息子が腹を壊して寝込んでしまった。
何でも炊いた米をわざわざ外に放置してから食べたそうだ。
一体全体何でそんなことを、と思う反面この子ならやりかねないかなとも思う。
この子を産んで6年。
振り返ってみれば様々なことがあった。
普通の子供はまず取らない突飛な行動を取ることに苦労させられたり思わず笑ってしまったり。
笑われたことに拗ねて、それを宥めて抱きしめて。
日々伸びる身長に一喜一憂したり転んで戸惑っている様子は年齢相応でとても可愛かった。
勉学を始めてからは毎日のように学んだことを話に来てくれた。
「母上。今日は天体の運動とそこから読み取れることについて学びました。
獅子座は……」
その得意気な様子は実に微笑ましかった。
その内容は間違っても可愛らしいものではなかったが。
話し終わったあとのあの子犬のような顔は今でも忘れられない。
「褒めて、褒めて」とシッポが主張するように目がキラキラしていた。
その様子に思わず笑ってしまって、拗ねてしまったこともある。
そんな子供らしい様子を見せる一方で息子は不意に大人びた様子を見せるのだ。
特に見知らぬ貴族に対してはそれが顕著ですっぽりとその可愛らしさを仮面で隠してしまう。
そして別人のように振舞うのだ。
才能溢れるオルレアン公の後継者として。
素晴らしい才能に子供とは思えぬ行動力。
母としては息子の才が誇らしい反面どこか悲しかった。
その才ゆえにこの子は3歳にして人の醜い部分に触れなければならなかった。
常に周囲は過剰な期待を寄せ、いつしかその期待を超える成果を出し続けることが半ば義務のようになっていた。
それが悲しかった。
こんな幼い子にどこまでさせれば気が済むのか、と。
どこか無理をしているのではないかと心配だった。
私はこの子を愛しいと思う。
そして、だからこそ息子のはらむ危うさが気懸かりだった。
目の前で安らかに眠るこの子は気付いていないだろう。
自身が生まれたのが戦乱のこの時代、この状況でなかったならば間違いなく悪魔の子として排斥されたであろうことを……。
息子は独特の価値観の下に生きている。
共に暮らした私にはそれがよく分かった。
この子は合理的なことが正しいことだと信じている。
この子は人は基本的に平等であると感じている。
この子は宗教そのものを否定している。
恐らく無意識なんだろう。
少しの付き合いでは分からない些細な違和感。
この子の言葉に行動にそれらが見え隠れするのだ。
ミラノに向かう道程の会話からもそれは感じられた。
「母上は父上の此度の行動をどうお考えでしょうか?」
あのとき、私の様子を伺っていた息子は恐る恐るそう切り出した。
「どう、って? あの人のどの行動のことかしら?」
「全てです。父上が王妃と関係を持ったことも母上を見捨てたことも、全て。
私は許せない。
母上はこのように悲しんでおられます。
母上はこのように名誉を汚されました。
私はそれを招いた父が許せません。そしてその原因である方も……」
今まで溜め込んでいたのだろう。
私がミラノに行けるように、唇を震わせて許せないと語るその父親におもねって説き伏せて……。
「ありがとう、シャルル。
でも、いいのよ。仕方なかったんですもの」
そう言って一目で作り物と判るであろう笑顔を浮かべる。
納得していても悲しいものは悲しい。
けれど、この子の示してくれた愛情に私が返せるのは笑顔しかなかった。
「あの人は弱い人なの。分かってあげて。ね?」
そう、夫は弱い。
とてもフィリップ公と対抗できる人物ではない。
かといって、自分を担ぎ上げようとする哀れな弱小貴族達を切り捨てることもできない。
見栄っ張りで自信家で臆病でとても弱くて少しだけ優しい。
そんな夫にはきっと選択肢なんて存在しなかった。
だからこれは必然。
それに……
「あの人は確かに私を助けなかったわ。でもそれは愛がなくなった、という理由ではないでしょう?」
私の言葉に息子は渋々頷いた。
「それはそうみたいです。
父は母を愛している、これは間違いないでしょう。
でもだからこそ解せないし許せないんです」
そこまで言って息子は口を噤む。
何か躊躇しているようだったが、意を決したのか叫ぶように言葉を発した。
「それに母上はもっと怒っていいと思います
私が口を出すべきではないでしょうが、言わずにはいられません。
母上には父上に愛想をつかす権利があります」
私は息子の問いに答えた。
「でも愛し続ける権利もあるでしょう?」
余程意表をつかれたのか珍しく間抜けな顔をした息子に語りかける。
「女は結婚相手を選べないわ。
だから恋人は別に作ったりするしそれは暗に認められている。でも私はそんなの嫌だった」
女は結婚相手を選べない。
その身は全て父親の最も貴重な財産なのだから。
息子は私が政治について何も知らないと考えているようだが私だってあのジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘なのだ。
自身の持つ価値も父がそれをどう効果的に使うかも分かっていた。
そしてそのことに納得もしていた。
けど望まない相手に嫁いだからといって他に恋人を探すのだけは嫌だった。
それは女に生まれた運命に対する敗北のように感じられた。
「だから決めていたの。
何があっても夫を愛そう、って。
あの人には欠点の多い人だったけど同じくらい魅力的なところがあったわ。
恋をするにはそれで十分だった。
理屈じゃないのよ。私はあの人を愛してるの」
私の答えは納得のいくものではなかったのだろう。
それでも私がそう考えているならば、とは感じくれたみたいだった。
そう、この子は人間の感情を軽く考えている。
理性は感情を駆逐する、そんなの戯言だ。
理屈では正しくても感情がそれを認めないことがある。
そんなとき人は常に合理的なことに従うわけではない。
むしろその逆。
感情のままに振舞うことの方が多いのだ。
そしてそれは宗教的情熱において最も顕著に表れる。
この子が軽視している人間の感情にいつか足をすくわれるのではないか。
私はそのことが心配だった。
母親視点でした。
主人公の今後についてフランスに戻るれるのかを心配する感想をいただきましたが一応の展開は考えています。
個人的には無理のない展開かな、と思っていますがその際に批評をお願いします。
といってもまだまだ先の話ではありますが……。
ではご批判、ご感想、ご意見をお待ちしています。