ブラショフの街に翩翻とワラキアの旗が翻っている。略奪しただけではあきたらず、ブラショフを我がものとでも言うつもりか!トランシルヴァニア軍の面々は許容できぬワラキアの無法に対して嚇怒していた。 「全ての出口を封鎖せよ!決してワラキア公を外に逃がすな!」 腹立ちは納まらないが、これはトランシルヴァニアにとってチャンスでもある。わずか二千の兵を率いて侵入してきたワラキア公を捕えることが出来れば、ワラキア公を幽閉して代理統治することも傀儡を立てることも思いのままだ。それはこれまでワラキア相手に蒙った損害を贖ってなお余りあるものであるはずだった。 「かかれ!」 急遽編成した軍に投石機や破城槌などの攻城兵器は携行できなかったが、三倍以上の兵力と地の利があれば攻略は難しくない。誰もがそう考えていた。ブラショフに立て籠もるワラキア軍は補給を断たれて孤立しているのであり、孤立した兵は加速度的に士気を失うものなのだ。 破壊された城門から突出する形で土嚢と木材で補強されたバリケードのようなものが築かれていたが、そのみすぼらしい外見に侮った歩兵が突撃を開始する。 「…………ようこそ、トランシルヴァニアの諸君、そしてさようなら」 出来うるかぎり引きつけて斉射された火縄銃隊の一撃が与えた損害は激甚であった。あえて城門から前面に突出した形で構築された野戦陣地は巧妙に形成されたキリングフィールドでもあったのだ。 火砲の発達とともにその効率的運用法として十字砲火の概念が生まれる。火縄銃は連射能力に乏しく、一方向からの射撃では歩兵の突撃を阻止しきれないことから生まれた運用法だった。正面の射撃だけでは止められない。ならば左右からの射撃をも集中させた特火点を作り出せばどうか。 ブラショフ前面に配置された火縄銃隊が正面・左面・右面から最大火力を発揮できるクロスファイヤーポイントこそ、野戦陣地前に他ならなかった。 「な、なんだ………ワラキア軍はいったい何丁の火縄銃(アルケブス)をこの戦場に持ってきているのだ…………」 あまりの火力の集中にトランシルヴァニア軍はワラキア軍の火縄銃の総数を完全に誤解した。 三方向からの斉射を浴びて負傷者が続出した歩兵が壊乱する。歩兵の撤収を援護するべく騎兵部隊が入れ替わろうとすると今度はワラキア軍の長槍隊が隊伍を組んでうって出た。槍先を揃え、陣形を乱さぬ槍兵には騎兵は手も足も出ない。騎兵の自由を奪った槍兵部隊が混乱を収拾できぬ歩兵を蹂躙していく。突撃からわずか数十分の戦闘でトランシルヴァニア軍は数百に及ぶ損害を出して後退を余儀なくされたのだった。 「…………あの男は悪魔か!」 損害を聞いたラースローは驚きとともに叫んだ。彼我の戦力差三倍以上、目標は勝手知ったるブラショフの街、勝利を確信し戦闘を開始してからわずかに半刻にしてトランシルヴァニア軍が蒙った損害は死者百二十名負傷者三百名を数えていた。 この戦いはおかしい、何かが間違っている……………。 誰もがそう思い、理解の及ばぬ未知なるものを恐怖するようにワラキアに対する恐怖が広がっていく。 「こちらも柵を立て包囲を厳重にして持久戦に徹するべきと存じます」 そんな雰囲気の中でセスタスの献策はただちに受け入れられた。 時はワラキアの敵なのだ。兵糧の火薬もワラキアの持つものには限りがあり、東部諸侯の到着も間近い。さらに時がたてばヤーノシュ公のご出馬すら望めるのである。 ……………あえて火中の栗を拾うまいぞ…………。 ブラショフに存在する三か所の出入り口に兵を分散し、柵と濠を築いてワラキア軍を封じ込める。軍議は決し各将はその手配に走りだした。 オレの眼下でトランシルヴァニア軍の工兵が柵を打ちこむ槌音が響いている。その両翼には歩兵と軽騎兵が臨戦状態で待機しており、迂闊なちょっかいは損害を増すばかりであろうことが見て取れた。 …………これがヤーノシュならこんなまだるっこしいことはしないだろうな……七千の兵を全滅させる覚悟でオレの首を獲りにくるだろう……… ヤーノシュはオレの首にそれだけの価値があることを知っている。ラースローは知らない。だからこそこうしてゆっくり眺めていられるわけだが。 「殿下………あまり城壁に近付かないでください。いつ狙撃されないとも限らないのですから………」 出たな!小姑!どうも過保護というか……先日の襲撃以来ベルドはオレの傍を離れようとしない。こいつにはオレの片腕としていろいろと現場を学ばせておきたかったのだが……… 「殿下の用兵をお傍で拝見させていただくほどの勉強はございません!!」 と言われると悪い気もしないのでそのまま認めてしまっていた。 それにこいつが心配するのも故ないわけではないのだ。ダンを手土産に降伏した貴族どもは命惜しさにワラキア国内でダンに内応を約束した貴族の名を洗いざらい吐いてくれた。その中にはオレが信を置き始めた中立派の重鎮もいたのである。やはり貴族たちに全幅の信頼を置くことは難しい……………。 「腕白でもいい、たくましく育ってくれよ、ベルド」 「………はあ………!?」 意味不明だろうが、お前ら側近がオレの命綱だよ。 ワラキア軍は嫌がらせのように銃を撃ちかけ、騎兵を繰り出すやたちまち槍兵に守られて市内に逃げ込むということを繰り返していた。効果のほどはともかくトランシルヴァニア軍内にいらだちと疲れが蓄積されていくのは如何ともしがたい。しかしブラショフを包囲する柵はそのほとんどを完成し、さらには完成したところから濠を掘り進めつつある。 ワラキア公ももはや進退窮まったであろう………………。 出戦するには兵力が足りなすぎ、逃げるには機動力がなさすぎるからだ。最後に夜陰に紛れて逃がすことのないよう、赤々とたかれた篝火は夜を焦がしてブラショフの街を包んでいた。 最初に異変に気づいたのは名もなき一人の見張り兵であった。ブラショフの城壁で数人のワラキア兵がたいまつを振っている。まるで味方への何かの合図のように…………。 …………まさか いや、援軍などありえない。カルパチア山脈から続く南部街道は封鎖され、濃密な哨戒網が敷かれているはずだからだ。 いったい誰に………… ワラキア兵が盛んにたいまつを振っているのは城壁の西側であった。 気の回しすぎか………西と言えば公都シギショアラへ通ずる味方の奥座敷のようなものではないか……… 安堵の息を吐きながら兵士は西の大地に目を向けた。わだかまる闇の向こうに幽かにきらめく輝きが見える。それが彼が戦場で見慣れた白刃の反射だと気づいたときには遅かった。 「突撃ィィィィィィ!!」 ゲクラン率いる別動隊千五百名がラースローが本陣を置くブラショフ西部に向けて突撃を開始したのだ。 「ワラキア軍の背中には羽でも生えているのか!それとも奴は本当の悪魔なのか!」 なんの備えもない後方からの一撃に一瞬で本陣は壊乱した。 「裏切りだ!」「味方の裏切りが出たぞ!」 まるで計ったかのように流言が飛び、動揺した諸侯が有効な手立てを打てぬままに次々と兵士が倒れていく。 「公子殿下を守り参らせよ!」 セスタスが精鋭を指揮して血路を開こうとするものの、ワラキア軍の攻撃は激しく、とうてい逃げ切れるものとも思えない。ブラショフから出撃したワラキア軍が南部に展開していた諸侯を蹴散らすと、東部の諸侯が戦わずして逃亡していくのが見て取れた。最悪の想像ですら思いもつかぬ完敗であった。 「………なぜだ?………なぜワラキア軍が西から現れたのだ??」 「殿下、トランシルヴァニア公子ラースローを捕えたとの報告が参りました」 オレは上機嫌で頷いて見せた。ラースローが生きて捕まる確率は五分五分だと思っていたからだ。 「丁重に扱え。ただし、自害などさせぬよう厳重な監視をつけるのを忘れるな」 「御意」 相手が悪かったなラースロー。ブラショフを包囲下に置こうとしたときお前の負けは決まっていた。そもそもオレが全軍を以ってブラショフに籠らなければならない理由がどこにある?ワラキアの兵数が少なすぎることを疑ってかかるべきだったな。 ブラショフの北西にハーチェスと呼ばれる森がある。地元ルーマニア人の手引きでゲクラン率いる別動隊は密かにブラショフを離れ森の中で息を潜めていたのだ。あとは斥候に戦況を監視させ、最も効果的なタイミングで総大将を撃破するだけだった。 最後までラースローを守って死戦していたあの老人……見事な最後だったな………あんな部下ばかりならオレも苦労はしないんだが…………。 1448年4月17日、ブラショフの戦いと呼ばれる一連の戦いはワラキアの完勝で幕を閉じた。 ………………ちょうどそのころ、トランシルヴァニア宮廷にヤーノシュの早馬が到着していた。ヤーノシュの書状には、シギショアラ前面の街道を封鎖して陣を築き、援軍あるまで決してこちらから戦端を開かぬようにとの指示が書かれていたという…………。