種痘はトゥラゴヴィシテの城前でオレ自ら率先して受けたこともあって予想以上のスピードでワラキア国内に普及していった。しかし問題がなかったわけではない。迷信を信じる国民に種痘を受けさせやすいよう考えた結果、これはオレが守護聖人である聖アンデレのお告げを聞いたものであると言ってやったところカトリック教会側からどえらい反発を食らったのだ。危うくフス同様異端の烙印を押されるかと思ったが、天然痘に対する画期的種痘へ各国がなみなみならぬ関心を見せたため、しばらくするとそれも下火になっていった。そういえば魔女狩りの時代だったな。危うく墓穴を掘るところだったよ。しかしワラキア国内での天然痘患者が激減すれば注目している各国は先を争って種痘の方法について教えを請うに違いない。情報漏れのないようボッシュに言っておかなくてはならないな…………。 いつ始まるかしれない第二次ハンガリー戦争のためにモルダヴィアに使者を立てた。現在1447年時点ではボグダン二世が存命で、親友シュテファンはまだ公子として気ままな生活を送っている。1451年ボグダン二世が暗殺され、ポーランドの傀儡政権が誕生すると同時に亡命してくることになるだろう。この際、クーデター前に情報を教えてやるべきかシュテファンを擁してモルダヴィアに侵攻すべきか迷うところだ。いずれにしろモルダヴィアはポーランドとオスマン、ワラキアはハンガリーとオスマンという二大国家と対峙を強いられている。これに対し両国が手を携えてあたろうという基本方針はすんなりとボグダン二世も了承してくれた。モルダヴィアも戦力として当てにしたいところであったがポーランドがオスマン朝と融和路線をとりモルダヴィアに色気を出している状況ではそれも不可能だろう。なんといってもこのときのポーランドは連合していたリトアニアを合併し、ドイツ騎士団領やウクライナまでをも支配に治めた絶頂期にあたる。通商と支援を約定できただけで良しとするべきであった。そういえばいたずら心でシュテファンに木製のルービックキューブをプレゼントしたら涙を流すほど感激された。おもちゃの売り出しを考えてもいいかもな…………。 「殿下、ヴェネツィアより使者が参っておりますが…………」 ようやく来たか。 地中海の女王ほとんど海上利権だけで世界大国となったわずか人口十万の都市国家オスマン朝の海軍を正面から撃破できる現時点で世界最強の海上勢力 その名家のひとつでもあるモチェニーゴ家の青年が今日の賓客であった………。 「遠路はるばるおいで頂きありがとうございます。願わくば両国にとって今日が幸いとならんことを」 ジョバンニ・モチェニーゴは昨今なにかと話題のワラキア大公の若さと穏やかな物腰に驚いていた。磔公の悪名は遠くヴェネツィアまで響いているが、政戦両略に通じ天然痘の撲滅すら可能にしたといういささか眉唾めいた噂も聞こえくる男がまさかこんな少年であったとは………。このときジョバンニ三十八歳、元老院の議員として政治家としても経営者としても脂の乗りきった時期である。そのジョバンニにしてワラキア大公ヴラド三世は評するに余る人物であった。 「殿下のお噂は旅の途中にも聞こえておりました。お噂どおりなら必ずや有意義なお話ができるものと期待しております」 ………どうせ半分はろくでもない噂だろうな…… 目の前のジョバンニは流石に後年ヴェネツィアの元首に就任するだけあって申し分のない貫禄を備えていた。この男なら感情に流されず損得を勘定して己の身の振り方を決められるだろう。ワラキア貿易がヴェネツィアに益をもたらすなら万難を排して交易に取り組むはずだ。もちろん十分な見返りがあっての話だが。 「話というのは他でもない。わが国はこのところ様々な商品を開発しているが販路が不足しているのでね。オスマン商人と取引するより世界に名高いヴェネツィアと取引したいと願ったわけなのだよ」 「それはそれは見込まれたものですな」 ジョバンニは自分の勘が間違っていなかったことを悟った。ただ、オスマンの朝貢するだけの君主が発言してよい内容ではない。むしろこれはヴェネツィアに対する同盟の用意があることを暗に示しているのではないか?そんな深読みすらする気にさせる言葉だった。 「お近づきの印と言ってはなんだが………これを進呈しよう」 ジョバンニはヴラドに手渡された円盤のようなものを訝しげに見ていたが、ある物に思い当たって愕然とした。 「殿下!これは!」 「そう、羅針盤だ。便利そうだろ?」 便利どころの騒ぎではない。現在ヴェネツィアも諸外国も水を張った容器に方位磁石を浮かべる形の羅針盤を使用しているが、この羅針盤は荒天下で水が荒れると用を成さなくなるという欠点があった。もちろん新米が船を静粛に扱えなくても役には立たない。羅針盤を扱えるということは一人前の船乗りの条件なのである。ところがこの羅針盤ときたらどうだ?左右から宙吊りにすることによって常に水平を保つことを可能にしている。技術的にはいつでも作れる代物だが、この類稀な発想をいったい誰が成しえたというのか! 「これは素晴らしい贈り物です………この贈り物によってヴェネツィア商船隊にはさらなる栄光が約束されましょう」 「別にオレが考えつかんでもそのうち誰かが考えたさ。多少気づくのが早いか遅いか、それだけのことだ」 「これを考えたのは殿下ご自身であると!!」 ジョバンニは度重なる衝撃にグラリと身をその引き締まった体躯をよろめかせた。いったい何者なのだ、このお人は………! 「話が逸れてしまったな。実のところまずヴェネツィアに求めたいものは我が国の蒸留酒と本の販売だ。」 今なんと言った?聞き違いでなければ蒸留酒と本と言ったような気がするが。 「本のほうはとりあえずラテン語聖書を千冊用意したからこれをヴェネツィアの教会に無償で配ってくれ。それで大量に印刷したい本の注文をいくらでも受けてきて欲しい。費用は市価の十分の一で構わない」 書籍が大量生産に向いていないだけで本当は需要があることをオレは知っている。グーテンベルグには悪いがこうした商売は知名度のあるほうが勝ちだ。三大発明の一角としてヨハネス・グーテンベルグは1447年、つまり今年グーテンベルグ印刷機を発明したとされているが、残念ながら有力なパトロンが見つからず会社を立ち上げ、ようやくその名を知られ始めるのは1454年にもなってからだった。まして流通販路にヴェネツィアの協力が得られればもはや商売仇にはなりえない。 ジョバンニは呆然としながら気取ることなく説明を続けるワラキア大公の言葉に聞き入っていた。保存のきく蒸留酒はヨーロッパでは引く手あまたの状態だから売りさばくことは問題ない。もともとモルダヴィアのワインは西欧で人気の銘柄だから、それを原料にしたブランデーとなれば人気が出ることは想像にかたくなかった。それよりも画期的な印刷機によって本が安価で大量に出回るということは……それは文明への革命にすらなりかねない。知識人と呼ばれる階級の人間でも稀少な本には生涯お目にかかれないことなど日常茶飯事であった。医術・学術・建築術………そうした稀少本が地方においても気軽に読めるようになれば世界はまた格段と進歩するであろう。自らも優秀な政治家であるジョバンニとしてはワラキア大公の器と将来性を高く評価せざるをえなかった。 「我がモチェニーゴに万事お任せ下さい。必ずや大公殿下の御心に沿うものと」 ヴェネツィアではなくモチェニーゴ家の名で商売を保障するあたりは、やはりジョバンニも商人の端くれであった。これほど有望な取引相手をライバルの豪商に渡す手はない。まったく、自分をワラキアに派遣してくれた元老院どもに感謝のキスでも贈りたいくらいだ。 「さて、ここからは裏向きの話だ。我がワルキア公国は貴国と対オスマン朝を目的とした軍事同盟を結ぶ用意がある」 一瞬にして今までの温和な空気が失せ青白く凍りついたようなヴラドの声音にワラキア貿易がもたらすバラ色の未来に馳せていたジョバンニの夢想は打ち破られた。 「どうした?貴殿もそう言われる覚悟をして参ったのではないのかね?」 気押される………一回り以上は年長で大ヴェネツィアの元老たるこの私が………! 「………ヴェネツィアの優秀な情報網なら知っているかもしれないが………次期スルタンメフメト二世はコンスタンティノポリスを征服するつもりでいる……」 どうしてそれを……こういってはなんだが辺境の君主にすぎぬ貴方が知っているのだ! 「現ムラト二世が健在であるうちはいい………しかしムラト二世が亡くなりメフメト二世が再び即位するようなことがあらば彼は少年時代の野心を今度こそ果たそうとするだろう。もはや止められる者は宮廷にはおるまい」 1446年メフメト二世がコンスタンティノポリスに出兵し、ビザンツ帝国を滅ぼそうと決意したとき宮廷内の重臣たちは隠棲していたムラト二世を再び担ぎだしその計画を葬った。幼い君主の性急な野心に危うさを感じたからだ。予期せぬクーデターによって逼塞を余儀なくされたメフメト二世がどれほどの怨念と執念を胸中に蓄えているか想像もできない。ただわかるのはメフメト二世の即位は東欧に新たな戦乱を呼ぶということだけだ。しかしその真相を知るものは非常に限られていた。ヴェネツィアの優秀な情報網以外に知りうるとすれば同じく情報を重視しているジェノバくらいか。当のビザンツ帝国ですらこの情報は知られてないはずであった。それを知るヴラドはいったい……………。 「それほどに野心旺盛なメフメト二世がコンスタンティノポリスを手にすれば………いずれ地中海貿易は衰弱死を余儀なくされるだろう。」 海上勢力としてオスマンに負けるとは思わない。しかし十年二十年先に同じことが言えるかは全く確信が持てなかった。なんといってもオスマン朝は一国で全ヨーロッパを相手にできるほどの国力を持っているからだ。いかに強大な海軍力を誇るヴェネツィアといえども、その実体は小さな都市国家にすぎない。国力の消耗戦となれば勝ち目はなかった。 「なぜそれをご存じなのか………今それは問いますまい。確かに我がヴェネツィアの懸念もまさに地中海制海権をオスマンに奪われるかどうかにあります。なれどそれがワラキアと同盟すべきということになるかどうかは………私にはなんとも言えませんな」 「それは承知している。軍事同盟は将来への指針として提示したまでのことだ。さしあたっては火薬と火縄銃の調達をお願いしたい。もちろん十分な見返りは約束する」 「火薬も火縄銃も現在欧州での需要の高まりから常に在庫が不足している状態です。ただの得意先というだけでは調達は難しいでしょう」 フス戦争で使用された拳銃が、弩をしばしば火力で圧倒したこともあり、ヨーロッパ世界では順次弩から火縄銃への更新が行われてきている。ワラキアがそこに割り込もうといってもない袖は振れない。よほどの好条件を提示できないかぎりワラキアに回す余裕はないはずだった。 「見返りは用意すると言ったはずだ。現在我が国では様々な商品を開発中ではあるが………海戦においては無類の強さを発揮する兵器を供給する用意がある」 海戦で有効な兵器だと?大砲だろうか?いや、残念ながら大砲はいまだ発射速度・命中率とも信頼すべき精度に達していない。いまだ海戦の主流は接舷戦闘や衝角戦術であるのが現状だ。そう言えば噂にだけで実際に目にしたことはないがビザンツ帝国には恐るべき武器が伝えられていると聞いたことが…………まさか! 「ご明察恐れ入るな。そう、我が国は貴国に対し、ギリシャの火を供給する用意がある」 ジョバンニの双眸が限界まで見開かれた。