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No.39716の一覧
[0] 【WW2・時空犯罪・日本魔改造・蹂躙】名無しの火葬戦記【作者にネーミングセンスはない】[峯田太郎](2021/06/14 12:11)
[1] その一『ハル長官の憂鬱』[峯田太郎](2020/11/01 13:02)
[2] その二『ヒトラー総統の童心』[峯田太郎](2021/06/14 12:13)
[3] その三『アメリカの夢と悪夢』[峯田太郎](2021/06/14 12:17)
[4] その四『ポーランド戦線~義勇兵と解放軍と、毎日、最大の敵』[峯田太郎](2020/11/01 13:02)
[5] その五『チャーチル首相の偏屈』[峯田太郎](2020/11/01 13:01)
[6] その六『太陽の国から来た惨いヤツ』[峯田太郎](2021/06/14 12:11)
[7] その七『幻想の帝国』[峯田太郎](2021/06/14 12:17)
[8] その八『戦争の冬、ロシアの冬』[峯田太郎](2020/11/01 13:05)
[9] その九『雪と老嬢』[峯田太郎](2021/06/14 12:18)
[10] その十『ムッソリーニ統帥の愉悦』[峯田太郎](2021/06/14 12:17)
[11] その十一『カップ一杯の温もりを』[峯田太郎](2021/06/14 12:16)
[12] その十二『変わる大地』[峯田太郎](2021/06/14 12:14)
[13] その十三『天国に涙はない』[峯田太郎](2020/11/01 13:09)
[14] その十四『とある老教師の午後』[峯田太郎](2021/06/14 12:15)
[15] その十五『兵は詭道なり』[峯田太郎](2021/01/02 12:56)
[16] その十六『経度0度の激闘』[峯田太郎](2021/06/14 12:13)
[17] その十七『英雄の名』[峯田太郎](2021/06/14 12:15)
[18] その十八『千の千の千倍の‥‥』[峯田太郎](2021/06/14 12:14)
[19] その十九『上海の夜』[峯田太郎](2021/06/14 12:16)
[20] その二十『マンハッタン島の取り引き』[峯田太郎](2021/01/02 12:55)
[22] その二十一『終わりの夏、夏の終わり』[峯田太郎](2021/06/14 12:12)
[23] その二十二『また会う日まで』[峯田太郎](2021/06/14 12:12)
[25] その二十三『未知の昨日、既知の明日』[峯田太郎](2021/06/17 11:02)
[26] その二十四『いまなお棚引くや、故郷の旗よ』[峯田太郎](2021/06/17 11:02)
[27] その二十五『テキサス大攻勢』[峯田太郎](2021/06/17 11:03)
[28] 『番外、資料編』[峯田太郎](2021/06/14 12:19)
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[39716] その二十一『終わりの夏、夏の終わり』
Name: 峯田太郎◆cbba1d43 ID:59e4fefc 前を表示する / 次を表示する
Date: 2021/06/14 12:12







            その二十一『終わりの夏、夏の終わり』




  【1941年8月29日午前5時40分 北アメリカ テキサス州 サンアントニオ市付近】



 太陽が地平線から姿を見せるにはまだ早いが、東の空が明るくなってくる頃。
 薄暗がりの中地響きを立て、鋼獣の群が大地を踏みしめていた。

 土煙をあげ突き進むのは総重量35トンを越える近代兵器、戦車である。
 全部で6両。
 その砲塔横には所属を現す印と番号が白ペンキで記されている。

 重厚な装甲、大型の旋回砲塔、長大な大口径砲身、唸りを上げる発動機。その姿はまさしく暴力の化身だった。
 見てくれだけでなく乗っている者の練度も高い。6輌の戦車は半分の3輌の戦車が進み、もう半分の戦車が停まって撃つ。撃った戦車がまた進み、もう半分が停まって撃つ、という動作を繰り返している。戦車戦術の基本である交互前進射撃だ。
 走りながら撃って当てるよりも、足を止めてから撃つ方が当てやすいのは理の当然である。

 6輌の戦車は敵と相見え、砲火を交えていた。敵もまた戦車。双方に随伴部隊なし。装甲騎兵同士の激突である。
 砲撃精度も悪くない。6両の戦車のうち左端の車輌、334号車から距離1000メートルで放たれた砲弾は敵戦車砲塔前面に命中した。
 薄暗い中、動く相手にこの距離で当ててみせたのだ。並の技量で出来る芸当ではない。

 だが運が悪かった。丁度その敵戦車はなだらかな斜面を這い上がろうとしていて、車体は尻が下がる向きに傾いでいた。只でさえ傾斜していた敵戦車砲塔前面の装甲は更に角度が浅くなり、命中した砲弾は斜め上方向に弾かれたのである。

 正確には運ではない。射撃が早過ぎたのだ。発砲がほんの僅か遅ければ砲弾は斜面を上がりきって通常の角度に戻った敵戦車の砲塔正面に命中し、弾かれることなく運動エネルギーを発揮していただろう。
 そうなれば現地改修により60㎜を越える厚みとなっている敵戦車の装甲板をも打ち破り破壊することが、弾頭の硬度と運動エネルギー量から言えば充分有り得た。

 334号車は次弾を装填し狙いを付けるが、停まったままの戦車は恰好の的だった。教本どうり撃った直後に移動すべきだった。

 一発喰らった敵戦車、その砲塔横には所属を現す国旗と車輌識別用の象形文字が描かれている‥‥の主砲がお返しとばかりに火を吹いた。
 走りながら放たれた高速徹甲榴弾は目標を捉え、車体前面装甲を貫通し内部で信管を作動させる。
 爆音と共に334号車は爆ぜた。車内の砲弾が誘爆したのだ。何トンもある砲塔が垂直に吹き飛んで、宙を舞う。

 1秒に満たない時間を待てるか否かが勝負を分けた。この差は技量そのものより経験の有無が大きい。
 致し方ない話ではある。334号車に乗っていた戦車兵達はこれが初めての戦車戦だったのだから。
 対等の敵、弾が当たれば死に当てたら殺せる相手との戦いを済ませているか否かの差は、戦闘において如実に現れる。

 残る5輌の戦車、334号車の同僚たちも上官も経験では似たようなものだった。仲間が仕留められた動揺から連携は乱れ、浮き足立つ。こうなれば訓練を重ねて積み上げた筈の技も矜持も意味を為さない。次々と被弾し炎上爆発する。

 彼らの乗る装甲兵器は戦車に分類されるが、性能的に見て駆逐戦車に近い兵器であった。火力に比べて装甲が薄く、受けに回れば脆い。戦いの主導権を逃せば一気に劣勢となるのは当然だった。
 片方の戦車隊、車体に白い星印の記された側は停まらないと敵に弾が当てられない。もう一方、象形文字が記された戦車隊は走りながらでも当ててくる。彼我の差は明らかだった。

 米軍の兵は全般的に逆境に弱い。簡単に崩れるのだ。
 独断で後退を決めたのか、332号車は左右の履帯を前後逆方向に動かし砲塔を敵に向けたまま車体のみを半旋回させた。しかし旋回が終わり、走り出したところへ敵弾が集中する。
 うち一発が砲塔正面を撃ち抜く。炸薬入りの弾ではなかったのか誘爆は免れたものの被弾に動揺した戦車は操縦を誤り、地面の起伏に乗り上げて転倒した。車高と重心の高さもまた、この戦車の弱点である。


 転倒した332車から這い出した乗員は、剥き出しになった腹底に追撃の砲弾を受けた戦車の爆発に巻き込まれ四散する。
 崩れやすい反面、流れが変われば即座に立ち直り後を引かないのが米兵の長所。しかし死者に再び立ち上がる力はない。

 協定軍の兵士達はメキシコ進軍の半ばから、敵の掲げる白旗を信用しなくなっていた。道中で見た諸々の事象、戦争の現実と敵の常用する虚偽が彼らの心を荒ませたのだ。
 軍服や階級章を着用せず民衆に紛れて攻撃してくる、いわゆる便衣兵(GUERRILLA)だけでない。偽装投降や人間爆弾や国籍詐称は、メキシコ戦線のありふれた光景に過ぎなかった。

 此処は既にテキサスである。手を上げてもいない敵に容赦する理由はない。

 最後に残った321号車も砲塔側面に被弾し、砲塔は爆散した。数瞬遅れて車体内部でも爆発が起きる。
 砲塔内に砲弾庫を置く米軍戦車共通の設計は、流石にこの時期になると米陸軍上層部でも問題視されている。しかし改修案が形となって前線へ行き渡るにはまだ時間が必要だった。


 こうして数と砲弾の威力で勝っていたM4戦車改良型の部隊は、それ以外の要素で全てに勝る97式戦車部隊に惨敗した。北米では見慣れた戦場風景である。
 終戦までの統計で北米戦線において連合軍と協定軍の戦車損耗率は7倍以上。41年夏、日本製戦車はかつてのような無敵の存在ではなくなっていたが、合衆国製装甲車輌への優位は保たれていた。




 元は放牧地であったらしい平地を3輌の97式中戦車が北上する。その砲塔側面にはオーストラリア国旗が描かれていた。
 国旗の横に書かれている象形文字は味方同士の識別用であるらしく、個々の車輌ごとに異なる。

 燃え盛る6輌の敵戦車、英本土ではファイアフライ、直訳すると日本語で火の羽虫となる‥‥と呼ばれたものを避けて走る先頭の戦車。砲塔横に 勝(WIN) の字が描かれている砲塔ハッチが開いた。
 外気に顔を晒し、戦車長マイケル・ミラーズ中尉は薄笑いを浮かべる。
 白皙の美男子である彼の横顔が炎に照り返されている様は、写真に残せば今大戦どちらの陣営でも悪役が務まるだろう。

 「他愛もない。まるでブリキ缶だな」

 彼の呟きは勝者の余裕ではなく増長と呼ぶべきものであった。ファイアフライの主砲は大型薬室と長砲身が特徴であり、その装甲貫通力は90㎜級の対戦車砲に匹敵する。
 高張力圧延特殊鋼の装甲板により重戦車なみの抗担性を誇る97式の正面装甲でも、1000メートルの距離で当たれば痛いでは済まない。

 「新型じゃ、なかったみたいですね」

 車長の呟きに砲手のウィルディ上等兵が反応する。敵は弱くて間抜けな方が望ましい、と理性では分かっているが強敵と巡り会う可能性に興奮してしまうのは本能である。
 この時期には北米産重戦車は噂だけでなく、実体のある脅威として協定軍将兵の口端に上がっていた。当然ながら、先程の相手はM4中戦車の火力増強型であって噂の新型ではない。

 「新型、ってもどうせ重戦車だろ? 側背に回り込めばイチコロよ」

 今度は操縦士のギブスン伍長が口を開く。協定軍がメキシコ戦線に投入した中戦車のなかでは旧式な97式、しかも彼らの乗っているのは日本軍のお古だが、整備状態は良好であり車内通話も明瞭だった。
 スピード狂の気がある伍長にとって97式は最高の戦車だった。小型軽量ゆえに自由自在に動ける。しかも故障知らずだ。
 この機動力があれば鈍重な重戦車など敵ではない、という彼の考えはある程度正しかった。少なくとも前回遭遇した英国製新型重戦車は容易く撃破できている。


 遠くから微かに聞こえてくる爆音に、砲塔から顔を出したままの中尉は空を見上げる。

 「2時方向から航空機1、味方だな」

 慣れれば鯉でも鶏でも顔を見て個々の区別が付けられる。音で発動機の種類を言い当てることはより容易い。ミラーズ中尉の言うとおり、飛んできたのは友軍機だった。
 98式偵察機である。日本軍の偵察機には夜間ですら活動できるものが存在する。電波兵器の優秀さだけでなく、全軍から選び抜いた特異体質者に特殊な訓練を積ませ特別な栄養剤を与え、夜間活動する機に乗せているらしい。
 執念というしかない 特(SPECIAL) の積み重ねは豪州人の理解を超えるものであった。彼らはなぜ、あそこまで夜戦に拘るのだろうか?


 上空から無線で送られる最新情報に合わせて、戦車隊はやや西寄りへ進路を変えた。

 ミラーズ車を含めた戦車小隊が味方の救援要請に応えて出動したのが1時間と少し前。
 先程遭遇した敵戦車は救援を求める味方を追うのではなく、救援に駆けつけたミラーズ達を迎え撃ちに現れたのだった。無線網を駆使した迅速な作戦指揮が、協定軍の専売特許でなくなってから半年以上経つ。

 此処はテキサスなのだ。協定軍の前線基地周辺にはいくらでも諜報員が潜んでいる。電気工学に詳しいものならばラジオ受信機を改造して無線式電信装置を組み上げることは容易かった。特に日本製のラジオと蓄電池と真空管が手に入るのであれば。


 「敵勢力は戦車2ないし3、ハーフトラックないし装甲トラック3。後者に兵員を搭載している。全車速度そのまま。会敵まで約6分」
 「戦車はともかく歩兵は厄介だ。航空支援は無しですか?」

 砲塔横に 菊(CHRYSANTHEMUM) の象形文字が記されている隊長車からの指示に、ミラーズ中尉は質問したが返答は

 「既にした」

 であった。空の戦いはテキサスでも協定軍が優位にある。しかし優位は絶対でも永続的でもなく、航空機の傘が途切れることもそれなりの頻度で起きていた。
 上空を通り過ぎた味方偵察機はつい先程まで対地支援に当たっていたが、搭載している弾を使い切っている。敵戦闘機が出てきたら逃げるしかない上に燃料も乏しい。ミラーズ達は支援の礼を言って無事の帰還を祈るしかなかった。
 現場には味方基地から出た新手の支援機が急行しているが、次の交戦には間に合わないだろう。


 隊長の言葉が続く。

 「歩兵が展開した場合は退く。我々の任務は友軍‥‥と難民の援護だ」

 歩兵は戦車にとって意外な強敵である。ただしそれは充分な火器を持ち陣地や市街地などに立て籠もっている歩兵を強襲せねばならない場合には、だ。
 平地に展開し薮やタコツボに隠れた歩兵がいかに強力な対戦車兵器を携えていても、戦車が近寄らなければ意味がない。
 強敵を迂回してやり過ごすこともまた戦車の定石。逃げるは上策というとおり、逃げてはいけない状況以外ならいくら逃げて良いのだ。

 トラックに乗ったままの歩兵は戦車から見ればカモであり、降車して展開した歩兵部隊は厄介だが今回のような任務なら放置すればよい。
 車輌から降りた敵歩兵部隊が退避する味方に追い付けなくなるなら問題無しだ。後で暇な爆撃機にでも狙わせれば始末できる。

 捜索破壊ドクトリン、日本陸軍がソヴィエト赤軍を倒すために編み出した戦術思想は北米でも通用した。常に戦場上空へ航空戦力を滞在させ、空陸が連携して必要な場所へ必要な破壊力を必要なときに発揮する。
 それは前提条件の厳しすぎる戦場技芸(ART)。人的資源の質で先発の列強諸国軍に渡りあわんとする日本陸軍以外には実現する意味のない、戦場の徒花であった。
 一兵卒から将軍までが意思疎通し、一つの目的のため一致団結して動かなくては意味を為さない戦術形態なのだ。

 しかし成立した際の威力は絶大であった。戦術の冴えが戦略の曇りを覆すことはない。しかし戦略の輝きが戦術の功を霞ませることも、ない。大軍にも戦術は必要である。


 3輌の戦車は枯草まじりの土煙をあげつつ前進する。敵を倒すためではなく、味方を助けるために。

 彼らには、そして彼らを送り出した豪州軍第一機甲師団そのものにも幾らかの焦りがあった。
 同胞達がメキシコ戦線でしでかした不祥事により傷付いた、豪州軍の名誉を回復したい‥‥との意識が軍事的な最適解を取らせなかった。

 10分か15分ほど到着時刻を遅らせて回り込み難民襲撃にかまけている敵軍を後ろから撃つ方が、この戦車小隊の生還率だけを考えれば良手である。
 しかしそれは政治が許さない。日本軍も許さないだろう。ミラーズら戦車兵が軽侮の対象になるだけでなく、豪州軍全体にその目は向けられる。

 自らの正義と善意を無邪気に信ずる、というより構成員の大半が疑うことを知らぬ日本帝国とその軍隊は、正邪に敏感であり恩讐に拘る傾向があった。
 実例を日々の戦いの中で、メキシコにいるオーストラリア人達は見ている。

 日本陸軍の将校達が身内の席でどれほど自国に与したメキシコ軍閥を罵りこき下ろそうとも、見放さないのはそれらの勢力が米国の要求をはね除け、日系移民らの引き渡しに応じなかったからだ。
 ブラジルなど中南米各国の約半数が米国政府の要求に応じ、各国の日系国民や滞在する日本人を差し出し収容所行き便で送りつけた際に、メキシコ人達は米国外交官へ「地獄に落ちろ(GO TO HELL)」と罵声を浴びせた。更なる恫喝に対しては鉛弾で応じた。

 純粋に反米意識から始まり内政干渉へ反発したが故にであったとしても、銃火を交えてまで異国の民を護り通したメキシコ人たちの侠気に帝国軍人たちの心は強く揺すぶられた。その余震は未だに続いている。

 恩には恩、怨みには怨み。
 組織改革を続け合理主義を推し進める日本陸軍ではあるが、組織の構成員がほぼ全て日本人であることは変わらない。当然ながら浪花節的しがらみから逃れられない。
 日本人は民族レベルで損切りが下手である。情に脆く入れ込みやすいのだ。

 祖国の置かれた状況は鞍替えなど試みる気にもなれぬものであり、今の付き合いを続けるしかなかった。
 ならば精々気合いを入れ、日本人好みの仮面を被りなおして戦争を続ける以外にオーストラリア軍人達に道はない。




     ・・・・・



 二度目の大戦は三度目の夏を迎え、そして夏の終わりが始まろうとしている。


 親愛なる指導者、ソヴィエトの父、輝ける人民の太陽。あるいは協定軍勝利最大の立役者。
 ヨシフ・ヴィサリオヴィチ・シェガシビリ。通称スターリン。

 この特異な人物の死が確認されたのは夏の直前、1941年5月22日未明であった。とされる。
 死因は心不全と発表されたが、後の検屍でアルカロイド系毒物による中毒死であることが判明している。日常的に服用していた睡眠薬の錠剤をすり替えられた事による暗殺であった。

 誰が仕組んだ? という問いに対しては「全ての人民が」との答えが返ってくるだろう。
 彼、スターリンはかなり前から、世界で最も多くの人々に死を望まれている人物だった。


 ロシアの5月末とくれば泥濘が収まる時期ではあるが、赤軍にかつての力はない。ソヴィエト勢力圏の人口を割単位で擂り潰して造り上げた工場群は著しく稼働率を落としており、全土で耐久資材も消耗品も枯渇していた。
 石油よりも電気よりも、ゴムよりも工作機械よりも足りないのは士気だった。これまで戦場で幾度敗れてもその度に立ち上がったロシア人達は、ウクライナとベラルーシにおける経済の復活に今までのどの敗北よりも打ちのめされていた。

 小麦大麦トウモロコシ綿花ジャガイモ‥‥その他ありとあらゆる作物がウクライナに満ち溢れている。人の口を塞ぐことは銃口を持ってしても出来ない。出る入る両方の意味で。

 ウクライナ方面からロシアに流れる闇物資は、質と量の両面で共産体制の敗北を雄弁に語っていた。この年のウクライナにおける農業生産は前年度の100倍を越えた。
 10倍の誤字ではない。信じ難いだろうが100倍以上である。元々の数字が闇経済に沈んでいたことを考えても異常極まる結果であった。

 後に緑の革命と呼ばれた農業技術革新がいかに偉大であっても、それで得られる収穫増は従来の数倍程度。どうしようもなくロシア的な経済の赤い闇に埋もれていた収穫が表高の数倍あったとして、前記の農業改革と掛け合わせても精々20倍前後。
 では残る5倍以上の収穫伸び幅は何故か? それはソヴィエト式農業体制、いわゆるルイセンコ農法に理由があった。

 元の数値が酷すぎるからこその驚異的収穫増である。100点満点のテストで成績が100倍上がるとすれば、その生徒が零点を常態とする桁外れの劣等生であった証拠に他ならない。

 ルイセンコ農法とは、例を挙げると「革命的精神さえあれば、冬に雪上へ小麦を撒いても無事発芽する」とか「これまでと同じ面積の畑に、倍の密度で倍の深さに種を植え倍の肥料を与えれば収穫量は8倍となる」といった机上の空論というのも憚られる‥‥ 
 いや、まあ、その、もとはといえば共産思想自体が労働や経営の経験も意欲も一切ない穀潰し(高等遊民)の妄想をそれっぽい言葉で飾り立てただけの代物なのだが、とにかく素人の戯言を国家政策として実行してしまった上に失敗を直視せず繰り返した結果が御覧の有り様である。

 過ちを改めないことこそ真の過ち。
 人が遙か昔に見出し書き記した理は、20世紀のロシアでも省みられなかった。


 何はともあれ、ウクライナとベラルーシは豊作に湧いた。余剰となった作物を協定軍が、つまり日本政府が買い上げたため極端な値崩れによる豊作貧乏は起こらず、腹と倉庫と金庫を満たした農民は狂喜乱舞した。
 協定軍の保護下に入った地域ではジャガイモ収穫の人手が足りないとか倉庫に入りきらないとかの嬉しい悲鳴が上がり、共産党の宣伝放送と違い実体として存在する余剰収穫物の一部はロシア方面にも流入する。
 スターリン亡き後の共産党にもNKVDにも、流れを止める力はない。食料や雑貨類と共に流入するラジオ受信機と宣伝ビラ、新聞に雑誌、何よりも風の噂を止めることなど不可能だった。

 食料に酒、燃料に衣服、様々な消耗品。河川の闇運送網を通じて怒濤の如く流れ込む物資がロシア兵達の心をへし折った。如何なる言葉も一切れのパン、一杯のウォッカに及ばない。
 百万個のパンに埋もれれば人は死ぬが百万語のスローガンを聞いても人は死なない。そして百万個のパンがあれば百万人の腹を一時だけでも満たせる。

 不治の病すら治せる抗生物質、手入れしなくても問題なく動く車輌、本物よりも丈夫で温かい合成毛皮、山のように積み上げられたクジラ肉の缶詰。
 農作物の代価として極東から運び込まれた物資は、質と量の双方で資本主義体制の勝利を歌い上げていた。
 ロシアでは作れない、出回らないものが極東では幾らでも作れて、地球の反対側まで送り届けられるのだから。


 負け続きの中、これまで赤軍兵達が戦い続けて来られた事の方が不思議だったのだ。
 赤軍将兵だけでなく政治将校までもが敵に通じ物資や情報を協定軍に売りつけ、あるいは投降しウラーソフ将軍指揮下の解放軍へ加わった。
 赤い皇帝(ツァーリ)不在からの内輪もめをなんとか収め、事態を把握できるようになったソヴィエト指導部は防戦の無理を悟った。軍事面でならば全くもって現実的な彼らは速やかにモスクワからの離脱を決意し、エカテリンブルグへの移動を開始する。

 彼の地には大戦勃発の遙か前から首都機能を持ち得る地下大要塞の建築工事が進められており、モスクワを放棄する際の仮首都第二候補が内定していた。
 ちなみに第一候補はアストラハンである。しかし既にカスピ海は協定軍の風呂桶と化している。敵の哨戒艇や駆逐艦が彷徨くカスピ海北岸に位置する都市へ赤軍総司令部が引っ越しする意味はなく、より安全な地が新居に選ばれた。


 1941年の夏は1812年の冬と異なり、モスクワは焼かれなかった。必要以上の物資持ち出しも起きなかった。

 共産主義体制は量ることもできないほどに欠陥に満ち、数え切れぬ失敗を繰り返し、人民に無用の死と恐怖と苦痛を強いてきた。善か悪かで言えば紛れもなく後者に分類されるはずの存在だった。
 しかしソヴィエト構成員の大多数が、進んで邪悪であろうとした訳ではない。彼らの殆どは幸せになりたかっただけなのだ。

 赤軍将兵にも彼らなりに郷土愛が存在した。祖国と共産主義の勝利が遠のいた以上、せめて条件付きの降伏ができる態勢に持ち込まねばならない。

 モスクワを破壊して後の再建の難度を上げることに赤軍の将帥たちは意味を見いだせなかった。
 赤軍の主敵がナチス・ドイツや大日本帝国からウクライナ・ベラルーシ連合へと交代したからには、焦土作戦の必要性は薄い。
 スターリン抜きのソヴィエト政権を根切りにするためにユーラシアの大地を追い回す程の熱意を協定諸国首脳部は持たなかったし、赤軍首脳部へ接触してモスクワを明け渡すならば追撃しないという密約を結ぶ程度には勤勉だった。



 スターリンの死とその後の赤軍が主導する政治態勢により妥協が成立した。
 歴史的に見ても、ウクライナ人やベラルーシ人がロシアを支配し続けることは不可能である。一時的に占拠することはできても長くは保てない。何れは投げ出すことになる。
 人も物も根刮ぎに始末する気でいけば出来るかもしれないが、日本人達が許すまい。無論のこと人道ではなく、ロシア人勢力が極東を脅かさない程度に力を残すことは彼らの利益となるからだ。

 敵を倒せば新たな敵が現れるのが世の道理である。日本帝国が第三帝国と組んだのは米露の二大勢力へ対抗するためなのだ、その両方が脅威を減ずれば当然、日独の付き合いも変化する。
 国家に永遠の友も敵もない。今日の友が敵となる明日には、今日の敵が友となることもありえる。


 こうして41年夏に赤軍と共産党はモスクワから粛々と立ち去った。
 クレムリンの旧支配者たちは撤退の際に必要なものだけを持ち去り、不要なものを置いていった。

 不要品の一つ、元NKVD長官ラブレンチロ・ベリヤは両手両足の腱を切られた状態で、一本のラジオペンチを添えてモスクワ市民たちへ引き渡された。
 ベリヤ氏は赤軍のモスクワ退去から丸四日間生きていたという説もあるが、半日余りで息絶えたという証言もあり詳細は不明である。

 死の時期はともかくとして、生前と比べ半分以下の重量になった彼の遺骸が数日間赤の広場に晒された事は確かだ。
 その後は湧いた蛆が羽化する前に荼毘に付され、遺骨と灰はどの墓地からも埋葬を拒否されたため埋め立てゴミとしてモスクワ郊外の何処かに廃棄された。




     ・・・・・



 夏が終わろうとしている。


 フランス共和国、ソヴィエト・ロシア、そして大英帝国。連合国側のメイン・プレイヤーである三国が盤面から離れ、ユーラシアの戦火は鎮まりつつあった。

 残る連合国側主戦力はアメリカ合衆国とカナダのみ。そしてその両国共に海軍力の消耗が激しく、大西洋の制海権奪還は事実上不可能。
 欧州の協定諸国側から見れば、今次大戦は決着が着いたも同然、と思われた。


 誰もがそう判断した。
 前線の兵卒たちも列強国政府の閣僚たちも、これで戦争は消化試合に入った、と思った。後始末に取りかかるべき時期に入ったと。

 中世の戦争ならこのあたりで双方の陣営で内ゲバが始まり、「はないちもんめ」の遊戯の如く敵味方の入れ替えが起きて戦局はぐだぐだになるのだが、二十世紀半ばの国際情勢でその心配はない。
 協定国側のメイン・プレイヤーであるドイツ第三帝国にもイタリア王国にも、今更陣営を乗り換える旨味などない。彼らに負け馬に乗る趣味はなかった。


 大英帝国は遂に力尽きた。北米からの輸血と外付けの人工心肺で無理矢理動いていた老朽国家はもう限界だった。
 その輸血と外部電源が途絶えようとしていたのだから当然である。
 戦局の悪化により、米軍の英本土放棄は確定事項だった。6月末にイングランドで起きた英陸軍一部勢力によるクーデターは失敗に終わり、英王室は米軍と共に北米へ脱出することとなった。

 複数の伝手を使い欧州の協定軍指導部と英本土の米軍司令部は接触し、7月半ばを目処に連合国側戦力はブリテン島から撤収することが定められた。
 7月3日をもって英本土周辺の両軍は停戦し、日英独伊仏の間で交渉が英国の降伏を前提として始まった。

 英本土の戦争はこれで終わった。筈だった。



 英国民だけでなくブリテン島にいる人々は安堵した。久々の静かな夜に、穏やかな朝(GENTLE MORNING)に感謝した。
 長く続いた、昼夜の区別なく爆弾の降る生活に彼らは倦んでいたのだ。


 一日当たり20発や30発の無人兵器が飛んできた時期なら、イングランドの住民は「V兵器など所詮虚仮威し」とせせら笑らえた。
 200発300発の梅花やその類似品が飛んでくるようになっても痩せ我慢を続けられた。
 しかし一日当たりの飛来数が四桁を越えたあたりになると笑みは引きつり、3000を越えた頃には白目を剥き、5000に達して泡を吹いた。

 日本勢力圏で、ドイツ本土で、北イタリアで、それ以外の地域でV号兵器は量産されている。
 41年春には独逸占領下の北フランス地域そしてヴィシー政権の南フランスも戦時体制に移っていた。列強諸国のなかではやや工業力に難のあるフランスでも、構造の単純なパルスジェット・エンジンは量産できた。

 二次大戦において協定軍が英本土に打ち込んだV1号兵器は、総計81万6285発。最盛期には一日当たり1万発を越えた。
 西部戦線、フランス及びブリテン島とその他周辺地域で協定軍により使われた火薬量の約27%が、梅花はじめとする無人飛行爆弾であった。
 軟鉄板とベニヤ板で組み上げられ、肥料へ油脂を混ぜた炸薬を積み、軽油を燃やして飛ぶ無人兵器の群れは、ただただその数で連合王国本土の空を席巻したのである。

 実際の被害では飛行爆弾よりも通常の爆撃や艦砲射撃の方が、そしてそれらの合計よりも通商破壊の方が大英帝国に痛手を与えている。しかし一般市民にとっては目の前に落ちてくる無人兵器こそが具体的な戦争だった。



 戦争は終わった! 少なくともイングランドでは。

 大戦に負けた事はこれから英国に影を落とすだろう。苦難が別の形を取って行く手に立ち塞がるだろう。
 それでも、一時の安らぎを英国人達は喜んだ。

 新大陸の軍勢は唐突に訪れた平穏の中で慌ただしく、しかし手際よくブリテン島を離れ帰途についた。
 旧植民地人達は何もかも置いて、身一つで船や飛行機に乗りこみ英国人達へ別れを告げた。英国人は内心はともかく笑顔で、あるいは涙と共に新大陸へ帰る人々に手を振り見送った。


 そして惨劇の夜が来る。

 1941年7月14日、午前1時。ロンドンの北側に点在する大規模飛行場で一斉に爆発が起きた。
 内部からの爆発は鉄板入りの鉄筋コンクリートで装甲化された燃料タンク群を破壊し、更に数分後移動給油所としてテムズ川に停泊していた小型油槽船の群が次々と爆沈する。
 隣接する地域の燃料タンクや備蓄施設が連鎖的に破壊されたのだった。総計数十万トンに達する様々な液体燃料が溢れ出し、引火炎上した。

 滑走路に並べられた航空機も、基地の警備兵も技師達も焼いて炎は下流へ、ロンドン区域へと流れ込む。
 テムズ川の川面を、大小の運河を、排水溝を伝わって燃料と炎が広がる。水面に浮いた重油の上で軽油が燃え盛り、下流の可燃物に火を付けた。

 英国中枢の各地に集積されていた発電用の、機関車用の、家庭用の石炭が事態を更に悪化させる。
 余程の安普請でない限り英国の家屋には地下室がある。竈や暖炉で使う燃料、薪や石炭やコークスは各家庭や庁舎の地下室に貯蔵される。
 イングランドは湿度の高い土地であるため夏でも暖炉に火が必要であった。更にいうと次の冬だけでなく来年再来年の冬に備えて燃料を備蓄することは、中産階級以上の英国人にとり当然の事。

 燈火管制も避難準備態勢も解かれガソリンスタンドの営業が再開したロンドン市街は薪の山も同然だった。ロンドンは大都市であるが、例えば東京などと比べれば人口規模のわりに面積は広くない。良くも悪くも凝縮した、密度の濃い都市なのだ。
 密集地帯に蓄積された燃料から燃料へ、家屋から家屋へ、木々から木々へ火は燃え移り何処までも広がっていく。
 炎の流れはテムズ川河口付近まで届き、逃げ遅れた船舶は荷物や乗員ごと燃えて沈んだ。


 まさに地獄の光景であった。闇夜を突いて、ロンドン市街と周辺に何本もの炎の柱が立ちのぼる。
 世の終わりに現れるという巨人の如く、太さ数十メートル高さ千数百メートルに達する螺旋の炎が、火災から逃れんとする人々を見下ろした。

 それは科学的には火災旋風と呼ばれる存在である。関東大震災において東京に現れた怪物はこの夜ロンドンへ再臨した。
 夜空に輝き、うねり、のたくる炎の柱はどんな生き物より速く疾走した。逃げ惑う人々を追いたて焼き尽す。
 火災旋風の移動速度はときに航空機すら凌ぐ。一度追われれば人の足で逃げ切れる存在ではない。

 灼かれる前に一酸化炭素を含んだ熱風に晒された生き物は全て速やかに、恐怖に満ちた死を迎えた。風の具合などにより窒息を免れた人々も、膨大な熱量の前では生死の区別なく燃料と化す。
 条件さえ揃えば、6割以上が水分である人体でもそれ自身が燃えるのだ。たとえ生きたままであろうとも。

 炎に追い立てられたロンドン市民達の多くは、本能的に水辺へ向かった。言うまでもなくそこは既に燃料と炎で満ちた灼熱地獄か、あるいは直ぐに炎が押し寄せてくる死地であった。
 少数の住民達は脱出を諦め地下室へ隠れた。通常の空襲なら生き延びられる者もいたであろう選択は、熱と酸欠による遠くない死が答えとなる。市街を構成する素材、石材や煉瓦そのものが砕けるまで熱される火災の前には何処に籠もろうが結果は変わらない。


 炎は七日七晩にわたって燃え盛り、大雨の降った8日目以降に勢いを減じ鎮火へと向かう。
 北はウェリンガーデンシティ、西はブラックネル、南はクローリーまで、ロンドン市を中心に直径70㎞円内は一面の焼け野原と化した。市街も田園も森林も等しく炎に呑まれ、テムズ川流域一帯は灰燼に帰した。

 死者及び行方不明者は推定28万5千人、被災者はその10倍以上に及んだ。火災の規模と激しさからすれば死傷者は信じがたいほど少ない数であったが、大英帝国の栄華は既に避難を済ませていた一部の文物を除いて燃え尽きた。

 英国だけでなく、カレー市など北部フランスにも黒い雨が降った。インクのような雨はインクと同じく、煤と油煙が溶けこんでいた。灰と化した生き物と様々な毒物を含んだ不吉な雨だった。


 ロンドンとその周辺を焼き尽くした大火は、テムズ川からよりもロンドン市内で作動した発火装置によるものの方が火種としての深刻度が大きい。
 今次大戦において、政治的な理由によりロンドン市は偶に降ってくる流れ弾以外に協定軍の攻撃を受けていない。
 ロンドンはブリテン島の諸都市と比べて可燃物の管理がぞんざいであり、内部にドラム缶を詰め込んだ倉庫と爆破装置といった単純な絡繰りで容易く炎上させることが出来た。

 余りにも日常的に、身近に存在するため近代文明の恩恵に浸かっている人々は忘れがちであるが、化石燃料は恐るべき熱量を内在する危険物である。
 上質の石炭は洗面器半杯程度の量で風呂釜を湧かせる。石油の危険度は更に上を行く。コップに半分のガソリンで人は簡単に焼け死ぬのだ。

 ビール瓶にガソリンを満たし布きれで栓をした火炎瓶一本で、民家一軒が全焼することは普通に有り得る。一軒の家を焼く炎が街の区画ごと焼き尽くす大火事に発展することも、稀にはある。
 近代的な消火設備と消防隊員らの献身があってすら、燃えるときは燃える。

 最悪なことにイングランド全域で13日の夕方から風が強く、空気は乾燥していた。只の失火でも大事に成りかねない気象条件下で、膨大な量の備蓄燃料が撒かれ火を付けられたのである。
 故に被害は空前のものとなった。
 焼夷弾が住民の避難と防火及び消火対策を済ませた市街に落とされる戦略爆撃とは、桁の違う大規模破壊が英国を襲った。

 4発の大型爆撃機が大挙して攻め寄せてもその搭載する爆弾は数百トンにしかならない。
 たかが数百トン、しかも上空から撒き散らされるだけの爆弾では都市を破壊し尽くすことなど出来はしない。機関銃の掃射が絶大な効果を発揮するのは、密集した兵が棒立ちになっているような特殊状況である。
 戦場の弾も都市への爆撃も、備えている相手にはさほどの効果はない。有史以来人が最も溺死した場所が風呂桶であるように、人を最も殺しやすいのは油断しているところへ不意打ちをくらわせた場合なのだ。


 惨劇の夜に作動した発火または爆破装置は、その多くが単純な代物である。
 ガソリンを入れて積み上げられたドラム缶の山、奥側にそれは配置される。見た目はただのドラム缶だが、蓋の所に仕掛けがしてあり、直径数センチの金属環がついている。
 その金属の環を強く引っ張ると、内部に繋がっているワイヤーが動き、ドラム缶に入っている鉛の小箱の中で硫酸入りのガラス瓶が割れる。硫酸は鉛を溶かす。
 箱の厚みで決まる時間を掛けて硫酸は鉛箱から漏れだし、箱の周りに詰められた薬品と反応して発火する。更にその周りに引火して爆発する薬品や燃料を入れてある代物が、この夜使われた時限式発火装置の主流だった。

 単純で信頼性の高い仕組みであるが、人間の作った物であるからには不発弾が出る。製造、設置、作動、それらの際に重大な不手際があった発火装置は火を吹くことなく残った。
 大火が治まってから行われた調査により、これらの発火装置は延焼を免れた幾つかのドラム缶集積地の奥で発見され、解体されて正体が判明する。



 言うまでもなく火災は米軍の仕業であった。

 彼らの置き土産、時限式爆弾と発火装置はロンドン付近だけでなく各地の燃料や弾薬、肥料の集積所などに設置されていた。
 後に発見された資料によれば、仕掛けられた各種装置は合計で7000個近くに及ぶ。彼らの心がこもった置き土産は英国各所で作動し、ロンドン以外の場所でも悲惨さにおいては大差ない損害をもたらした。

 一例を挙げるとカンタベリーにほど近いとある農村は肥料倉庫がキノコ雲を上げて爆発し、文字通り消滅した。爆発の破片は4㎞離れた隣村まで届き、近隣の窓ガラスは全て割れ、村のあった場所にはクレーターしか残っていない。
 肥料としてだけでなく爆薬材料としても工業資源としても使える硝酸カリウムを数千トン備蓄した場所が、破壊工作の対象とならない筈もなかった。

 直接的人的被害だけで上記のものとは別に約11万9千人。
 施設や設備の破壊などによる二次被害、民心の動揺と治安の崩壊が三次被害四次被害を呼び寄せる。事態は全くもって深刻であり、英本土の社会基盤は完全に麻痺した。

 炎と共に流言飛語が巻き起こり、情報が錯綜し混乱が激化した。「協定軍が攻めてきた」とか「インド兵が反乱を起こした」といった噂に人々は恐慌状態に陥る。
 交通事故や失火など故意でない災いが続発し、そして人の悪意と我欲と先見性のない狂暴さがどんな疫病よりも素早く広範囲に蔓延した。暴動、略奪、襲撃といった騒擾事件だけでなく、窃盗、強盗、強姦、殺人、詐欺、横領‥‥あらゆる種類の犯罪が英国全土で続発した。


 イングランド、いやブリテン島を欧州大陸の住人が呪いの地と呼ぶのは、それなりに故あってのことである。
 お伽話には歴史上にその原型が存在する事が多い。地元民の手に負えなかった人食いの猛獣を流浪の猟師が討ち取った伝記が、遠い異国で怪物退治の騎士道物語として語られるように。

 物語の多くには原型がある。
 かつて英国の森には義賊がいた。お伽話の元となった義賊は餓えた民衆に、強欲な貴族や悪辣な商人から奪った金品を分け与えた。
 義賊の死後、民衆は義賊の妻子を捕らえ義賊が蓄えているはずの財宝を奪おうとした。
 だが義賊は民衆を救うために奪った物も含めて全財産を使い切っていた。彼は本物の義賊だったのだ。
 民衆は激怒した。無駄骨を折らされたことに憤慨し、義賊の家を焼き払い妻子を奴隷商に売って幾らかの金銭に変えた。

 この島の流儀は中世の頃から変わっていない。七つの海を征し、世界の不幸の七割をただ一国で造り出していた世界帝国は、他に生きる術を持たなかったのである。
 どのような権力も結局は暴力に過ぎず、権力は必ず腐り果てる。だが、権力と無縁の弱者もまた腐敗しているのだ。惨めに、不様に、みみっちく。
 如何に口から高邁な理想を吐こうとも、人は所詮裸の猿に過ぎない。その生態は環境によって決定され、ブリテン島の環境は利己主義者のみが生き残れるものなのだ。


 英国各地の大都市、直接の大火や砲爆撃を免れた地域では華僑やインド系などの植民地人と地元民の自警団同士が、三つ巴四つ巴の武力衝突を繰り広げた。衝突は短時間のうちに、血で血を洗う暇もない市街戦に発展する。
 分断し統治せよ。英国の統治は植民地も本土も基本は同じである。人種、信仰、社会階層、地域。数百年続いた社会制度はブリテン島の住人達から連帯の可能性を奪い尽くしていた。平時の、そしてこれまでは公権力が締め付けていたから秩序が保たれていたに過ぎない。タガが緩んだ樽は弾けて壊れるのみ。

 今次大戦期の英本土、特にイングランドには米軍が置いていった武器と弾薬が以前とは比較にならない量で、しかも至るところに蓄積されていた。
 重火器や大型兵器は英政府と英国軍により纏めて保管または管理されていたため、テロ攻撃を受けてその多くを破壊され炎上した。だが小銃や拳銃や手榴弾などは大半が無事であった。
 各地の弾薬庫、市役所や警察署や郵便局の倉庫に蓄えられたそれらの小火器にブリテン島の人々は群がり、少なくない数が即座に引き金を引いた。より多くは悩み恐れ躊躇いつつも使用した。


 相争う武装集団を取り押さえ、あるいは駆逐せねばならぬ筈の警察と軍隊はまず自らが生き残るために全力を尽くさねばならなかった。
 米軍によるテロ攻撃の最優先目標は彼ら英国内の治安組織だった。爆破と発火の時限装置だけでなく、火砲までもが彼らを狙った。攻撃により直接的に死傷した人員は決して多くなかったが、混乱の中で指揮系統の修復すらままならぬ状態ではいかんともし難い。

 リヴァプールやカーディフ、プリマス、ボーンマス、ポーツマスなどの海に近い都市は去り際の駄賃とばかりに米軍艦艇から砲爆撃を受けている。米艦隊からは無人飛行爆弾の模倣品まで発射されたがこちらは数が少なかったため、内陸部の混乱を拡大する以外の効果は上がっていない。

 エセクターやサウサンプトンなどの海からやや離れた都市も狙われた。合衆国海軍は砲弾内に噴射機構を組み込んだ長距離砲弾を実用化していたのである。
 日本海軍のものと比べれば数段劣る代物であったが、それでも艦砲の最大射程が倍近くに伸びており、標的となった諸都市を恐慌状態に陥れるには充分な威力を発揮した。



 直接的殺害だけで50万近く。二次災害三次災害を数えれば、200万以上に達するであろう。
 英本土において史上最大規模のテロ行為をしでかした合衆国人達は、まんまと逃げおおせた。


 彼らは自分たちが英国の地面を離れた瞬間に、悪辣なファシスト勢力は事前の取り決めを無視して攻撃してくると確信していた。
 的外れな想定ではない。
 協定軍は実際に追い打ちの準備を整えていた。ブリテン島の港湾や人員になるべく巻き添え被害を出さない範囲で、撤収する米軍に対し適当な理由を付けて追撃する予定だった。

 敵を囲むと死に物狂いになって暴れるので、あえて包囲網に穴を開け逃れさせてからその後尾を叩け。古代から変わらぬ兵法の基本である。


 なので商家の金庫を破った押し込み強盗が家屋に火を付けてから逃げ出すのと同じ感覚で、米軍は置き土産を炸裂させた。
 追いつめられた人間はどのような蛮行も辞さない。合衆国人達は現在間違いなく追いつめられていたし、伝統的に「敵に最も損害を与える」戦法を選ぶ生き物なのである。

 実行者達は合衆国的合理主義、あるいはアングロサクソン的無節操さを発揮して容赦なく放火装置を作動させた。彼らは己の都合次第で良心を出したり引っ込めたり出来るという意味で、典型的なアメリカ人だった。


 恐るべきは、英本土爆殺計画は実行の一年近く前から組み上げられ秘密裏に準備されていたことだ。通常ならば何処かで起きるはずの情報漏洩は企画者の巧妙な手腕と実行者達の宗教的結束力により食い止められている。

 合衆国の物資がなければ飢え死にするしかない英国政府が不穏な噂のもみ消しに尽力した事もあり、春頃から市井に流れていた「ヤンキーが英本土からの撤退に備えて英国のあちこちに爆弾を埋めている」という風聞は戦時にありがちな噂話として扱われた。
 戦時には妖しげな噂が流れるものであり「日本人の背後には爬虫類から進化した地底人がいる」とか「宇宙人の飛行艇が南ドイツの片田舎に墜落して回収しようとしたドイツ軍と宇宙人との間で戦闘になった」といった噂話を、本気に取る者は立場がある層ほど少なかった。

 ルメイ少将は猛将としての一面が知られているが、本質的には知将であったと見るべきだろう。
 作戦以下の次元では世界最高に近い策略家である彼が第三帝国打倒計画(神経ガス大量散布によるルール工業地域殲滅)と平行して練り上げた、英本土撤退時における遺棄戦力の処分計画は完璧であった。
 それはメキシコシティでは不完全に終わった都市破壊作戦の完成形だった。


 米軍は撤収に成功した。突発的な機関不調により速度が出せず殿となった戦艦サウスダコダを始めとする一部の艦船は、Uボート部隊とアイルランド空軍攻撃隊による集中攻撃で沈んだが、兵員の9割以上は北米本土へ帰還した。
 協定軍が想定外の事態に混乱していた為でもあるし、イングランドでの消火や避難誘導、負傷者の救護などに手を尽くさなければならなかった為でもある。

 自軍の追撃に当たる協定軍戦力を減らし撤退時の損害を押さえ、英国が対米戦へ加わる余裕を奪い、遺棄した重装備や燃料弾薬を敵に渡すことなく処分し、本土決戦の準備に必要な時間を稼ぐ。軍事的には見事な成果であった。

 英本土が受けた損害の影響により、42年春に予定されていた協定軍のノヴァスコシア方面上陸作戦は無期限の延期となる。
 協定軍が北米へ向かう攻め口を一つ潰した訳であり、くどいようだが軍事的に見れば意義のある行動であった。


 因果応報かもしれない。
 7月14日の惨劇は昨日までの同盟者に対する仕打ちという点で、英国軍がブレスト港のフランス軍に対して行った奇襲と同様の行為であった。カエルの子はカエルであり、アメリカ合衆国の親は大英帝国である。


 なお、英国首相ウィンストン・チャーチル氏はこの事件の後、姿を消す。
 戦艦サウスダコタに座乗していて諸共に沈んだともロンドンの惨劇を知って服毒自殺したとも言われるが、何にせよ彼は未だ遺体すら見つかっていない。

 彼だけでなく元首相ネヴィル・チェンバレン氏、労働党党首アトリー氏、オーキンレック大将ら軍の幹部たち、マウントバッテン卿を含めた王族と貴族達。それら多くの有力者や著名人が惨劇とその後の騒動の中で倒れ、あるいは消息を絶つ。
 英国王ジョージ6世と王妃エリザベスは後日、無事北米へたどり着いたと発表されたが、それ以降公式の場に姿を見せることはなかった。


 最終的には北米へ亡命した者も含めて、英国議会の代議士は過半数が消えた。
 官僚機構にも民間にも産業にも甚大な被害を受けた英国はこのテロ攻撃により統治能力を失う。
 ロンドン市とその周辺に蓄積された書類や書物、地図にフィルム、紙幣に証券。それら記録という記録のほぼ全てが灰となったからでもある。
 僅かながら持ち出せた書類もあるし、燃えていない場所に保管された写しも存在しているので全滅ではない。全滅ではないのだが、何処に何の書類があるのかすら分からない現状ではどうにもならない。
 証券取引所は燃え尽き、金融や保険関係を含めた有力企業が次々と倒産あるいは消滅した。


 惨劇の夜とそれからの二週間で、英本土はそれまでの二年余りの期間よりも痛手を受けた。
 1941年8月1日、英国に進駐した協定軍欧州司令部はイングランド地域に軍政を敷く。大英帝国は滅亡した。




     ・・・・・



  【1941年8月29日 午前6時16分 北アメリカ テキサス州 最前線付近上空】



 夏が終わろうとしていた。



 特徴的な紡錘形の胴体を持つ戦闘機が2機、北を目指し飛んでいる。
 塗装と識別表は日本軍のものだが、乗っているのは日本人ではない。

 戦闘機隊の分隊長、ラクチャート・スィークンシチャイ少尉は操縦桿を握りつつ、対地支援の出番が来ないことを願っていた。
 ラクチャートは誇り高き戦闘機乗りである。征空戦闘も敵機迎撃も望むところだ。しかし対地攻撃はやりたくない、命が幾つあっても足りない。

 彼の乗る戦闘機、P39改は素晴らしい兵器である。力強い発動機に頑丈な機体構造、絶大な火力、分厚い防弾版、素直な操縦性、信頼できる電子機器。前線の操縦士が求める性能が満たされている。
 原型の機体は異常振動やオイル漏れに悩まされたという話だが、現在はパナマ沖にいるはずの特設工作船ぱれるも丸船内工廠で生まれ変わったこの機体は不具合と無縁である。

 日本帝国の工業力も無限ではなく、彼らも積極的に鹵獲品や現地生産兵器を戦力として自軍へ組み込んでいた。
 改造改修を加えて採用された合衆国製戦闘機の中でも特にP39改は高く評価されていて、その姿形から日本兵達にカツブシなる愛称を付けられている。実際の話、P39改は前線の兵達にとり鰹節以上に毎日欠かさず欲しい代物だった。

 だが、P39改は対地攻撃には向いていない。速度が速すぎるのだ。歩兵の支援や戦車の始末はもっと遅くて安定した飛行特性の機種にやらせるべきである。
 耕耘機に人より速く走れる能力の需要がないのと同じ理屈だ。対地攻撃なら96式軽爆撃機でよい。

 P39改に搭載された37㎜機関砲1門、20㎜機関砲4門、12.7㎜機銃2門。素人なら、この火力を対地支援に使いたいと考えてしまうのも無理はない。だが素人に空のことを口出しされては困る。
 厄介なことに玄人である日本陸軍の操縦士達までもがP39改を対地支援に使っていた。強く反対する声をラクチャートは日本人達から聞いたことがない。彼らにとって迎撃機による地上攻撃は許容範囲の危険であるらしい。

 サムライの末裔達はそれで良いのかもしれないが、バンコクの富裕層出身者には付き合いきれない。故郷では親兄弟と婚約者が待っているのだ。
 何が何でも生きて帰る。尉官の義勇兵という、二重の意味で好き好んで戦場へ来た身であったがそれはタイ出身青年将校の偽らざる本音だった。


 彼に幾らかの余裕があれば自己の置かれた状況に可笑しみを感じただろう。合衆国の工場で作られ日本軍の工作船で改造された機体に、タイで生まれロシア式に訓練されたラクチャートが乗って、豪州人と共に戦っている。実に奇妙な話だ。

 二次大戦は航空機の戦いでもある。日独伊の協定軍主力、ロシア赤軍、そして合衆国軍。大戦の中で特に大規模な航空戦力を動かしたこの三勢力は、実を言うと基を同じくする教練形態によって飛行士達を育てていた。
 かつて党大会で「我々は西欧列強に対し半世紀は遅れている。追い付けなければ滅びるのみ」と主張した指導者により赤軍の航空戦力は急速に整備された。
 民族レベルでの合理性発揮と後発者の強みの合わせ技で、赤軍の操縦士育成機構は諸国空軍とは隔絶した大量教育が可能となる。

 30年代半ば、シベリア経由で亡命した赤軍将校により日本陸軍へもたらされた大量育成理論は、その当時陸軍内部で爆発的に拡大していた永田派ら改革勢力に受け入れられ、Gと呼ばれる秘密結社の戦略に取り込まれた。そして防共協定諸国の軍事交流で欧州に伝播する。
 合衆国もまた後発の強みを逝かす組織作りに成功し、ロシア式教本に手を加え自分好みにした大規模操縦士育成機構を手に入れる。新大陸で激突する航空兵力は兄弟弟子のようなものであった。


 開きっぱなしの無線から肉声が途切れ途切れに続いている。どうやら地上の味方が劣勢にあるらしい。
 ラクチャートは視覚と聴覚から得られる情報を組み合わせ、瞬時に作戦を決定する。肉眼でもPPI表示板でも味方管制局からの情報でも、周辺上空に敵機の影はない。敵は下側だけにいる。

 「これより降下し低空域の敵機排除に移る。付いてこい」

 僚機を引き連れてラクチャートは急降下した。眼下には数輌の味方車輌、いや一輌の戦車が数珠繋ぎに牽引する数台の荷車が列を成しており、その上と周りに難民達が群れ、動き、逃げ惑っている。

 彼らを襲っているのは数機の航空機、姿形から見てP40であるようだ。
 旧式よ鈍足よと協定軍の航空兵達に嘲笑われつつも、安価で使いやすく頑丈なこの敵機は未だに北米の戦場を飛んでいる。征空戦には不向きでも対地支援に使うなら充分な性能を持っているのだ。

 難民達から1㎞ほど離れた街道傍で燃えている複数の戦車は、敵か味方か解らない。どうでも良い。今は無視して構わない。戦場では生きている者にしか構う価値がない。


 程なく、3対2の戦闘機同士で空戦が始まった。上空に位置したことと機体性能の優位により、数の差は問題とならずP39改側が順当に勝利し、3機のP40は全て撃墜された。
 ただし完勝とはいかなかった。P39改一番機は最後の敵機を撃墜した直後に敵機の千切れ飛んだ翼と接触し、制御不能となって墜落したのである。



 翌日の正午近く、操縦席で半ば潰れていたスィークンシチャイ少尉の遺体を回収した日本軍偵察部隊は、回収不可能と判断したP39改の残骸を爆破処分する作業中に付近で行き倒れていた友軍負傷兵を発見し、救助した。

 その負傷兵、豪州軍第一機甲師団所属の戦車操縦士チャールズ・ギブスン伍長は戦車小隊の一員として前日朝の戦闘に参加していた。
 彼らは敵遊撃戦車6輌を撃破した後、難民達を追跡する敵戦車と随伴歩兵部隊を迎え撃ち撃退したが、その直後に現れた米戦闘機の襲撃を受けた。短くも激しい対空戦の結果、敵機撃墜1を引き替えにギブスンらの戦車小隊は壊滅する。
 液冷発動機搭載のP40は冷却装置が弱点であり、弱点に命中しさえすれば戦車の天蓋に搭載された12.7㎜機銃でも撃墜可能であった。態度に見合う域に達していたミラーズ中尉の技量は、戦車による戦闘機撃墜という稀な戦果を上げたのだ。

 ギブスン伍長は対地ロケット弾により破壊され燃え盛る戦車から只一人脱出できたものの、足を負傷しため満足に動けず丸一日かけて10キロほど離れた友軍戦闘機残骸近くまで這い進んで、そこで気絶したのである。
 前線基地への帰還後、ギブスンは治療のため難民達の生き残りと共に航空便でベラクレス市に輸送された。彼はこの空路で知り合った難民の幼女を12年後、妻とする事となるのだが現時点では知る由もない。



 戦局の悪化と国内の昏冥、そしてFBI長官暗殺疑惑から続く機密漏洩の連続により大義を見失い絶望した合衆国人達の一部は連邦外への脱出を試みた。
 テキサス南部の最前線でも難民は途切れることなく現れた。難民が連合軍勢力に見つかって捕らえられあるいはその場で殺される事件や、協定軍が前線で保護した亡命者を巡って戦闘が発生する事例も頻発した。
 協定軍は宣伝放送などで合衆国民に向け亡命の困難と危険を訴えたが、テキサスから南に向かう難民は増えはしても減ることはなかった。

 米国側とメキシコ側、最前線を挟んで対峙する両軍は近く訪れるであろう決戦の季節に備えるため守りに徹していたかった。8月末に最前線で起きた衝突も、軍上層部にとっては些事に過ぎない。

 機密文書が難民に紛れて運ばれている、という不確かな情報に浮き足立った米軍が前線へ戦力を逐次投入することも。
 敵の動きに過剰反応した協定軍が戦力を投射し、戦闘に発展することも。
 戦闘により難民の半分以上が死んだことも。
 今回に限れば実在した機密が、既に複数の経路で日本帝国に売り渡されていたものと同じであったことも。
 その機密書類、大統領命令文書の写しの内容には、今となっては政治的にも戦略的にも何ら価値が無かったことも。
 テキサス戦線ではありふれた日常であった。

 当時ベラクレス市に滞在していた北米総軍司令官、林銑十郎元帥は8月29日の日記にこう記している。「本日平穏。嵐の前の静けさか」、と。


 二度目の大戦の、三度目の夏が終わり始めた。
 未だ実感していない人々は多かったが、戦争も終わりが始めまろうとしていた。




続く。



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