その二『ヒトラー総統の童心』
ハインツ・グデーリアン大将が「仕事で一番大事なことは何でしょう?」と問われたならば、迷わず彼は「他者を尊敬することだね」と答えるだろう。
嫌いな者の話を聞ける人間は少ない。
自分を嫌っている事が明白な相手の話を聞ける人間は更に少ない。嫌われている理由が理不尽なものであるなら尚更だ。
いや、嫌悪ならまだ良い。
これが軽蔑ともなると、とんでもなく厄介だ。
考えてみて欲しい、貴方は貴方を人間の屑として軽蔑しきっている相手の話を黙って聞く気になれるだろうか?
貴方の目の前で ただ単に運が良かっただけで高い地位についている、人間の屑としか言い様のない無能卑劣な愚者が世迷い言を延々と述べている状態で、貴方は正気を保てるだろうか。
ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーとドイツ軍総司令部(OKH)の関係は、大雑把に言えばそういうものだった。
これが双方の誤解であるならまだ救いがあるのだが、事実なのだから困った事になる。
ドイツ軍総司令部(OKH)を構成するプロイセン軍事貴族たちからすれば、総統が彼らに対して抱いている悪意はオーストリアから逃げてきた、木っ端役人の息子がルサンチマンを燃やしているに過ぎない。
一方ドイツの救世主を自認するヒトラーから見ればドイツ軍総司令部(OKH)は、祖国を滅ぼしてでも特権を死守せんとする腐れ貴族の巣窟でしかない。
私生児の息子であり、挫折した芸術家であり、名も無き一兵卒であり、泡沫政党の中途参加者であったヒトラーがルサンチマン(怨念)の塊であることは紛れもない事実だ。
だが、一方のプロイセン軍事貴族が過去の栄光に囚われ硬直しきった組織を改善できない、腐敗と怠惰にまみれた無能集団であることもまた事実なのだ。
総統が素人であることが確かなように、OKHをはじめとするドイツ軍上層部が無能であることも確かだ。
まともな組織は最高幹部である参謀総長に一日当たり20時間以上の実働勤務を強いたりしないし、元帥位にある長老格の軍人に座席を温めるだけの任に就けることもない。
先の世界大戦における敗北はユダヤ人の陰謀などではなく、ドイツ軍上層部の無能こそが原因なのだ。人事の硬直、限度を知らぬ派閥抗争、責任の所在が不明瞭な指揮系統、現場の士気を削るだけの広報、破綻した兵站‥‥どれか一つでも解決していたならば、あのような無様な敗北は有り得なかった。
まあ、ユダヤ人の陰謀について言うなら、宣伝省が繰り返しているプロパガンダ(宣伝)の半分でも本当ならば今頃はナチス党本部どころかドイツ全土が廃墟と化している筈だ。総統は縛り首、グデーリアンは銃殺、国民は死かユダヤの奴隷かの二択を迫られているだろう。
グデーリアン大将自身も、自分が所属している組織の頑迷さに悩まされ続けてきた。
確かにアドルフ・ヒトラーは軍事の素人だったが、素人であったからこそ電撃戦構想を支持したとも言える。総統の無茶振りは既存の組織に混乱を与えることが少なくなかったが、その無茶振りの結果として風通しが良くなったことも多々あったのだ。
独裁政治の長所は一度独裁者を知己としたならば、後は独裁者個人の好意を得さえすれば国家の意思決定に関われることだ。少なくとも話ぐらいは聞いて貰える。
そしてグデーリアン将軍が選んだ独裁者の好意を得る方法は、ヒトラー総統個人を尊敬することだった。
実行には少なからぬ努力を必要としたが、難事と言うほどの行為でもなかった。
なんと言ってもヒトラー総統は祖国の指導者であり、しかも国威と領土を取り返した指導者だった。グデーリアンの電撃戦構想を採用して機甲部隊を造り上げた実績からも、凡庸な人物でないことは明らかだ。
もちろん尊敬するだけで誰もが他者の好意を勝ち取れる訳ではない。ないのだが、グデーリアンに限れば総統からの個人的好意を得ることは容易かった。
尊敬に値する人間から敬意を受けて喜ばない人間は、まずいない。
そしてハインツ・グデーリアンは万人が敬意が抱くに値する人物だった。有能で、職務に誠実で、祖国に忠実であることは彼にとって呼吸も同然なのだ。
賄賂やゴマスリの類と違って細かい気配りも元手も必要ない。グデーリアン将軍は彼らしく振る舞う、ただそれだけで総統個人の好意と信頼を得ているのだった。
1939年3月6日の午後、ハインツ・グデーリアンはベルリンにいた。
「忙しいところを呼び立ててすまんな、将軍」
「電話で話せない用件ならば致し方ありません、総統閣下」
「うむ。会議の度に人間が一々動く手間が無駄だな。電気式暗号装置の開発を急がせねばならん」
十年後か二十年後には画期的な暗号装置が開発され、遠方の要人と盗聴の心配なしに話せるようになるかもしれないが、今現在は無理だ。
現在ドイツ軍が使用している暗号装置『エニグマ』シリーズは優れた機械だが、換字式である以上解読される危険性がある。まあ、もともとエニグマは電報には使えても電話には使えないのだが。
「さて、話の前に一つ聞きたいのだが」
「はい」
「どうだね、日本製の戦車は使い物になるかね?」
グデーリアンは快速部隊総監として戦車などの研究を統括する立場にある。現在、彼と彼の部下たちは極東の同盟国から送られた戦車や装甲車やそれらから派生した兵器、日本製の車輌などについて研究を進めていた。
「報告書は鋭意制作中です。数日中にはお届けできるかと」
「余は今知りたいのだ。大雑把な印象で構わぬ、答えよ」
「使えるか使えぬかで言うならば、使えます」
ドイツきっての戦車通であるグデーリアンの目で見て、タイプ97戦車は良い戦車だった。
自重17トンの車体に400馬力の高出力エンジンと長砲身の57ミリ対戦車砲を搭載し、良好な機動性を誇るが装甲も薄くなく、機械的信頼性も良好だ。
全ての車輌に高性能かつ信頼性抜群の無線機が装備されている点もグデーリアン的に高得点だ。ただ小隊長用戦車の砲塔周囲に付いている手すりのようなアンテナは頂けない。
設計者と会えたなら「誰が指揮官なのか敵に分かりやすくしてどうする」と、じっくり問い詰めたい所だ。もちろん国防軍に編入されている100輌あまりのタイプ97戦車は全ての車輌にアンテナを増設して、見分けを付けにくくしてある。
その他にも車体前方機銃がないことや履帯(キャタピラ)の幅が狭く泥濘などに比較的弱いことなど、幾つかの短所があったが致命的とは言い難い。運用の工夫でどうにかなる程度のものだ。
「戦略的な意味でも使えるかね。例えばタイプ97を四百輌ほども用意できたなら、一個機甲軍団を編制し運用できるだろうか」
「戦車以外の、必要とする物資と人員を共に与えてくださるなら存分に」
「そうか。では頼む」
「は?」
ヒトラーは椅子から立ち上がり、後ろ手に組んで部屋を歩き始めた。
「日本から近日中に送られてくるのだよ。タイプ97三百輌とトラック三千輌が、三個機甲師団を編制できる物資と共にな。半分は予備と部品取り用に回すとしても、一個機甲軍団を編制するには充分だ」
「三個師団分とは気張りましたな。彼らも車輌が余っている訳ではないでしょうに」
「費用対効果の問題だ。地球の反対側へ師団規模の部隊を送り込み戦力として維持することに比べれば、物資のみを提供した方が結果的に安上がりになる。東洋の友人達はそれをスペインで思い知らされたのだ」
反共を国策として掲げる極東の帝国は、ドイツやイタリアと同じくスペイン内戦において国粋派を支援し、義勇兵も送っている。極東から派遣された兵力は旅団規模の陸兵と数個大隊の航空部隊に過ぎなかったが、彼らが遠隔地に軍を送り戦わせ続ける困難を思い知るには充分な規模だった。
故に日本帝国は独逸を始めとする、敵の敵である欧州諸国へ物質的な支援を送る訳だが今回の件については些細な誤解が存在した。
総統や第三帝国の高官達は「三百両の戦車と三千両の自動貨車を含む三個機甲師団分の物資」と受け取ったが、大島大使は「三百両の戦車と三千両の自動貨車に加えて三個機甲師団分の物資」と伝えたかったのだ。
つまり実際に届く97式戦車の総数は500を越える訳だが、双方がこの誤解に気付くのは二週間ほど後になる。
「スターリンは失態を重ねすぎた。故に勝利を求めている。国境線を巡る小競り合いなどではなく、目に見える大きな勝利を」
「ポーランドで ですな」
「そうだ。東方で勝利を求めようにもその前にシベリア鉄道とウラジオストックを再建せねばならん。南方では英国と衝突する可能性がある。かといって北方では実入りが少なすぎる」
ロシアから見ると北欧情勢も決して安心できないのだが、西方向と比べれば緊急性が低い。
言い換えれば、赤軍がフィンランドを瞬殺してもポーランドが腰を抜かして白旗を上げる可能性は低いのだ。その逆はまだ有り得る。
「そこそこ大きく、それでいて簡単に仕留められる獲物は他に見あたりませんからな」
ポーランドは決して小国ではない。潜在的には大国に分類できるだけの国力を持っている。
だが、対するソヴィエト・ロシアはあまりにも巨大過ぎた。そしてポーランド首脳部はロシアよりもむしろドイツを警戒している。飢えた熊にとって恰好の獲物である。
ソヴィエト赤軍とスターリン政権は勝利に餓えていた。
「ノモンハンで日本軍に大敗したが故にスターリンと赤軍は勝利を欲し、赤軍の醜態を知ったが故にポーランド首脳部は増長し、日本は現物支給でドイツへ報酬を払い赤軍の足止めを図る」
「人を勝手に傭兵にしてしまうとは、困った友人ですな」
「全くだ。だがドイツの友人は少ないのだよ。特に頼りがいのある友人はな」
ポーランドがソヴィエト・ロシアに席巻されるのはまだ良い。
いや、国防的に言えば全然良くないが自業自得だ。周囲全方向、特にドイツへ向けて陰に日向に嫌がらせを繰り返し、喧嘩を売り続けてきた報いを受けるときがついに来たのだ。
しかし巻き込まれる側はたまったものではない。ついでで踏み潰されることが確定しているバルト三国が哀れだ。つくづく小国弱国には生まれたくないと思ってしまう。
ドイツもまた当事者だ。バルト三国の隣りには東プロイセンがある。ポーランド国内が赤軍の軍靴に蹂躙される時、その領土に囲まれて存在する東プロイセンが無事で済む訳がない。共産主義者にはドイツの母胎とポーランドの区別などつかないのだから。区別する気は最初からないだろうが。
「東プロイセンの復帰こそドイツの悲願、退く訳にはいかぬ。かの地を見捨てたならば、余はドイツの指導者たる資格を失ってしまうだろう」
回廊で、陸路で繋がっていない飛び地など取り返していないのと同じだ。昼間街へ出て来れるとしても、夜は帰らねばならない女は所詮籠の鳥。孤立した東プロイセンを真の意味で取り返してこそ大ドイツ帝国の復活は成る。
グデーリアンは直立不動の姿勢でヒトラーの言葉を待った。
彼はユンカー(土着貴族)の出身ではないが、生まれも育ちも東プロイセンである。総統が覚悟し、祖国がこれから行う戦争は彼の故郷を守るための戦いなのだ。
「グデーリアン、卿を新設する第19機甲軍団の指揮官に任命する。急げよ、熊どもは早ければ5月には動き始めるぞ」
「ヤー、マインフューラー。ハイル・ドイッチェンラント」
「ハイル・ドイッチェンラント」
祖国を守れぬ軍人に意味がないように、国民を守ろうともせぬ指導者に意味などない。
ごろつきに娘を差し出せと言われて素直に引き渡す男に、当主など務まらない。
ガキの理屈と呼ばば呼べ。
アドルフ・ヒトラーは色々な意味で子供っぽい人物であり、その言動や政策には良くも悪くも人格の影響が出ている。
だが、グデーリアンはそれで良いと考えていた。
もしも総統が老成した常識的な人物であったなら、電撃戦構想どころか軍の再建すら成されていなかったかもしれない。
オリンピックの成功もラインラントなどの領土復帰もあり得ず、祖国には貧困と混乱が満ちあふれていた筈だ。
ある意味で、現在のドイツ三軍はヒトラー個人の童心の産物であった。そして子供じみた正義感が、東プロイセンを見捨てさせない。
グデーリアンに不満はない。軍と軍人は戦うために存在する。
祖国と国民を守るために戦い、勝利する。二十年前に果たせなかった願いを、今度こそ叶えてみせる好機だ。
「ところで総統閣下、電話では話せない用件とは何でしょうか」
「それも日本絡みだ。余の戦略に少なからぬ変更を加えるに値する情報が入ってな、卿の理解を得ておかねばならん」
ヒトラーは執務机の後ろに置いてある小さな漆塗りの箪笥を開け、引き出しを一段引き抜いて机の上に置いた。
「ヘル・オーシマからのプレゼントだよ、古代から現代までかの国で流通していた硬貨のコレクションだ。このケースに入っているものは16世紀のものだ」
ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーには幾つかの悪癖があった。その一つが、「重要な説明を行うときに前置きとして歴史を題材とした演説をしたがる」というものである。もちろん重要でない話題の時にも演説したがるのだが。
「これが天正大判、世界最大の金貨だ。16世紀後期にかの国の内乱を平定した豊臣秀吉は自作農階級出身の一兵卒からカイザーに成り上がった英雄だが、それ故に権力基盤が弱く‥‥」
悪癖ではあるのだが、我慢できない程ではない。それに最近は頻度や時間を控えるようになってきた。
もっとも総統が長話を控えるようになった理由は、以前にグデーリアンが「総統、前置きが長すぎます」と諫言したが故なのだが、本人は気付いていない。
そんなわけで、ハインツ・グデーリアン大将は彼なりにアドルフ・ヒトラー総統を尊敬していた。その敬意は総統が祖国の繁栄と国民の幸福のために働き続ける限り続くだろう。
もちろん、総統が失策を犯し祖国と国民に害を与える存在になってしまえば、話は別だが。
続く。