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ヨードチンキ。ここにある、これです。
擦り傷、斬られ傷、銃創。骨まで見えてるとか、出血が多量でなければ、とりあえずこれを塗っておく。常識ですね。
このヨードの原料となるのがケルプ。カジメという海藻から採れます。
カジメを天日干しして、よく乾燥させる。低温で夜通し焼いて、灰にする。この灰が、ケルプです。
日清戦争の頃には、日本中の浜辺で、漁師さん達が毎昼毎夜、ケルプを作っていたそうです。前線で大量に必要とされてましたから。
漁師の元締めは、これをまとめて商社へ売り、儲けて大きくなっていきます。
やがて、自分たちで精製加工までするようになる。
ケルプは精製することで、ヨードのほかに塩化加里・硫酸加里・食塩が分離できます。
加里は火薬の原料になりますから、これも売ってさらに儲かる。
この頃、ケルプ事業で頭角を現したのが、神奈川の逗子を地盤とする、鈴木三郎助さんでした。
お父さんである、初代三郎助さんを9歳のときにチブスで亡くされて家督を継ぎ、奉公を経て実家へ戻ってから、やり手のお母様が始めていたケルプづくりを軌道に乗せ、同業者を束ねて組合を作りスコットランドの貿易会社と争ったりもした豪傑です。
二代目三郎助さんは、日露戦争が始まった年に、麻布の製造所まで買収して手に入れ、軍へどんどん原料を納入するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いで事業を広げていきます。
翌年には日本化学工業株式会社までつくるに至り、精製より更に先の仕事まで自分たちでやり始めます。
おなじ頃、日露戦争の需要を背景に、千葉の房総半島で総房水産という会社を起ち上げたのが、森家です。
森ノブテルさんは創業者の息子さんですが、地元で気の荒い漁師さん達を束ねられたのはノブテルさんだったからこそ、とも言われており、会社を仕切っていたのも実質ノブテルさんだったという話です。
当時、総房水産の最大の納品先は、日本化学工業でした。
また、三郎助氏は大倉財閥から社長を迎えている日本化学工業とは別に、家業のほうも鈴木製薬所として続けており、そちらも総房水産の取引先だったそうです。
なので森にとって鈴木は大先輩でありお得意様でもあったので、商売がたきでもありましたが、力関係は歴然で、決して頭の上がらない存在でした。
とはいえ三郎助さんにとってノブテルさんは、自分と同じくらい頑固者で、交渉術と人心掌握術に長けている、見込みのある存在だったのでしょう。しょっちゅう呼び出しては、あれこれ注文をつけ、ノブテルさんがそれに応えてみせるのを楽しんでいたとか。
そんな関係を何年も続けたようです。
さて、野心家の三郎助氏は、化学工業による次の新展開を目指します。
塩化加里から塩素酸カリをつくりだし、これでマッチ事業を始めようと目論みます。
そのためには大量の電気が必要で、ならば電力も自前で用意しようと発想します。
ここで、もうひとり、逓信省でも有名だった、長野県の変人が登場です。
高橋タモツ氏。21世紀風にいえば、水利マニア。
仕事なんだか趣味なんだか、いつも登山をしてた人ですが。頂上をめざすのではなく、地図を見ながら川に沿って歩き回り、落差はいくら水量はいくらだから、ここに発電所を作ればこれだけの出力が見込めるというのを正確に見積もって、県庁に願書を出しておくのです。
それをもとに、発電所を建設したい業者さんが、算盤をはじくわけですね。
県庁嘱託みたいな立場ですからそれで幾らもらう、と直接はできませんが、業者から株を融資してもらって、きっちり儲けもとると。
そんな堅実なんだか山師なのかよくわからないことを三十年くらい続けてきた人です。
タモツ氏は、そろそろ定年だし、千曲川のスケッチはほぼやり尽くしたからと、株を持っている長野電燈の技師におさまります。そこへ三郎助氏が、芝浦製作所の常務さんと一緒に現れます。
全国の中小発電所の機械は、外国製でなければほとんど芝浦製作所が作ってましたから、この人からタモツ氏を紹介されたのでしょう。
ほどなく話はまとまり、三郎助氏は長野電燈を買い取って、東信電気株式会社を設立しました。約十年前のことです。
欧州大戦が終わり、増産に増産を重ねていたケルプ業界が、一転して不況の波にさらわれました。
手広くやっていた三郎助氏はなんとか持ちこたえましたが、総房水産はひとたまりもありません。
ノブテル氏は、三郎助氏へ援助を乞いにいきます。
大勢の取引先が三郎助氏をすがって来ている中で、好景気だった最中でも総房水産だけは値上げを一切申し出たことがなかったから、という理由で、その分の差額だよと三郎助氏は即、十万円を提供したそうです。
ひとまず借金を清算したところで、ノブテル氏は、総房水産を東信電気に吸収合併してもらえないかと相談します。
この先商品が売れる見込みもないし、いずれ倒産すれば総房の株は紙切れになってしまう。株主や従業員の命さえ救えれば、自分と幹部たちはこの先、どこまでも鈴木家のために尽くしますと。相当な決意だったようですね。
東信電気は株式会社とはいえ三郎助氏の個人事業みたいなものですから鈴木家の一存で決められるのですが、これには親族からの反発も大きかったようです。虫が良すぎやしませんかと。
それで三郎助氏は、親族からも一目置かれていた高橋タモツ氏を総房へ派遣して、財務調査をさせます。
売却額は75万円ほどだったと思いますが、それだけの価値があるかどうかを見てこいと。
タモツ氏は、徹底調査のうえ、太鼓判を押します。
経理は誠実かつ完璧で、放漫経営の疑い無し。
大戦の終熄時期を予見できなかっただけが原因で、人も工場も完全に機能しておりますから、まだまだ稼げるし成長の見込みもじゅうぶんありますと。
これを根拠に三郎助氏は周囲を説得。
総房水産は東信電気の水産部門として組み込まれ、ノブテル氏と幹部連は東信電気の社員となります。
四天王と呼ばれた幹部連は東信電気の中でも粉骨砕身し、社内での評価およびノブテル氏の価値をも高めたと聞きます。
ノブテル氏は半年ほど、三郎助氏の下で丁稚扱いでしたが、その真面目さを認められ、長野への派遣命令が下されました。
長野県では東信電気が小さな発電所をいくつか新設しようとしてましたが、土地の買収交渉が難航しており、代打を任された格好です。
ノブテル氏はもちろん電気についてはまったくの素人だったはずです。
ところがです。
ここからは詳細を知っている人が古巣にもいないので、結果だけ言いますと。
ノブテル氏の派遣から一年後には、発電所が完成します。完成、ですよ。
買収交渉すらまとまっていないところから引き継いだのに、です。
普通に考えて、ありえないことです。
その翌年には、計画中だった四つの発電所をすべて完成させ、これらは後にまとめて東京電燈へ売却されました。
ノブテル氏は引き続いて、今度は長野県中域の高瀬川に派遣され、五つの発電所を次々と完成させます。
昨年までで五つですから、まだ建設中の発電所もあるかもしれません。
これら東信電気発電所の総出力は、四万キロワットに及びます。
東信はこの電気を東京電燈に売って、現在、莫大な利益を上げているわけです。
さらに、です。
森ノブテル氏は、一昨年、衆議院議員に当選して、今は政治も味方につけているんです。というか、自分がそれをやっているわけですね。うちの社長より、何倍も上をいってますよ。
どうですか。面白いでしょう。
なんとか、電気をわけてもらえたら、なんて、つい、考えちゃいますよね。