大地から湧き出た湯の熱を帯びた木々の香り。透明な源泉の湯気が立ち込める安らぎの空間。
加工された木材で建設、整備されたここは、人間が作った屋内浴場だ。
そして大人数が入浴すると想定された大きな風呂の中で、本日二度目の入浴を堪能する聖人少女、ユウがいた。
「気持ちいい~。運動後の温泉は最高だねぇ」
湯手を乗せた頭の後ろに両腕を回して、しみじみと呟く。
(日に二度も湯あみするなんてね。これもシーナがこの村自慢の温泉付き宿屋の店主の娘だったからこそだ。人助けもしてみるものだなぁ)
心中では善行だけではなく見返りにも満足し、にんまりと笑うユウ。
天窓から差し込む夕日をみながらほっと一息つく。
(そろそろ野宿も飽きた頃だし、ふかふかベッドにも入りたかったからいいタイミングだったね)
彼女はシーナが住む村への招待を受け、彼女の父親からも娘を救ってもらったことを感謝され、シーナの希望もあり父親が経営する温泉宿へ一晩無料で泊まることになったのだ。
(満足満足――お、他のお客さんが入ってきた)
緩む口元。浮かれるユウは自身の反対側へもう一人湯に浸かったことへ気が付いた。
(えぇ!? めっちゃ綺麗な人じゃんか)
その女性は、まごうことなき美人だった。
紫水晶のような切れ長の瞳と流れる絹糸を思わせる黒髪に、黄金比を満たす顔。透き通るまでに白い美肌を朱色に染めたその色香。同姓であるユウも目が奪われた。
しかし――
(あんな顔に生まれたなら人生楽しいだろな……おぉ!? まさか、あの人の右腕のアレって!?)
美しい容姿への感心が、彼女が右腕につけているある物への関心に変わり、ユウの視線が鋭くなった。
(腕輪だけど、あの模様は……間違いない、聖遺物だッ)
自身が所有する聖遺物と同様の文様に違いなかったのだ。
(あの人も聖人なのか。でもこんな外れの田舎村にいるってことは、この国の国境警備の兵士……いや、野良傭兵の可能性もある)
まじまじと黒髪の女性を見ながら考察するユウ。
そして彼女は気づく。
「それかあたしみたいに一人旅を……ハッ」
お互いの視線が交錯していることに。
(てかあっちもわたしのこと見てるじゃん!?)
訝し気な視線を向けられ、挙動不審なまでに首を曲げる赤髪少女。
そして口笛を吹くという暴挙まで成してしまう。
(どうしよう!? まさかここで戦うことは――げ、スピカがない。部屋に置き忘れてきちゃった!)
頭をかきむしる。
所有愛用している透明な得物は、宿屋二階の自身が宿泊する部屋のベッドの下に隠したまま持って来なかったのだ。
まさか同様に聖遺物を持つ者と旅先の温泉で遭遇するとは思わなかったのだから。
(ってもう上がるのか!? こっちに来るじゃん)
心身共に癒されるはずの空間で、極限まで緊張してしまう。
ユウはどうやり過ごすべきか迷ったが、顔を伏せて黒髪の女性が通り過ぎるのを待つとした。
「…………」
小柄な十代の少女の過度な憂いなど知らない黒髪の女性は、グラマラスな体を隠すことなく堂々と去っていった。
「ほっ。何も起きなくて良きだ。それにしてもあの子――」
不安が解消して顔を上げたユウだが、
「大きかったなぁ。こっちが自信なくしちゃう程に」
自身の慎ましやかな胸に手を当てながら、先の女性の惜しげもなく晒された豊かな乳房を思い出して、ため息を吐く。
そこへ湯の温度を確認しに来たシーナが、ユウに声を掛けるが――
「ユウ様、湯加減は……ユウ様!? 大丈夫ですか!」
現実逃避に湯へ潜ろうとするユウをのぼせて溺れたと勘違いし、駆け寄った。
「あ、シーナか。大丈夫だよ、ちょっと考え事をしてただけさ」
顔を出して笑みを見せる貧乳少女。
シーナはそれでも心配そうにユウを見つめる。
「そうでしたか。気分でも優れないのかと」
「いやいやそんなことない。ここの温泉も最高だよッ」
首をぶんぶんと振り、加えて嬉しそうな声色を作るユウ。
そんな彼女の反応を見て、シーナは心配が杞憂だったと胸を撫でおろす。
「なら良かったです。私、ユウ様の具合が悪くなったと勘違いをして」
「あははは。ねぇ、ちょっと……聞きたいことがあるんだけど」
「はい?」
ユウが浴槽から身を乗り出してシーナへ耳打ちする。
赤髪少女の心中は、黒髪の聖人女性への興味で埋まっていた。
「あの、さっきすれ違った人のことなんだけどさ。おっぱいが大きくて綺麗な、あの」
自身の控えめな胸元を、両手で大きく包むようにして豊かな乳房を再現するユウへ、
「あー! 確かに大きかった、あの聖人様ですか」
シーナが顔を赤らめて納得する。
ユウはその女性の容姿を再度脳裏に浮かべ、見たままの印象を語った。
「うん。不思議な雰囲気を持った人だなぁって。まるでこの世のものと思えないくらい」
「ですよね、とても綺麗なお方です。結構前から滞在されてるんですよ」
「そうなんだ。でも何でだろうね」
ユウの疑問にシーナが答える。
「それが、湯治のためこの村に立ち寄っているそうです」
「成程……ってことは、野良の傭兵かな」
う~んと唸り何かを考えているユウへ、シーナが悲壮感漂う面持ちで語った。
「随分前からこの辺りも物騒になってしまって。以前は湯治場としてそこそこ栄えていたこの村も、客足が遠のきました。実は村の長老がその方に村の警護を何度もお願いしたのですが、断られ続けていたんです」
村の現状と神秘的な女性との繋がりを明かされたユウが、
「成程ね。聖人が用心棒になってくれると心強いだろうね。でも彼女は、多分どこの国にも村にも属さないフリーの傭兵だと思う」
見解を述べる。
彼女の高潔な雰囲気の第一印象から見えた決めつけではあるが。
「やはりそうでしょうか。それであてがなくなって王都へ騎士団の方に警護を頼めないかと使者を出したのですが、ずっと帰ってこないままで」
嘆息を漏らし項垂れるシーナ。
ユウまでも悲しい気分になるが、冷静に考察する。
(ガルナン王国は傭兵団の団長上がりの新興気鋭の聖人王が治めると聞く。以前この地を支配していた傲慢な一族を根絶やしにして、理想の国を建国すると宣言した話は聞いてたけど、まだ地に足がついてないのか、外れの村までは気にかけられないんだろうか)
聖人となった者が同じ志を持つ者達と組み、または財力を持った者が専属の傭兵として聖人を雇い聖人を有さない国を攻め滅ぼし、新たな国を建国する話はもはや珍しくない。
普通の人間を武神へ変える聖遺物によって幾度となく繰り返されられてきた歴史であるが、このガルナン王国を治める者はその強さが段違いであるともユウは聞いていた。
同様の存在である彼女も大いなる力には責任が伴うと、幼い頃から聞かされてきた言葉を思い出し、感慨深く夕焼けから夜空に変わった天窓を見つめた。
そんな彼女を見て、しまったと慌てるシーナ。
客人の気分を沈めてしまったと思い、すぐさま話題を変えた。
「あ、そういえば! ユウ様はなぜガルナン国領内とはいえど、こんな辺境の地に?」
率直な疑問だった。
浴槽から出て腰掛けたユウは、あっけらかんとした調子で答えた。
「あたしさ、お隣のデューン王国から来たんだ。これでも王国騎士団に所属してるんだよね」
「ユウさんがデューン王国騎士!?」
素っ頓狂な声を出して驚き後ずさるシーナ。
当然の反応だった。この国とは同盟関係ではない。むしろ対立関係にある国の兵が目の前にいるのだから。
彼女はそれから不可解な面持ちでユウを眺めるが、聖人少女はシーナを安心させようと、両手を振って否定する。
「心配しないで。別に諜報活動しにきたワケじゃないから」
「では、どうして?」
重ね尋ねられたユウは「それがね」と恥ずかしそうに頬をかくと、どこか遠くを見るような目をして明かした。
「実はあたし、家出中なんだよ」
「家出、ですか」
「うん。出る前の話だけどさ、あたしの父さん、騎士団の偉い人で聖人でもあったんだけど歳も歳だからって娘のあたしに聖遺物を継承したんだ。その時あたしはすでに騎士団へ入ってたけど、父さん直々の訓練があまりにもキツくて耐えれなくなって、それでね」
「なんと……そうだったのですか」
理由を知り納得したものの、言葉に詰まるシーナ。
恩人であるユウが諜報員であるハズもなくてほっとしたが、軍事的抑止力といった兵器同然の扱いを受けることにもなる聖人となった者の苦悩はわからない。
ユウは故郷を思い出しながら、独り言のように語り続ける。
「父さんどころか騎士団、王様も騒いでるだろうなぁ。貴重な聖人がいなくなっちゃったんだから……けど、流石にもう帰ろうか。ここら辺はシーナの言う通り物騒だし、やっぱ聖人は歩いてるだけで騒がれるしね。何より皆心配してるだろうし」
やれやれといった感じで溜息混じりに笑いながら立ち上がるユウ。
前を湯手を隠した彼女はシーナへ振り返ると、丁寧に礼を言った。
「そろそろ上がるよ。ありがとね、ただで泊まらせてくれて」
「そんな! 礼をするのはこちらの方です。助けてくれて本当にありがとうございました」
心からなる感謝の意を述べ、深々と頭を下げるシーナ。
「ゆっくりとお休みなさいませ」
そんな彼女に手を振ってユウは浴場から出た。
そして簡素な脱衣場で着替え始めた赤髪少女は、同じ聖人だった黒髪美女の顔をもう一度思い返していた。
覚えがあったのだ。この大陸に生きる者ならば、一度は聞いたことのある話へ出てくる当人の顔に。
(してもあの人の見た目、もしかして――いや、まさかね)
そんなはずはないと心中で軽く否定したユウは欠伸をしながら、今夜はぐっすりと寝て休息しようと心に決め、脱衣場を後にした。