「また何か思いついたのですかね、あの兄は・・・」
こめかみを押さえながら、青年はため息をついた。
彼の前には、一人の忍装束の者がいる。
彼宛に手紙を届けに来た、風魔の者である。
「・・・わたしも忙しいのですがね・・・」
それは当然である。
彼の肩書きは「北方・南方監査官」、「大納言」、「水軍統括」と多岐に渡る。
毎日、仕事は山積みであり、今も姫路に新たに築かれた港を見回り、様々な部署に指示を出しているところである。
そこに、兄である秀次から呼び出しである。
これから仕事を放り出してすぐに大坂に帰らないと行けない、というだけで気分が滅入ってきた。
「・・・なるべくお急ぎくださいとの仰せです」
風魔の者が急かす。
この使者は恐らく兄から直々に手紙を渡されてそう言われたのだろう。
風魔は豊臣家、というより秀次個人に絶対的な忠誠を誓っている。
その忠誠対象本人から出された指示は、この者にとって何よりも重いものだろう。
「支度をします。しかし、来て三日で戻ることになるとはね」
もう一度ため息をつく。
(何を考え付いたんでしょうね、兄は)
豊臣秀勝、後の世に「豊臣四兄弟」として伝えられる、豊臣家の次男。
主に治水、開墾、土木で功績が多くあった、と言われているが、それは蝦夷・琉球・台湾の開拓事業の責任者であったからであろう。
日本の北と南。その双方の開発を統括する責任者として、彼が水軍統括になったのは自然の流れであった。
最も、豊臣の軍制改革により、水軍は海路の防衛、維持等が主な任務になっており、戦闘集団としての機能は新設された海軍に移行していた。
後の日本海軍の基礎となる豊臣海軍は既にその姿を現しており、この頃から旗艦は津島級である。
現在の海軍将は小早川隆景。津島級19隻を中心とした、機動艦隊とも言える海軍を運用している。
秀勝の水軍は津島級のような巨大船はなく、小型・中型船で構成されている。
海路の要衝に支部を置き、海賊対策や海上での商船の揉め事の仲裁、難破した船の捜索・救助などに当たっている。
話が逸れた。
多くの部下に指示を出し、北方の伊達政宗や南方の島津・大友から挙がってくる報告を読み。
瀬戸内海の海路を整備するために様々な島に一時寄港可能な港を作り。
どこかで海賊が出たと聞けばそこに水軍を増派し、念のため海軍の一部も持っていく。
面倒な仕事はまさに山のようにある。
そして、時々届く兄からの呼び出し。
(たぶん、秀秋と秀頼にも呼び出しが届いているだろうが・・・)
京に住んでいる秀頼と大和に住んでいる秀秋はいいとして、本国が尾張であり、立場上様々な場所に行く彼はこの呼び出しがいつもこんな
タイミングで届くことにげんなりしていた。
(大坂にいる時に思いついてくれ)
何度そう思ったか・・・。
大体、兄が何かを思いついて弟を呼び出すのは、私的なことが多い。
つまり、豊臣家のことであり、天下国家のことではない。
天下国家のことなら、大坂にいる腹心たちと相談するだろうし、何より兄が自分で判断するだろう。
(とにかく、行くか)
待たせることになるが、それは私が姫路視察中に呼び戻すほうが悪い。
ついでに大坂で旧知の者達と会い、妻と子供にも会おう。
最近働きすぎていたところだ。少し休暇を貰うことにしよう・・・。
なんだかんだ言いながら、秀勝は秀次が何を思いついたのか、楽しみに大坂へと戻る。
豊臣秀勝。豊臣の四兄弟の中で、最も冷静かつ常識家であり皮肉屋でもあった。
彼の最も大事な役目は「兄への皮肉」だったと後に彼自身が語っていたという・・・。
豊臣秀勝(とよとみの ひでかつ/とよとみ ひでかつ)は戦国時代(室町時代後期)から安土・豊臣時代にかけての武将・戦国大名。「豊臣秀次」の読み方についての議論に関しては「豊臣氏」を参照。
概要
尾張国愛知郡中村の百姓として生まれ、兄である豊臣秀次によって引き立てられ、次第に国政に関わっていく。
主に蝦夷(現在の北海道)や南方(現在の沖縄・台湾)の開発に尽力したと言われる。
現在の海上保安庁の前身である国家水軍の初代総統でもあった。
半生
兄を補佐する役目として、豊臣秀吉によって秀次の配下に加えられたという。
秀次から多くのことを学び、官僚機構を大過なく運営していた。
全国の港を整備し、海路の要衝に水軍駐留の拠点となる港を建造している。
本人は船に乗ることは少なかったようだ。
領地として尾張を秀次から譲り受けており、居城は清洲城であった(最も大坂城にいることのほうが遥かに多かったようである)
人物
・秀次に遠慮なく意見を言える人物であり、時には厳しい意見も言ったようである。
・冷静沈着な人物であったとの評が同世代人に多い。
・妻は茶々の妹である江姫。夫婦仲は非常に良好であったという。
・江姫以外に側室などはいなかった。豊臣四兄弟はその義父とこの点で比較されることが多い。
辞世の句
伝わっていない。
一説には、死因が脳出血であり辞世の句を読む暇がなかったとも言われている。
あとがき
秀勝は地味過ぎるな・・・書くことないわw
彼はまっとうに官僚機構を統率しながら、秀次を補佐していったと思います。