目の前に置かれた、いつまで経っても白いままの本を見ながら私はもう何度目かにがっくりと項垂れた。
現実だったらとっくに腕が痛くなっているだろうくらい同じ事を繰り返しているのに、まだ一度も筆記が成功しないのだ。
私の挑戦と失敗に根気良く付き合い続けてくれたグレンダさんも、その間に浮かべていた笑顔が困惑へと変わり、困惑から呆れを経由し、今はまた笑顔を浮かべていた。
その笑顔が若干乾いている気がするのは多分私の気のせいじゃないだろう。
「なかなか……時間内に終わりませんわねぇ……」
「……申し訳ない」
少し字が崩れても認識できる程度だったら構わないとか、綺麗な字でなくても本が完成すれば勝手に字体は統一されるので大丈夫なのだとか、何度かそうやってアドバイスを貰ったのに、一向に私の書く速度は上がらなかった。
流石に彼女ももう言葉がないらしい。
「その、もともと憶えるのは得意なのですが、書くのはかなり遅い方なのを忘れていまして……」
そう、私は昔から文字を書くのがものすごく遅いのだ。
運動音痴が影響しているとは思いたくないのだが元から手が遅いのもあったし、なまじ記憶力が良かった分面倒くさがって書くということに関しての努力は放棄してきた面がある。
学校ではどうしてるかと言えば、まず教科書は貰ったら一通り目を通してほぼ暗記し、授業のノートは適当に取るフリをしながら黒板に書かれた事を憶えておいて、家に帰ってからゆっくりと教科書にない部分や大事なポイントだけをパソコンに打ち込んで整理するだけの生活を長く続けてきた。その甲斐あってそういった入力くらいはどうにか人並みよりほんの少し遅いくらいの速度を保っている。
(私の通っている学校は誰の方針なのか、「自分の手で書いてこそ真に身につくのだ」という建前を武器に、個人端末の導入に今もなお非積極的で本当に残念でならない)
テストでは暗記問題から片付ければどうにか時間内に粗方終えられるのでそれなりに点数は取れていたし、マークシートの場合もある。うちではまだだけど、全国規模の模試や受験なんかは最近は紙を節約する為に専用端末に入力する形式の採用が増え続けている。
これから先もパソコンさえあれば人生に何の問題ないと思っていたのに、こんなところでその弊害が出るとは。
呪文の筆記に時間制限があるなんて最初に聞いていたら、多分私は端から諦めていただろう。
「そうなのですか……けれど普通なら書くのが遅い方でも問題のない時間のはずなのですが」
「……多分、わしが特別遅いのではないかと」
うう、切ない。
もう編纂者という職業に就く気満々だった分、こんな最初の第一歩で躓いたのははっきり言ってショックだ。
ていうか、VRなのにちっとも早くならないなんて、一体何が悪いんだろう……私の脳の認識とかの問題なんだろうか?
「熟練度が少し上がればすぐに補助スキルとして『速記』が身につくので、そこまでいけば楽になるとは思うのですが……」
「そこまでの道のりがまず果てしなく遠そうですな……」
「困りましたねぇ。これは編纂者にとってはしなくてはならない基本の作業なのですよ」
そう、そこが困った所なんだよねぇ……。
RGOでの生産活動というのは、どうしても外せない作業というのがそれぞれの職によって決まっている。
例えば、鍛冶師は武具を作る際には必ずハンマーを手にして金属を一定回数打たなければいけないとか、魔法具生産は作ったものに魔力を込めるために決められた呪文を唱えなければいけないとか、そういう指定された作業があるのだ。
薬の生産や料理なんかにしても、材料となる素材はそれ一つが一回に使う分量として決まっているので(同じ素材が複数必要な場合はまた別だが) 計ったり切ったりする必要はないが、作りたい品ごとにレシピがあり、それに沿った順番で鍋やフライパンに材料を投入し一定回数混ぜたりフライパンを振ったりしないといけないらしい。
そういった作業はどれも多少の面倒くささはあるがさほど難しくはない。
むしろそれこそが、完全にシステム化されてウィンドウでの作業だけで済ませるよりも楽しさがある、とプレイヤー達を生産に誘う一因にもなっているようだ。
しかしその外せない作業が、編纂者にとってはこの『筆記』になるのだとしたら、ひょっとしたら私にはもう無理かもしれない。
はぁ、やりたかったな、編纂者……。
あ、でもいっそログアウトしてからリアルで練習してから出直す、とかどうかな。しばらく繰り返せばちょっとくらいこっちでも早くなるかもしれないし。いつもは黒板を眺めるだけの普段の授業中も、もっと一生懸命手を動かせば練習になるかもだよね。時間を計りながらやれば早くなったらわかるし、脳内のイメージも早くなるかも……と思いたい。
少しでも可能性がないかと考えを巡らせていると、目の前でしばらく黙って考え込んでいたグレンダさんがついと顔を上げた。
あ、編纂者のフラグ折られると困るから一度出直すって言わないとかな。
「……ウォレスさん」
「はい、あの」
「実は、これ以外の方法がないわけではないのですよ」
「え!? マ……真、ですか?」
あ、危なかった。うっかり驚きのあまり、マジですかそれ早く言って下さいよ! とか一瞬返しそうになっちゃったよ。
幸いグレンダさんは私の内心の狼狽はスルーしてくれたようで、静かに頷いただけだった。
「こうして手で書く方法は編纂に必要な作業である『筆記』となります。それに対して、別の方法として『口述筆記』というものがあるのです」
「口述筆記、ですか」
「ええ、その名の通り、書に記す内容を読み上げることで書き込む方法ですね。けれど、こちらの方法は身につけるには資格が要ります。そしてそれを身につけるとその後一切『筆記』はできなくなります」
え、そのぐらいなら全然オッケーだし。むしろそっちに絞りたいよ私は。
「資格があるかどうかは自信がありませんが、そのぐらいなら別に全然……」
「まだあります。『筆記』では新しい書に書き記したい内容の書かれた本をこうして隣に置き、見本とすることが出来ます。けれど、『口述筆記』ではその一切は暗記するしかないのです。
今は短い呪文しか試していませんが、これが長い呪文になった場合や、例えば呪文以外の書物の内容を編纂し自分用の資料などを作るような場合でさえ、その一切を口頭で、見本無しで行わなければならないのですよ」
「……」
「さらに魔道書の場合は記述を始めてから完成まで、書に記したいと望む全ての呪文を一回で詠唱し終えなくてはいけません。時間の制約もはるかに短いものですし、消費する魔力も筆記よりも多くなります。その上、この手法をとる編纂者に一度なってしまうともう変更は叶いません。非常に厳しい道なのです。ですから良く考えて……」
「ぜひそれでお願いします!」
その条件なら普段私が呪文唱えるのとそんなに変わんないよ! 楽勝楽勝! もー、そんな方法早く教えてくださいよ、ぜひ!
「……本当によろしいので?」
しばしの問答の中、グレンダさんは何度も何度も私に意思を確認し、最後に大変不審そうにそう聞いた。
もちろんそれに対する私の返事は一つだ。
「むしろそれ以外は考えられません」
「はぁ……まさかこれを憶えたいという方がいらっしゃるとは……」
彼女の様子からするとひょっとして運営としては、一応作ってみたけどこんなのやる奴いねーよ的なネタスキルとかだったんだろうか。まぁ、それを言ったら白き木の葉だってネタ魔法みたいなもんだしな。
というか、このゲームって探すと結構そういうネタっぽいもの多そうだよね。
「意思は固いようですし……よろしいでしょう」
グレンダさんは諦めたようにため息を一つ吐くと、徐に側にあった小さな棚の引き出しから銀色の板を一枚取り出した。
大きさはB5くらいだろうか。つるりとした銀の板は向かい側から見る限り、表も裏も何も描かれてはいないただの金属板のようだった。
「ここにこうして、手を当てて下さいな」
「こうですかの?」
差し出された金属板に言われるがままに手のひらを当てる。板は見た目のままにひんやりと硬い感触だった。
手を当てる事数秒、もういいですよ、という彼女の言葉に促され手を放す。
自分の手元に戻した金属板に、グレンダさんはそっと手をかざして何やら言葉を唱えた。
「彼の者の記せし足跡をここに」
彼女の言葉と共に金属板が白い光を放つ。私は驚いて見つめたが、光は一瞬ですぐに消えてしまった。
後に残ったのはさっきと変わらない金属板だったが、グレンダさんが見ている面には何か変化があったらしい。
向かいにいる私からは見えない面を見て、彼女は何かに驚いたように目を見張った。
「これは……ウォレスさんは、今までほとんど杖の装備なのですね」
「は? ああ、ええ……そうですな」
「あら、失礼しました。これは貴方が資格を持つかどうかを確かめるための道具なのですよ」
彼女の説明によれば、金属板には私が今までどのように魔法を使ってきたかが記されているのだという。つまり簡単なプレイログらしい。うわ、ちょっと恥ずかしいかも。
「戦闘時の杖の装備率98%、魔法の成功率87,3%、魔法の平均詠唱時間34,6秒……」
へぇ……結構かかってるな詠唱。一番短い呪文なら大体十秒かかるかどうかくらいで詠唱が終わるから、その平均時間はちょっと想定外かも。
長い呪文もそれなりに増えてきたからか、実戦では時々呪文の待機時間をとって放つ魔法のタイミングの調整をしているからか。どっちもかな。
魔道書は最初の日にミストと試しに外に出た時と、新しい魔法を憶えるための練習室での使用以外ではもう長い事使っていないからそんなものだろう。
魔法の成功率は思っていたよりも高いような気もしないでもない。意図的に魔法を止めて変更する場合もあることを考えると結構いい方かも。
しかしそんなことまでちゃんとログに残っているとは、すごいなぁ。
グレンダさんは金属板に載った情報をざっと上から下まで確かめると納得したように一つ頷き、またこちらに顔を向けた。
「どうやらウォレスさんの資格は充分なようです」
「本当ですか? それは良かった」
どうやら私は無事に口述筆記を教えてもらえるらしい。ああ、良かった。
私の様子にグレンダさんがくすりと一つ笑う。
あー、きっとあからさまにほっとした顔だったんだろうな。
「では、改めて編纂者の技の継承ですが……」
「はい」
「……ですが、その前に」
ん? その前に?
「私と、勝負といきましょう」
「……はい?」
年経てなお美しい彼女は、にっこりとものすごく楽しそうに微笑んでもやはり美しかった。
……でもなんかちょっと怖いです。