アルチュール・ド・リッシュモンは複雑な背景を持った少年だった。
その背景は少年の母がイングランド王の下へ走ったということだけではない。
彼にはもっと歴史が長く、根深い事情があったのだ。
それはリッシュモンがブルターニュ人であることだった。
ブルターニュ地方とはフランスの北西に位置する半島とその周辺を指す。
そこはイングランドとは海峡を隔てているだけで、フランスとイングランドの中間に位置していた。
住人はケルト人をその起源に持つ者達だ。
彼等の先祖はアングロサクソン人の圧迫を受け、イングランド西端、コーンウォールから海を渡ってブルターニュに移住した。
当然、その風俗習慣にはケルト人のものを多く残している。
そういった地理的、文化的要因からブルターニュ地方はイングランド、フランスのどちらに帰属するべきかということが明確でなく、半独立状態が長い間続いた地域であった。
その曖昧な形で放置されていた問題は百年戦争初期、ブルターニュ継承戦争という形で表れた。
25年もの長きに渡って行われたこの戦争は、ブルターニュ公の継承を巡ったものだったが、イングランド王とフランス王の介入の結果、実質上両者の代理戦争となっていた。
この戦争は始まりも複雑であれば、終わりも複雑だった。
代理戦争としては賢王シャルル5世率いるフランスに軍配が上がったが、真の勝者となることは出来なかったのだ。
ブルターニュ公となったのはイングランドが支援していたジャン4世だった。
彼は封建的臣従の礼を取ることでフランスと和解する一方で、イングランドとも秘密同盟を結んでいた。
フランス王と繋がりの強い有力領主を抑えるためだった。
戦争は独立性を維持しようとするブルターニュ公と、屈服させたいシャルル5世の駆け引きへと形を変えたのだ。
そして、最終的な勝者はブルターニュ公であった。
シャルル5世ですら、激しい抵抗運動によってブルターニュの王領併合を諦めざる得なかった。
ブルターニュ人の独立心はそれほどに強かったのだ。
少年リッシュモンを巡る数々の政争、協議にはこうした経緯があってのことだった。
やっと落ち着いたブルターニュを騒がせたくない、イングランドに介入する隙を見せたくない。
そうした意向が働いた結果だったのである。
■
街道を走る一台の馬車。
その中に件の少年、アルチュール・ド・リッシュモンと彼の後見人クリソンはいた。
Arthurという伝説の騎士王と同じ名をもらった少年である。
それは偶然の一致か、英雄となることを神に約束された必然か。
その姿からは幼いながらも貴人の風格を感じさせていた。
幼くとも鷹のように尖った鼻と鋭い目を有する精悍な顔。
かつては少年らしい魅力的な笑顔を浮かべていた顔だ。
しかし今、その顔には深い懊悩の皺が刻まれていた。
そう、母が去った運命の日より癖となっていた表情だ。
彼は常日頃、黒髪を弄りつつ何かを考え込んでいた。
「いつも何を考え込んでおるのだ? そのように難しげな顔をして陰気が過ぎるぞ」
彼の陰気にはクリソンも手を焼いていた。
以前は闊達で人好きのする人柄だった少年はすっかり変わり果てていた。
無理もない。
8歳という若年の彼にとって、母に捨てられるという事態はそれ程の重大事だったのだ。
クリソンはそのことに殊の外心を痛めているのであった。
「ほれ、今日はシャルル殿との対面の日だぞ。
今後世話になる相手じゃ。もっと愛想よくして損はあるまい。
そうじゃ、ちょっとここで練習してみよ。笑え、笑え」
老人の精一杯の心遣いも少年の固く閉ざした心には届かない。
クリソンは深い溜息をついた。
繊細な年頃の子、彼をしても扱いかねていた。
「御主の気持ちも分かる。さぞ、つらかろう。
だが、酷な事を申すようだがこの戦乱の世にあって、悲劇はそこら中に溢れておる。
口減らしのために産まれたばかりの我が子を捨てる親は多い。
年老いた親を殺す子もじゃ。
この世こそが地獄、人とは罪深きもの、それを嘆いても仕方ないではないか」
リッシュモンはじろりとクリソンに目を向けた。
その顔には老練なクリソンを圧する程の得も知れぬ迫力が備わっていた。
「私は徒に己の不幸を悲しんでおるわけではありませぬ」
「では、一体なにをそんなに悩む?」
「………」
「御主はそうやって己の心中を語りたがらぬ癖がある。
それは悪癖じゃ。人は他人の心を察することなどできはせん。
兄君も御主を気にかけておったぞ。
もしワシらに話しづらいのであれば、誰でもいい。話してみよ」
「………」
黙秘を貫くリッシュモンにクリソンもそれ以上言葉を重ねることを止める。
そう簡単に解れるようなら人は悩みはしないのだ。
果たしてどうすればこの少年をより良い方向へ導けるか、最近のクリソンはその事ばかりを考える。
振り返るとクリソンの人生は戦いの連続であり、それを代表するのが宿敵ジャン4世との戦いであった。
それほど彼の人物との日々は濃密だった。
だからリッシュモンに対する思い入れも強い。
期待してしまう。執着してしまう。心配してしまう。
互いに認め合った宿敵の子である。
どうにかしてやりたい、せねばならない、それはクリソンの偽らざる本音だった。
そうして物思いに沈むクリソンに呟くようなリッシュモンの声がかかった。
「シャルル殿は……どのような御仁でしょうか?」
ようやく喋ったリッシュモンに安堵すると共に一つの事実に気が付く。
リッシュモンが自分の預け先となる人物に関心を示したのはこれが初めてであった。
「ん、シャルル殿か。
先日御目にかかったが、なかなかの器量ではあった。
不測の事態が起こった際の対応も垣間見れたが、それも悪くなかったしの。
経験を詰めば一角の人物にはなるかもしれん、そういう御仁じゃな」
クリソンはそう言った後で少年の様子を観察した。
同年代の者の話をすることで変化を期待したのだ。
「学問が得意と、そう聞きましたが」
リッシュモンが他人に興味を持っている、クリソンはその事実に歓喜した。
何とかこれを突破口にしたい。
その一心で彼はシャルルについて様々なことを語って聞かせた。
脚色されている市井の噂話も含めて、だ。
もしシャルルがクリソンの語った通りの人物であったなら、とんでもない偉人になってしまうだろう。
曰く、1を聞いて10を知り、5人の人と同時に話すことが出来る。
曰く、異国の言葉を一週間ほどで習得してしまう。
曰く、慈悲深く敬虔な神の僕であり、正体を隠して街の悪漢を裁いている。
その話のどれもが100倍に誇張されたもので、中には有りもしない嘘すらあった。
シャルルが聞けば恥ずかしさのあまり縮こまって、隠れる穴を探し出すだろう。
クリソンにしてもやり過ぎている気はしていた。
しかし、リッシュモンが気の無い姿を装いながらもこちらの話に耳を傾けている以上、止めることは出来なかった。
こうして馬車が目的地に着くまで、クリソンはひたすら偽りのシャルル像を語り続けることになったのである。
■
オレはリッシュモン一行の到着の知らせを受けて、面会室に向かっていた。
本当は未来の大英雄を待たせるなど気が引けるし、自分から迎えに行ってこちら側に引っ張り込めた喜びを確認したかった。
だが、何事にも様式というものがある。
格上の立場であるオレがそのように軽々しい行動を取るわけにはいかないのだ。
これはあのギヨーム講座で学んだことの一つだった。
現代と違って、トップのフットワークが軽いことは必ずしも良いことではない。
王族はときに幻想をまとって君臨することも必要だからだ。
かつての天皇がそうだ。
謁見する者からは天皇の姿は御簾の向こう側にうっすらとしか見えない。
それが良いのだ。
人々はその影を通して、日本の神話と歴史の体現者を感じる。
そうすることで等身大の人間が現人神になるのだ。
面倒な使用人が来訪を告げるのを待ってから入室する段取りも必要なこと、オレはそう割り切れるようになっていた。
「お初に御目にかかります、アルチュール・ド・リッシュモンと申します。
シャルル様におかれましては私の養育を引き受けていただき、誠にありがとう御座います」
「シャルル・ド・ヴァロワだ。よく来てくれた」
オレはこの会談を二人だけのものにした。
クリソンという親役の者がいては、ありのままのリッシュモンを見ることは出来ないと考えたからだ。
それにあの喰えない老人がいては、そちらに警戒心を割かなくてはならない。
オレはこの会談をリッシュモンを観察するという一点に絞りたかった。
そしてオレの第一印象は、暗い目をした奴、だった。
目は口ほどにものを言う、とはよく言ったもので人は視線に対して酷く敏感だ。
オレは部屋に入ったときからリッシュモンの値踏みするような暗い視線を感じていた。
それを当然と受け止める自分と違和感を感じる自分が居る。
どうも取り入る相手の力量を測る視線とは毛色が違う気がするのだ。
オレはこの感覚に多少自信を持っていた。
権謀術数の中心で育ったことによって培われた感覚だ。これのおかげで命が助かったこともある。
取り敢えずは当たり障りのないことから会話を始めよう。
「リッシュモン殿は何を学ばれたいとお思いかな?」
「私はまずは武人として己を高めたいと考えています」
「学問をされる気はないと?」
「もちろん学問を疎かにするわけではありません。ただ、この戦乱の時代において私は武を重視したいと思います」
「知識の重要性は低いと?」
「勝たなくては知識を活かすことすらできませんから」
上っ面だけの薄い会話だ。
互いに優等生な内容ばかり言って手の内を見せない、そんな遣り取りだ。
オレが望んでいるのはこんな会話ではない。
そろそろ少し踏み込んでみるか。
「リッシュモン殿、何か言いたいことがあるのであろう?」
オレの言葉にもリッシュモンは動じない。
何のことか、と惚けてみせる。
内心を吐露される、それには2通りの方法がある。
1つは信頼されるのを待つこと、もう1つは抉り出すことだ。
「誤魔化すことは無い。宮廷で育った私にはわかる。
君の目が私の心を探っていることは、な。
そしてその目の光、それは何か1つの事を深く思索する者が持つものだ。
哲学者の目、そう言ってもいい。何か知りたいことがあるのだろう?
私がその答えを知っているのか、それ程の人物なのかを探っていたのだろう?」
オレの言葉を聞いてリッシュモンは沈黙した。
あの暗い目は考えても答えの出ない何かへの憤りと苦悩の目だった。
それに気付いたならば、そこを突けばいい。
オレはリッシュモンの目を真っ直ぐ見ながら彼の言葉を待った。
暫くしてリッシュモンは静かに語りだした。
「……正義とはなんだ?」
その声はマントルの底に押し込められたマグマのような熱を孕んでいた。
仮面を脱ぎ捨てたリッシュモンはまさに別人だった。
いつしか彼は太陽がプロミネンスを纏うように熱気を身に纏っていた。
どこか不安定で頼りない、しかし膨大なエネルギーの塊のような少年。
それがリッシュモンの真の姿だった。
「母が去ったときに考えた。
親が子を守り育てる、それは神の定めた摂理の如く当然のことだ。まして貴族であるならば、な。
だが母は我々を捨てた。私は1人世界に放り出されて考えた。
正義とは何か。
高潔な騎士の鏡と言われるクリソン殿すら保身のために他人を蹴落とすことがある。
神の地上代理人である教皇すら金で罪は贖われると説く。
教えてくれ、シャルル殿。リベラル・アーツを修めた者よ。
正義とは何なのだ!!
神が唯一人であるように絶対の正義という存在はこの世にあるのか?」
それは解答の存在しない命題だった。
きっとリッシュモンも認めたくないだけで理解しているのだ。
絶対の正義などこの世にはない、と。
リッシュモンは幼さゆえの一途さでそれを探し、持ち前の潔癖さからそれが存在しないことに苦しんでいたのだ。
そして、彼が正義を探し始めたのは母に捨てられたからだ。
母が己を捨てたことに正当性や事情を見出したい、という心に端を発したものだ。
これはオレの手に余る。オレでは彼の心を癒すことは出来ない。
彼を癒せるのは似た境遇を味わってそれを乗り越えた者だけだろう。
オレに出来るのは対処療法的なことだけだ。
「リッシュモン殿、一つ東洋の歴史をお話しよう。まずはそれを聞いてくれ」
これで納得してくれるとは思わない。
けれど何かを掴む切欠になって欲しい。
「かつて宋という国があった。この国が今のフランスのように危機に陥った際、一人の英雄が現れた。
名を岳飛。彼は義勇軍の一参加者の身から己の軍功のみで将軍にまでなった男だった。
彼は外敵を幾度も打ち破った。彼は強く、学もあり、若かった。
民衆に絶大な人気を得た彼は主張した。失われた領土を取り戻せ、誇りを持って夷敵に屈するな、と。
彼は正義と思うか?」
リッシュモンは頷いた。
祖国のために身を呈して戦う、それは一つの正義の在り方だ。
騎士の誉れといってもいい。
「同じ国、同じ時に一人の宰相がいた。
名を秦檜。彼は和平推進派だった。
敵国との国力差は圧倒的で、岳飛の唱える領土奪還は非現実的なものだった。
王の意思も和平に固まっていた。
秦檜は主戦派を抑えこんで和平を結んだ。その過程で英雄岳飛も謀殺した。
だが結果的に有利な講和を結んで国を救った。
失ったのは屈服したという体面のみで実利を得た。
彼は多くの非難を浴びたが、戦を避けることで多くの命を救ったのも事実だった。
彼は悪であると思うか?」
リッシュモンは考え込んでいた。
秦檜の行いは正義ではない。だが、悪でもない。
結果的に国に利益をもたらしたのは秦檜であり、彼の行いによって失われなかった命もあるからだ。
「リッシュモン殿、私は正義とは人それぞれによって違うものだと思う。
物事は単純に二極化して分けることは出来ない。視点が変われば物事への見方も変わるからだ」
リッシュモンはそれでも承服しかねる、そういう表情をしていた。
今すぐ受け入れることは無理だろう。
彼の受けた心の傷はそれ程に深い。
「リッシュモン殿はミラノで暮らしてもらうつもりでいる。
そこには私の母もいる。
ご存知かと思うが、母も結果として父に切り捨てられた身だ。
最愛の人から裏切られた、そういう点でいえば貴殿と似通った境遇にあるといえよう。
私では貴殿の悩みをなくすことはできないが、母ならば共感するところがあると思う。
是非とも母に会ってくれないか」
結局、母に問題を丸投げする形になってしまった。
しかし、こうしてオレの話を吟味しているリッシュモンの姿を見ると少しは影響を与えられたように思う。
リッシュモンに必要なのは母親に代わって愛情を注いでくれる女性だと思う。
母は情の深い心優しい方だ。
きっとリッシュモンを包み込んで傷を癒してくれるだろう。
彼女の抱擁と笑顔はオレだけの特権だったが、貸すことも吝かではない。
こうしてオレとリッシュモンの出会いは終わった。
現実のリッシュモンは英雄の片鱗は感じさせるものの、年相応の少年だった。
失った母の愛を求める孤独な子供だったのだ。
悩める少年リッシュモンについてでした。
母親に捨てられたらどうなるのだろう、という想像の下に書きました。
なるべく説教臭くならないように気を付けたのですがどうでしたでしょうか?
少々心配です。
ご批判も真摯に受け止めさせて頂きたいと思います。
それでは、御意見、御感想をお待ちしています。