この時代に来て改めて思い知ったことがある。
それは人類が歴史の中で積み上げてきた知識の偉大さだ。
特に化学がそうだ。
一人の天才が為した偉大な発見。
それは無数の先人、研究に人生を捧げた者達の努力無しにはあり得ない。
例えば彼が使った実験器具。
あるいは実験の手法。
もっと言えばその発想さえ、先人の研究に基づいているのだ。
オレはここに一つの悲しい結論を出さざるを得なかった。
オレの知識、化学肥料や鉄の製法などの有用な科学知識は全く役に立たない、という結論だ。
現代では誰もが甘受している基礎教育。
その知識を活用することができれば実に様々なことができるだろう。
食糧生産の増大、ガラスや鉄の質の大幅な向上とその大量生産。
得られる恩恵は測り知れない。
そう活用できれば、なのだ。
例えばアンモニアを得るハーバー法。
これを行えれば化学肥料を開発することも可能かもしれない。
しかし、それを可能とするためにはまず触媒と高温高圧反応装置も開発しなければならない。
そして高温高圧反応装置を開発するためにはさらに別の発明をせねばならない、というようにイタチゴッコになってしまうのだ。
そう、研究結果のみしか知らないオレでははるか500年以上先の技術の数々を再現することができないのだ。
知識を利用した政策を考えるときは、いつもこの結論につまずかされた。
その度に落ち込んだ。
しかし、ある日オレは結果のみを知ることだけで有用な学問を思い出した。
物理だ。
アイザック・ニュートンが確立した近代物理学は人類に多大な貢献をした。
中でも事象の正確な予測を可能としたことは大きい。
オレはこの知識を大いに活用することにした。
幸いイタリアでは眼鏡が実用化されている。
つまり、レンズが既に存在するのだ。
だが、望遠鏡は存在しなかった。
しかし、それはレンズを組み合わせるというアイデアが存在しないからにすぎない。
技術的には不可能ではないはずなのだ。
オレの知識と職人の試行錯誤の努力を合わせれば製作できる、そう思い立ったのは1年前だった。
そして今日、完成品を手にしたオレはそれをガレアッツォに献上しに向かった。
「はははは、見よ見よ。
アリの様に小さき者がまるで目の前に居るようだぞ。
おぉ、笑うとる顔までよく見えるわ」
ガレアッツォは上機嫌であった。
それはそうだろう。
初めて使う人にとってはまるで魔法のような代物なのだ。
「シャルル、この長筒はなんと申したかの?」
「望遠鏡でございます、お爺様」
「そうそう、望遠鏡だったな。実に素晴らしいな、これは」
そう言いながらガレアッツォは望遠鏡を撫でている。
これ程いい笑顔の祖父は初めて見た。
余程気に入ったのだろう。
「お前が作ったのか?」
「アイデアを出したのは私です。しかし試行錯誤をした職人抜きには完成しなかったでしょう。
是非とも恩賞をお与えください」
ガレアッツォは遠くを覗きながらオレの言葉に頷いた。
「良い働きをした。望みの物を与えてやれ。
ところでシャルル、発案者のお前のことだ。何かこの道具の使い道も考えているのだろう?」
悪戯の企みを持ちかける子供の様な顔で笑うガレアッツォ。
最近ではこの様な問いかけが多くなった。
それは政務官として認めたというわけではなく、まだまだ面白い着眼点をする者という扱いでしかないようだが。
かといって、何もできないガキという扱いでもなかった。
オレは祖父の言葉に得たり、と頷いた。
「腕木通信というものを考えました」
「まず長さ数メートル、3本の棒を組み合わせた構造物を造ります。
そして、その棒をロープで動かすことで様々な形を表し、その形それぞれに意味をもたせるのです。
それを別の地点から望遠鏡を用いて確認することで情報を伝達します」
ガレアッツォはオレの言葉を吟味している。
その顔は先程とは異なり真剣なものだ。
それもそうだろう。
英邁な君主であればあるほど情報の重要性は痛感している。
ときに情報は戦の勝敗どころか国家の明暗をもわけるのだから。
それにこの腕木通信の有用性は確かなものだ。
要するに、この通信は大型の手旗信号だ。
現代でも使われることからも手旗信号がいかに優れているかははっきりしている。
「検討しよう」
そう呟くガレアッツォ。
その表情からは彼の頭の中で実現に向けた段取りが次々と構築されてることが読み取れた。
■
ミラノ市内のある酒場。
そこはシャルルが消毒用アルコールの研究を命じた酒造業者達が共同経営する店だ。
シャルルはその研究に並行して現代にあった多くの酒の研究もさせていた。
特にカクテルの研究は盛んだ。
この時代は既に酒を混ぜるという概念は存在している。
しかし、それは味の悪い酒を飲める代物にする、というレベルでしかない。
シャルルはそこに莫大な金脈を見出した。
娯楽の少ないこの時代、酒は全階級の人々に愛されている。
修道士さえワインを神の血と称して飲んでいるのだ。
軍隊は金食い虫だ。
その上、シャルルの軍はこれから教育し成長させねばならない。
莫大な金が掛かると予想されるし、将来を考えても金はあればあるほどいい。
金策を講じる必要があった。
その点でカクテルを出す酒場というのは打って付けだったのだ。
単に酒を研究するには時間がかかる。
しかし配合を試すだけのカクテルならば研究期間ははるかに短くて済むのだ。
既に数種類のカクテルが再現されており、現在も様々な酒を試作している。
この店はそれを市民がどの程度好意的に受け入れるかを調査するための店なのだ。
そして、この店はモルト老御用達の店でもあった。
なんといってもオーナーの師匠である。
酒代も料理代も全てタダなのだ。
そういうわけでこの店が開店して以来モルト老は毎日のように通っていた。
といっても彼はタダ酒を飲んでいただけではない。
各地の酒を飲み歩き、舌も肥えているモルト老は最も辛辣な批評家として店側からも重宝されていた。
そうして今日もまた新たな試供品を味わっているのだった。
そんなモルト老の後ろに一人の男が立った。
目深に被ったフードからその年齢は伺えない。
身長は高くもなく小さくもなく人込みに混じるとすぐに見失ってしまう気がするほど影も薄い。
そんな怪しい男だった。
だが、モルト老は男に気付いていないのか相変わらず酒を飲んでいる。
それを油断と見て取ったのだろうか。
男はふいに腰元から木の棒を取り出すとモルト老に向かって振り下ろす。
その動きは熟練した戦士そのものであった。
「爺さん、今日こそ貰ったぜ―――っぐはぁぁぁ」
しかしモルト老の方が一枚上手だったようだ。
抜け目なく腰元に置かれていた腕は勢いよく剣の柄を押し上げ、最短ルートで男のみぞおちに突き刺さる。
振り返ったモルト老は蹲った男の首下に鞘を突きつけた。
「これで158連敗だ。まだまだ修行が足りんな、え? ガッタメラータ」
そう言って笑うモルト老。
その顔には懐かしい知己に会ったときに浮かべる悪戯気な笑顔があった。
「随分強くなったじゃねぇか。後ろに立つまで気付かなかったぜ。
だが、襲撃のときちょいと気負いすぎたな」
そう批評しながら男を助け起した。
その際にフードが外れ、顔が露わになる。
若い男だった。
「だろ?これでも結構自信あったんだぜ? 全く、いい加減勝ちをくれてもいいのによぉ」
そう言って笑うガッタメラータの顔にもモルト老に対する親しみに溢れている。
そこには先程までの影が薄く怪しげな人物はどこにもいなかった。
陽気そうで男臭い、笑顔の似合う青年がいた。
「10年早ぇよ。……で、ちゃんとお遣いはしてきたんだろ?」
「あぁ、ちゃんと全員に伝えて来たよ。全く類は友を呼ぶとはよく言ったもんだ。
どいつもこいつも爺さんそっくりの偏屈な野郎ばっかだったぜ」
「ふん、傭兵ってのは腕勝負なんだよ。まぁ、飲めや。奢るぜ」
男は通称ガッタメラータ、本名エラズモ・ダ・ナルニ。
彼とモルト老が出会ったのは10年以上前のことだ。
彼はまだ駆け出しの傭兵。
あまりに幼く無鉄砲で、元来目立ちたがり屋であった彼は戦場でもそうだった。
ただ我武者羅に名乗りをあげて強そうな者に挑む日々。
綱渡りのような戦いを若きガッタメラータは続けていた。
そんなある日、彼は酒場で他の傭兵達と諍いを起した。
多勢に無勢、それでも彼は少しも恐れていなかった。
腕に自信があったからだ。
しかし、その鼻っ柱はその日に折られた。
他でもない、モルト老に相手ともども叩きのめされたのだ。
衝撃だった。
負け知らずだったガッタメラータ、無敵と自惚れた自分に初めて土を付けたのがこんな老人。
屈辱だった。
汚辱を注ぐべく今度はモルト老を付回して挑み続けた。
何度も何度も叩きのめされた。
這い蹲るガッタメラータを嘲るように欠点を笑われた。
いつしかその勝負は稽古のようなものになり、彼はモルト老の弟子のような立場になっていた。
そう、ガッタメラータは云わばシャルルの兄弟子なのだ。
そんなガッタメラータへの依頼。
それは引退した傭兵仲間への連絡だった。
ある時は敵として、ある時は味方として戦った歴戦の古強者。
その培われた技術はダイヤよりも貴重なものだ。
シャルルに少年軍の鍛錬を相談されたモルト老は、真っ先にそんな技術を持った戦友たちに繋ぎを取ることにしたのだ。
「で、何人ぐらい来てくれるんだ?」
酒をあおりながらの質問にガッタメラータは笑いながら答えた。
「ほぼ全員だとよ。酔狂な爺い達だぜ」
モルト老はその答えに満足気に笑った。
連絡した相手はそのほとんどが戦場を離れざるを得なかった者達だ。
ある者は怪我のために、ある者は年齢のために。
戦場に膿んで引退した者には一人も連絡しなかった。
渡りを付けたのは生粋の戦士、戦争屋のみ。
彼等にとって平穏な日々は毒と変わらない。
緩やかに近付いてくる死、徐々に失われていく己の誇りたる技術。
それをどうすることもできずに煩悶し、諦めているはずだ。
少しでも戦と関われると知れば飛びつく、そう思っていた。
確証はなかったが成功した。
「そうだ、ガッタメラータ。お前もガキ達に稽古つけろや。
たまには懐の心配をせずに済む生活もいいもんだぜ」
モルト老の言葉に考え込むガッタメラータであったが、不敵に笑って答えた。
「いつでも相手してくれるんならな」
その挑戦の言葉にモルト老は酒をあおりながら答えた。
いつでも来い、と。
そこには王者の風格があった。
本当に申し訳ありません。
書く順番を間違えてしまったため今回は前回投稿した前の話となります。
混乱なさる方もいらっしゃると思います。
全て作者のミスです。改めて深くお詫びいたします。
望遠鏡については一応調べて書いたつもりではあります。
しかし、知識のおありの方から見て実現できない、と判断された場合は
ご批判をお寄せください。修正いたします。