自分の派閥の更なる結束を図ること。
この他にも側近を集めて何らかの計画を話し合ういい機会でもあるし、敵陣営に内応者を作っているならその者と堂々と接見することもできる。
饗宴は立派な政治活動なのだ。
また、この時代の式典は一種の儀式でもある。
そして、儀式である以上決まった段取りがある。
まず、今行われているように乾杯の歌を歌う。
この歌は出席者達を讃え、場を盛り上げるためのものだ。実際に乾杯を行うのは少し後になる。
次に行われるのは塩の献上だ。
この時代、塩は大変貴重で高価なものであった。
それは東西問わず同じで、中国では塩を国の専売として財政の基礎の一部にしていた程だ。
それゆえに塩は身分の高さや高貴さの象徴でもあった。
塩の献上の後はトレンチャーの支給を行う。
トレンチャーとは長方形または円形に焼いた大きなパンを2、3日おいたものだ。
非常に固いこのパンはなんと皿として使われる。
料理をその上に置いて、手掴みで食べる。それがこの時代の常識だった。
もちろんパンであるのでやがては水気で柔らかくなり、皿としての役割を果たせなくなってくる。
貴族は当然、それを食すなどというはしたない真似はしない。新しいトレンチャーと取り替える。
非常にもったいないと思うが、オレもかつてそれを食べてひどく怒られてからは泣く泣く交換していた。
このパンの儀式が終わると、今度こそ乾杯だ。
毒見係が飲んだことを確認してから、儀典官が乾杯の言葉を大きな声で述べ、列席者も口々に乾杯を唱和する。
楽師たちが盛大にファンファーレを鳴らし、やっと料理が一皿ずつ運ばれてくる。
食事中にも演奏は続けられ、様々な余興や劇が行われる。
ここが主催者の腕の見せ所で、各人とびっきりの趣向をこらす。
主催者自ら余興をすることもあるのだ。
現に王であるシャルル6世も「野蛮人の踊り」と称して人々を楽しませたことがあった。
このように中世の饗宴は複雑な式典だ。
それは政治の場であり、エンターテイメントの場であり、儀式であるという一見矛盾した重要な行事なのだ。
■
宴も半ばを過ぎ、享楽の時は終わった。
今からは社交の場。
剣ではなく言葉で争う闘争が始まる。
その主役は式典の主催者である父だ。
オレはこのとき始めてオルレアン公ルイの真価を知った。
父は劇場型の人間だった。
180センチの長身にすらりとした体型。
それを包むのは流行の最先端の衣装だ。
実は現代の人々が想像する中世貴族の典型的服装、足全体をタイツで覆うファッションは最近になって生まれたものだった。
体の線を強調してしまうその服装は着るものを選ぶ代物だが、父は見事に着こなしている。
為政者にとって見た目は重要な要素だ。
見目の良さが大衆からの人気やカリスマ性に寄与する所は大きい。
この点で父は大変有利であった。
そして、その父を囲むのはいずれもフランスの重鎮たちだ。
フランス大提督、オルレアン公元帥と兄弟で軍事を極めたブラクモン。
国王の顧問会議の構成員であり、ノルマンディーの名家出身であるトルシー。
下ノルマンディーにおける国王代理として活躍したモーニー。
国王の「切れ者の執事」と呼ばれた侍従ダンジェンヌ。
いずれも名だたる実力者たち。
オレの知るいつもの父ならば見劣りしてしまいかねない者たちばかりだ。
だが、今の父は違った。
派閥の象徴として振る舞う父には「華」があった。
周囲を巻き込み、惹き付け、魅了する。
バラのように艶やかで惹き付け、食虫植物のように相手の心を絡めとる。
成る程、父がブルゴーニュ公の対抗馬として担がれるはずだ。
オルレアン公ルイは社交の場では無敵なのだから。
この華は身につけようとして身につくものではない。
生まれ持っての才能だからだ。
オレは改めて父を見直し、自身も会場へと乗り出した。
オレも父に負けてはいられない。
まず最初に接近したのはベリー公だ。
オレの後見人となったベリー公を仲介すれば、様々な貴族と渡りをつけることができる。
「先日は誠にありがとう御座います。ベリー公のお力添えがなくては私の望みは叶いませんでした」
オレの礼を受け取ったベリー公は実に上機嫌だった。
ベリー公には会談後にも改めて美術品を送っており、その関係は極めて良好だ。
小柄な体を揺らして宴を満喫している彼の目にはオレに対する親しみに満ちている。
「おぉ、シャルルか。先日もらった石像も大変素晴らしかった。
君の贈り物はどれもこれも私の心を捉えて放さない一級品ばかりだ。一日中見ていても飽きないよ」
ベリー公はオレの贈り物について手放しで褒めちぎった。
やれあの像の背中のラインとその力強さは素晴らしい、だの。
あの絵のタッチは独特で初めて見たときは3時間も見つめていた、だの。
これほど喜んでもらえるなら贈りがいがあるというものだ。
「しかし、君はあれだね。まるで私の嗜好を私以上に知っているようだね。
どれもこれも実に的確に好みをついてくる」
ベリー公はそう笑ってからかうが、その言葉は的を射ていた。
オレはかつて目にした「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」からベリー公の嗜好を分析して贈り物をしているのだから。
彼の芸術活動の集大成を思い出し、その内容をお抱えの芸術家に話してベリー公の好みそうな作品を探す。
そうすれば高確率で御目に適う作品を贈れるというわけだ。
もちろんオレはそんな裏事情を馬鹿正直に伝えない。
「ベリー公のことを思い、慕う。そうすると自然と御身の好みも分かるようになったのです」
そうしたり顔で言うだけだ。
一頻りベリー公と交わった後、オレは様々な貴族との面通しを行った。
顔の広いベリー公が紹介してくれた者はかなり多岐にわたったが、その中でも最も驚いたのは目の前の男だ。
ジャン2世・ル・マングル。
生粋の武人であるこの人物を生粋の芸術家であるベリー公から紹介してもらえるとは思わなかったが、これは思わぬ幸運だった。
オレはジャン2世・ル・マングルと是非話をしたかった。
彼はヴェネツィアを牽制するためジェノヴァに駐在している。
こういった大きな催しでなければ知り合うことはできないのだ。
「お初にお目に掛かり光栄の極み。ジャン2世・ル・マングルに御座います。世間にはブシコーで通っておりますれば、そうお呼びください」
そう挨拶をするブシコーはオレの想像していた通りの人物だった。
彼は馬上試合やプロシア十字軍で勇名を馳せ、元帥の地位を賜っている。
その経歴からオレはギヨームと似通ったタイプであると推測していた。
「高名な騎士、あらゆるか弱き者の盾、最も有力な女性の擁護者であるブシコー殿と知己になれる。
これも神の思し召しであろうか。
私も同じ騎士の道を志す者、貴殿のことはかねてより険しき騎士の道を駆け抜ける偉大な先達として尊敬しておりました。
一つ私に正義の道について御教授願えないだろうか?」
こういった人物はとかく煽てに弱いものだ。
案の定、ブシコーも恐縮しながらも満更ではない様子で己の武勇伝を語り始めた。
■
オレとブシコーはベリー公の下を辞し、二人だけで話をしていた。
ベリー公も一通り紹介したい人物には紹介し終えたらしく、またオレが少年らしく武勇伝に夢中になっていると受け止めて快く送り出してくれた。
「私は一人の女性の名誉を賭けて決闘に及びました。
彼女の甥は、無分別にも夫の死の悲しみに暮れるか弱き貴婦人に対して相続権を主張したからです。
彼女を崇拝していた某はこの不義に怒り、卑劣漢を公の場で挑発しました。
貴婦人相手にしか凄めない男とそれを諫めもしない友人たち。この地には騎士といえる者がいないようですな、と」
酒も入ったブシコーの舌はますます滑らかになり、彼の口からは絵本の物語が次々と飛び出てくる。
ブシコーの人生は吟遊詩人の語る騎士物語そのものだった。
「相手は10人、こちらは1人。多勢に無勢と止める者に某は言い放ちました。
不義なる者が蔓延るはそれだけで某の恥辱なり。これを見過ごす者は騎士に非ず、と。
決闘は勝ち抜き方式で、最初の相手は標的たる男でした。
私は愛馬を駆り、不用意に突き出された彼の槍をかわしざまに一突き、えいっと突き出しました。
某の放った渾身の一撃は鎧を割り、体に突き刺さり、一瞬で彼を絶命させるに十分でした。
目的を果たした某は震え上がっている9人を優しく突き落としてやりました。
そして勝者の権利を得た私は彼等から何も受け取らず、ただ婦人の保護を命じたというわけです」
ブシコーはそう言って話を締め括った。
これで彼の決闘話は6つ目だ。
よくもまぁ、これだけ戦って無事なものだ。それだけブシコーは強いのだろう。
だが、オレがブシコーと話したいのはこんなことではない
「いや、素晴らしい活躍ぶりです。噂では聞いておりましたがこれ程とは」
酔いも手伝ってブシコーはかなり気が大きくなっているようだ。
先刻までは賛辞に対して謙遜していたのに、今では女性を保護することこそが某の使命である、などと息巻いている。
「ところでブシコー殿。不躾なことを尋ねる私を許して欲しいのだが……」
オレはいかにも言いづらそうな演技をする。
そのオレの様子にブシコーは胸を叩いて応えた。
「なんですかな?某の人生に恥ずべきものなど欠片もございません。どうぞ遠慮なくお尋ねください」
彼の言葉を待ってから、いかにも言いにくそうに尋ねる。
「それほどまでに強いブシコー殿ですら捕虜になったことがあると聞いています。相手は異教徒だったとか」
オレの言葉にブシコーの顔がかすかに強張る。
酔いも一気に醒めたようだ。
その反応はオレの予想していたものだった。
「はは、いや思わぬ不覚をとりましてな」
そう笑って酒を注ぐ手も震えている。
この手のタイプは誤魔化すのが下手だから楽でいい。実に分かりやすい。
それに小奇麗な言葉に弱いことも……。
「ブシコー殿、敗北という果実はいつも苦い。
だがそれを喰らい、味わい、噛み砕く者こそ真の勇者であり勝者になる者だ。
そしてその果実は後世に分け与えることができる。
教訓としてな。
私にそれをくれないか。
全ヨーロッパを脅かしている異教徒の脅威を肌で感じた貴殿の経験、それは何よりも貴重なものだ」
勇気、勝利への貢献、奉仕、自己犠牲。
クリソンのような政治家を兼ねていない、純粋な騎士にこれらの言葉が友好なことはギヨームから学習済みだ。
三つ子の魂百まで、教育は人格の根幹を形成する。
多様な価値観を認められていない時代で、騎士道と言う教材で育った者たちが共通する性質を備える確率は高い。
教育とはそれ程に重要なのだ。
オレの言葉は狙い通りブシコーの心を刺激したようだった。
彼は静かに語り始めた。
「あの時、全ヨーロッパが異教徒討伐のために結束しました。
動員された兵力は数万を越え、イングランドもフランスもあらゆる遺恨を捨てて参加したのです。
十字軍、そう呼ぶに相応しい規模でした。
神のために立った我等の前に必ずや異教徒は屈する、誰もその未来を疑っていませんでした」
それは恐怖の記憶。
雷帝と呼ばれた王によって刻まれた爪痕。
「我々は敵よりも早くニコポリスに到着し、そこに布陣しました。
前面に馬防柵を設置し、前段にフランス騎兵、後段にハンガリー王ジギスムント率いるドイツ・ハンガリー・ポーランド兵と並び、
左右にワラキア公やスイス兵・イングランド兵・マルタ騎士団他を、
更にニコポリス後方のドナウ川にジェノヴァとヴェネツィア海軍を配置した我々の陣構えは必勝を期したものだったのです」
それは後に最強を誇る国の軍隊。
ビザンツを滅ぼし、地中海を支配する大帝国。
オスマン帝国の原型。
「何が起こったのか分かりませんでした。
轟音に曝され、騎兵に蹂躙され、嵐の海に浮かぶ小舟のように翻弄されたことだけは覚えています。
某は生き延びるため必死で槍を振るいました。唯ひたすらに、一心不乱に。
どれほどの時をそうやっていたのでしょうか。
気付いたときは味方は壊走していました。我々フランス騎兵だけが取り残されていたのです。
完敗でした。正義を信じ、神のために戦った1万人近い兵士が捕虜となりました」
ブシコーはグラスを傾け、一息に酒を流し込んだ。
恐怖を振り払うように。恐怖に飲み込まれないように。
それでも彼の体は震え続けていた。
「某は奴等と二度と野戦はしたくありません。轡を並べたブルゴーニュ公子ジャン殿もそう言うでしょう。
オスマンはそれほどに圧倒的でした。
私を臆病と謗りますかな?大きな口を叩いて、戦ではなんの役にも立たない男と幻滅しましたか?」
オレはゆっくりと首を横に振り、否定した。
敗北の思い出を他人に話す、それがどんなに勇気のいる行いかをオレは知っている。
ブシコーは真の勇者だ。
「感謝こそすれ、謗るなど……。
今のブシコー殿のお話には黄金以上の価値があります。他の誰かにこのことをお話になられたことは?」
ブシコーは寂しげに笑って、首を振った。
「できよう筈もありません。
騎士とは悲しいもので虚勢を張り、恐れるものなど何も無いと声高に叫び続けねばならないのです。
ましてその代表のように持て囃されている某がこのような話をするなど……」
許されない、そう呟いたブシコーの姿からオレは男の悲哀を感じた。
彼は現実の自分と偽りの自分の狭間で押し潰されている。
そして、彼にはそれをどうすることも出来ないのだ。
「何故オレには話してくださったのですか?」
自分で聞き出しておいてこの言葉はないと思う。
オレは彼の心の傷を抉り、切り裂いて無遠慮に覗き込んだのだから。
それでも聞いておく必要があった。
「知って欲しかったからです」
それは力強い言葉だった。
「いずれオスマンはヨーロッパに侵攻してくる。私はそれを肌で感じました。
奴等の脅威を、強さを、殿下に伝えねばならない。
そうしなければならない気がしたのです。
それだけがニコポリスで敗北し、心を折られた某にできる唯一のことでしょうから」
真摯なブシコーの言葉。
しかし、オレはその「心を折られた」という言葉が不満だった。
彼にしかできない仕事がある。
ブシコーにはそれを自覚してもらわねばならない。
「ブシコー殿の御心、確かに受け取りました。
だが、貴殿はお心得違いをなされている。貴殿にはまだまだやれることがおありになる筈だ」
そう彼はオスマンという怪物を知る数少ない人物なのだ。
その貴重な人材が恐怖に押し潰されていては困る。
「貴殿は働かなくてはならない。全ヨーロッパのために、全キリスト教徒のために。
貴殿には異教徒の脅威を知るものとして働く義務がある。
貴殿にだけがこなせる仕事がある。
それを行わずしてどうします。か弱き者を守らずしてどうします。男子たる者が自らに課された試練から目をそむけてどうします」
オレはブシコーの肩を強く、強く掴む。
彼の体を揺さぶり、心を揺さぶる。
「見張るのです。
港町ジェノバで東洋の情報を集め、その動向を探るのです。
警戒する、それは敵の脅威を知るものだけができること。
例え何があろうとも貴殿が、オスマンの恐怖を知る貴殿が警戒し続けるのです。
そして何か異変あらばいち早く皆にそれを伝えるのです。
それこそ今の貴殿に課せられた使命ではないですか」
ブシコーの目に光が戻り始める。
戦うだけが能じゃない。情報を集めるならば今の自分にでもやれる。
彼の心がオレの言葉によって揺れ動いているのを感じる。
そう、元帥ブシコーにこそやってもらわねばならないのだ。
オスマンがさらに東の大英雄に打ち負かされた後も見張り続ける、警戒を緩めずにその動向を注視する。
それはオスマンの恐怖を知る者にしか出来ないことだ。
安心してもらっては困る。
細心の注意を払い、なるべく争わずにすむように事を動かす。
そうしなければミラノもオスマン戦争に巻き込まれるは必定だ。
冗談ではない。
あの怪物と戦うことだけは何としても避けねばならない。
少しずつ、確実にオスマンへの警戒心を周知させる。戦うことの恐ろしさを染み込ませる。
それがオレのとった対オスマン戦略だった。
ブシコーにはそのためにも働いてもらわねばならない。
そして、そのオレの目論見は叶いそうだった。
自身の役目を見つけ意気込むブシコー。
オレはその姿に満足し、またパーティー会場に戻るのだった。
シャルル婚約話でした。
結構な長さとなってしまい、話をまとめることに苦労しました。
どうだったでしょうか?
御意見、御感想、御批判をお待ちしています。
また、登場人物も増え、話も長くなってきました。年表や人物表が欲しいという方がおられるかもしれません。
その場合はお知らせください。