包囲していた他のパーティがこちらを追って来ていないのを確認したところで……緊張の糸と、戦闘状態による異常なテンションがぷっつりと途切れた。
「う……」
冷静になったその瞬間……、体の奥底から吐き気がこみ上げてくる。
僕はその強烈な嘔吐感に耐え切れず、口元を押さえ……その場に蹲った。
「うぐぅっ……」
いっそ吐くことができるのならば、楽になれるのかもしれない……これは、終着点がない分苦しみが長続きする。一種の拷問だ。
もっとも、いくら後悔して懺悔したところで、何もかもが遅すぎる――殺した人間は生き返らない。
「……これで僕も、殺人者か……」
死のゲームが始まって1ヶ月。初めて、人を殺した。しかも、一気に五人もの人間の命を奪った。
殺す前に、覚悟は決めていたし――僕を取り巻いている状況から考えれば、かなり遅いかもしれない。
それでも、胸が、心臓が痛くて仕方ない。
どう言い訳したところで、他の人間を殺し、その未来を奪い取ったのは動かぬ事実なのだから。
見た目にはただ、倒されたモンスターと同じようにポリゴンが壊れて消え去っただけ。だから、人型のモンスターを殺したと思い込むことができれば、楽かもしれない。実際他の皆はそう思いこむことでこの重圧から逃れている節がある。
「割り切らなきゃ……慣れなきゃ……いけないんだよね……」
――生きようと思うのならば。生きたいと願うのならば。
でも、今はまだ……とても、そう思うことは、そう思い込むことはできない。
「……はあ……」
少し吐き気が落ち着いたところで、じっと自分の手を見つめる。
実際には血も何もついていない。
でも僕の目には……どす黒い、他人の血で濡れているように映っていた。
「耐え切れるのかな、僕……耐え切ったら、どうなるのかな……」
自分が生き延びるために、他人を殺す。他の仲間たちと同様に、その重圧に耐えられるのだろうか?
そして、仮にそれに耐えられたとしても――そこにいるのは本当に、僕と呼べる人間なんだろうか? 先程のように、戦いの熱と血に酔った僕は、僕と呼べるのだろうか?
そんなことをぼんやりと考えながら、僕は大きな樹に寄りかかり、その場に座り込む。
できるだけ早く、他のプレイヤーたちに気付かれないうちに、もっと遠くへと離れたほうがいいんだけれど……今は、休みたくて仕方ない。
とりあえずは肩に受けた傷を癒してもらうべく、僕は心の中で声を出す。
『ファーテル、少し怪我したから回復よろしく』
『……終わった、みたいですね』
『まあ一応、包囲されていたところを抜け出しただけだから……油断は禁物だけど』
他のプレイヤーを……人を殺したことは、直接は言わなかった。
もっとも、データベースウィンドウを検索すればわかることだ。言わなくても知っているかもしれない。
でも、ファーテルも他の皆も、何も言ってこなかった。
「んっ……」
柔らかで暖かい光に全身が包み込まれると、受けた傷が消えていく。
『ありがとう』
とまずは礼を述べ……一つ、溜息を吐く。
『……皆は、さ。初めて他のプレイヤーに手をかけた時……どうだった?』
最初に重い口を開いたのはレオンハルトだった。
『俺の場合は、相手の心を読んでいたから……ずっと相手から罵られているようなものだったからな。
だからあまり、躊躇せずに一線を越えることができた』
彼の持つ“Balberith”スキルツリーで追加されたスキルの中で、最も強力かつ重要なのがマインドリーディングだ。
このゲームはプレイヤーが頭で考えたことを思考スキャナーで読み込んで反映する。だから、それを読み取る能力を再現することは安易に可能、ではある。
最も、普通は人間が人間の思考を読み取ることはできない。プライバシー保護などについての観点もあるし、建前で覆い隠しているはずの本音が伝わってしまうのは問題だろう。
しかし、この状況下ではすごく役立つスキルではある。相手の心を読むというのは、相手の作戦とかそういうのを丸っきり予測できる。
ゲームについての知識が豊富で、当然プレイヤーの戦略・戦術についても詳しいレオンハルトにはお誂え向きの能力ではあった。
殆どのプレイヤーに狙われている状況で他人の心を読むということは……さぞ、苦痛だろうけれど。
『俺も色々と思うところはあったが、正当防衛だ、と割り切った』
ノアは相変わらず、冷たく言い放つ。
徹底的なまでに機械的な彼は、ある意味では――この中では一番、強い人なのかも知れない。
一つの信念の元に、やるべきことを淡々とこなせる、というのは意志の強さの表われなのかもしれない。
……その強さのベクトルが、果たして人間として正しいのかどうかはともかく。
『私は正直、データベースを確認するまでは……殺したとは、思ってなかったわ』
エフェクトもほら、普通にHPが0になって街に戻される時と何も変わらないじゃない――と、ラケシスが言う。
確かに彼女の言う通り、見た目の上では普通にHPが0になって、レベルが1下がって街へと戻される……このゲームで日常と化した光景と、死はさほど変わらないのだ。
現実味がない死。実にゲーム的な殺人行為。
これもまた、プレイヤーたちが僕たちの殺害を目指している理由なのだろう。
彼らの多くが、僕たちを人間じゃなくてモンスターとして捉えているのは、コミュニケーション用の攻略スレッドの存在とその書き込みから見れば明らかだ。
『死亡者リストを見た後も、すぐには実感が湧かなかった。後からじわじわと来た感じ、ね……』
僕らには彼らの死を本当に確認することはできない。
未だに、アスタロトの言葉が嘘で――彼らが現実の世界に戻っただけ、という可能性があるのではないかとすら思っている。
いや、そう思いこんでしまえれば気が楽だから、に過ぎないんだけれど。
『僕の場合は、殺すつもりは全くなくて……気がついたら相手が死んでいて、頭が真っ白になってた……って感じですね』
メルキセデクの状況が、僕の時に一番近い感じがした。
『それでも、その場からは逃げましたけれど。
本当、あの時は何も考えられなかったんだと思います。殆ど覚えてませんから……』
戦うときは無我夢中で……終わった後になって、罪悪感に押しつぶされそうになっている。
覚悟が足りない、と言えばそうなんだろう。既に完全に割り切っている風の、レオンハルトやノアにそう言われたら、ぐうの音も出ない。
『僕だって普通の人間で、聖人君子とかではありませんから、誰かに対して怒りを感じたり、誰かから怒りを向けられたことはありましたけれど……。
でも、殺意というものは……それとは次元が違うものだから……向けられるのも、向けるのも……すごく、嫌で……』
今にも泣き出しそうな震える声を出すメルキセデクを、ファーテルが慰める。
『そうだね。リアルじゃ余程のことがない限り、殺意と言い切れるくらいの強い感情は向けられることはないわけだし。辛いのは当たり前だ』
現実の世界、平和な日本で殺意を向けられるなんてのを日常的にしているのは、ヤのつく職業とかそっち界隈の人たちくらいなものだろう。
それなのに僕らは、今――世界中から殺意を向けられている。
この秘匿チャット機能がなければ、きっと今頃……正気を失っていたことだろう。
……そもそもの問題として、ここまで生きていられなかったかもしれないけれど。
『絶対に、割り切れるわけがないですよ……こんなのっ……』
『あくまで私見だけれどな。葛藤することそのものは、悪いことではないと思うぞ。それによって死なれては困るが、な』
耐え切れずに呻きだしたメルキセデクにかけられた、レオンハルトの言葉が胸に響く。
『俺は、自分に向かってくるプレイヤーの中で……僅かにでも“俺を殺すという行為”に対して葛藤している相手には、敬意を持って対応することにしている』
そこまで言ったところで、彼は皮肉気に笑った。
『もっとも。殆どの連中が葛藤も何もせずに突っ込んでくるというのが現実だがな』
僕たちを殺すことに対して葛藤するプレイヤーは、僕たちの前に現れることは滅多にないのだろう。
自然と、というのも変な話だが……襲い掛かってくるのはゲーム感覚で襲い掛かってくるプレイヤーばかりとなる。
『何にせよ、葛藤できるということは……人間らしさが残っている証拠だ』
『そうだね。その辺りの意見には同意するよ』
『少し羨ましいかもしれない……俺にはできないことだから』
ノアとファーテルの言葉に、レオンハルトは苦笑を返す。
『俺もノア同様、その辺りは完全に擦り切れてしまったが……お前たちがそうなる必要はないだろう』
『なりたくてなれるもんでもねーよ、きっと』
キールの毒にも、どこか力がなかった。珍しく会話に混ざらずずっと黙っていたけれど、きっと彼なりに色々と思うことはあったんだろう。
『いっそのこと、完全に狂えたら楽なんだろうなあ……』
人間としての心が残っているから、僕たちは葛藤するし、内側と外側からのプレッシャーを感じ続け、苦しい思いをし続ける。
『僕たちにとって一番怖い敵は……自分自身の心の弱さ、かも知れませんね』
メルキセデクの、消え入るように小さな呟きを聞きながら、空を見上げる。
そこには、僅かばかりの雲しか見当たらない“いつも通り”の……作られた青空が広がっていた。
太陽はまだ高い位置にあり、眩い光でこの世界を照らし続けている。
けれど僕の心は深い宵闇の中にあり、そしてその夜が明ける気配は――ない。