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No.4384の一覧
[0] 腕白関白(完結)[そる](2012/02/28 05:16)
[1] 腕白関白~賤ヶ岳前哨戦~[そる](2008/10/08 23:23)
[2] 腕白関白~賤ヶ岳本戦~[そる](2008/10/09 19:43)
[3] 腕白関白~旗を折れ~[そる](2008/10/09 21:07)
[4] 腕白関白~閑話休題~[そる](2008/10/10 21:47)
[5] 腕白関白~大坂城~[そる](2008/10/13 03:32)
[6] 腕白関白~小牧・長久手の戦い~[そる](2008/10/15 20:31)
[7] 腕白関白~来国俊対蜻蛉切~[そる](2008/10/17 00:46)
[8] 腕白関白~小牧・長久手始末記~[そる](2008/10/17 20:22)
[9] 腕白関白~四国征伐と論功行賞~[そる](2008/10/18 06:22)
[10] 腕白関白~九州征伐準備~[そる](2008/10/19 05:56)
[11] 腕白関白~九州征伐~[そる](2008/10/21 21:09)
[12] 腕白関白~閑話休題その弐~[そる](2008/10/21 23:53)
[13] 腕白関白~内政と婚姻~[そる](2008/10/22 21:57)
[14] 腕白関白~小田原征伐準備~[そる](2008/10/23 21:27)
[15] 腕白関白~小田原包囲~[そる](2008/10/24 22:24)
[16] 腕白関白~風魔調略と奥羽の竜~[そる](2008/10/25 17:25)
[17] 腕白関白~小田原包囲中盤戦~[そる](2008/10/26 17:57)
[18] 腕白関白~忍城攻略戦~[そる](2008/10/27 21:40)
[19] 腕白関白~関東始末~[そる](2008/10/28 20:22)
[20] 腕白関白~側室~[そる](2008/10/29 21:13)
[21] 腕白関白~閑話休題その参~[そる](2008/10/30 20:01)
[22] 腕白関白~関白~[そる](2008/11/02 02:43)
[23] 腕白関白~朝鮮出兵準備~[そる](2008/11/02 02:42)
[24] 腕白関白~文禄の役~[そる](2008/11/03 04:24)
[25] 腕白関白~運命の子~[そる](2008/11/04 20:04)
[26] 腕白関白~それぞれの策動~[そる](2008/11/05 19:35)
[27] 腕白関白~夢のまた夢~[そる](2008/11/06 19:35)
[28] 腕白関白~忠義の形~[そる](2008/11/07 19:16)
[29] 腕白関白~翻る弔いの旗~[そる](2008/11/08 21:24)
[30] 腕白関白~断罪の時~[そる](2008/11/09 05:53)
[31] 腕白関白~遠き時代の果て~[そる](2008/11/10 01:25)
[32] 腕白関白~あとがきに候~[そる](2008/11/10 01:27)
[33] 腕白関白~蛇足の外伝~[そる](2008/11/10 21:49)
[34] 腕白関白~現代Wiki風豊臣秀次~[そる](2008/11/13 22:10)
[35] 腕白関白~外伝:立花~[そる](2008/11/30 06:38)
[36] 腕白関白~外伝:未来への贈り物~[そる](2008/12/09 22:44)
[37] 外伝~豊臣家模様1:秀勝~[そる](2011/12/25 04:05)
[38] 外伝~豊臣家模様2:秀秋~[そる](2011/12/25 04:05)
[39] 外伝~豊臣家模様3・秀頼~[そる](2013/04/30 05:46)
[40] 外伝~豊臣家模様4・稲姫~[そる](2013/04/30 05:46)
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[4384] 腕白関白~現代Wiki風豊臣秀次~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/11/13 22:10
豐臣 秀次(とよとみ の ひでつぐ/とよとみ ひでつぐ)/羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代(室町時代後期)から安土・豊臣時代にかけての武将・戦国大名。「豊臣秀次」の読み方についての議論に関しては「豊臣氏」を参照。

概要
尾張国愛知郡中村の百姓として生まれ、叔父である豊臣秀吉に引き立てられ次第に頭角を現す。秀吉死後、茶々・大野治長を排して天下人となる。
長久手の戦い、忍城爆破戦など叔父の秀吉と同じく機知に富んだ逸話が伝わり、「農民の子」が天下を握った秀吉以上の出世頭と言われる。
日本で始めてガレオン級船舶を建造した人物としても有名であり、その政治力の高さから史上最も稀有なる政治才能を持つ武将と呼ばれている。

出自
尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓の子として生まれる。生誕は1568年と言われる。織田信長政権下で宮部継潤に養子として送り込まれる。その後、信長の四国征伐において秀吉の影響力を強めるために三好康長に養子として送り込まれた。この頃から才気の片鱗を見せていたと言われ、宮部・三好ともに秀次の才気を賞賛する手紙を秀吉に送っている。
生母である秀吉の姉、瑞竜院日秀の日記によると彼が宮部継潤の元へ行くとき、まるで遊びに行く程度の気軽さだったと書かれている。
秀吉が天下を取るに従って、彼の数少ない親族として重宝されていく。

前半生
1583年の賤ヶ岳の戦いに参戦して武功を挙げたと言われるが、同時代の文書には彼の手柄は出てこない。賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた者達の記録にも秀次の名はでていないが、少なくとも参加していたことは確かなようである。
1584年、小牧・長久手の戦いに参加。世に名高い「長久手の戦い」で鉄砲の一点集中砲火の後に騎馬を突撃させるという戦術により、当時東海一の弓取りとして有名だった徳川家康に勝利。一躍その名を天下に轟かせる。この新戦術とも言える戦い方は、秀次の案とも腹心の舞兵庫の案とも言われている。
家康を破った後は秀吉本隊が織田信雄の領地を攻略している間に紀州雑賀や佐々成益の攻略に手腕を振るった。同時期、大坂に秀長があったことから彼の補佐として手腕を振るったのであろうと推測される。
その後、四国征伐では姫路で後詰めを担当し、兵站業務についていた。この頃にはすでに秀吉の信頼を得ていたようで、秀吉が北の政所に宛てた手紙に「秀長の体が心配なので、秀次に九州征伐をまかせようかと思う。かの者であれば軽く片付けるであろう」との文章が見受けられる。
九州征伐では配下に徳川家康、小早川隆景を従えて島津義弘を根城坂で破っている。彼の戦争の特徴として、戦の名人が陣中にいる場合、大きな権限を与えて縛りなく活躍させることにより勝利を得るとのスタンスが目立つ。この根城坂の戦いはその一例として今も士官学校で授業に取り入れられることが多い。
またこの九州征伐後に秀次の両翼と呼ばれることになる立花宗茂を家臣に迎えている。
この時期に前後して尾張・美濃・伊勢・伊賀を秀吉より拝領する。
また、九州征伐後に徳川家康の養女である小松姫(稲姫)と結婚している。
小田原征伐にも参加し、山中城を一日で落とし風魔小太郎を調略するなど武功を挙げている。
(※忍城を攻略するさいに大量の火薬を使い城壁を爆破したとあるが後世の創作の可能性が高い)
小田原征伐後、側室に甲斐姫と駒姫を迎えている。
また秀吉の命により奥州仕置において改易されるはずだった大名を蝦夷開発に向かわせる。これにより蝦夷・樺太まで開発されることになる。
その後の文禄の役では後方担当として活躍。彼が製造を命じたガレオン級船舶が大いに活躍している。

秀吉死後
主君であり叔父である豊臣秀吉の死後は実質的に豊臣家の権力を握る。これは当初後継ぎとされていた秀頼が幼かったこと、実力・名声ともにぬきんでた存在だったことによる。
当初は秀吉は秀次を後継ぎにしようと思ったが、秀次が甥であることを理由に固辞したと記録されている。(前田家文書、秀吉から大政所への手紙等)
秀頼の後見人として大過なく天下を治めていたが、やがて秀頼の生母である淀君(茶々)と対立が深まっていく。
文禄五年、淀君と大蔵局、その息子の大野治長によって石田三成が自刃(大坂の変)、奉行筆頭であり忠臣であった三成の死を知った秀次は激怒。
全国の大名に檄文を飛ばして大坂城を囲み、大野治長は島左近によって討ち取られた。また、淀君と大蔵局は斬首となっている。
この時の檄文には「大坂に来なかった大名は全て自分が打ち滅ぼすであろう」と彼らしからぬ激しい一文が乗っており、彼の激怒が思われる。
このとき、大坂に集った兵は50万人。当然日本史上最大の動員であった。(大坂の陣)
これ以後、彼は関白として実際の天下人となり、以後豊臣政権が続いていく。

晩年
豊臣家記録によると84歳で死去。その亡骸は出身地である尾張に葬られた。
天皇より神号を送られるはずであったが、生前に辞退している。
政権はすでに嫡男である秀春からその子秀正に移っており、彼は太閤でもなく隠居の身であった。(朝廷から準親王という位を贈られておりこの位は秀次以外に用いられたことはない)

政治面・内政面での功績
・徳政令を廃止し、商人を保護した。今でも彼が寄進して増築した津島神社は商業の神として有名である。
・自領の足軽に遺族年金を払っていたことで知られている。
・ガレオン船の建造でも有名であり、彼の関白就任中に合計124隻作られている。
・全国の金山・銀山開発を進め巨大な財を成した人物としても知られる。国内の産業の活性化に力を注いでおり、当時の日本は世界でも有数の裕福な国となった。
・ルイス・フロイスは本国に「日本は巨大な財力と巨大な武力を持っており、海軍力も充実している」と書き送っている。
・国軍の設立と同時に士官学校を設立した。初期の講師は名前が確認される者で舞兵庫・立花宗茂・本多忠勝・細川藤孝・黒田孝高・大谷吉継・直江兼続・島左近などがいたようだ。
・官僚育成機関(石田塾)も設立しており、講師に増田長盛・長束正家・田中吉政などがいる。
・士官学校設立より十年後、海軍部門を新たに設立。講師に脇坂安治・毛利秀包などがいる。

外交面での功績
・清のヌルハチと文禄の役の頃から接触して支援しており、清が朝鮮・中国を統一する大きな役割を果たしている。
・ヌルハチとは当初は密貿易だったが、ヌルハチが釜山を抑えてからは大いに貿易で潤った。
・文禄の役より三十五年、清帝国が起こってからはさらに貿易を大々的に行っている。またヌルハチの子ホンタイジにガレオン船四隻を贈っている。
・南蛮貿易を広く行い、使節団を幾度か欧州へ送っている。

美術面での功績
・本人は目利きや美術品への造詣があまりなかったようである。しかし、秀次の命により作られた多くの美術品や目録は現代でも評価が非常に高い。
・名物・名刀・名器を目録にし全ての項目に当代の目利き達による解説を加えた「名目録」は多くの写しが作られて現存している。
・狩野派が十三年の歳月をかけて完成させた大屏風(全長25メートル)は当時の傑作として名高い。今は総理官邸に安置されている。
・古田織部・本阿弥光悦・長谷川等伯・小堀政一などを集めて京都に制作された「静月庵」は国宝。
・現在の軽井沢地方に別荘を持っていた。これも小堀政一の作品である。
・天下三肩衝を全て天皇家へと寄進した。

人柄・逸話など
・部下や臣下に対して常に気さくで親しみやすい人だったようである。
・領民や商人から絶大な支持を受けており、今でも商売の神として崇める地方がある。
・正室と側室二人との仲は生涯良かったようで、三人以外の女性とは関係を持たなかったという。
・上記のことからよく叔父の秀吉と比較される。
・刀や槍・鉄砲術などは全て並以下だったと腹心の可児才蔵が書き残している。もちろん、総大将である彼にそんなものが必要なかったのは確かである。
・仕事がしたくなくてわがままを言って部下に殴られたとの逸話が残っているが噂話程度のことなので史実とは言いがたい。
・死ぬ前に六畳間二階分の金塊を大坂に置き、「今から218年後(つまり1870年)に使え」と謎の遺言を残している。この遺言は豊臣家の公式文書として現存しており当時の天皇の署名が入って いる。

辞世の句
 霞み行く
  遠き時代の
   果てに来て
 ひとすじの夢
  なにわともあれ

「遠き時代」その果てに来たとはどういう意味なのか、今でも盛んに研究が行われている。












つ、疲れたw

というわけで現代Wiki風豊臣秀次です。
調子に乗って書くとかいうからw

たくさんの感想ありがとうございます。感想千越えるってw
初投稿ながら楽しんで頂けたのなら、腕白関白の作者としてこれに勝る喜びはありません。


感想欄で「二次創作を書きたい」と仰ってくださる方がいましたので、楽しみにしております。
え、お前も書けって?
んー、次も憑依物を書くとは思いますが(好きなので)歴史者はもういいかなw
たぶんですが・・・・
メタルサーガ~砂塵の鎖~
ACE COMBAT シリーズ
のどっちかになると思います。どっちもファン数が微妙そうですがw

では、またそのうちお会いしましょう・・・何回言ってるんだ、これw


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