かつて、兄になるかも知れない人がいた。 その人は鉄仮面で、表情が何もなくて、無愛想だった。 まるでロボットみたいだと優希は思ったことがある。 けれど自分は常々、欲しいものがあった。 優しい姉か、頼りになる兄。 そして親から聞かされていた。 もしかしたら彼が自分の兄になるかもしれない、と。 だから優希は一人、練習していた。 「ゆうとおにいちゃん。……これはへんです」 夢が叶うかもしれない。 無理だと思っていたものが、現実になるかもしれない。 「ゆうとおにーさま。……これもちがうのです」 だから嬉しくて。 嬉しくて。 つい、叶ってもいないのに想像してしまう。 彼が兄になった時のことを。 「ゆうにい。……あれ? なんかしっくりきました」 幼い頃の淡い夢。 勉強を教えてくれる、歳上の男の子。 もう一度、夢見がちに優希は呟く。 「……ゆうにい」 いつかは呼べるかもしれない。 だからちょっとずつ、練習しよう。 照れずに言えなくなった時、あの無表情の優斗を驚かせてやるのだ。 「えへへ」 それは幼い頃に抱いた、幼い夢。 優希が描いた“もしかして”という宝石。 決して無くならない過去に存在する、泡沫となったはずの想い。 ◇ ◇ 一旦、ヴィクトスの面々は別々に過ごすようにとアガサから伝えられた。 その際、全員に頭を冷やすよう念を押すのも忘れない。 用事があると言ったアガサは姿を消し、優希は一人で周囲をぶらついた。 途中、城外が騒がしかったが特段、気にすることもない。 時間が経つことで僅かばかり落ち着いたと信じ、優希は控え室へと戻る。 しかしキャロルとライトはすでにテーブルを囲んでいて、 「あの男、ずいぶんと傲慢な振る舞いでしたのよ!」 「う、うん」 「やっぱりユキの為にも、大魔法士をやめてもらう必要があると思いますの!」 聞いた瞬間、僅かにでも落ち着いた優希の心が沸騰する。 なぜこんな話をしているのか、理解ができなかった。 いや、理解したくなかった。 「…………どう……して……」 声に反応してキャロルとライトが振り向く。 同時、優希は怒鳴り声をあげる。 「どうして……あんなことを言ったのですか!?」 見据えた先はライトとキャロル。 先ほど、優斗に『大魔法士をやめろ』と言った二人だ。 キャロルは怒鳴る優希に対して、彼女を想っているからこそ反論する。 「だってユキのご両親はあの男に――っ!」 「わたしはそんなことを頼んだ覚えはありません!!」 けれど優希は止まらない。 どうしたって言えるわけがない。 「恨んでいたけど、恨んではいけないのです! 憎んでいたけど、憎んではいけないのです! 自業自得なのですよ、私の両親が死んだのは!」 なのにまた、彼を追い詰めるのか。 今度は自分という存在が優斗を糾弾するのか。 追い詰めたのはこっちだ。 彼を本当の意味で“堕とした”のも、全部こっちの責任だ。 それなのに不必要な過去を持ちだして、一方的なまでの悪意を都合のよい解釈をして、自分という存在は再び彼を責めるのか。 「最初に殺そうとしたのは私の両親なのですよ!? だからやり返されたのに、どうして被害者面をするのですか!?」 怒鳴り散らし、ヘルムを地面に叩き付けた。 見えた顔からは、涙が溢れている。 「ユキ、少し落ち着きなさい」 と、その時だった。 アガサが部屋に戻ってきて優希のことを窘める。 「だけど……っ!」 「落ち着きなさい。そう言ったでしょう?」 優しい声音で近づき優希の頭を撫で、軽く抱きしめた。 そしてアガサはキャロルとライトを睨み付ける。 「キャロル。ライトに言わせたのは貴女ですね?」 「だってあの男は……っ!」 「だって、ではありません。ユキが望んでいないことをやるのが貴女の愛情ですか?」 優希の側に立っているからこそ、優斗のことが許せない。 それは分かっている。 けれど優希が望んでいない以上、やるべきではない。 「そしてライト、貴方もです。勇者が国に不利益をもたらそうとしてどうするのですか」 「……ご、ごめんなさい」 アガサの言葉にライトが頭を下げる。 怒られて、しゅんとしていた。 「もし言うのであれば、自分の意思をしっかりと持って言いなさい」 「……はい」 まだ幼いから難しいかもしれない。 けれど勇者であるのならば、やってほしい。 「大丈夫ですか、ユキ?」 アガサは自分の胸に抱いている女の子に優しく問い掛ける。 頭が僅かに縦へ揺れた。 「先ほど、ミヤガワ様と話しました。大魔法士を辞めろと言った我々に対して、とても真摯に問題点を話してくださり、聡明な方だと思いましたよ。ライトのことも、もう少し頑張れと仰ってくれました」 「……っ!」 ビクっと優希の身体が震えた。 怖かったのだろうと思う。 自分という存在が、彼に面倒を掛けたかもしれないことに。 「……わ、わたしのことは……何か気付いていましたか?」 「いいえ。ただ、視線が奇妙だと仰っていたのでフォローはしておきました」 「……ありがとう、アガサ」 少しほっとしたのか、声に含まれていた怯えが消える。 アガサはもう一度、優希の頭を撫でると身体を離した。 「さすがに私もミヤガワ様を前に緊張したので喉が渇いてしまいました。自分の分も含めて、取ってきてもらえますか?」 「分かったのですよ」 素直に頷いた優希は、ヘルムを拾って部屋から出て行く。 キャロルとライトが続こうとして、アガサは止めた。 「貴方達はこれから説教です」 睨み付けるように告げる。 そして部屋を出ていく優希の後ろ姿を見て、アガサは心の中で呟く。 ――よろしくお願いします、ミヤガワ様。 この後に起こる出来事は、彼女にとって大切なことだと思うから。 どうか優しい結果が起こることをアガサは切に願う。 ◇ ◇ 優希は先ほど、優斗達がいた談話室に到着すると冷たいお茶を二つ、コップに注ぐ。 自分の分にはストローをさして、ヘルムの下から上手い具合に飲んでいく。 やはり慣れない服装だからか、喉は渇くし動きづらい。 けれど、 ――宮川優斗を見ることができました。 それだけで、この格好をした甲斐がある。 恨むこともなく、憎むこともなかった。 優希にとって当然のことではあるが、いざ目の前にしても親を殺された怒りというものは沸き上がらなかった。 だから“優希の理屈”として、自分は以前ほど最低な人間ではなくなったんじゃないかと、僅かにほっとする。 「……よかったのです」 最悪な勘違いをしていた自分など、死んでしまえばいいと思った。 だから飛び降りて終わったはずの人生において、続きがあった。 二度と会うことはない人を、一方的だとしても見ることができた。 だから今は生きていて良かった、と。 そう思って僅かに笑んだ時だった。 「その格好、暑くない?」 昔とは違う、声変わりをしている声が優希の隣から届いてきた。 さっき聞いた、忘れるはずのないはとこの声。 「――っ!?」 優希は慌てて横を見る。 そして反射的に頭を触った。 ヘルムはちゃんと被っている。 ということはバレてはいないはず。 驚きで高鳴る心臓をどうにか宥めようとしながら、優希は先ほどの質問に対して首を横に振る。 目の前にいるのは妖怪のサトリみたいな人間だ。 顔はもとより、数年経った声でさえバレる可能性がある。 だからジェスチャーだけに留めた。 「そうなんだ。見た目は暑そうなんだけどね」 彼は喋らないことを気にすることなく、普通に頷いた。 けれど続けて質問をしてくる。 「年は幾つ?」 優希は言葉の代わりに、右手の人差し指と左手の人差し指、中指を立てる。 「12歳か。その歳で勇者の従者になったってことは、頑張ったんだね」 僅かに表情を崩す優斗。 ヘルムで隠れている瞳で、優希は今の彼の表情を真っ直ぐに捉える。 ――そういえば、さっきも笑ってたのです。 もう無表情の彼はどこにもいない。 優希にほっぺたを引っ張られたところで、微動だにしない彼はどこにも存在しない。 「…………」 救ってくれた人がいたのだろう。 彼に感情を与えた人が……もしくは人達が。 ――嬉しいのですよ。 両親が堕とした宮川優斗は救われた。 それを知ることができてよかった。 でも、だからこそ余計に思う。 自分はもう彼に関わるべきじゃない。 不用意に過去を思い出させてはいけない。 こんな最悪な“加害者の娘”と会ってはいけない。 「どうしたの?」 「……っ」 だけど、あと少しだけ。 きょとんとした様子で話してくれる優斗と、一緒にいてもいいだろうか。 巻き戻せない日々には居なかった、感情のある彼と。 もう少しだけ、一緒にいたい。 「…………っ!」 首を大きく振って優希は何でもない、と答える。 優斗は不可思議そうな表情になりながら、気を取り直した様子を見せると指を一本立てた。 「そういえば、さっきのヴィクトスの勇者を止められなかったのは減点だよ。僕に喧嘩を売るのは構わないけど、大魔法士を絡めると僕以上にやばい人達が出てくるんだからね。従者だったら、勇者が問題を起こす前に止めないと」 窘めるような優斗に、優希は首肯する。 「でも、そういうところも含めてアガサさんには伝えてあるから、しっかりと聞いてヴィクトスの勇者をフォローしてあげてね」 もう一度、首肯する。 素直な優希の態度に、優斗は感心した様子で表情を崩した……その時だった。 複数の足音が二人の耳に届く。