夏が来ている。それも気合の入った夏だ。
洗い立ての水滴の浮かぶグラスを、真っ白な布巾で磨いていく。
これはコップが美しくなるだけでなく、心を落ち着ける作用もある。水滴を拭う作業に没頭することで、邪念を追い払い、頭の中はすっきりとする。
日夜、煩雑な悩みに追い立てられている僕らの頭にはストレスが溜まっている。こうして無心状態になっている間に、脳はストレスを消化してくれているのだ。
それだけじゃない。ほら、こうして無心になっていれば、心頭滅却火も涼し……。
「くそ暑い」
だめだ、ついうっかり本音が漏れてしまった。
僕は襟首まできっちり締めていたボタンをひとつ開けた。ぱたぱたと仰いで風を取り込む。
さっき倉庫に荷物を運び込んだだけだというのに、身体に熱がこもっていた。
店内では魔導石による冷房が室温を快適に保ってくれているが、倉庫はサウナ状態だったのだ。
ふと見れば、カウンターにべったりと頬をつけて、ノルトリが溶けていた。磨き抜かれた木の質感は、ひんやりしている違いない。
それでも涼は足りぬと見えて、ノルトリは眉間に皺を寄せたまま、「うぐぅ……」と苦しげな寝息を立てている。
おっと、いけない。窓からの日差しがノルトリの背中に当たっていた。
グラスを置き、カウンターを出て、窓のカーテン閉める。
白地のカーテンは遮光性ではない。それでも布一枚が挟まるだけで、暑さはずいぶんと和らぐものだ。
ノルトリの眉間が脱力したの確かめつつ、僕は店内のカーテンを閉めていく。
「なんで窓に布きれなんてつけてんのかと思ったけどよ、たしかにこりゃ必要だな」
と、常連さんが笑う。
「そうでしょう。夏にそなえて取り付けてもらったんです。まさかこんなに暑くなるとは思いませんでしたけど」
僕は苦笑しながら窓の外を見た。
夏の心地よい日差し、というのは遠慮がすぎる。雲もない空は青一色。太陽に照らされた通りはうっすらと白んで見える。
通りの建物の白壁などはもうただ眩しくて、僕は目を細めた。
僕がこの異世界にやって来ていくらか時間も経ったけれど、こんなに暑い日はなかった。
異世界で気候問題を気にするのもおかしく思えるが、理由を見つけたいのは人間の本能というもので、異常気象だか温暖化だかはどちらでもいいから、お前のせいで暑いんだなと文句でもつけないとやってられない。
「……冒険者の人は大変そうだなあ」
見ていてこんなに暑いのだから、当人は僕の想像を絶して暑いに違いない。
茹で上がるような通りに人通りはいつもより少なく、それでも仕事だから仕方なくと歩く人はいる。
この通りの先には迷宮が続いている。迷宮に入れば外の天気など関わらないとしても、そこに辿り着くまでは避けられない道のりだ。
命を守る武器防具を放り出すわけにもいかず、これから行く人もう帰る人それぞれが、項垂れたように疲れた顔で歩いている。
特に獣人などは全身を毛で覆っているような人もいて、あれはたぶん夏毛だろうと思いながらも、今にも倒れそうでこっちが心配になった。
と、その今にも倒れそうな獣人がふと顔を上げた。目が合う。
ちらと視線をあげたのは、うちの看板をたしかめたようだ。
足元もおぼつかぬ様子でふらふらと揺れながらこちらに向かってくる。
おや、と僕は扉に向かった
––––カランカラン
来店のベルが鳴る。
「うおっ、涼しい! 生き返る!」
「いらっしゃいませ」
出迎えた僕を、獣人さんは見上げた。丸っこい大きな瞳に、こんがりと焼いた食パンのような毛色。目と鼻周りだけが白い。レッサーパンダ族かもしれない……と勝手に推測してみる。
レッサーパンダさんはきょろきょろと店内を見渡した。
「ここ、店か? なに売ってんだ?」
「うちは喫茶店でして」
「キッサテン…?」
「軽い食事と飲み物を提供してます。どうですか、冷たいお飲み物でも」
「つ、冷たい飲み物か」
ぺろ、と。レッサーパンダさんの口から赤い舌が出た。声はおじさんなのだが、見た目の可愛さはアイドル級である。
「た、高くないよな?」
「良心的な値段を心がけてますので」
「じゃ、じゃあ、もらおうかな」
「どうぞこちらへ」
僕はレッサーパンダさんをカウンター席に案内した。
この世界では食事と酒と宿は切り離せないものになっている。
コーヒーを一杯とケーキをひとつ、あとはだらだらと座って過ごす。そんな店は他になく、僕が開業した喫茶店は変な店として見られていた。
こうしてうっかり迷い込んできたお客さんは希少だ。なんとしてでも繋ぎとめて、ぜひともうちの常連になってもらわねばククク……。
「なんか寒気がする。やっぱ帰ろうかな……」
「いえいえせっかくですから涼んでいってください。なにをお飲みになりますか? おすすめはアイスコーヒーなんですけれど」
「こーひー? あの修道士やら学者が眠気覚ましに飲むってやつか?」
あっさりと答えられて驚いてしまう。
僕の世界であれほど普及していたコーヒーは、この世界ではめったに流通していない。
夜中にも勉学に励まねばならない人が眠気覚ましに飲んだり、一部で薬として使われたりする程度なのだ。
「よくご存知ですね」
「うちの兄ちゃんが修道院で写本の仕事をしててよ。よく飲んでるって話だったよ。ただ、すげえ苦くてまずいって言ってたけど……」
僕はずいとカウンターに身を乗り出した。
「それは誤解ですね。たしかに苦いものもありますが、それは豆の鮮度や種類、焙煎の仕方によって変わります。それに豆を挽いたときの粒度や抽出時の量、お湯の温度や抽出時間によって味はいくらでも変わるんです。お兄さんが飲んでいるコーヒーはたぶんそうした個々の要素が正しくなくて」
「わかった! よくわかった! 飲む! コーヒーをくれ!」
「ありがとうございます。少々お待ちください」
僕はさっそくコーヒーを淹れる準備に取り掛かった。
サイフォンをセットし、フラスコの中に水を注いでバーナーを着火する。
まったく危ないところだった。コーヒーの誤解を訂正できる機会を得られたのは幸運だ。
コーヒーの正しい知識が普及していないせいで、この世界の人たちはコーヒーを苦いやら酸っぱいやらエグいやらの泥水だと思いこんでしまうのだ。
「どこにでもこういう変わりもんっているんだな……兄ちゃんが教典について話すときとそっくりだぜ……」
「? なにかおっしゃいました?」
「いや! えーと、ちゃんと冷たいんだよな、そのコーヒーってのは」
「もちろんです。アイスコーヒーにします」
「でも、それ、お湯を沸かしてるよな?」
レッサーパンダさんが丸っこい手で示したのは、バーナーが温めるフラスコの中だった。お湯がふつふつと沸き始めている。
「ええ、まずはお湯で抽出するんです。そのあとで氷で急冷するんですよ」
「ほえー、わざわざお湯にしてから冷やすのか。手間が掛かんだなあ」
「その手間が美味しさの秘訣なんですよ。水出しコーヒーもまた違う魅力があるんですけど」
棚から取り出した豆をミルに移す。
アイスコーヒーは氷で薄めることが前提だから、普通に飲むよりも濃く淹れる必要がある。多くの豆を使って美味しいところを凝縮させるという点では、エスプレッソコーヒーとも通じる贅沢なコーヒーなのだ。
ミルのハンドルを回す。心地の良い手応えとともに、がりごりと豆の砕ける音が店内に響く。
カーテンのおかげで日差しは柔らかい。魔石という異世界の魔法文明のおかげで、店内には冷たい空気が循環している。
外は変わらず茹だるような盛夏でも、一歩ばかし喫茶店に入れば、青い影の中で涼やかな時間が満ちている。
挽き終えた豆をロートに入れて、お湯が沸騰するまでの間に冷蔵庫から氷を取り出す。
布に包まれたそれは、ハンドボールくらいはあって、まるで南極から切り出したような不思議な青をしている。
右手にアイスピックを取り、皿の上でガツガツと氷を削る。
「へえ、良い氷だなあ」
レッサーパンダさんの感心した声に、僕はちょっと得意げになってしまう。
「迷宮の氷室の氷だそうで。ギルドで売ってるんですよ」
「ああ、迷宮か。あそこは夏でも冬でもなんでもアリだからな。森まであるし」
「冒険者の方ですか?」
「んにゃ、冒険者を診てる」
「ああ、お医者さんですか」
「歯医者だけどな」
「え、冒険者専門の歯医者さんを?」
「ああいう仕事の奴らはほら、歯を食いしばるだろ? 割れるんだよ、奥歯が。そうなると力が入らない。それを治すんだ。それにあいつらは迷宮で歯を磨くほど勤勉じゃないくせに砂糖菓子が好きだからな、虫歯を悪化させる」
筋骨逞しく荒くれの多い冒険者たちを、まるで駄々っ子のように言うのは小さなレッサーパンダさんだ。
こういうところに、僕はいまだに異世界の愉快みを感じたりする。
僕も歯医者で定期検診を受けたほうがいいかな、なんて思いながら、砕けた氷の大きなのを選んで、コーヒーサーバーとグラスに入れる。
お湯はもうすっかり沸いていた。
フラスコの口を塞ぐようにロートをきゅっと差し込むとすぐにお湯が上がる。
コポコポと吸い上げられるお湯の声は、サイフォンコーヒー特有の心地よい音色だ。
使いこんだ木ベラでさっとコーヒーの粉をお湯に混ぜ合わせる。
木ベラを抜くと同時に、小さな砂時計をひっくり返した。これで抽出時間を計る。
「驚いた。それ、調剤器具だろ? 時間まで正確にしてんのか」
そうか、お医者さんだから、このサイフォンが元々調剤器具だったことが分かるのか。
「コーヒーを淹れるのにちょうど良い器具だったもので、お願いしてちょっと改造してもらったんです。これを使うと味を一定にできるので。時間を計るのもそのためですね」
ちなみにこの砂時計は45秒のものである。もちろん好みによって正解は変わるが、この豆をアイスコーヒーにするならベストな抽出時間は45秒なのである。
砂が落ちると同時に木ベラで2回目の撹拌を行う。
粉末のインスタントコーヒーをよく溶かすために混ぜるのも撹拌だけれど、サイフォンで同じ混ぜ方をしようものなら、その瞬間に取り返しがつかなくなる。
サイフォンコーヒーはお湯の正確な温度管理がない代わりに、この撹拌の繊細さが重要なのだ。
優しく、それでいて遠慮はなく、3回混ぜてから火を消す。
コポコポと沸騰するお湯の音は消えて、フラスコの中で高まっていた圧力が抜ける。
と、普段よりも日焼けしたように濃い色のコーヒーが管を通って、つるりとフラスコに戻ってくる。
僕は氷の入ったコーヒーサーバーとグラスを取り、マドラーで氷をくるくると回して、どちらも全体を満遍なく冷やした。
底に溜まったわずかな氷の汗を捨て、フラスコからゆっくりとサーバーにコーヒーを注いだ。
僕は耳を澄ませた。
ぱきぃ、と氷が鳴る。
「ああ、この音が僕を蘇らせる……」
「は?」
直接グラスではなく、一度サーバーに移すのは、コーヒーを急冷しながら濃度を調整するためだ。
急冷することでコーヒーの風味がぎゅっと閉じ込められる。けれどそのまま溶けかけた氷のままでは、すぐに薄まってしまって味わいがぼやける。
サーバーでしっかりと冷やして、グラスの氷は冷たさを維持するために使う。
これで夏に最高のアイスコーヒーが完成だ。
グラスの中で氷の浮かぶコーヒーを、レッサーパンダさんに提供する。つぶらな瞳はそれをいろんな角度から眺めて、短い両手でグラスをぷにっと持ち上げた。
「……うめえ。なんだこれ。キンキンに冷えてて、水みたいにあっさり飲めるのに、香ばしい香りが鼻に抜けるじゃねえか……砂糖入ってないのに甘いし……」
「それが本物のアイスコーヒーです。どうですか、良くありませんか」
僕が期待を込めて訊ねると、レッサーパンダさんは苦笑した。
「たしかにこいつは、兄ちゃんの言ってたコーヒーとは別もんだな。こんど、連れてくるからよ、本物のコーヒーを飲ませてやってくれ」
僕は満面の笑みでしっかりと頷いた。
夏。それはひたすらに熱く、外を歩くのも嫌になる季節だ。
しかしこれほどアイスコーヒーを魅力的にするのも、夏の力だ。
僕は考える。これはもしや、アイスコーヒーで異世界に革命を起こすチャンスではないだろうか!?
落雷のような衝撃に居ても立ってもいられない。僕はカウンターを飛び出し、店の扉を開けた。
通りゆく人に声をかけて招き入れ、僕のアイスコーヒーの魅力で夏を乗り切ってもら––––
「あっつ」
途端に襲いかかってきた熱風に、僕はそっと扉を閉めた。
ふう、と額の汗を拭き、僕は頷いた。
「あれだな、夏は無理しちゃだめだな。コーヒーの普及は秋からにしよう」
涼しい店内でグラスでも磨こうかな。
ぴっぴろぴーと、下手くそな口笛を吹いてみた。
「ユウ、うるさい……」と、ノルトリが寝息混じりに呟いて、両手で耳を塞いだ。
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▶︎作家生活?印税で不労所得でウハウハやん! と思っていた自分を殴ってもいい。
みんな違ってみんな良い、自分なりの最高を見つけて行こう…夏にホットコーヒーを飲んだっていい…それが自由ってもんだろ…。
ただし本を出す場合は、編集者がOKを出すか、WEBで人気を出すかの二択じゃわい…。
みなさん今年も頑張っていきましょう。
>作品全部買ってます。続刊新作待ってるで
ありがとうやで…迷走したり一時停止標識の前で座ったりしながら頑張っております。
>仕事してても人間関係で心を壊して貯金がなくなった人だっているんですよ!(診療内科への通院と半年の生活防衛費用で)
>お互い頑張りましょう!
あなたは頑張りすぎたから休むフェーズがきてるのよ。ゆっくり休んで風見鶏さんの小説を読んでね。たぶんほら、癒される効力があると思うから…。
>ロリ見鶏先生がまさかたったの3か月で更新するなんて........夢?
期待に応えたくて今度はちゃんと一年空けてあげたからね!
>風見鶏生きとったんかワレ
失踪しそうで失踪しない。これが心をくすぐる鍵や!
では、また次の夏に……ミンミンミーン