全身に浴びたオークの血は一瞬にして蒸発したものの、やはり生理的な嫌悪感は拭えなかったので、水場でさっと体を洗い流してから、街へと向かう。
それにしても、水浴びの際に下着のホックを外すのには随分と四苦八苦した。僕の場合、実物なんぞ家に全くないから、見たことない分尚更苦戦したのだろう。その分、改めて付け直すのにはそれほど時間がかからなかったけれど。
女の子は他にも化粧とかやらなきゃいけないことが多いし月に一度のアレもあるし大変だよね、男に生まれてよかったなあ……なんてことを考えつつ、のんびりと街道を歩く。
街道は人が多い分、モンスターも少ない。いたとしても非アクティブの初心者向けモンスターくらいだ。
「街に入るのなんて……すごい久しぶりだよな……」
というかむしろ、あのデスゲーム開始の宣告からは一度も入っていない。
あの街は初心者から高レベルプレイヤーまで色々な人がいたけれど、今頃どうなっているんだろうな……とか考えていたところで、ふとあることに気付く。
「っと、その前にやることやっておかないと、か」
現在のレベルをチェックすると、僕はいくつかのウィンドウを開きレベルアップで得たステータスやスキルを割り振っていく。
商人の露天で買い物をすると履歴がつくからまずいが、店売りで何かいい装備とか手に入るかもしれないから、装備条件に引っかかるものは事前に処理しておきたい。
「言われてみるなりなんなりしないと気が付かないからなあ……最近はペースも上がっているし」
僕たちはレベルアップなどの、自分自身にしか関係がないエフェクトは極力オフにしている。これはもちろん自衛のためだ。寝ていたりしているところでレベルが上がってその所為で気付かれたりしたら溜まったものではない。
レベルが上がるペースが速くなっているのはおそらく、プレイヤーを殺害する機会が増えたからだろう。プレイヤー殺害による経験値は同レベル帯のモンスターよりも多く、更に相手とのレベル差によって割り引かれることがない。
――僕たちにとって力を得るのに一番手っ取り早い手段は、より多くのプレイヤーを殺害すること。
そうではあるけれど、僕たちはまだ片っ端から人を殺しに行けるほど“強く”はなかった。レオンハルトやノアでさえ、だ。
「……処理完了っと」
色々と考え始めると気が滅入ってくるため、処理をし終えたらそのことについては極力考えないようにした。嫌悪感や罪悪感はあるけれど……今のところ、なるようにしかならないのだから……悩んだってしょうがない。
僕は再び、街へと向けて歩き始める。
そして、歩くこと10分ほど経ったところで……ようやく街の入り口に差し掛かる。
そこで僕は、楽しげな歌声を聞いた。
「……ん? 歌……?」
歌っているのは街の入り口からちょっと入ったところにいる、まだ10歳にも届いていないであろう子供たち。
彼らはプレイヤーではなくて、ゲーム側によって用意されたNPCたちだ。
プレイヤーが設定できる外見年齢は12歳から59歳まで。反転の木の実のような外見変更アイテムやトラップなどの効果で10歳未満の子供の姿になることは不可能ではないが、自分から設定することはできない。
故に、この子供たちは、NPCでしかあり得ない存在だった。
彼らが歌う童謡調の歌の歌詞は、物語仕立てとなっている。そして、その内容は……限りなく悪趣味なものだった。
――悪賢い化け狐に騙された善良なはずの村人たちが、人に混じっていた七匹の人狼を残酷な方法で殺していく。
更に悪趣味なことに、狼の死に方はそれぞれ一つ一つ描写されている。
自分達がそのような殺され方をする姿が、僕の脳裏を過ぎり……胸の奥から吐き気が、こみ上げてきた。
子供たちが無邪気に歌っているのが、気持ち悪さを更に増している。
「……ッ!」
しかしながら、歌詞はそれだけでは終わらなかった。
――最後に正体を現した狐によって村人たちも惨殺される。
「これって……もしかしなくても、そういうこと……だよな……?」
――狐も村を立ち去って、そして誰もいなくなった。
まさに、“タブラの狼”の、第三勢力が勝利するストーリーそのもの。
他のプレイヤー達には、ただの趣味の悪い歌にしか聞こえないだろう。気がついている人もいるかもしれないが、コミュニケーションツールの掲示板とかで議論になったことは、今のところない。
だから、これはきっと……僕達“魔王”に宛てたアスタロトからのヒントであり挑発なのだろう。
僕達が全滅すれば、プレイヤーもまた全員死亡――もしくは、僕では到底思いつかない、最悪の結末が待っている。
「……でも、一体どうすればいいっていうんだ……」
おそらく、他の条件を満たしていくしかないのだろう。
問題は、本当にそれが可能かどうか。
特にアスタロトの殺害という条件については、大きな不安要素がある。
――“タブラの狼”には「人狼は妖魔を襲撃できない」というルールがあるという。それを踏まえると、僕たちにはどうしようもなく、プレイヤーが倒すのを待つしかない可能性がある。
全部が全部あれをモデルにしている訳ではない。むしろ基本となる部分が全然違う。でも、このことについては最悪のケースを考えておいて損はないはずだ。
「とりあえず、明日、効果が解けたら……皆にも伝えておこう」
このことを忘れないように、簡単にだがメモを取りつつ、僕は街の中へと入っていった。
僕が辿り着いた街――商業都市ティファレトには鮮やかな色の屋根を持つ建物が立ち並び、NPCたちも明るい雰囲気のものが多い。
基本的にこのゲームの街はそれぞれいろんな特色を持たせており、ここは地中海沿岸部というかラテン系文化圏というか……そういうのをモデルにしているのだろう、と思う。
しかし実際に入ってみると、全体的に暗い雰囲気が漂っている。かつて見て憧れを抱いた、賑やかな街の風景はどこにもなかった。
僕たちによるプレイヤーの殺害や“粛清”によって沢山の人が死んでいる。街が暗いのはそのためだろう……とは思ったが、どうやらそれだけではないようだ。
――周囲を威圧するかのような気配を背負っているプレイヤーが、集団で歩いている姿があちこちを見たことで……僕は街が暗くなっている最大の理由について知った。
「……うはあ」
巡回中らしきその集団には気付かれないようにしつつも、眉を顰める。
彼らは大鷲をかたどった紋章を、鎧や服に入れている。装備のデザインは統一されており、特に服装のデザインは近代軍隊の軍服を連想させるものだった。
“粛清”の少し前にキールが言っていたことを思い出す。
――大手ギルドが、揃いの制服や装備を職人ギルドに注文して、支給し始めているらしい。
「まるで軍隊みたいな感じになってる、とは言っていたけどね……一般のプレイヤーすらドン引きしているってのは、どうなんだろう?」
制服を着ていないプレイヤーたちは、彼らを避けて街を歩いている。そしてその目に入らないように隠れながら……畏怖や嫌悪の入り混じった視線を向けている。
これだけで、彼らがこの街でどんなことをしているのか、ある程度察しがついた。
――少なく見積もって数千人のプレイヤーを抱えて発言力・軍事力を得ている巨大ギルドが街を支配。他のプレイヤーは彼らに逆らえない。
これについては多分、他所の街も似たり寄ったりだろう。例えリーダーがどれだけ優秀で、理念に燃える高潔な人間だったとしても、組織が大きければ腐敗も生まれる。
その腐敗を最低限に抑えるのがリーダーやその周辺の仕事なはずだけれど……街の様子を見るに、うまく行っていないようだ。もしくは、わかっていて放置しているか。
「……味方のはずのプレイヤーから恨み買って、どうするつもりなんだか」
誰にも聞こえない小さな声で、そう吐き捨てた。
僕が実物を見たのはこれが初めてだけど、我が物顔で街を歩く彼らには……僕らにとって当面の最大の敵であることを差し引いても……あまりいい印象を抱けない。むしろ嫌悪感を感じている。
彼らが破綻したら破綻したで大きな問題が起きるんだろうなあ、ということを考えると、大組織の存在そのものは否定できないけれど。
「まあ、何はともあれまずは食事食事……っと……何かいるし」
近くにあったレストランの中を覗いてみると、軍服を纏った男女の姿がある。……というよりもむしろ、“何か”を監視しているように思える。
僕が扉を開けたことで店の入り口に仕掛けられた鈴が鳴ると、彼らは一斉にこちらへと視線を向けるが……“魔王”の紅一点とは似ても似つかない女性であることがわかると、すぐに視線を逸らす。
しかし、彼らは決して警戒を怠ることはない。……殺気立っているようにすら見える彼らが食事もせずに座り込んでいることが、店の雰囲気をかなり悪くしている。が、どこに行っても同じものなのだろうな、と思い、彼らの座る場所とは離れた、窓際の席に座った。
「ご注文が決まり次第、お呼びください」
とNPCのウェイトレスが、プログラムの産物とは思えないほどに柔和に微笑んで、メニューを渡してくれる。
お金そのものについてはそれほど困っていないので、どうせなら美味いものを食べようとメニューを開いたのだが……ここで思わぬ障害にぶち当たった。
「……やばい。店の選択間違ったかも……」
僕は山奥の田舎、しかも父子家庭で育っている。
父はそんなにグルメじゃないので、外食することがあったとしても……高い店で精々回転寿司かファミレス程度。親子で一番よく行っていたのはラーメン屋、次点牛丼屋。
友人間で出かけた時はあんまり予算を用意できないので、やっぱりラーメンか牛丼か、安い定食屋、あとファーストフード店あたりが候補に挙がる。
家では米や一部の野菜は自給自足、足りないものは時々二人で郊外の大規模店舗に行ったり、他所からのお裾分けで成り立たせていた。
そんな慎ましやかな食生活を送っていた僕にとって……非常に情けないことだが……本格的なレストランに入るのは、これが初めてだ。
「えーっと、パスタとかピザとかの名前が並んでいるから、多分ベースはイタリア料理だよな……とりあえず、コース料理でも頼んでみるか」
不幸中の幸いで、僕には目立った好き嫌いはない。余程変なものが出てこなければ普通に食べられる、はずだ。
「すみません、このコース料理を1セットいただけますか?」
「畏まりました」
メニューが受け入れられると、早速所持金のカウントが減って、テーブルの上に食前酒と前菜らしき料理が並び始める。
あくまでデータであるため、タイムラグとかは発生しないらしい。並べられた料理を食べ終わるなりなんなりすると、次の料理が出てくる仕組みになっているのだろう。
「そういえば、リアルで未成年なのに、お酒って呑んでいいのかなあ……」
こういうのは、現実世界での未成年飲酒に繋がるような気もしないでもない。でもまあ最近は、ノンアルコールの酒類を酒屋や大手のスーパーならほぼどこでも取り扱っているから大丈夫、なんだろうか。
まあ折角だから呑んでおこう、と食前酒に口をつける。
……色々と間違っているかもしれないけれど、どうせ誰も細かいテーブルマナーとかは気にしたりはしないだろう。
前菜として出されたのは魚介類をふんだんに使った、酸味のある漬け汁に浸した料理だった。食べてみたところ、南蛮漬けに近い感じがする。
それらを食べ終わると、次にパスタ料理が現れる。日本でも結構広く食べられている、ペペロンチーノだ。僕も時々、自分で作ったりしたことがある。
オリーブオイルとニンニクの香りが、食欲をそそる。
「では早速……」
フォークにパスタを絡めて、口に運んでいく。
一口だけ口に入れただけで、香ばしいニンニクとぴりっとした唐辛子の味が口の中に広がる。今まで食べたパスタの中では、格別に美味く感じられた。
ゲーム内のNPCレストランで食べれる料理の味なんてのは、大体冷凍食品程度の味で本物のレストランで食べる料理とは雲泥の差――というのがコミュニケーションツールの掲示板の書き込みにおける評価だ。
特にシンプルな料理は、その分素材の質と料理人の腕が出るという。だから、今出されたペペロンチーノは、本物のプロが作ったものとは全然違うのだろう。
しかしながら、僕にとっては久方ぶりの……熱が通った暖かい食事。空きっ腹には何だって美味いのだ。
あっという間に完食すると、次に……いわゆるメインディッシュの肉料理が出てくる。パルメザンチーズの香りが漂う鶏肉のカツレツだ。付け合せとして、レモンと温野菜も付いている。
レモンを絞って果汁をかけ、早速いただく。
「みなもから頂戴した燻製肉もまあ、美味しかったけど……これは、何というか……」
……こんな美味しいもの食べちゃって、あの果物だけでの食生活に戻れるのか、とか思わなくもない。
思わず我に帰ってしまったが、それでも美味いものは美味い。カリッとした衣に反してジューシーな肉の旨味が口の中に広がっていく感覚は、こういう機会でもなければ味わえない。
暖められた野菜も、レストラン以外では味わえないだろう。野菜特有の甘味は、家で食べていた食事を思い出させる。
「……帰りたいなあ……」
懐かしさの余り、本音が口から漏れ出す。……口に出したところで、その願いがすぐさま叶うわけはないのだけれど。
気持ちが滅入る前に、カツレツをもう一切れ口に入れて、望郷の思いを和らげる。そして気が付けば、メインディッシュもすぐに全部食べきってしまった。
これだけでも充分だが、コース料理を頼んだので更にデザートのティラミスとエスプレッソコーヒーまでついてくる。まさしく、致せり尽くせりだ。
随分と量が多い気もするけれど……このゲームの場合、腹は空くようになっているけれど満腹になっても腹の中の上限とかは存在しない。実際に食事を取っているわけではないから、消化器官の許容量とかは気にしなくていいのだろう。レストランとかで食事を取る上ではありがたい仕様だ。
その割りに食べればその分だけ充足感が得られるため、娯楽だけではなくダイエットとか医療とかそういうのにもこの技術が使われているらしい。うちの県だとそういう技術を使っているのは山を挟んだ向こう側にある県立医大の付属病院くらいなので、僕個人にはあんまり縁がないけれど。
「ふう……」
エスプレッソを飲みながら、窓の外を見て、物思いに耽る。
大手ギルドの人間によってある程度管理はされているんだけど、それでも街の喧騒がなくなるということはない。
街ではレベル上げやアイテム収集に疲れたと思しきプレイヤーが思い思いに過ごしていて、そこには一つの社会が形成されている。
そこからすら切り離された僕らは、とても孤独なのだろう。
でも一方で、望めばいつでも仲間の声を聞くことができお互いに触れ合うことができる僕らよりも、そういった手段もなく殺伐とした雰囲気の中で生きなければいけない一般のプレイヤーたちのほうが孤独なのかも、と思わなくもない。
「……物理的な孤独と精神的な孤独、どっちが辛いのかな」
何度出しても聞き慣れそうにない、少女の高い声での呟きは、コーヒーの香り漂わせる湯気と共に宙へと消えていった。