相手をやり過ごしたのを入念に確認し、僅かな休憩を取った後……僕は真っ直ぐに、ここ暫く拠点としている泉へと向かう。
泉にはは上から滝として水が流れてくるが、不思議なことに上から流れてきたはずの水は川として流れていかず、その場に留まっている。滝がどこから流れてきているのか、許容量を超えて溢れるはずの水は何処に行ったのか。最初見た時は不思議に思ったけれど、特に何もないようなので、おそらく細かい理由とか設定とかは存在せず……マップ製作者がこのような景観を作りたかっただけなんだろう、という結論に達した。となれば、現実の物理法則とかそういうものは持ち出すだけ野暮というものだろう。
森の奥にあるそこは、この周辺を狩場にしているプレイヤーも知らない……と思われる。別にこれといった根拠や証拠があるわけではなく、単に誰かが知っていたならば既に襲撃を受けているだろう、という単純な話なのだけど。
人間だけでなく、アクティブモンスターの気配もないことを一通り確認し、徐に革鎧を脱ぎ、服を脱ぐ。
汗で濡れた服がまとわりついてくる感触が、気持ち悪い。
「何も、汗の感触とかその辺まで再現しなくてもいいのに……」
その癖に、脱いだ服の汗や水分は瞬時に蒸発するとか、生理現象も再現されているものがあったりなかったりとまちまちで、よくわからない。まあ、余計な手間が省けるのは逃亡者である僕にとっては有難いけれど……。
服を全て脱ぎ終えたところで、胸に手を当てる。
――ちょうど鎖骨と鎖骨の間くらいに、それはあった。
夜の闇のように黒い……内側から緑色の光を湛えている宝石。緑光はまるで、僕の心臓の鼓動にあわせるかのごとく揺らめいている。
この宝石こそが、僕が無数のプレイヤーから狙われる理由……理不尽な呪いを証明するものだった。
「何で……僕が選ばれたんだろう」
溜息を吐きながら、僕は足をゆっくりと、泉の水に浸していく。
「んっ……」
水温の冷たさに思わず、顔を顰める。これもまた、現実の水と同じくらいに冷たい――そう感じさせるようにできている。
物の温度が再現されているのは、ある程度仕方ないところがある。極端な例だが、滾るマグマが吹き出るダンジョンの中が暑くなかったら、それはそれで拍子抜けするだろう。
――あくまでゲームである以上それらしくは調整されてはいるし、例に出したマグマなんかは実際に触れることはできない接触不可能オブジェクトに設定されているとのことだけど。
足が冷たさに慣れてきたところで、泉の奥に位置する滝へと歩き……それをシャワー代わりにしながら、色々とこれまでのことを振り返る。
きっかけは……そう。もう戻れるかどうかも怪しい、現実の世界の学校での、いつもと大して変わらない会話だった。
「知ってる? ネット用の新しい回線、この辺にも通るんだって」
現実世界の僕――設楽夕樹が通っていたのは、本校との統合も検討中だという話もある、県立高校の分校。
校舎は……流石に、この時代に木造ということはないけれど、それでもかなりボロボロで。冬場は県内でも街にある学校ならヒーターなんだろうけれど、うちでは未だに石油ストーブなんてものを使っている。
クラスは1学年に一つだけ。クラスメートは小学校から見知った顔。外から好き好んで入ってくる生徒はいない。お陰さまで、受験戦争とは無縁。完全フリーパスと言ってもいいだろう。
そんな学校の、2年用教室の中で――朝のHR前、先生を待つひと時に、学校一のノンジャンル情報通・高橋みなもが持ち出した話題。
それが“全て”の始まりだった。
「回線? それがどうしたんだよ」
携帯電話を弄っていた、みなもと並ぶクラスのかしまし要員・早沢健太が、顔を上げてみなもの方に視線を向ける。
「ふふ……ヴァーチャルリアリティのネトゲが実用化された結果、我々が世間の時流から隔絶され……。
掲示板では【未だに旧式のネトゲやってる奴らって何なの? バカなの? 死ぬの?】だの【クソ回線しかないど田舎の負け組土人乙wwww てめえらは指咥えながらプレイ動画見て羨ましがってろwwww】だの辛酸を舐めさせられ怒りと嫉妬と屈辱に身を震わすこと苦節3年。
それもとうとう終わり……ってこと。これでできるようになるわよ、ヴァーチャルリアリティのネット接続」
「マジで!?」
「え、本当? 江戸時代から文明開化するくらいのデカい話じゃん」
教室にいたほぼ全員が即座に反応した。
ヴァーチャルリアリティ技術そのものは、僕らが小学校の頃に実用化されているし、スタンドアロン用のヴァーチャルリアリティゲーム機は、僕らの世代なら殆ど皆が持っている。
ソフトだって、街に出たり通販で買ったりすれば手に入る。
しかしネットゲームをやる上で、問題は、回線だった。
何せ僕が住んでいたのは、東北地方のど田舎……というか、廃村間近の寒村。
それでも普通にインターネットで、音楽や動画、普通のネットゲームをやる分なら充分だったけれど。膨大なデータを長時間送受信しなければならない、ヴァーチャルリアリティのネットワーク接続を行なうのは到底無理な話だった。
そんな事情があったためこれまでは、その手のゲームは基本的に1人用か少人数用。ネットワーク接続が必要なゲームがやりたければバスに揺られながら山を降りて街のゲームセンターまで出なければいけなかったし、できるのは精々アクションとかシューティングの類でRPGとかとは無縁だったけれど……回線の話が本当なら、それこそ……世界が変わる。
その時の僕たちにとっては、そんな夢や希望が溢れる話だった。
「でも実際やるには、親に回線の工事とか頼まなきゃね」
「それが一番の難関だよなあ……」
高校生、即ち未成年という立場である以上、ネットワークの回線の管理は親任せとなる。果たして今いるクラスメートの中で、何人が回線工事について説得できるのか。
僕も僕でどうしたものかと考えていると、古いスピーカーからチャイムの金が鳴り響き始めた。そして担任が入ってきて、いつも通りにホームルームが始まり、いつも通りの日常が流れていく。
――そういう日常こそ掛け替えのないものだと知らなかったその時の僕らは、無意味に一日を浪費していった。