ドカカッ、ドカカッ、と地を蹴る音が、草原に木霊する。
閉塞感に辟易とし、グリーンインプの危険から直ぐに逃げきれる場所で草原を眺めていた数十人のプレイヤー達は、地平の彼方から聞こえて来る重低音に驚きの表情を浮かべ、耕太を出迎える形となった。
自治会の戦闘班員の指揮を執っている耕太が、煌々と太陽にも負けぬ輝きを纏うウシャスに跨り、二十七頭もの馬の群れを引きつれて、始まりの街へと向かってくるのだ。
変わり映えのしない生活という名の灰色の空間に、牧場襲撃という名の翳りまでもが暗い彩りを加える閉塞感。
それに疲れているプレイヤー達が、何の事前情報もなかった耕太のマスタングの群れを伴った帰還に、興奮を覚えないわけがない。また、フレアマスタングという幻想の結実が、その狂喜にも似た感情の爆発に彩りを添えている。
始まりの街の西に造られた牧場を目指して駆け抜けていく馬群の後を追って掛けだす者、目の前で起きた事態を知人に報せようと街の中へ掛け戻る者が現れ、寂しげに風に揺らされていた草原は、俄かに活気付き始めていた。
※ ※ ※
「――以上が、ブレイブレイドの佐川さんの意見です」
願って止まなかった騎乗動物の登場に沸き返る牧場を後にし、ホテルのラウンジへと場所を移した耕太は、決して良い報せとは言えない言葉を克己に伝えた。
「そうか。なるほどな……」
耕太の表情に巣食った翳を見て取り、重要な任務を果たした男の顔に疲労が合わさったものとして朗々とその栄光を称えることで、自治会員の押し寄せた牧場では場の雰囲気を保ってみせた克己の声には、隠しようのない落胆の響きが宿っている。
ガラス製のテーブルに視線を落とし、言葉を閉ざした二人の間に、沈黙が満ちた。
心臓の音さえ聞こえるのではないかという静寂の中で、壁際に設置された大きな木製時計の長針が一周し、二周し、更に一週する。
「酒田さん……」
乾いた唇を剥がすようにして、耕太が消え入りそうな声を発した。
「何だ?」
「俺は……佐川さんの話に反論……できませんでした。
榊と揉めた時、俺は八つ当たりも確かに有ったけど……それでも不満を口にするだけで……自治会のやってることを台無しにするような……そんな榊の言葉に頭に来てました。
多分、それは……そう感じるだけなら、今でも間違ってないと思ってます……」
「……」
途切れ途切れに紡がれるが故か。その言葉は小さな音の連なりであるというのに、克己の耳朶を大きく震わせる。
「あいつと同じように……街で過ごしている人を見下すつもりは……ないんです……。
夕子さんにしたって、近森さんや倉知の奴にしたって、直接戦う以上に重要な役を担っているってのは、俺だって分かってるんです。
俺達戦闘班が安全を確保して……装備が普及するのを待って、そこから安全にレベルを上げていく……。
そうやって誰も死なないように全体を見守りながら、各自が自立できるようにっていうのが自治会の方針だってことは分かってるんです……。
だから……危険な場所に飛び込んでいって命を賭けてることになるから、戦闘班は装備を集中して廻してもらえて……そのことに負い目を感じる必要なんかなくて、誇りを持てるものだって思ってます。
初めは夕子さんに、そう言われてだけど……今は俺だって、自分でそう思えるようになってたんです。
でも……その危険に見合うように安全を図ってるだけなのに……それを邪推されて……俺は夕子さんに会えなくなって……それでも、それでも……食べることもできなくなったらって……自治会のためだって……皆のためだって思って、それで俺は……」
震える声と共に、大粒の涙が落ちた。
「俺は……働いてたんです……。
それなのに……佐川さんが他にもやり方があるっ言って……食べ物の心配もないってことを言って……俺……俺、自分が何のために我慢してたんだろうって思えて……まだ働かなきゃいけないのかって思えて、それでも頑張ってマスタングを連れてはきたけど、でも……俺、俺……もう、これ以上、このまま働くなんて……。
俺は、俺は……」
「宮間君……」
子供のように拳で涙を拭う耕太の様子に、克己は限界を感じた。
(……背負わせ過ぎたな。
美馬君を……誰に何と言われようと、宮間君から離すべきじゃなかった)
誰もが鬱屈したものと先の見えない不安で心を黒く塗り潰しかねない状況の中、躁鬱とまではいえない小さな不安定さで動けた耕太だからこそ、自治会の上層部は組織としての決定を押し着せてしまったのだろう。
誰もが大丈夫そうだからと、耕太の若さ故に見え難い脆さを忘れてしまっていたのだ。
心に入る罅を誰知らず埋めていた夕子がいるからこそ、未だ砕けずにすんでいるということを、誰一人として気が付いていなかったのだ。
いや、薄々とは気が付いていたのかもしれない。
洋人を探すために旅立つ耕太を見送った美樹のように、前兆とも予兆とも思える漠然とした不安を抱いた者はいたのだろう。
だが、それでも口に出さなければ意味がない。耕太が壊れてしまっては、意味がなかった。
「宮間君……今回の任務、本当に助かったよ。
私としても、佐川氏の言に思うところがないわけでもない。ただ、情報を持っていない暗中模索の中で安易に動けば、見えない落とし穴に自ら落ちてしまうことになりかねないことも、また確かなことだよ。
だから、我々がした選択に間違いはないと思う。
もし結果として間違っていたのなら、それを正せばいいんだ。改めればいいんだよ。
だから、今回の件について、皆で協議しようと思う。だが、その前に、君は疲れを癒す必要がある。
なに、時間的な余裕はできたんだ。
美馬君と一緒に、そうだな……一週間ほど休むといい。あれだけの数の馬を連れ帰ったんだ。そのための準備に走り回っていたことは誰にだって分かることだろう。
もう、誰にも癒着などとは言わせないから、安心して、美馬君に会いに行くといい。
君が帰ってきたことは、既に伝わっているはずだからね。きっと、首を長くして待っていると思うよ」
「酒田さん……」
先ほどまで風が触れても崩れ落ちそうなほどに色を失っていた耕太は、驚くほどに生気を取り戻している。
「ほら、早く顔を見せてくるといい」
「は、はい。それじゃ、失礼します」
安堵と苦笑の入り混じった複雑な表情を浮かべた克己に見送られ、耕太は駆け出していた。
※ ※ ※
「夕子さん、俺、帰ってきましたよ!」
随分と懐かしく感じる部屋のドアを開け、耕太は弾むような声を響かせる。
「俺、しばらく休みをもらえたんです。夕子さんにも、同じだけ休みがもらえたんです。
一緒にゆっくりして、一緒に休んでいいって言われたんです!
夕子さん、夕子さ~ん!」
居間に姿の見えない夕子を探し、耕太は歩を進める。
夕子もまた疲れているらしいことは聞いていたため、寝ているのだろうかと考え、寝室のドアを開けた時だった。
「――ゆ、夕子さんっ!?」
ベッドの上に投げ出された夕子の身体からは、全ての色が失われている。
瑞々しい白い肌も、鴉の濡羽色の艶やかな黒髪も、楚々とした色合いの草色のキトンも、矢が突き刺さりキトンに滲んだ鮮やかなはずの血の色も、全てが昏い灰色で表されている。
それは夕子の命が失われたことを示していた。
「夕子さん! 夕子さんっ!!」
ベッドへと駆けより、その身体を激しく揺する耕太。
だが、手から伝わってくる感触は冷たく、ただ物体としての人間の形をした肉が横たわっている。
「なんで、なんでこんな! なに――がぐっ!」
倒れる耕太の元で、ドスと重い音が雪崩をうった。
耕太自身に見えはしないが、ショートソードにショートスピア、そして幾本もの矢が、その背中には突き立っている。
「かっ……はぁ……」
視界に映った自分の右手が色を失っていく様が見える。体力の全てを失くしてしまったのだと呆然と理解した耕太の薄れ行く意識に、脅えを宿した声が聞こえた。
「お、お前らが悪いんだ!
お前らばっかり美味しい思いをしやがって!
お前らが、お前らが悪いんだ!」
似たような言葉が虚ろな意識に、幾重にも重なって響き渡る。
「そうだ。皆の言う通り、こいつが悪いんだ。
俺は何も悪いことをしてないってのに、こいつが全部悪いんだ!
だから、俺達がワザワザ罰を与えてやろうとしたのに逆らった女も悪いんだよ!
俺達の女にしてやるから許してやるって言ったのに、逆らった女が悪いんだ!
それもこれも俺をコケにしたお前が悪いんだ!
ざまぁみろ! お前なんか、俺の足元にも及ばないんだよ!
逆らってみろよ! ほら、反撃してみろよ!」
(榊……てめぇか。てめぇが、夕子さんを……)
何もかもが崩れていく感覚の中、怒りが迸った。
灰に染まり、動かぬはずの腕はダッシュヒョウへと伸びると、視認すらできぬ動作でそれを抜き放っていた。
「ヒギィッ!!」
死に際を嘲笑おうと近づいていた信一郎の左目に、ダッシュヒョウが生えている。
「う、うわぁぁっ!
生きてやがる! 生きてやがるぞ、逃げろぉ!」
「ヒィ、くそぉ、くそぉ……」
慌しい音が掻き乱した場に、静謐が訪れた。
(ざまぁ……みやがれ……)
無様に喚き散らしながら去った以上、ダッシュヒョウの一撃が致命傷になることはないだろう。
そのことを分かりながらも、一矢報いたことで、耕太は信一郎のことなど忘れ去っていた。
耕太の脳裏を占めるのは、ただ夕子のことだけだった。
「ゆ……こ、さん……」
夕子の上に倒れ臥していた耕太の瞳に、彼女の決して安らいでいるとは言い難い表情が映りこんだ。しかし、それでも最愛の人がそこに居るというだけで、耕太は安寧を得られたのだろう。
その色を失くした顔には、安堵の笑みが浮かんでいる。
SfSの世界が創生されて二十九日目。
壮大な歴史がこれから紡がれようとしている黎明に、二つの命が今、呆気なくも失われた。
歴史に名を残すプレイヤー達に大きな影響を与えた二つの命が、歴史に記されることもない片隅で幕を閉じたのだった。
<第一部 完>