吹く風が首筋を滑り抜けていく。それが驚くほど冷たい。
寒さに強いぼくだが、さすがにマフラーが必要かもしれない。
そんなことを思わせる、土曜の午前のこと。
ぼくは商店街の喫茶店に向かっていた。
つい先日、真由と話をしたこの喫茶店。
ぼくは大概の土日、ここで午後を過ごすことにしてるのだけど、今日の用向きはいつもと違う。
テストの中日、その休日なのだから、勉強のためである。
真由と訪れたときと同じく、まずは昼を食べて。
店の片隅で、コーヒーを友に勉強を進めるつもりだったのだけども。
シャーペンの芯を切らしていたことを思い出し、ぼくは踵(きびす)を返した。
百均、通り過ぎちゃってたもんだから。
手隙に、部活の面々に誘いのメールを出してみた。
即座に返信が一つ。
彼からで、家で音楽聴きながら勉強するから遠慮、なのだそうだ。
そう言えば、音楽付きで勉強して、ある種のイメージ付けをするのだとか。前にそう言っていたのを覚えている。
ぼくにとっての勉強の友がコーヒーであるように、彼の友は音楽なのだろう。
ついでなので、なにを聞いているのか訊ねてみたのだけど。
ボサノヴァじゃないから気にすんな、となんとも連れない返信が来たのだった。
圭からの返信がない。これは少し珍しい。
そう言えば、今週に入ってからは部室に来ていない。
圭とは教室で顔を合わせているので、会っていない訳ではないため、その辺り、意識が薄かったのだけど。忙しいのかもしれない。
まあ、忙しいとは聞いていないので、もしかして違うかもしれないけど。
ただ、僕が体調不良で直帰した月曜も、部活には顔を出さなかったのだそうだし。蓋然性は高い。
その代わり、彼女さんにはなにやら要らぬ口出ししたらしい。
なにを言ったのやら。たまに要らないことを言うのが、圭の悪いところなのだ。
正確には言葉足らずなだけで、必要のないことは口に出さないのだけど。
そんなことを考えていると、彼女さんから返信。
習い事があるらしく、今日は無理なのだそうだ。
ゆーこから返信が来ないのは、どうせまだ寝ているからだろう。
百均に入り、文房具のエリアを覗く。
まだ時間が早いので、百均が開いていたか心配だったのだけど。杞憂だったらしい。
そんな次第で、ぼくが二つ入りと三つ入り、どちらのシャー芯を買うべきか悩んでいると。
携帯が再び鳴った。
見ると、真由からのメールが届いていた。
相変わらず丁寧な文面である。
誤字もないし、漢字の使い分けもきちんと行っている。口語的な、転訛した表現もない。
アドレス交換をしたときなど、文頭に時節の挨拶まで入っていたのだ。
それを思えば、まだしも砕けた方なのだろう。たぶん。
行頭の一字空けぐらいで、几帳面だなどと思っちゃいけないのだ。
返信には掃除を終えてから向かうと書いてあった。
ぼくは苦笑した。どうせ真由のことだから、勉強からの逃避ではなくて、本当に掃除しているのだろうって。
ぼくなんかは、逃避で掃除をし始める側だ。だから家から出たのだけど。
夕方頃まではいると返信し、ぼくは携帯を仕舞った。
喫茶店に着いてみると、店の前には和装の女性が一人。
買い物籠を片手になにかを見ているようだった。
なんだろうかと思えば、ミニサイズの黒板が掛かっている。
先週の土日にはなかったから、新しく設えたのだろう。メニューなんかが書かれてあるようだ。
その女性に近づき過ぎない程度の距離で足を止めて。
僕はその黒板を目をすがめて、眺めやった。
目に付くのは、ビーフシチューが新しいレシピになったと言う宣伝。
特製ライスよりおいしい、とは、特製ライスファンのぼくへの挑戦なのだろう。
マスターめ。いいだろう、まんまと釣られてやろうじゃないか。
こうして、早くも昼のメニューが決まった僕だったのだけど。
風に乗って運ばれてきた香りに、ふと眉をひそめた。
方角から察するに、目の前の女性の香水か何かなのだろうと思う。
鼻を突くような香りに不快に感じた、とか言う話ではない。
香り一つで銘柄を言い当てられるのだ、と言う話でもない。
どこかで最近嗅いだ香りだな、と思ったのだ。
あれこれ考えて、思い当たった。
そうだ。この香りは、テスト初日の昼に真由から分けてもらった、あの大根の────
「柚子────」
柚子味噌の香り。柚子の香りなのだ。
キツさのない、初夏を思わせる爽やかな香りだった。
そう思って、独り言を言ってしまったのだけど。
その女性は振り返り、僕を直視して返事をしたのだった。
「あい。呼んだかい?」
僕は絶句した。
これは僕の持論なのだけど。
今日、美人と言える人はいないと思う。
綺麗な人はいる。可愛い人もいる。
でも、傾国だとかその昔は言った美人、美女はいない。
これは単純に、見る側の目が肥えたと言うだけの話。
テレビを点けてみると、顔の整った女性方がひっきりなしに出ている。
その時々の人、昔からいる人、それぞれだけど。
時代の流行を踏まえた服装に、プロのメイクによって化粧を施された人々。
ブラウン管の向こうで、そういった人々がうだるようにいる。
そ人たちのの努力や美しさを否定したりはしないけど、供給過多ではないかと思う。
そして、その中に好みの人はいても、群を抜くような存在、つまり美人はいないと思うのだ。
今の世に、お話に出てくるような美人はいない。
小説のように、十人中八人が振り返る美人なんていないのだ。
僕は絶句した。
そんな僕の持論を叩き潰す存在が、目の前にいたのだから。
/
僕が後から聞いた亨の話
/
ぼくの目の前には、先程の美人が一人。
物珍しそうにコーヒーのメニューリストを眺めている。
着物姿はこの店にはあわないのでは、と当初は思ったが、よく空気に馴染んでいた。
まるで、明治時代の絵画かなにかのような感じがある。
どうしてこんな事態になったのだろうか。
鈍った頭で、どうにかこうにか、理解に努めていたのだけど。
掛けられた言葉に、そんな思考はすっ飛んでいた。
「済まないけどね」
「は、はい……」
「珈琲には詳しくなくてね。良かったら、お勧めの物を教えてくれないかい?」
「え、あ、はい、えっと……」
女性は苦笑しながら、メニューをぼくに示していた。
慌ててメニューに目をやると。
ほっそりとした指が目に入り、つい目を逸らしてしまう。
思わず、ドキリとさせられたのだ。
本当にぼくはどうしてしまったのだろうか。
そんな疑問を覚えるくらい、ぼくは動揺してしまっている。
それを納める暇もなく、この女性はぼくに不意打ちをしかけてくるのだ。
なるべく指を視界から外しながら、なんとかお勧めを決めて。
ぼくが目を上げてみると。
その女性は、優しげな目でぼくを見ていた。
「そんなに畏まらなくても良いんだよ」
言葉も優しく、心を直接撫でていくかのようで。
なぜか、彼の声で、ほれてまうやろがー、と言う訳の解らない幻聴が聞こえてきた。
そもそも、どうして相席しているのかと言うと。
別に店が混んでいたからではない。この女性の方から誘ってきたのだ。
髪を結い、品の良い緑の地の着物を着たその女性。
背丈はぼくよりも上で、恐らくは女性の平均より高いのだろう。
まあ、そんな些細なことはさておいて、この女性は美しかった。
細面で、やや細い目がまず目に入り。
次に目に入った鼻梁も細やかで、すっと中央に伸びるさまは、その正しさを表しているようで。
唇には紅が引かれ、顔の中で一点、華やかさを見せている。
頬の生色は花の開いたさまを思わせる鮮やかさ。
広い額は月の光を染み込ませたかのように滑らかで、目に眩しくすらある。
店の前で、ぼくが絶句して、そんな小説じみた論評を脳内でしていると。
そんな女性は、振り返ったまま少し驚いたように目を開いて。
それからふと、小さく微笑んだのだった。
ぼくにはてきめんの効果があった。まごうことなく、混乱状態である。
「柚子ってぇのは、もしかして、香りのことなのかい?」
「え、あ、は、はい」
「済まないね、あたしの名前も柚子って言うんで、返事しちまったよ」
軽やかに笑う女性は、夏の風のように爽やかで。
名前すら爽やかだとは、なんともはやと、逃避気味の頭で考えたりで。
混乱しきったぼくの様子を女性が笑って。
それを見たぼくがさらに混乱すると言う見事な悪循環。
そんな様子で二、三ばかり話していると、その女性、柚子さんが訊ねてきた。
「この店に入るのかい?」
「は、はい、その、つもろで、す」
噛んだ。近年まれに見る恥だった。
ぼくが顔を真っ赤にして、あわあわしていると。
柚子さんは再び、軽やかに笑った。
違った意味で顔が赤くなる。
「それじゃあね」
笑い声を納めて、柚子さんは言ったのだ。
「良ければ、ご一緒しないかい?」
こんな誘い、断れる男はいるのだろうか。
勉強しにきたはずのぼくは、一も二もなく頷いていた。
解っているのだ。
こんな思考は現実逃避なのだと。
でも仕方ないじゃないか、と思う。思わざるを得ない。
常々取り乱したりせず、飄々としたあのマスターですら、一目見て言葉に詰まったのだ。
男性として生まれたなら、動揺は禁じえない。
美女と言うのはそんな存在なのだ。なにしろ、国が傾くのだから。
などと、メニューに隠れて下らない思案に耽っていると。
再び柚子さんが言ってきた。
「済まないね、無理言って相席しちまって」
「い、いいや、そんなことは、ないです」
顔を上げると、柚子さんの素敵極まりない笑顔。
それにドキリ。何度このパターンを繰り返す気だろうか。ぼくは。
ただ、若干動揺が納まってきたらしく、日本語が喋れるようになってきていた。
ありがたい。本当にありがたいことだ。
これ以上噛んで、恥をさらすのは勘弁してもらいたい。舌を噛みたくなる。
「こんな小母さんと一緒じゃ、美味しいご飯も不味くなるんじゃないかい?」
「えっ! い、いや、いやいや」
いやいやいや。
なにをおっしゃる兎さん。
柚子さんが冗談を言っているのは表情から解るが。
ここまで突っ込み所の多い発言もないものだろう。
しかし、日本語能力がいまだに低下気味のぼくは、それを端的に否定することしか出来なかった。
「お、おばさん、だなんて、そんな、いや、ないですって、本当に」
「嬉しいことを言ってくれるもんだね」
軽やかに笑う柚子さんとは別に。
むきになって反論しかけたぼくは、ハッとなって止めた。
軽い冗談じゃないか。なにをぼくは、本気で語りかけてるんだ。
そんな空気読めてない感を醸し出していたなら、後でマスターに笑われるのは間違いない。
そう思って、ちらりとマスターの方に視線を向けると。
注文してもいないコーヒーを淹れて持ってきていた。
「お客様、心ばかりのサービスですが」
「おや、有り難うね。これはどんな珈琲なんだい?」
ああ、マスターが垂らしこまれている。
言葉一つかけなくとも、最初から垂らしこまれている。
他人の行動を見て僕は悟った。
げに恐ろしきは、美女である。
くわばらくわばら。
しかし、マスター、サービスって言うのならね。
ぼくの分がないのはさすがに客商売としてどうかと思うのだけどね。
他人が怒っているのを見ると冷静になるというやつと同じで。
マスターのおかげでぼくも落ち着きを取り戻した。まだ若干、緊張してはいるけど。
「すると、この店の話を聞いて来たと」
「って言ってもね、買い物ついでに覗いてたんだけどね」
柚子さんは、少しはにかんで見せ、言った。
ちなみにぼくは、それに目線を逸らして対応した。直視できないのだ。
「どうにもね、こういう店には入ったことがなくてね。二の足踏んじまってたのさ」
「それで、ぼくを誘ったと」
「済まないね、付き合わせて」
「いえ」
ぼくが首を振って答えると。
柚子さんは、思い出したかのように、訊ねてきた。
「そういや、名前、聞いてなかったね。訊いて構わないかい?」
「はい。白幡、です。白幡亨、って言います」
「ああ! こりゃ、妙な縁があったもんだねぇ」
手を打つ柚子さんから再び視線を外した。
活き活きとした表情が目に毒で、いつ幻聴の通り、惚れてしまうか解らない。
そんな状況に改めて戦慄を覚えつつ、訊ねてみた。
「知り合い、いや、知り合いの知り合いでしたか?」
「昔に、白幡って知り合いがいたんだけどねぇ。亨君には関係ない人さね」
たぶん、と付け加えて、柚子さんは笑った。
ぼくの家は親戚が少ない。もしかしたら、ぼくも知る誰かの話かもしれない。
そう思い、訊ねようとしたのだけど。
その前に、柚子さんが言葉を続けていた。
「そっちじゃなくて、妙な縁ってのは、うちの坊の話なのさ」
ぼう。
意味が取れずに、ぼくは眉根を寄せた。
なんだろうか、そのぼうという物は。
どんな字を書くのだろう。
某? 棒? 帽?
唐突に、嫌な予感が湧き上がった。
なんだろうか、またぼくの持論が、現実に押し潰されてしまうかのような。
そんな予感に駆られながら、ぼくは恐る恐る尋ねてみた。
「その、すいません、ぼう、と言うのは……」
「ああ。うん、うちの子のことなんだけどねぇ」
「お子さんがいらっしゃいましたか」
なんだ、大丈夫じゃないか。
ぼうとは坊やの坊なのだ。小さいお子さんがいるのだろう。
「ちょうどね、坊からさ、亨君の話を聞いてたのさ」
「はい?」
なんとも失礼な言葉を出してしまったけど。
ぼくはいかにも間抜けな、驚きの声を上げていた。
ぼくの話を聞いている?
話を出来る年頃で、ぼくを知っている?
柚子さんの年を察するに、若い内に産んだ子なんだろうと思う。
しかし、なんだろうか。やっぱり、嫌な予感が募るのだ。
まさか、十歳を越えていることはないよな、と自分に言い聞かせて。
搾り出したかのような声で、ぼくは尋ねた。
「その、お子さんは、お幾つなの、で?」
「今年で、十六になるね。満年齢で」
「ぼ、ぼくと、同じ年なんですね……」
はははと、乾いた声が出た。
……もうこれ以上、ぼくを驚かせないで下さい。
正直、もうお腹いっぱいなんです。
ぼくは顔を引きつらせていた。
ぼくの見立てでは、柚子さんのお年は三十を越えた程度。二十台の後半でもおかしくはない。
もし、その予想が正しければ、出産時期がどうにもこうにも。
柚子さんはまた軽やかに笑った。
「ははっ。同級だからねぇ。同じ年齢の筈だよ」
「は、はあ」
絶句した。
驚きで、口が強張っている。
言葉も選べず、閉口していた。
そんなとき。
折よく、扉のベルが鳴った。
お客のようだ。間が持って助かる。
振り返ると、真由がやってきていた。
僕が弱弱しく手を上げると、真由は少しばかり目を開き。
そのまま歩み寄ってきた。
視線は女性の方を向いている。
ああ、ぼくが見知らぬ誰かといるのに驚いたのだろうと思い、口を開いて────
「叔母上、どうされたのですか?」
真由の言葉に、閉口した。
「坊から聞いてね、興味本位で入ってみたんだけどね」
「亨と相席しているのは何故なのでしょうか」
「店の前で会ってね。あたしが誘ったんだよ」
「成程」
真由は頷き、固まったままの僕に尋ねてきた。
「亨」
「……な、なんだい?」
「疑問なのだが。こう言う物を軟派と呼ぶのだろうか」
柚子さんが笑った。
花火が弾けるように、溌溂と。
「はははっ、坊はまた……。
そうだね、確かにこれは軟派ってやつなんだろうねぇ」
咄嗟に答えられなかったぼくの頭に、ふと過ぎったのは。
先程、何故だか聞こえてきた、彼の台詞である。
惚れてまうやろがーっ。
ああ、これは単なる幻聴じゃあなかった。
どこで聞いたのか思い出したのだ。
先週末に、彼女さんが真由の家に行くと言っていたときだ。
彼と彼女さんに、強く真由の叔母上である方の美しさを説かれた際に、聞いたのだ。
百聞は一見にしかずと言うけども。
これは確かに。彼の予想通り、一目見て見惚れ絶句したぼくには反論のはの字も出そうになかった。
しかし、なんだろうか。
落ち着いてからまた驚かされるこの流れは、非常に心臓に悪かった。
名前くらい聞いておけばよかったと、ぼくはそう強く後悔したのだった。
軟派の言葉に、顔を真っ赤にしながら。
/
参照。(前のエピソードで関係している物)
真由と話した:前のエピソードの[3]。
ボサノヴァ:前のエピソードの[5]。
特製ライス:前のエピソードの[3]で出た。
先週末に~:前のエピソードの[23]。