「――っ!」
立ち止まった私の目の前で、消えた青年の姿の代わりに草の上に光が一つポゥっと灯る。
それは十分経つか、彼が蘇生ポイントに戻る事を選択するまでそこに留まる、ミストだったもの。
間に合わなかった、という思いが胸を浸した。
プレイヤーの蘇生は今のところアイテム以外に方法はないと言われており、そのアイテムも稀少でひどく高価なため、仲間達に持ち合わせはない。
誰もミストを生き返らせる事は出来ない。
これはゲームだ、と頭のどこかで冷静な自分の声がする。
ミストはちょっとしたペナルティを受けて、街の神殿に戻るだけだ。
それがわかっているはずなのに、仲間を死なせてしまったという事実が、どうしてかこんなにも重い。
さっき他のプレイヤーが消えた時には何とも思わなかったのに。
「ウォレス! ウォレス、大丈夫!?」
ミストの光を前に私が呆然としていたのは、多分そう長い間ではなかったのだろう。
私は私を呼ぶ仲間の声にハッと我に返った。
顔を上げてそれに頷くと、ユーリィはほっとしたような顔を浮かべた。
そして、またこちらに向かって声を張り上げた。
「ウォレス、転移魔法で街に戻って!」
「え?」
何を言われたのか判らず眉を寄せた私に、ヤライも叫ぶ。
「ウォレスさん、ここは俺達が引き付けますから、今のうちに! ミストさんがやられたなら、結構厳しいです! 俺達もすぐに後を追って逃げますから気にしないで下さい!」
「おじいちゃんももうHP真っ赤だよ! またさっきみたいな雑魚が寄ってこないうちに、早く!」
そう言われて視界の端を確かめれば、確かに私のHPは瀕死を示す赤ゲージだった。
草原で現れるモンスターの一種であるあのカマキリは私よりずっと高レベルなのだから、一撃食らっても生き残ったのは幸運と言っていい。
どうやら振り向こうとして体を動かしたことで、カマが肩を掠めただけですんだようだった。
もしあそこで私がやられていればミストはどうしただろう?
倒れた仲間を庇うことはしなくて済み、まだここに立っていただろうか?
ほんの些細な出来事が明暗を分けたという事実に、私はなんだか笑い出したいような気持ちに襲われた。
そして、幸運にも生き残った私は、ここで仲間を見捨てて逃げるのか?
「……冗談じゃない」
例えゲームでも、ここで諦めるのは私は嫌だ。
いや、むしろゲームだからこそ。ここでだからこそできる事がまだあるはずだ。
仲間を置いて一番に逃げるだなんて、冗談じゃない。
ミストの光はまだ私の目の前で瞬いている。恐らく心配でこの場を離れられないのだろう。
私は周囲に敵がいないことをざっと確かめると、ポーチの中に手を突っ込んで残っていた二本のMP回復薬を取り出した。
その二本の蓋を開け、立て続けにぐっと煽る。少々強すぎるミントのような香りが喉と鼻にツンときたが、それも今の私の思考をクリアにしてくれるような気がして心地よかった。
視界の端のMPゲージが見る間に回復していく。二本でほぼ満タンになるだろうからなんとかぎりぎり足りるだろう。
「ミスト……ミツ、聞こえる?」
目の前で瞬く光に声をかける。もちろん返事はないが、私は言葉を続けた。
「聞こえると思うけど、私、これから魔法を唱えるよ。それが発動すると、私は五分間、まったく動く事が出来なくなる」
逃げる気はない。そして、仲間と一緒に負ける気も、今のところはまだ。
「おまけに、三十秒に一回くらい、定期的に周りのタゲ取っちゃう困った魔法なんだよね」
そう、普通ならリスクが大きすぎるといって誰も使わないだろう、こんな魔法。
「だからさ、頼むよ、ミツ。……守ってよね」
私はMPが一杯まで回復したのを確かめ、杖を地面に着け、真っ直ぐにその場に立って蛇の方を見据えた。仲間達は全員声が届く範囲にいるのはわかっているが、一応声を張り上げる。
「皆、魔法使うから、私の声が届く範囲から出ないでね!」
「ウォレス!?」
ユーリィ達の訝しげな声には応えず、私はもう一度傍らのミストである光を見る。
「じゃあ、よろしく」
にっと笑って視線を正面に戻し、私は頭に思い浮かべた言葉を読み上げ始めた。
『始まりの庭に立つものよ、王と御手繋ぎしものよ。囁くは葉ずれの音か、歌うは枝打ち鳴らす音か』
それは呪文というよりも叙事詩のような言葉の連なりだった。
この大陸のどこかにあるという白い木を表し、讃え、謳う言葉。
かなり長いその詩を謳う私の視界に、まだ戦っている三人の姿が見える。私が逃げないため、彼らもあそこから動けないのだろう。
前衛が減ったことで、スピッツとヤライの負担は大分増えているようだった。
攻撃を受ける回数が増え、HPが多いとは言え素早くないスピッツはダメージが蓄積してきている。
ヤライはかなりのスピードで蛇の体を上手く避けているが、その分攻撃の隙をなかなか作れないでいる。ユーリィは相変わらず遊撃に徹しているが、二人の負担を少しでも減らす為、合間を見て近づく事もしているようだった。
急がなければと焦る気持ちを抑え、間違えないように幾分慎重に口を動かす。
『耳ある者はその歌声を聞くが良い。其が繋ぐは大地との絆、紡ぐは風との友愛、湛えるは水との約束、伝えるは炎との親和』
私の視界が白く光を帯びてくる。これは多分私自身が光っているのだと今は気付いている。初めてこの魔法を使った時は一体何が起こっているのかと随分焦ったものだが。
ミストが倒れてもうおよそ五分ほどだろうか。まだ彼は隣にいてくれている。
もう少し、この魔法を唱え終えるまでまだ戻らないでいてと半ば祈るように呪文を唱えた。
『歌え歌え、白き木よ。根を伸ばし、枝広げ、葉を茂らせ。響くは岩を割る音か、若枝のしなる音か、新芽の芽吹く音か』
視界の端でMPがものすごい勢いで減っている。この魔法は途中で止めたり間違えて失敗したりしてもMPを消費してしまうという欠点もあるのだ。
憶えたものの恐らく使う場面なんてないだろうと思った不自由な魔法を、今使おうとしている。
身を浸す奇妙な気分の高揚とは裏腹に、頭はどこまでも冷静だった。
どこか私の傍で、シャラシャラと軽いものをこすり合わせるような不思議に優しい音が聞こえる。魔法が、完成しかけているのだ。
さぁ、これで最後だ――
『響け、我が声。響け、我が歌。我歌うは悠久に響く、白き大樹の歌』
最後の文節を唱えた瞬間、私の足元の地面が白く輝いた。
視界を奪う白い光は徐々に強さを増し、更に枝分かれして放射状に大きく広がっていく。
微妙にうねりつつ円状に広がる光は、木の根が大地に伸び広がる様子に良く似ていた。
だがそれを見ている私はもう首を回す事も、指を動かす事も出来なくなっていた。
隣で聞こえた驚くような声と誰かが立ち上がる気配で、魔法が完全に成功した事がわかる。
白く輝く根のような光は既に蛇の足元と、その周りの仲間達の足元まで完全に届き、黄色くなっていた仲間達のHPが回復していくのが遠目にも見える。そして、蛇の目が私の方をぎょろりと向いたのも。
「何これ! ウォレス、何したの!?」
「蛇が動くよ!」
立ち尽くす私を倒すべき相手と認識した蛇がぞろりと動く。
蛇の金色の目に見据えられ、全く動けない背中に冷や汗が流れるような心地がした。
しかし、目の前に現れた背中を見た途端、不意に心が軽くなる。
蘇生したミストは盾をしっかりと構え、私を庇うように蛇の前に進み出た。
「ミスト!? 何であんた生き返ってるのよ!」
「ウォレスさんどこいったんですか!?」
「南海の魔法だ! 動けない上に周囲の敵に狙われるらしいから、南海に絶対近づけさせるな! 南海はここにいる!」
不可思議な言葉と共にミストは立ち尽くす私を後ろ手に指差した。
どうやら仲間達には私の姿がいつものようには見えていないらしい。
「りょーかいっ」
ミストの言葉にひとまずスピッツが動き、私を目指して這い寄る蛇の背に強烈な一撃を叩き付けた。
途端、蛇のHPゲージが目に見えて削り取られる。
「えっ? なんかすごく効いたよ!?」
スピッツの言葉に、まさか、と言いながらヤライも小剣を振るう。その剣が与えたダメージはスピッツの一撃よりも遥かに小さいが、確かに通用している。
「ステータスが上がってるんだわ……何その反則みたいな話……」
手元にウィンドウを開いたユーリィが呆れたようなため息を吐いた。
「ぼさっとすんな! 南海は五分動けないって言ってた! その間に片付けるぞ!」
「わかったわよ!」
蛇を私に近づけないよう散開した仲間達はそれぞれの役割を果たすべく動き始めた。
「索敵は俺がします! 雑魚が来たら知らせますから!」
「オッケー、ならそれは私が殺るわ!」
全く動く事のできない私はそれを頼もしく思いつつも、歯痒い思いを抱えて見つめていた。
この魔法を練習室で初めて使った時、動かせない体を抱えて、これはバグだろうかと真剣に焦ったものだ。
あの時はさすがの私もはっきり言って涙目だった。
魔法の効果時間が終わり、元通りに動けるようになった時には心底ほっとした。
白き木の歌――範囲内の味方の蘇生、回復、ステータスの大幅アップ、さらに二十秒ごとの一定回復と、それらの効果を五分間もたらす、始まりの木の葉の魔法。おまけにその蘇生効果はデスペナ一切なしという反則的な代物だ。
ただし、その代わりに代償となるのは、使用者の最大MPの九十五パーセントと五分間指一本動かせない完全な硬直、そして三十秒ごとに周辺の敵のターゲットを全て引き寄せるという多大なリスクだ。おまけに魔法を憶えてから読んだ説明文によると、使用者である私はHPこそ回復しているもののステータスは特に上がっていないらしい。
という事は、私はうっかり一撃食らえばすぐに死ぬという事だ。
まったく、こんな魔法を用意しておくなんて、運営の底意地の悪さに何度呆れた事か。
「雑魚が二匹きます、南東と東から!」
「オッケ!」
私を目指して走ってきた鹿に似たモンスターをユーリィの銃弾が打ち倒した。
その隙に蛇の尾がブンと振るわれ、私に当たりそうな軌道で迫る。
思わず息を呑んだがその尾の一撃はミストの盾によって防がれた。
ミストのステータスもアップしているせいか、正面から受け止めてもHPの減りは先ほどまでよりかなり少ない。
懸命に戦う仲間達を見ながら、私は練習室で初めて使った時とは明らかに違う胸の高鳴りを感じていた。
それは、一人ではないと言う事に対する喜びであるような気がした。
こんな魔法、きっと使わないだろうと憶えた時は思っていたのだ。
絶対の信頼を寄せられる仲間がいなければ、そして彼らが私を守りつつ敵と戦うという面倒を引き受けてくれるという奇特な人たちでなければ、とてもじゃないが使う気にはなれない。
下手をすれば仲間は回復したものの私は死んで、犠牲を払うのは私だけ、という羽目になるかもしれないような魔法なのだ。私だって普通の人間なのだから、そんな死に方はごめんだと思っていた。
それが今のこの状況。
ああ、幸運だな、と私は笑った。
声も出せず、顔も動かなかったけれど、私は確かに笑っていた。
この魔法を使えたことの喜びに、私の心は笑っていた。