トランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュは不機嫌であった。今回の出兵もやむを得ないものとはいえ、無駄な手間だと思っている。 ヴラディスラフの馬鹿が………小僧ひとり御しえぬとは……… トランシルヴァニア公国の大公にしてハンガリー王国摂政たる自分はもはやハンガリー王位を指呼の間に捉えている。簒奪を前に余計な損害や名誉に傷がつくようなことは極力避けるべきだと感じていた。しかし、ワラキア公国がオスマン朝の影響下に置かれてしまえば自らの王国の存続すら危うい。ワラキアやモルダヴィアといった小国には緩衝国家として延命してもらう必要があるのである。もちろん、その結果ワラキアとモルダヴィアの国民がどうなろうとしったことではなかった。 「前方に敵騎兵を確認!」 斥候か………それにしてもわずかに三騎とは……まったくヴラドのせがれは愚か者よの ヴラドのとった苛烈な政治的粛正によってワラキア内の貴族の三割は逃亡し四割近くが帰趨を決めかねている。既にワラキア軍内部の貴族からの情報でヴラド三世のもつ兵力は八千に満たないことは知らされていた。兵力が少ないならどんな手段を使ってでも貴族を懐柔して戦力化すべきであり、一時の激情から貴族の多くを敵にまわすその有様は政治的自殺としか表現しようのないものであった。 我がトランシルヴァニア・ハンガリー連合軍、ワラキア貴族といっしょにせぬことだな………… なんといってもヤーノシュは強国オスマンを相手に幾度も勝利の凱歌をあげた歴戦の武将であり、兵は実戦経験豊富な古強者である。それがワラキア公国降将を加えた三万の大軍を率いる以上、いかにヴラド三世が良将であろうとも鎧袖一触に打ち破るであろうことを、ヤーノシュ自身も、兵たちも確信していた。 「敵の軽騎兵を相手にするな。いったん警戒線まで退くぞ」 斥候の指揮をとっていたのはベルドであった。その指揮ぶりは堂に入ったものであり、つき従う騎士も明らかにベルドに心服している風が窺える。ヴラドの腹心として、現場の指示を任されていたことでベルドは既に上級指揮官として全軍に認知されていた。 それにしても大公様の目の確かさよ……………! ヴラドが早ければ二か月で敵は来襲すると言ったときは耳を疑ったものだった。トランシルヴァニアはいまだヴァルナの戦いの傷が癒えていないものと思っていたし、謀略ならまだしもそれほど短期間のうちに軍事力行使にヤーノシュ公が踏み切るとは思わなかったのだ。 トランシルヴァニアの軽騎兵がおよそ百騎ほどベルドの後方を追走していた。このまま鼻面を引っかけてかけずりまわし、本陣へと誘引すれば勝負は決まる。ベルドはニヤリと不敵に笑った。もはや大公様の判断に従うことになんの迷いもない。あの方は私などが遠く及ばぬ視点で既にこの戦場を見渡しておられるのだーー! 「来たか」 オレはなんのためらいもなく突撃を開始した敵の騎兵集団を見て腰をあげた。打つべき手は打ち尽くしたが、なんといっても我が軍は新兵の寄せ集め………それは厳然たる事実なのである。初めての実戦で訓練通り戦ってくれるかは未知数であった。古来より優秀な指揮官は演説によって味方の士気を鼓舞したというが………オレもいっちょやってみるか! オレはゆっくりと指揮台に登り眼下に怖気づいて足を震わせる自軍を見据えて叫んだ。 「忠勇なる我が将兵よ!死ぬことを恐れてはならない!しかし決して死んで楽になろうと考えてもならない。何故なら、勝利は諸君たちの生とともにあるからである!」 兵士たちの間から戸惑いの声が漏れた。どうもこの時代の兵士は死んでこい、などという暴虐な命令に慣れすぎている。 「ワラキア!ワラキア!ワラキア!余こそがワラキアであり、兵士諸君こそがワラキアそのものである。よろしい、ワラキアに無法いたらばこれを殲滅し、隣国が無法ならばそこに法を作ってみせよう!ワラキアよ立て!立てよ!ワラキア!」 戦場に訪れた一瞬の静寂……………… そしてその静寂は、割れんばかりの歓呼の声によって破られた。 「ワラキア!ワラキア!ワラキア!ワラキア!」 実のところワラキアのナショナリズムの素養は他国に比べてかなり高い。それこそがワラキアやモルダヴィアがトルコ統治のもとで一定の自治権を獲得しえた基であろう。それにしても…………あんた最高だよ、ギ〇ン………… 「あれはなんだ?」 ヤーノシュはワラキア軍が見るからにみすぼらしい柵の後ろに待機している様子に首をひねった。あの程度の柵は瞬く間に馬蹄で踏みにじられるであろうし、戦場の最前線に大型の馬車を持ち込んでいるのがまた不審だった。戦理からすればありえないことだ。ヴラド三世が度を越して無能なだけであるのかもしれないが、数十年にわたって戦場を往来して培われた勘が警鐘を鳴らしている。なんだ?あれはいったいなんなのだ?その答えは最初に触接した軽騎兵部隊が絶叫をもって導き出した。 あえて飛び越えられるほどに低く、しかし必ずどこかでひっかかるように三重に張り巡らされたそれは、この世界で初めて実戦に投入された有刺鉄線であった。もともと馬という生き物は臆病でわずかなケガにも制御を失う虚弱な生き物である。有刺鉄線に傷つけられた馬たちは、たちまち棹立ち、あるいは転倒して行動不能に陥っていった。しかも、機動力を失った騎兵は弩兵の格好の的にほかならない。衝力を失った騎兵にむかって弩兵の矢が次々に浴びせられていく。それはヤーノシュにとって悪夢の光景でしかなかった。 「そんな、そんな馬鹿なことがあるか!」 有刺鉄線は針金の加工品である以上、安価で大量に生産が可能だ。この二ヶ月間数か所の工房に発注して今日に備えていた。たかが針金と侮るなかれ。その有用性は現代においてなお失われていない。 味方の屍を乗り越えて有刺鉄線の柵を抜けるとそこには目だたないが、馬が足をつまづかせるには十分な堀が掘られている。堀の前には長槍兵が隊列を揃えて陣を組んでおり、長槍の後ろには車軸と車輪のやけに大きな馬車が陣取っていた。 ひとりの頭の働く男が馬車に向って火矢を放つが矢はむなしく金属音だけを残して大地に墜ちた。それを目撃していた兵たちから驚きの声があがる。補給用のお荷物程度に思っていた馬車は鉄板によって装甲されていたのだ! しかも、馬車の間に穿たれた銃眼から放たれる矢は、安全圏に身を置く安心感からか、正確無比に敵兵を貫いていく。柵と堀の前に人馬の死体が山のように折り重なっていくが、一向に突破口が開ける気配はなかった。 おかしい。この戦は自分たちの知る戦とは何かが違う。オスマンの新戦術だとでもいうのか? ヤーノシュは目を覆う惨状に有効な手を打てない歯がゆさでいっぱいだった。誰がこの結果を予想しえただろう。軽騎兵は突撃の衝力を失っていたずらに的になるばかりだ。重騎兵も同様に柵を越えることができない。剣を主力武器にする歩兵はワラキアの長槍兵部隊の前に近づくことすらできずにいる。これではまるで攻城戦ではないか! ……………今、何かがヤーノシュの脳裏をかすめた。 攻城戦?攻城戦!そうか、これは攻城戦なのだ。ならば軽騎兵が役立たずなのは当たり前だ。攻城戦に必要なものは騎兵ではなく圧倒的多数の歩兵と攻城武器なのだから。 あの小僧は今日あることを予測し、この地に簡易な城を築いて我らを待ち伏せていたのか…………… 気づくのがあまりにも遅すぎた。養成に手間のかかる軽騎兵はあらかた壊滅して、残された歩兵も味方の劣勢に逃散を始めていた。全てはこれが野戦と思い込んでいた自分の失態だ。 「撤退する…………………」 力ない言葉とともにヤーノシュは敗北を受け入れた。その姿に先刻までの覇気はなく、十ほども年をとってしまったような悄然とした空気が敗戦を雄弁に物語っている。しかしトランシルヴァニア・ハンガリー連合軍の悪夢はまだ終わることを許されてはいなかった。これまで温存されていたワラキア騎兵が反時計回りに後背を衝こうと出撃を開始し、長方陣を維持した長槍兵の部隊が大きな鋏らしきものを手に自らが設置した柵を取り払おうとしている。古来より会戦というものは撤退時にもっとも巨大な損害を出すのが運命だ。 「ワラキアの貴族どもに殿を任せろ。逃げようとしたら斬り捨てて構わぬ」 ヴラドの宣告を思い出した貴族たちから一斉に抗議と悲鳴があがる。しかしヤーノシュはもはや彼らに気遣う必要を認めてはいなかった。ヴラド三世に対抗するのに彼らでは何ら役に立たないであろうことは誰の目にも明らかであったからだ。 「御見事です。大公様」 信じてはいたがやはりこのお方は凄い!ベルドはネイやタンブルとともにヤーノシュ軍を追撃しながら忠誠を新たにしていた。ゲクランなどはまだ半信半疑で首を捻っている。 「いや、理屈はわかるんだが、そもそも理屈ってなあ何もないところからは生まれんわけで………そこがあのお人の一番すごいところかもしれんねえ」 「一刻も早くその理屈を我がものとするのが我らの勤めだぞ!」 落日とともに追撃を打ち切るまで、ヤーノシュ軍は全軍の半数以上を失った。首都トゥラゴヴィシテ前面の都市プキオーシャの戦いはワラキア軍の圧勝で幕を閉じたのだった。