戦場医療の歴史は遠くローマ時代に遡る。ローマが誇るレギオンの中に負傷兵の救出・治療・看護の係りをおいたのが戦場医療の始まりであった。しかも戦線後方に内科医と外科医を配置するという念の入れようで、軍人の平均寿命は一般人のそれよりも五年は長かったと言われている。このころすでに創傷治療において、乾かすのではなくワインを染み込ませた包帯を使って湿潤環境を作り出すことや、傷口をワインで洗浄するなどの治療法が確立し医学者ガレノスによって医学辞典が編纂されたりもしていた。ところがこれらの知識はローマの衰退とともに急速に失われむしろ後退させることになる。なかでもアラビア人医師アビケンナによってもたらされた医学典範は外傷の治療法として焼灼法を普及させたため、治療の過程で身体を損なうものが続出したのだ。(その他の点では有用な記述も多かったのだが)15世紀の外科医たちは銃創や刀創に対し、熱したニワトコ油の膏薬を塗るというのが一般的であった。現代の治療法から見れば完全に誤ったこの治療法は身体の組織そのものが広範囲にわたって破壊されてしまうというおそるべき結果をもたらしていた。史実でこれが改善されるのは1540年も近くになったからの話である。フランス王に仕えたアンブロワーズ・パレはニワトコ油を切らしてしまい、その応急処置としてテレピン油とバラ油を混ぜた膏薬を傷口に塗ってみたところ、患者がなんの炎症も腫れも起こさなかったという事実に遭遇した。現代では常識の血管を結束する止血法も彼が発見している。ここにおいて外傷の一次治療は革命的な前進を見たのであった。ロドリーゴ・フロイドが運用する医療兵部隊は、さらにナポレオンの大陸軍のように荷馬車を改造した救急車や負傷兵用の二輪荷車などを装備し、積極的に負傷者を後送することを目的としていた。そして19世紀半ばにパスツールやコッホが細菌と感染の関連を証明するまで普及しなかった消毒の概念が、すでにワラキアではヴラドによって導入されていることも大きい。(もっともその具体的理由まで開示されているわけではなかったが。)当時患者を変えるごとに手を洗い、あるいは手術道具を殺菌する医者など皆無であったからである。真新しい包帯、手術道具の煮沸消毒、医師の手の殺菌などの徹底は負傷兵の帰還率を決定的に上昇させるはずであった。これはあくまでも私見だが、決して命中率の高くない銃の存在がすでに戦の決定的な役割を果たしていることの理由のひとつは、銃創の治療の難しさにあるとオレは考えていた。刀や槍の鮮やかな切れ口と違い、醜い破口をさらした銃創は弾丸の摘出や破口を縫い合わせることが難しかったことから容易く四肢の切断にいたるということがままあったのである。ただでさえ士気の低い傭兵にとって、不具になるという恐怖はおそらく死の恐怖に勝っただろう。怪我をしても味方が見捨てることはないという保障と、精度の高い治療の保障は、カントン制度によって召集された兵が大半を占めるワラキア軍の士気を維持するためにはなくてはならないもののはずであった。「殿下、馬匹の手配をいただきありがとうございます。いまだ荷馬車の納入は半ばなれど職人ともども配備を急いでおりますゆえ近日中の完了は間違いないものと」「………配備は優先させる、わかっているだろうが急いでくれ」戦時になれば馬匹や資材は真っ先に実戦部隊が攫っていってしまう。馬の繁殖に励んできたワラキアでもそれは例外ではない。結局のところ馬と糧食はいくらあっても困るものではないから多めに確保しようとしてしまうからだ。しかし熱狂的な士気を誇るイェニチェリ軍団を相手にするうえで医療兵部隊の編成に手を抜くわけにはいかない。ワラキア軍に一体感を生み出し、将来の幹部候補の生命を確保するという決して損にはならない投資である以上それは必然であった。「…………まことにおそれながら殿下にお願いの儀がございます………」 ロドリーゴが改まって頭を垂れる様子にオレは違和感を覚えた。…………これまで可能なかぎり融通は利かせたつもりだが………いったいなにが………?「この度の戦の規模を考えると阿片の量が足りませぬ………なんとかお力添えをいただきたく…………」ロドリーゴの要求は完全にオレの思考の死角を衝いていた。阿片はこの時代それほどものめずらしい麻薬ではない。麻薬というよりはこの時代の感覚では高価な薬品である。特に麻酔薬が存在しないこの時代に外科手術を行おうとすれば阿片の存在は貴重であった。もっともハシシを用いたアサッシンの洗脳や富裕者が陥る重度の阿片中毒がなかったわけではないため麻薬としての顔も広く大衆に知られてはいた。オレとしては麻薬や中国の阿片禍を知る人間としてどうしても阿片の量産の断を下せずにいたのだが、こんなところでしっぺ返しを食らうとは。「……………足りぬ分はジェノバから買い上げるほかあるまいな…………貴重な兵士を中毒にはするなよ?ロドリーゴ」「御意」コンスタンティノープルの北側、史実ではルメリ・ヒサルの建築地点にあたるその場所では急ピッチで砲台の建設が急がれていた。ボスフォラス海峡の最狭部であるこの地を大砲をもって封鎖すれば黒海側からの艦隊戦力を無効化することが可能であるからである。要塞としての防御力は低いが、設置された大砲の数は史実の実に十倍に達しようとしていた。「ジェノバ艦隊もこれでは身動きがとれまい」「油断は禁物でございます陛下。船乗りの経験は時として我々の想像を超えるものですゆえ」「もちろん承知しているとも。だが、身動きがとれぬのは事実であろう?先生(ラーラ)よ」人の悪い笑みを浮かべてメフメト二世は肩をゆすった。金角湾に張られた鉄鎖のように封鎖は完全ではないが、両岸に並べられた百を数えようかという砲台は、それだけで脅威以上の何かである。メフメト二世は目の前の有能な宰相がさらにそれを誇大に言い立てて外交の具にしていることを知っていたのだ。「ジェノバはヴェネツィアと違って国家としてのまとまりに欠けますので…………おそらく二割も戦力が揃えば上等でありましょう。とは申しましても二割でも海軍の歴史の浅い我々には十分脅威であることに変わりはありませぬ………ガラタの司令官も取り込みに失敗したことでもありますし」メムノンにとってはガラタ地区の中立を引き出せなかったことは痛恨事であった。コンスタンティノポリスの商業利権をちらつかせ、あからさまに海峡を封鎖して見せれば尻尾を振るだろうと思っていたのだが、どうして敵にも先の見える人間がいたらしい。しかしながら目先の利権にあっさり尻尾を振る者も中にはいるわけで、ジェノバの国論はほぼ二分されるにいたっている。指導層は相変わらずワラキアよりだが、黒海よりオリエントに貿易の比重を置く有力商人たちは親オスマンを叫び共和国の指導を受けつけずにいた。権益は各国間のパワーバランスを抜きにしては語れないのだが……………。スルタンの意向が全てに優先される絶対君主制を採るオスマン朝が恒久的な権益を保障できるはずもないにもかかわらず、利権を約束されれば飛びつく輩にはメムノンも失笑を禁じえない。とはいえ知恵の回る連中がオスマンと敵対するというのであれば笑ってばかりもいられまい。カッファに常駐するジェノバの黒海艦隊はワラキアに同調するものが多いがボスフォラス海峡を無傷で突破することが難しい以上、危険な行動は慎むはずである。本国艦隊はそれほどの脅威ではなかった。変転を極める欧州の政治情勢を考えれば、迂闊に本国を空にすることなどありえないからだ。残るもうひとつの雄敵ヴェネツィアだが……………。「今頃は教皇に使者が届いたかも知れぬな………」マムルーク朝の率いる船団がロードス島近海に姿を現したのはつい先週のことであった。ロードス島は聖ヨハネ騎士団が1310年に全島を掌握して以来対イスラム戦の最前線であり続けた。1444年にはマムルーク朝の遠征を退け、改めて修道騎士団の精強さを内外に示している。また、小アジアにごく近い島の位置環境からロードスは地中海貿易においてクレタ島に次いで重要な中継拠点でもあった。そればかりではない。病院騎士団という俗称で親しまれた聖ヨハネ騎士団はロードスに地中海最大の病院施設を完備していたのである。ロードスの病院は遠隔地で病に倒れたものにとって唯一の希望の地であり、聖地巡礼者などにとってはなくてはならない施設となっていた。その施設が瓦礫の一部に成り果てようとしている。大角度で落下する砲弾は、いかな精強をもってなる騎士団にとっても受け止めることはかなわないのだ。「いったいなんだ?あの大砲の数は?」かつて聖地で最も堅固な城であったクラック・デ・シュバリエを築いたヨハネ騎士団の築城能力は当代随一を誇る。しかしそれも大砲が集中して運用される前の設計思想に基づいたものだ。オスマン朝から供給された大砲による艦砲射撃の激しさは、騎士団の戦前の予想を遥かに超えるものであった。こんな戦は知らない。弩の矢も投石器も届かぬ彼方から一方的にひたすら嬲られるだけの戦いなど聞いたことがない。ごくわずかな大砲がかろうじて沖合いのマムルークの戦船に損害を与えるが、たちまち十数倍の砲撃の前に沈黙を強いられてしまう。このままでは攻城戦の前に味方の兵はあらかた消耗しつくしてしまうやも知れぬ。悲鳴のような使者が複数にわたって欧州大陸に送られた。ロードス島は今存亡の危機にさらされている。小アジアに残された最後のキリスト教徒の拠点を失うことがあってはならない。ロードス島を失えば、次はクレタ島が危険にさらされ遂には東地中海すべてが異教徒の手に落ちるであろう。今こそキリスト教国は一致して救援の兵を起こすべきときである。聖ヨハネ騎士団でもっとも多数を占めるフランスとそれに次ぐスペインにも使者は送られており、教皇ニコラウス五世は両国の王とともにヴェネツィア共和国にも出兵と援助を要請した。黒海の覇者ジェノバと違い、多角交易を旨とするヴェネツィアにとってはクレタ島はコンスタンティノポリス以上に重要な交易拠点である。対立する利害を持つ聖ヨハネ騎士団だが、ここで見捨てることはヴェネツィアの国益を損なうことになるのは自明の理であった。議論は短くも沸騰した。モチェニーゴをはじめとする親ワラキア商人は数の大小はあれども艦隊を派兵すべきであることを主張した。コンスタンティノポリスは確かにヴェネツィアにとって欠くべからざるものではない。しかしローマを継ぐ精神的支柱がオスマンの手に落ちるようなことがあれば、東欧は芯棒を失ったように瓦解する可能性がある。コンスタンティノポリスを失うということは、歴史ある大都市を失う以上の何かなのだ。しかしミラノ攻囲戦を戦うヴェネツィア共和国にとって、さらにロードスとコンスタンティノポリスという三正面を戦うことはヴェネツィアの国力を大きく上回っていた。現実主義者の彼らは断腸の思いで決断を下した。ヴェネツィア元老院はワラキアに対し、資金と糧食を援助するとともにコンスタンティノポリスへの派兵の中止を決定したのだ。