「さーて、余興はこれで終わりだ。全員、鍛錬に戻れ」
ヤスケールは手を叩き、部下の騎士達に各々の鍛錬再開を促した。
全員規律よく散らばっていく。
続けて立ちあがったアンジェに、難しい顔である質問を投げかけた。
「してもアンジェ、王女様は今日も私室に入りっきりなのか? 執務をほぼお前らに任せきりで」
彼だけでなくアンジェにとっても懸念すべき事柄だ。
女王補佐官はその問いへ不満いっぱいに肩をすくめた。
ある種の諦めすらあるようだ。
「えぇ。この時間帯はわたしや御付きすら、誰一人とて寄せ付けようとしません。王が目を通し決裁せねばならない重要な報告書も溜まっているというのに」
二人はシャバラン城の主塔最上階へ畏怖の視線を注いだ。
ここ最近、ミルン女王は昼間から夜まで私室に籠り切っているのだ。
一体何をしているというのか――理由は不明。尋ねても「時期が来ればわかります」との一点張り。二人のような側近、重臣らも近づくことすら禁止されている。
「わたしは思うのです。女王陛下は戦争すると決めたことを後悔しているのかも、と」
節目がちなアンジェが、ポツリと呟いた。
「よもやミルン女王がエレナ相手に怖気ついたと?」
ヤスケールが眉をひそめた。
アンジェが難しい顔をして頷く。
「わたしでなくヤスケール殿は直接みているはずだが……陛下はハルバーンさんがエレナに負けた瞬間、ショックのあまり気を失ったのでしょう?」
「む、その通りだ。女王陛下は敗北の瞬間、ショックのあまり気を失われた」
「確かにあの方は聖人として実力者でハルバーン様の妻に相応しい女性だった。しかし精神的に脆すぎる。未だに王が亡くなったことを受け入れていない。それがこの現状なのだとわたしは思います」
「アンジェ……」
強い口調で捲し立てた彼女は複雑な感情が混じった表情だ。
政を強引に一任された若き補佐官にヤスケールも思うところがあった。
(この子は強い。兄のように慕っていた者が亡くなった後でも、人前では決して涙を見せなかった。そしてハルバーン様に少しでも近づかんと政を学び、人一倍厳しい鍛錬に性をだしたのだ)
一年前のアンジェの様子を思い出す。
元々精神的に強かった建国王の妹分だがここにきて民の上に立つ聖人として、更に成長を遂げていたのだ。
「大切な夫を失った心中はお察しできます。それでも国をまとめる聖人である以上、もはや悲しみに暮れる時間は終わりです。そんな様子を部下や民に見せるなぞもっての他だ」
揺るぎない意志を宿した眼差しを受けたヤスケールは、アンジェがハルバーンが健在だった頃から
得体のしれない存在であるミルンに対し、よい感情を持っていないことも知っていた。
(どこから来たのかもわからない、未だ計り知れぬ聖人の女に心を奪われて寵愛してきたのだ。実の兄のように慕ってきたアンジェとしては複雑だったであろう。いずれにせよこのままミルンが長としてこの国は歩んでいく。衝突なぞしなければいいが)
懸念事項にヤスケールの胸も痛む。
(だが俺はハルバーン様がミルンを王として選んだのであれば、彼女に従うだけだ)
彼としては、ハルバーンの存在は死後も絶対的であった。
一度主として選んだからには、それが全て。それが彼の生まれた国のある地域での掟だった。
「しかしだなアンジェ。理不尽な重税を強要したり、臣下らを虐待するような王でないだけましであろう。部屋に一人篭っているのも我らとは違う視点から冷静に現状を見つめ直しているのかもしれぬぞ」
ヤスケールが遥か大空を仰ぎながら言った。
アンジェは毅然とした態度で反論する。
「そう思えませんね。正直わたしとしても今の時期からの開戦には反対です。エレナ一人に気を取られている場合ではありません。国力を回復させてからでも遅くはないはず。戦争を起こすことに悩んでいるのならば、国境付近に集めている兵を撤収させるのが先決かと」
アンジェの平手打ちするような厳しい言い方に、
「女王のはっきりとしない姿勢に俺も思うところはあるが、やはりデューンは早めに叩いた方がいい。エレナ参戦に勢いづいた奴らが逆に強襲してくる可能性も大いにありだ」
ヤスケールが身を強張らせて意見する。
エレナの凄まじき強さは、彼も近くで見ている。実際に最強と信じていたハルバーン王が打ち破られたのだから。
「ヤスケール殿は、そう思われているのか」
信頼している人物から同意をもらえず、アンジェのよく締まった口が歪み、口惜しそうな表情になる。
「一刻も早く敵討ちをしたい気持ちはミルン女王含め、同じであろう」
「勿論です。でもことを急いでは……デューンはエレナだけではありません。他にも聖人を多数従えている。ここは慎重にいくべきだと言っているのです」
建国初期勢として特にハルバーンを想っていたアンジェの意外な冷静さに、ヤスケールは彼女の武人としての成長を再度感じたが彼の性格と経験上、意見は相容れなかった。
「アンジェよ、エレナとは必ず刃を交える……仕掛けるなら今なのだ。エレナはデューンを隠れ蓑にして逃亡するかもしれん。奴の存在は大陸制覇の最大障害に変わりない、ここで決着をつけるべきだ。エレナ討伐を優先するのは女王や俺だけでなく、ハルバーン様の意向でもあるんだぞ」
「そうですか。ハルバーンさんの意向、か」
ヤスケールの意見に対しアンジェはばつが悪そうに視線をそらして、形だけ納得したように首肯した。
ハルバーンは死ぬ間際に直筆の遺言状を残した。
ミルンに政権を引き継がせ各臣下達は精一杯助力し、エレナ討伐に全力を注ぐようにと。
さしものヤスケールとてアンジェと同意見の部分もあり批判はするが結局、ハルバーン亡き後も
彼の発言に従い、人生の終焉までガルナン王国へ尽くすのみとの考えだ。
(いくらハルバーンさんが愛した人であろうがヤスケール殿が遺言に従おうが、盲目的になるのは間違っている。誰かがガツンと言ってやらないといけないのに)
苦虫を噛み潰した顔のアンジェ。
度を過ぎたヤスケールの服従心には彼の出身大陸特有の精神論があるため、アンジェは文化の違いもあり相成れなかった。
また、他の臣下達もどうしたワケかミルン支持派が圧倒的に多い。
(ハルバーン様は何故あのような不気味な女に惹かれたのだろう。人の好みは千差万別とはいうが)
本人らの前では口が裂けても言えなかったが、アンジェは心中ではずっと理解に苦しんできた。
アンジェは最初に会った頃から今に至るまでミルンは何一つ信用できなかったのだ。
いつも胡散臭い笑みを浮かべていて、どこで仕立ててもらったのか想像もつかない奇発な服を着ていることからして変わり者だ。何を考えているのかまるでわからず得体が知れない。
エレナよりもアレの方がよっぽど危険な存在だとアンジェ自身の勘が告げている。
(とにかく、今度こそわたしの意見をちゃんと伝えなければな)
次回の会議では此度計画中のデューン王国侵攻作戦は時期尚早と抗議せねばと、改めて決意した。
「ヤスケール殿、ご意見ありがとうございました。部下達も仕事に戻ってるでしょうし、そろそろわたしも執務室に戻ります。手合わせありがとうございます。またよろしくお願いします」
「そうか。お前のためになれば幸いだ。またな」
事務的に礼をして憂い顔を押し込め王城に戻ろうとした彼女は、前方から歩いてきたある人物に気がついたとたん、右膝をついて身をかがめることとなる。
ヤスケール以下騎士達も不意をつかれたようにハッと驚いた後、即座に膝ざまついた。
敬意よりも畏怖の念が強い。
ハルバーンに唯一愛された女――現ガルナン王国女王ミルンが、最近の彼女にしては珍しく真昼間に外へ出てきたのだ。
午後の光に照らされた淡い桃色の巻き髪。爛々と妖しく光る大きな瞳の周りに塗りたくった真っ黒な鉱物の粉末が、異質さを際だたせている。
厚化粧の下地となる肌は十代の少女そのものながら、本人には何十年も生きてきた熟年の女性が醸しだす色香さえ感じられる。しかし年齢不詳を自称しているために、真実を確かめる術はない。
身に纏う派手な宝飾品まみれの白いドレスは、さながら隠し切れない邪悪さを純白で誤魔化す毒蛾のようでもある。
「ごきげんよう、みなの衆。今日も精がでますねぇ、感心感心」
地に足をつけた大勢のしもべ達を満足げに見おろしたミルンは、独特の甘い声色で労いの言葉を掛けた。
「はっ。亡き建国王が女王陛下と興した愛すべき国家を守るため、当然の務めであります」
ヤスケールが凛とした声色で忠誠の返事を返す。彼が心から想っている言葉だ。
「ふふふ。頼りにしていますよ、ヤスケール。しかしながらあなたと、そしてアンジェは今からお務めを抜けてもらわなければなりません」
いきなりの意図が掴めない言葉。ヤスケールが目を見開く。
アンジェも呆然とした顔でミルンを見上げた。
「え? ど、どういうことですか?」
「ふふふ、それはですね。これから、緊急会議を始めちゃうからですよ」
豊満な胸元から取り出したけばけばしい扇子で口元を隠しながら、さらっとした口調で重要事項を告げる。
「な、緊急会議、と!?」
ヤスケールが太い声を一際大きくした。
アンジェも同様に驚き、周囲の騎士達がいよいよざわつき始める。
しかしミルンは緊急と言いながらも、余裕の笑みを絶やさない。
皆、ますます意図が読めなかった。
そんな様子を面白がるように真紅の瞳を細めるミルンが、
「えぇ。丁度あなた達は訓練している時間でしょうから、たまにはミルンから呼びにいこうと思いまして。まだ他の者には声を掛けていませんがね」
意外な行動は聖人二人を更に気味悪がせた。
アンジェは嫌な予感が脳裏を掠めながらも、ミルンの真意を早く掴み出そうと急いだ。
「滅相もないです。そのような徒労は王がとられる必要はありません。しかしながら急を要する会議とは、一体何が!?」
沈黙。空気が止まった錯覚すら感じさせられる。
皆が固唾を呑む中、ミルンは扇子を胸元に仕舞い堪えていたものを放出するかのような喜色満面の笑みを浮かべた。
「本当に、今まで待たせてすみませんでしたね。やっと決心がつきました。一週間後、デューンを攻めに参りますよ」
言い放った瞬間、騎士達の驚嘆と高揚の入り混じった声が爆発した。
ヤスケールとアンジェは女王の突然の行動に真意が読めず驚天動地の心持ちであったが、我に返り共に目を伏せた。
(丁度話していた途端に……このタイミングでいきなり心変わりするとは。しかしもう後戻りはできないぞ。今度こそ始まる。聖人を多数要する国家同士の血を血で洗う戦争が!)
ジワジワと突き刺さるような不安感がアンジェを浸食していく。
震える視線が捉えたミルンの唇が、邪悪にも思えるまで歪んでいるように見えたのが気がかりだった。