その十六『経度0度の激闘』
軍事に限らず、組織だった行動には理論の裏付けが必須である。近代以降は特に。
近代以降人間の活動は複雑大規模化する傾向にあり、組織化しなければまともに組織を動かせない。
組織化するには組織を動かす人々が理解できる仕組みが必要で、仕組みを他者に理解させるためには物事の理論化が必要なのだ。
事象は解析され、事実から法則性が導き出され、理論化される。理論は実践され成功または破綻し、有効性を認められたものが次に作られる教本に残る。
しかし、ある時点やある場面で正しかった理論がその後も常に支持されるとは限らない。軍事的なものおいても後々まで永く使われ続けるものは少ない。技術や理論は地勢や政治状況などの環境によって使われる前提が変化するからだ。
孫武の戦略論のように、原文そのままでも数千年の長きに渡って価値を認められ使われ続けるものはいたって少数派である。
中世欧州の「重装騎兵最強論」などは、土地が貧しく人口が少なく、製鋼や木工や皮革膠骨の加工技術で遅れ、立案面でも実行面でも作戦能力が著しく低い小規模な軍隊しか存在しなかった中世欧州という特殊な環境であるからこそ、一世を風靡した。
偏った環境で育まれた理論はより進んだ発想・技術を持つ個人や集団と遭遇して粉砕される。歴史上では珍しくもない事例だ。
もしも中世欧州に当時の知将名将たちの采配を解析し理論化し実行できる勢力が現れていれば欧州史は違っていたかもしれないが、そんなことができる余裕など何処にもないのが中世欧州という時空間である。
スキピオがハンニバルを追い付き追い越せたのは、彼がローマ人でありローマの国力を活用できたが故だ。
ナポレオンは中世フランスでも余裕で傭兵隊長として名を馳せたであろう。武勲を積み上げて立身出世し、高位貴族の一員となることも夢ではない。
だが参謀本部は中世プロイセンには存在できない。社会そのものに資本と意識の蓄積が足りなさすぎる。
二度目の世界大戦で証明されつつある軍事理論のなかには、戦略爆撃理論と戦略爆撃絶対主義との相克というものも存在する。
戦略爆撃そのものは前回の欧州大戦で既に行われており、その効果と限界も既に証明されている。
が、しかしその限界は量的な問題によるものであり、技術の発展により解消されると主張する者達が存在した。有名人を挙げるとジュリオ・ドゥーエやヒュー・トレンチャードなどだ。
彼らは要約すると
「戦略爆撃の効果が限られるのは運搬される爆弾の量が足りないからであり、膨大な物量を敵国内の都市部に送り込み市街を破壊し敵国民を大量に殺傷しさえすれば戦争に勝てる。
今後の戦争は大量の爆弾を搭載し高々度を高速で長距離飛べる大型戦略爆撃機が主体となり、いかにして自軍の戦略爆撃機を敵国本土に送り込み自国本土に敵軍の戦略爆撃機を入らせないかが焦点となるだろう。
いずれ近いうちに完成される「ぼくのかんがえたすごいせんりゃくばくげきき」は偵察もできるし、戦闘機ごときでは撃墜されない。
だから戦闘機はいらない、偵察機もいらない。軍艦もいらないから廃棄して、その分の予算を戦略爆撃部隊に回そう。
戦略爆撃は完璧で万能なんだよ、それが解らない奴は頭が悪いんだ。
敵が行動する前に戦略爆撃すれば敵の反撃手段と継戦能力を奪えるから、これからの戦争は戦略爆撃機さえあれば事足りる。
だから我々戦略爆撃派閥に予算と出世の道をよこしなさい無能と老害ども」
というようなことを主張したが、彼ら以外の軍人や官僚や政治家達は小学生風にいうならば
「んな訳ゃないだろ、ばーかばーか」
と、省略できる返答をして戦略爆撃教徒たちの主張を却下した。却下された教徒達はしつこく自説を唱え軍内外で布教に励んだため弾圧された。
例えば米陸軍では戦闘機無用論を掲げ続けていたウィリアム・ランドラム・ミッチェル准将が1926年に退役に追い込まれ、彼の弟子筋にあたる熱心な信奉者達もその多くが左遷されたり出世が遅れたりと冷遇された。
しかし弾圧すればするほど強靱になるのが宗派(カルト)というものであり、戦略爆撃教原理主義過激派は各国の軍でしぶとく生き延びていた。地政の都合で「我が軍には高性能な大型爆撃機が必要」と言い張りやすいアメリカ合衆国には特に多くの生き残りがいた。
やがて列強各国で同時多発的に、爆撃機絶対論を掲げる戦略爆撃教徒たちは限られた予算を取り合う近縁者を攻撃すべく「戦闘機無用論」を提唱した。もちろん彼ら教徒達は殆どが各々の祖国に忠誠を誓っており他国の教徒と連携などしていなかったが、同じような立場にいれば人間の考えることなど何処の国でも変わらない。
戦闘機無用論とは単純化すれば「大型爆撃機は単発小型の戦闘機より強い」と主張するものだが、確かに最新鋭の傑作重爆撃機は旧式や欠陥品の戦闘機ならば振り切る事ができた。無論「作戦次第で」、という枕詞は付くが。
戦闘機無用論は航空関係技術が長足の進歩を遂げた30年代半ばの時期に各国で隆盛を極め、急激に失墜した。
日本やドイツの演習空域で粉砕され、チャイナやスペインなどの戦場で爆撃機の残骸と共に撒き散らされた。
現在では護衛なしの大型爆撃機が戦場を飛ぶことは自殺行為だと、戦略爆撃教徒以外の軍人達全てが認めている。現実を認められない者は軍人ではない。
確かに爆撃機が戦闘機を振り切れることもある。しかしそれは「白いカラス」と同じく例外的な事例である。縞馬が獅子を蹴り殺すことも偶にあるが、檻の中で戦わせたら大概の縞馬は獅子に食われるのだ。
戦闘機無用論は排斥されたが、戦略爆撃そのものの価値は今次大戦でも認められているし実行されている。
しかし絶対的に戦略爆撃を信仰する原理主義者たちにとっては量的にも質的にも、つまり予算と権限の面で物足りないものでしかない。故に合衆国陸軍航空隊の一部は協定諸国に対し彼らの流儀に則った戦略爆撃を試みて、失敗を続けていた。
無理に無理を重ねてフィリピンに配備した初期型のB17爆撃機は、初期故障と整備不良と悪天候と性能不足と無謀すぎる作戦により戦果らしい戦果をあげる前に壊滅している。
海軍の空母に陸軍の長距離爆撃機を積み東京を奇襲せんとする奇策は日本海軍の哨戒網を突破できず失敗に終わり、米海軍は貴重な艦隊空母を含む一個任務部隊を失い、作戦参加者の殆どが未帰還となった。
米本土に配備された大型爆撃機群は沿岸と航路の防衛に手一杯であり、敵に占領された西海岸への大規模攻撃に使う余裕がない。
ブリテン島に居る連合軍航空隊は何度か欧州西海岸へ大規模攻撃を試したが、その度に攻撃側の未帰還率が5割以上を占めるという散々な結果に終わっている。しかもハンブルク市やキール軍港などの攻撃目標へ被害らしい被害を与えられなかった。
大半の爆撃機は洋上で迎撃され墜落するか、迎撃機と接触する前に爆弾を捨てて退避したからだ。
防空体制の穴を突く事に成功した11月2日のブリュッセル空襲は投弾成功率の面で及第点だったが、沿岸部と都市周辺に林立した高射砲塔群と遅れてやって来た迎撃機によって未帰還率七割以上という大損害を受けた。
参加した72機の重爆撃機のうちブリテン島へ帰り着けたのは僅か18機に過ぎない。
第三帝国宣伝省のいう欧州要塞、その具現である高射砲塔(フラックタワー)A型は、ドイツ海軍のリュッツオー級装甲艦そして日本海軍の伊吹級大巡と同じ三連装28センチ砲を二基、Z級駆逐艦および冬月型駆逐艦と同じ三連装12.7センチ砲を二基備え、しかも各砲塔の照準能力と連射性能は艦艇に搭載されたものを上回っていた。
更にメートル単位の鉄筋コンクリートにより戦艦以上の装甲防御力を持ち、弾薬搭載量も艦艇以上だ。
三連装15センチ砲や単装88ミリ砲で武装したB型や無数の40ミリ機銃を生やしたC型など、各種高射砲塔そして電探設備の建造は出資者の意向もあって積極的に進められている。
高射砲塔は付近の電波探信儀(レーダー)施設から送られてくる射撃緒元が正確であれば、無敵の対空兵器なのだ。
ドイツやスペインなど、協定諸国領土の守りは日々高められている。迂闊に手を出せば手痛い損害を受けることは明白だった。
余談気味ではあるが、ドイツ占領下の国々で高射砲塔などの軍事施設や軍需工場が建てられ活動したため、現地の景気は一時的にだが回復した。現在建設中の合成ガソリン工場郡が稼働すればベルネクス諸国の燃料事情も一気に改善するだろう。
占領軍が思いの外秩序正しく紳士的だったこともあり、住民感情は良好ではないが決定的に悪くもない。
ドイツ国防軍は相変わらず冷酷非情の戦争機械だったが、故に合理的でもあり占領下の地域にそれなりに配慮していた。「文明国の軍隊は好き好んで非道を働かないものである」というのが協定諸国軍上層部の一致した見解だった。
なんといってもポーランド戦当時と比べれば現在の対英本土戦は物資にも戦力にも余裕がある。誰だって、たとえポーランド政府や国民へ悪感情を持っていない希有なドイツ人であっても、懐に余裕がなければ配慮のしようがない。
戦略爆撃とは攻撃する側へ多大な犠牲と消耗を強いる戦法であり、防御を固めた敵に対して強行すれば出血戦となる。遠距離になればなるほどその辛さは増していく。
ろくな対空兵器を持たない弱小国に対してならば戦略爆撃で一方的に叩けるだろうが、弱い相手には何をしても勝てるのだ。結局のところ戦略爆撃も数ある戦法の一つに過ぎず、「~さえやっていれば勝てる」といった便利なものではない。
「ブリテン島の戦い」は日本軍がチャイナ戦線で行った航空戦などと比べものにならない激戦であり、その負担は合衆国にとってしても楽ではない。
では、合衆国陸軍航空隊による一連の欧州攻撃は無意味で無益な行為だったか、といえばそうでもない。
たとえ爆弾一発であっても敵国銃後に投弾できるならば戦略的に意味がある。
国土や国民を守れない、守ろうとしない軍や政府を支持する国民などいる訳もない。なので嫌がらせ攻撃と解っていても敵が来れば迎撃しない訳にはいかず、電波警戒網や高射砲や待避壕などの設備や施設を整え人員と物資を配備する必要がある。
市民生活上も、敵機が来る度に避難や燈火管制をしていては不便でしかたがないし生産効率も落ちる。
実際に協定諸国はブリテン島からの戦略爆撃に備えて一定以上の迎撃戦力を待機させ続けているし、高射砲塔などの軍事施設を欧州西海岸一帯に作り続けている。
この対空要塞地帯、世に言う大西洋要塞は投下した資金・資源と効果の比率においてマジノ線と比べられるほどに非効率な代物であった。当然ながら協定諸国が国力を防御に回した分、ブリテン島と連合国軍への圧力は減ることになる。
本格的な戦略爆撃ほどではないが、限定的な戦略爆撃でも効果はあるのだ。
【1940年12月20日 午前6時45分 フランス北部 カレー市付近 上空一万二千メートル】
雲海の遙か上、朝日が昇る前の空に銀色の大きなものが浮いている。銀色の太い葉巻に小さなゴンドラのような箱を貼り付けたような飛行物体だ。
軽量素材の骨格に軽量素材の皮を張り、内臓の殆どが空気より軽い気体の詰まった袋で占められているこの被造物は、一般的にツェッペリン式飛行船と呼ばれている。
呼び名は同じでも、派手に爆発炎上したヒンデンブルグ号などと異なりこの時期の飛行船には入念な安全対策が施されている。構造材や塗料は燃えないもしくは燃えにくいものが使われているし、浮力材にも水素やアンモニアなど危険性の高いものは使っていない。
悪天候に弱く収納場所に困るという欠点はあるが、安定性と快適さで飛行船に優る飛行物体はない。しかし戦時の空を飛ぶには飛行性能が中途半端に過ぎた。特に速度が。
飛行船の巡航速度は航空機の数分の一であると同時に高速船舶の数倍であり、飛行船でない移動物体を護衛をつけて移動することが難しいのだ。かといって鈍重な飛行船の護衛に、武装の重みで更に鈍重になる武装飛行船をつけても意味がない。
当然ながら今次大戦が文字通り全ての列強と殆どの先進国が参加する世界大戦となると、大型飛行船の活動範囲は狭くなった。
ベルリン交響楽団の日本遠征も合衆国参戦により中断されたが、それも致し方ない。赤十字の捕虜返還船すら撃沈する軍隊が敵国の楽団や疎開児童を乗せた飛行船を見逃す訳がない。
故に、短期留学や国際親善訪問の名目で北欧や東欧そして独伊から来日していた児童たちは、帰郷のときまでに航路が回復しなかった場合は滞在期間を伸ばすか潜水艦で帰還するかを選ぶことになった。
いや、もちろん選ぶのは児童たち本人ではなく保護者だが。
40年春から秋までの時点では日本と欧州の連絡線は途絶えており、鈍重な飛行船が制空権も取れていない空を突破して日本と欧州を行き来することはできなかった。
無理をしてでも行き来するとしたら潜水艦に頼るしかない。
だが潜水艦でも日本と欧州の行き来が危険であることに変わりはなく、連合軍戦力のひしめく中を突っ切る危険をあえて冒すまでもないと考える保護者が多数派だった。
この判断には日本政府が滞在延長による費用の全額負担を請け合ったことも影響を与えている。
まあ、もしも潜水艦での移動を希望したとしても実際に乗れたかどうかは疑問だが。優先して日本から欧州に運ぶべきものが他にあったからだ。
日本海軍は20日間で東京湾からバルト海まで辿り着ける超高速輸送潜水艦を複数所有していたが、希少な物資やもっと貴重な人材を運ぶだけで手一杯だった。いかに大型で高速でも潜水艦で運べる量には限度がある。
日本政府の申し出は自信の(慢心の)証拠として内外に受け止められた。
一般の日本人達は連合艦隊こそ史上最強の海軍であり、友好国から来た児童達の滞在費負担が重荷になるほど待たされはしないと信じていた。
実際の話、日本海軍は一般的な納税者も外国の児童達もその保護者も長く待たせずに済んだ。
40年1月末に在フィリピン米軍の海空戦力が無力化し3月上旬には米太平洋艦隊が壊走していたが、6月始めの日英開戦から一月余りで東南アジア一帯が制圧され、7月始めにはオーストラリア・ニュージーランド両国と実質休戦状態が成立した。
9月始めにはセイロン島が陥落し、10月上旬にソコトラ島が制圧され、11月上旬にカイロが陥落し、ほぼ同時期にインドの英国軍がデリー周辺を除いて降伏した。
そして11月半ばで、シアトル軍港が日本海軍により完膚無きまで破壊された。鎮火したばかりの空母翔鶴をサンディエゴのドックに突っ込み一週間の突貫修理の後に戦線復帰させるなどといった無茶を押し通しての猛攻から、連戦で疲弊した米軍がシアトルを守りきれる訳もなかった。
まさに疾風怒濤の勢いで、日本海軍は海上通商路を切り開き繋ぎ直していった。日英の開戦から半年もかけずに欧州との連絡線は復活したのである。
復活させねばならなかった。
日本政府と大本営は、欧州戦線が干上がること自体は心配していなかった。日英開戦前から日本は地中海に面した防共協定諸国に、具体的には伊・西・土などに各種資源を蓄える貯蔵施設を作っていたし、輸送手段としても使える使い捨てのコンクリート船を多数停泊させてもいたのである。
実際の話、日本から地中海までの航路が途切れても協定諸国の生産力は殆ど落ちなかった。35年春から40年6月までに日本から送り込まれた資源と物資はドイツ以外の協定諸国に、日本との取り引きが途絶えても一年や一年半は充分戦えるだけの余裕を持たせていた。
残念ながら協定諸国の盟主格であり兵器廠であるドイツにそこまでの備蓄はない。消費に追い付かないのだ。だからドイツは日英開戦以降数ヶ月の間、日本から潜水艦で送られてくる金塊で他国から余剰資源を買い入れて凌ぐ羽目になった。
干上がりかけたというか窮地に立ったのはむしろ日本帝国である。
日本海軍は祖国の財界や政界から通商路の再開をせっつかれていた。北米の市場を完全に失った日本経済には東南アジアとインドと太平洋、そして中東と欧州の市場が必要だった。
日本勢力圏だけでは拡大した円経済にとって狭すぎる。市場だけでなく、投資先として欧州がなければやっていけない。
マンチュリアとチャイナでは満州国と南京国民党の政治力が急速に高まってきている。民族資本強化が進められている両地域は、以前とは別の意味で日本企業にとって旨味の少ない場所であった。
更に言えば、人手不足が限界に近づいていた。戦線と勢力圏が拡大する一方であったのだから無理もない。
もしもアンザック同盟とくにオーストラリア政府が外交方針を急変換しなければ、その結果であるオーストラリアの人的資源供給がなければ日本政府は本土内で学徒動員を強制化していただろう。もちろん強制化しても焼け石に水だが。
何が何でも、一日でも早く日本帝国は欧州との輸送線を復活させなくてはならなかった。オーストラリアの協力は更なる戦線と勢力圏の拡大を意味していたし、代価も決して安くなかったのである。
それほどまでに日本の経済界は即戦力となる人材を欲していた。使えるのならユダヤ人だろうが元赤軍兵だろうが同性愛者だろうが出自や経歴は問われなかった。最低限の意思疎通ができて最低限の倫理が通じさえすれば良いのである。
故にカイロ制圧の翌日から日欧の通商は復活し、日本経済は良質の労働力と消費者の輸入を再開した。
12月に入ってパナマ攻略戦が始まりパナマ付近の軍事施設が軒並み破壊され、南アフリカに上陸した協定諸国軍が順調に制圧範囲を広げている以上、潜水艦を含めた連合国軍残存戦力が太平洋とインド洋から消滅するのは時間の問題だった。
あとしばらくの時が経てば戦って沈むか、逃げ出すか、干からびるかの選択肢でさえ自分では決められなくなるだろう。
通常船舶になりすました補給用仮設巡洋艦が何隻か生き残った程度では、潜水艦は維持できない。魚雷や燃料食料の補給はできても整備が出来ないからだ。
現代兵器とは整備が滞れば長くても数ヶ月で屑鉄同然の役立たずに成り果てる代物であり、潜水艦も例外ではない。
絶海の孤島に設えられた秘密の補給基地が活躍できるのは冒険小説の中だけであり、補給基地への補給線が途絶えてしまえば諸共に干からびるだけだ。
仮設巡洋艦が協定諸国の海軍や沿岸警備隊による警戒網をかいくぐり続けること自体も楽でなく、太平洋における連合国軍潜水艦の動きは急速に鈍っていくのだった。
そんな訳で以前と比べるとかなり遠回りになるが、日本から欧州への空路は40年12月の時点で開けていた。船旅では遅すぎて不都合がある旅行者達は大型飛行艇を乗り継いで動いていたし、数は減ったが飛行船の定期便も復活した。
政府代表としてイスタンブールへ向かった前田利為侯爵など重要人物も利用しているように、航路の制空権が保証されていれば、飛行船は船より速く飛行機より安全な乗り物であり移動手段として需要があった。
定期便が減った理由の一つは旅客用飛行船の数自体が減っているからでもある。大型飛行船のうち何割かは改造され軍務に就いているのだ。
マジノ線やオワフ島へ大型爆弾を投下した同類と異なり、客船から改造した飛行船の任務は直接攻撃ではなかったが前線付近に出ることもあった。
カレー市南方の空に浮かぶこの飛行船も、専用発電機付きの発信器で謀略放送を含む各種の電波を流している。
普通ならば陸地の電波塔から流せばよい電波をわざわざ飛行船で流しているからには、それなりの理由がある。この飛行船もまた、協定諸国軍が誇る電波兵器の一部であった。
【同時刻 ブリテン島南部 サウザンプトン付近上空】
比較的低高度を、陸から海に向かって2機の戦闘機が飛んでいく。
液冷の発動機を搭載した、優美な流線型をした単座の機体だ。素人が見ても高性能と一目で分かる、一線級機体である。
その翼と胴体には蛇の目文様が描かれていた。言わずと知れた英国空軍の所属機だ。一部の同盟国航空部隊と異なり、英空軍の機体は基本的に自軍の識別用塗装規定を遵守していた。
もっとも、国籍偽装を行わない最大の理由は紳士の気概とか空の騎士道ではなく同士討ちを恐れているためなのだが。
飛行中は勿論だが特に飛行場以外の場所へ不時着したときが怖い。先月にはロンドン郊外に不時着した機体から這い出した亡命オランダ人操縦士が、機体に擬態用の鉄十字を書いていたがためにドイツ兵と決めつけられ自警団に撲殺されるという痛ましい事件も起きている。
不幸にもそのオランダ人操縦士は英語よりもドイツ語の方が得意であり、英語を喋るとドイツ訛りが強く出てしまう癖があったのだ。ドイツ軍機に見えるものからドイツ訛りで喋る者が出てくればドイツ兵扱いされても仕方ない。土壇場では飛行服に縫いつけられている程度の記章は目に入らないのだ。
偽装塗装の常習者である米軍の操縦士はというと、自警団に撲殺されるような事は殆どなかった。
彼らは操縦席に拳銃や短機関銃を常備しており、敵地に不時着したとしても全くの無力ではない。猟銃すらろくにない自警団にとっては手強すぎる相手である。
「狐穴からフォックス・ワン、応答願います」
「こちらフォックス・ワン。どうぞ」
「東から敵の新手です。高度九千フィート、速度300ノット、約20機、接敵まで約240秒。繰り返します、東新手、九千、300、20、240」
「了解。迎撃に向かう」
雑音が入るがきちんと聞こえる通信に応えて操縦士は操縦桿を引いた。彼の機体に僚機も続き、2機の戦闘機が上昇を開始する。たった2機で10倍以上の敵に向かうことになるが、相手はどうせ無人の飛行爆弾だ。運さえ悪くなければなんとかなる。
例外なく飛行機には適切な巡航速度というものがある。300ノットもの速度で巡航できる飛行物体は限られるのだ。
戦闘機ではないだろう。新型のメッサーシュミット戦闘機、Me109Fはかなり速いらしいがそれはあくまでも最高速度である。最初から全速で飛ばしていては燃料が持たない。
戦闘機の護衛がついていないのならば、100式重爆でも98式陸攻でもない。日本人達は護衛無しの爆撃機がいかに脆いか知り尽くしている。もちろんドイツ空軍も。
四発重爆撃機も戦闘機の護衛が要ることは同じだし、そもそも速度限界的にありえない。
偵察機ならば群ではこないだろう。だから飛行爆弾だ。
もしかしたら征空戦闘目的の高速戦闘機群かもしれないが、そのときは逃げれば良い。初期型と比べれば何割か航続距離が伸びたが、構造上Me109系の機体は搭載燃料に限界がある。
Me109以外の協定軍戦闘機なら急降下で逃げ切れる可能性が充分にある。早い段階から逃げに徹すればそうそう落とされない筈だった。
V1号兵器こと、パルスジェット推進機「梅花」。
40年秋に登場したBAIKA-BOMBは、僅か数ヶ月のうちに英米市民にとって恐怖の象徴となっていた。
元々はドイツ空軍向けにフィーゼラー社が開発したが不採用に終わり、生産免許と改良する権利を買った日本で実用兵器に育って欧州へ帰ってきた無人兵器は、今や日独だけでなく占領下のベルギーやオランダやデンマークでも生産が始まっている。もちろんヴィシー・フランスやスペインなどの協定諸国でも。
とにかく安上がりなこの戦略爆撃兵器は連日連夜独特の飛翔音と共にブリテン島に向けて放たれ、大英帝国の脊髄に痛手を与え続けていた。
梅花一機あたりの炸薬量は中型爆撃機の爆弾搭載量と同等かやや落ちる。
つまり一日当たり千発の梅花がブリテン島に飛来するならば、500機のJu88や98式陸攻が来るよりも厄介かもしれない。
日本軍がハワイやアメリカ本土で使っている物よりも炸薬量を上げ、代わりに飛行距離を縮めた欧州仕様の梅花もといFi103は40年の年末までだけで合計4万発以上が発射されることになる。
英国空軍に所属するこの2機の任務は、厄介な無人兵器の始末だった。高射砲や阻塞気球もあるがやはり海上で落とせるなら落とした方が良い。何と言っても被害と後始末の手間が減る。
この場には2機しかいない英軍戦闘機の遙か上、高度二万七千フィート(約九千メートル)あたりを飛んでいく数機のドイツ機を見て、一番機に乗るケイン・ブルック少尉は唸り声をあげた。
空戦と猫の喧嘩は高い位置を取った方が勝つ。高度は視界を保証し速度に変換できる。上空にいる飛行機の方が機銃弾の威力も上がるし爆弾は上からしか投下できない。上を取って勝てないとしたら腕や性能にとんでもない差があることになる。
そしてドイツ空軍が誇るMe109は、設計から運用まで高空からの一撃離脱に徹しきった戦闘機だった。
悔しいが、この機体では勝てない。勝負を挑みに這い上がっていくことさえできない。奴らが平気で動ける高度で、こちらはまともに飛べもしないのだ。
あいつらは自分の乗っている戦闘機が世界最高だと信じているのだろうな。と、ブルック少尉は思った。
自分はそうではない。悪くはないが、最高だとは思えない。乗り換えられるのなら今すぐにでもMe109に乗り換えたい。
戦場で油断や放心は命取りだ。ブルック少尉は一瞬で雑念を振り切り、上下左右その他の全方向を見張り警戒する。
電子戦能力において英米軍はドイツ軍に何歩か遅れている。当然ながら電波による管制も精度と信頼性で劣っており味方管制の情報を盲信することは危険だった。どんな情報も、最後は自分自身が確認しなければ信用すべきではない。
程なく東の空に現れた敵編隊を見て、ブルック少尉は目を剥いた。
飛行爆弾ではない。偵察機でもない。やってきたのは十機余りの双発戦闘爆撃機と、ほぼ同数の単発戦闘機だった。
「畜生! 新型だ!」
双発機はMe110後期型だが、単発機は噂に聞いたフォッケかミツビシの新型だろう。この目で見るのは初めてだ。
ブルック少尉の推測は正しかった。双発機はカレー付近の飛行場から飛び立った部隊だが、単発機は北海に遊弋する空母の艦載機なのだ。フォッケウルフ社のFw190系戦闘機は空母への着艦は無理だったが、カタパルトを使えば空母からの発艦は問題なくできた。
高速かつ長大な航続距離を持つ2種類の新型空冷戦闘機は、連合軍にとり98式より更に手強い相手だった。
長時間の全力飛行が可能な征空戦闘機は、高速移動できるが故に脅威度が高い。その気になれば最高速度で拠点と戦場を行き来できるのだ。Me109やスピットファイアで同じ事をすれば戦場にたどり着く前に燃料切れで墜落してしまう。
北海や英仏海峡付近の稼働空母数は、今や完全に協定諸国側が優位に立っていた。
協定諸国軍が保有する空母の大半が日本製だったが、連合軍にしても保有空母の大半はアメリカ製だ。ライセンスまたはノックダウン生産とはいえ欧州で艦載機を作れるだけ協定諸国の方がまだマシだろう。
通商破壊と連日の戦略爆撃で英国本土の航空機工場は殆ど動いておらず、現在ではブリテン島よりカナダの方が航空機生産数が多いぐらいである。そして一線級艦載機の製造ラインはカナダの飛行機工場にも存在しなかった。流石の合衆国でも戦闘機生産施設を国外に動かす余裕はない。
「フォックス・ワンから狐穴、フォックス・ワンから狐穴へ、敵と接触した。新型戦爆連合それぞれ1ダースだ!」
通信機を受信に切り替えて追いかける。
敵は速いが追い付ける。双発の戦闘爆撃機Me110Eは高速機だが、いかに機体密着型の爆弾用風防を付けて空気抵抗を減らしても爆弾を吊せばその分遅くなる。
ブルックたちが乗っているP51なら追いすがるには充分だ。同じ低空用機でも鈍足のP40ではこうはいかない。
問題は新型の単発戦闘機だ。現在位置ではこちらが高度でやや有利だが、素の速度では互角‥‥いや、向こうの方が速いようだ。
運動性は、微妙なところだ。P51の空力特性は素晴らしいが失速し易いという致命的な欠点がある。P51の独特な形状をした翼は空気の層が剥がれやすく、低速飛行時に無理な機動をすると揚力を瞬時に失ってしまうことがあった。
低空での良好な運動性から調子に乗って巴戦を行い墜落した僚機は少なくない。天敵であるナカジマ97式に撃墜された奴もいる。
まあ、実を言えばブルックには細かい性能などどうでも良い。箸にも棒にもかからぬようでは無理だが、それなりに通用する水準であれば空戦はできる。
空中戦の要諦は単純極まりない。高い位置をとって、こちらに気づいていない敵を見つけたら急降下で不意打ちして、弾が当たっても外れても大急ぎで逃げる。それだけだ。
他の流儀があるのかもしれないがブルックは知らない。この一手だけで彼は今まで戦ってきた。
優位に立った側としての油断か、眼下を飛ぶ協定軍機はブルックたちを警戒していない。いや、気の緩みもあるがそれ以上に機体形状の効果だろう。英国軍塗装でも味方にMe109と間違えられて攻撃される事件が後を絶たないP51だが、こういうときだけは液冷機同士の紛らわしさが役に立つ。
「最後尾を狙うぞ、同じ奴を撃て」
ブルックは後続のP51に無線で指示し、敵戦闘機編隊の後列に降下しつつ銃撃を浴びせる。爆撃機は駄目だ、狙えるし撃ち落とせなくもないがその後で必ず囲まれる。あの数に囲まれれば逃げ切れない。
銃撃は間一髪で気づかれた。コンマ数秒の差で、敵機が飛んでいた筈の空間を3列の曳光弾が通り過ぎていく。
3つだけだ。ブルック機の翼に合計4丁されている12.7ミリ機銃のうち、右端の一丁が作動不良を起こしている。
ボロ機銃がっ と罵りたいがそんな余裕はない。
不意打ちが失敗した以上はとっとと逃げなくてはならない。ナカジマの97式に迫る水平戦闘能力を持つとされる新型日本機‥‥かもしれない相手へ、ドッグファイトを挑む気などブルック達にはなかった。
ブルックは操縦桿を更に押して乗機を急降下させた。彼らは 三十六計逃げるに如かず という言葉など知らないが逃げることの大事さは知っている。知らねば今まで生きのこれていない。
「良っし! かかったぞ!」
操縦席風防の枠に取り付けてあるバックミラーに敵機の姿が映った。数機の新型がブルックたちを追いかけてきている。
これで最低限の任務は果たせた。護衛機が減れば味方が敵戦闘爆撃機編隊を阻止できる確率はその分上がる。たった2機で4機の新型を一時的な任務不可能状態にしたと考えれば上出来だ。
あとは自分たちが生き残るだけ。一度に多くを望まないのが戦場で長生きする秘訣だ。
2機のP51は海面近くまで降下してから機首を上げ、水平飛行へ移った。膨大な荷重に耐えてなんとか水面への激突を防ぐ。
未熟な操縦士なら自爆しかねない動きだが、激戦区を今まで生き残ってきたブルックたちは冷や汗混じりながらもやり遂げる。
およそ操縦士という生き物は二種類に分類できる。自信家とそうでもないやつとに。
戦闘が激しくなると自信家が生き残る。実際の腕はともかく、自信にあふれ頼りになりそうな操縦士へ優先して補給や機材が与えられるからだ。
誰もが叡智と慧眼を持っているわけではない。世間には凡人の方が多く、不安なときは無根拠であっても態度の大きな者が頼もしく見えてしまう。内容に関係なく声の大きい意見が通りやすくなるのは当然である。
故に歴戦の飛行機乗り、特に戦闘機乗りは傲岸不遜な俺様野郎ぞろいになっていく。そういう者の方が謙虚な良識家よりも生き残りやすいからだ。
戦闘が更に激しくなれば自信家のなかでも腕と運の悪い者から順に消えていく。激戦地でこれまで生きのこれたブルック達は撃墜王でこそなかったが、決して腕の悪い操縦士ではなかった。ヘボにP51は回ってこない。
もちろん追う側もそれは同じであり、4機の敵新型も海面をかすめるようにして水平飛行に移る。
陸地を目指して逃げる2機のP51に、敵新型はなかなか追い付けない。低高度での水平飛行速度でいうならばP51は紛れもなく傑作機だった。
焦ったのだろうか、追っ手のうち一機が遠すぎる間合いから銃撃を放ったが当たらない。有効射程から離れすぎている。
「相変わらず良く伸びる弾道だな、おい」
右横方向を通り過ぎていく曳光弾の連なりに、思わず羨望混じりの悪態が漏れる。
製造元がラインメタルかマウザーかスミダなのかは分からないが、協定軍共通規格の20ミリ機銃はどこの製品も調達費用以外の点で文句の付けようがない傑作兵器だった。しょっちゅう弾詰まりを起こすブローニング機銃とは比べものにならない。
しかし搭載機銃の開発に失敗した英国空軍はブローニングM2機銃を使うしかなかった。他に適当な機銃が存在しないのだ。あえていえばエリコン社の20ミリ機銃があるが、こちらも航空機向けの性能ではない。信頼性はM2よりまだマシだが搭載弾数が最大60発では使いようがない。
鹵獲品では数が足りないし、新型国産機銃は間に合いそうにない。開発が終わる前に戦争の方が終わってしまうだろう。
小口径の航空機銃には信頼性の高いものがあるがいかんせん威力不足だ。撃たれ強い現代機に7.7ミリ機銃では束にしても通用しない。スピットファイアやハリケーンにしても開戦以前の主流だった小口径機銃を多数搭載した翼を廃止している。
ロシア製の航空機銃は意外と実用的だと聞くが、露英双方ともに輸出入できる余裕などなかった。航路が繋がっていないのだから仕方がない。
俺達が負けてるのはボロ機銃のせいだよなあ、とブルックは内心で嘆く。
何故に連合国軍の負けがこんでいるかといえば、制空権が取れないからだ。
何故に制空権が取れないかといえば航空戦に勝てないからで、何故に空で勝てないかと言うと彼我の機銃性能が違いすぎるからだ。
個々の機体性能や空母の数やお偉方の頭で負けていることも否定しないが、それが第一の原因ではない。
同じ12.7ミリの重機関銃でも、連合国軍が使っているブローニング社のものは協定諸国軍で標準的なベレッタ社製のものに比べて性能が劣っていた。
射程や威力や弾道特性などはまだ我慢できない程の差ではないが、信頼性が違いすぎる。いや、ブローニングM2重機関銃の信頼性は陸地で使う分には充分だ。しかし戦闘機に搭載すべき代物ではない。
何故かと言えばM2はG(加重)が加わると即座に弾詰まりを起こすからだ。地上でなら簡単に修理できる故障でも空中ではそうはいかない。これが重爆撃機の防御銃座なら機銃手が手動でどうにかできるかもしれないが、単座の戦闘機ではどうしようもない。
現にブルック機の機銃はいつのまにか二割五分が使えない状態になっていた。つい先刻、基地から飛び立った直後に試射したときには4丁とも弾が出たのに、だ。
先程の急降下で更に1丁か2丁おかしくなっているかもしれないし、ことによっては3丁とも使えなくなっているかもしれなかった。
それでも機銃の不具合を嘆いていられるだけ、ブルックたちブリテン島の操縦士は幸運だった。空中で突然発動機(エンジン)が止まることも珍しくない赤軍の操縦士よりは、まだ。
何故かは解らないが、合衆国の兵器産業は機関銃の設計が得意ではなかった。有名なトンブソン銃など短機関銃では優れたものも作っていたが、機構的には短機関銃と普通の機関銃はかなり違う。
設計だけでなく改修や複製においてもこの傾向は存在し、他国ではコピー生産できているチェコ製軽機関銃やスウェーデン製機関砲がアメリカ合衆国の兵器企業では生産できないか、できても性能が激しく劣る事例が多かった。
これで合衆国製の兵器がガラクタ揃いならば話は単純なのだが、カノン砲やライフル銃などでは世界水準ないしそれ以上の兵器が作られている。なぜ機関銃が苦手なのかは謎だ。
M2は合衆国製機関銃として数少ない例外であり傑作だったが、航空機に載せるには向いていなかった。
とりあえず合衆国海軍などではF4F戦闘機の搭載機銃を6丁に増やすなどして対応しているが、根本的な解決にはなっていない。
根本的な解決はまず無理だった。この時期のブローニング社は複数の重役が対日協力者の疑いを受け逮捕され、関係者は軒並み捜査と尋問の対象となっていたからだ。
当然ながらブローニング社の営業も開発も機能停止状態である。工場は合衆国政府とFBIの監視の元で稼働していたが、現場の者だけではちょっとした改良すら無理だった。余計な真似をすれば自分も対日協力者の容疑者にされかねない。
最悪の場合、当局に逮捕される前に暴徒の手にかかって私刑(リンチ)もありえる。ブローニング社は数年前に日本企業と業務提携を結ぼうとしていた前歴があり、只でさえ疑われやすい立場だった。
余談だが、困ったときのアインシュタインとまで言われ様々な兵器の開発改良を手がけてきた科学者チームですら40年末の時期には多数の人員が対日協力者の容疑をかけられ拘束され、一時的にではあるが麻痺状態に陥っていた。
最早魔女狩りの様相を呈してきた合衆国内の親日派排斥運動から科学者たちが解放されるには、更に数ヶ月の時間が必要だった。
不意に、後方からの圧力が消えた。振り向けば敵が4機とも機首を上げ急上昇に移っている。
今更ながら深追いに気づいたのだろうか。にしては上昇角度に余裕がないが。
周りに味方機はいないし、対空陣地は遠すぎる。何を慌てる必要があるのだろう。
四方八方を見渡すブルックは、頭上に無数の白い花が咲くところを目撃した。
小型の落下傘が、直径1メートルほどの白い傘状布きれが上空で開いたのだ。落下傘には大きめの缶詰のようなものがぶら下がっている。
良い飛行機乗りは例外なく視力が良い。ブルック少尉の目は自分たちへ降り注ぐ缶詰の底から被いが外れるところと、缶詰の底に穴があいていることと、その穴が勢い良く火を噴いて缶詰がはじける瞬間を確かに見た。
横風によって本来の目標から外れ、ブルック達の上に流されてきて開傘したものは自己鍛造弾と呼ばれる新兵器だった。
より正確には落下傘式散布小型爆弾の弾頭にミズネ・シャルダン効果利用の運動エネルギー兵器を搭載したものだ。
これは語弊を承知の上でいえば、ある一定の特殊な角度を持つ皿状金属板に爆薬を貼り付けた代物だ。信管が作動すれば爆発の圧力が集中し、金属板を空中で瞬時に砲弾へと鍛造しつつ発射することになる。
黒海戦線で、とあるトルコ人将校が『悪魔の缶詰』と呼んだ、直径10センチほど金属塊。
見た目はあだ名の通り大きめの缶詰にしか見えない。
それは爆縮レンズの効果により砲身を用いずに、対戦車砲弾以上の速度でもって自己鍛造した砲弾を打ち出す驚異の発明品だ。
有効射程は自己鍛造弾の直径に比例するため100メートル程度しかないが、有効範囲内であれば数十㎜の圧延鋼版を打ち抜ける。実際に陸戦でも使われているが、重戦車の正面装甲以外のあらゆる地上兵器を破壊できるのだ。
有効範囲を超えると空気抵抗で急激に減速して威力を失うが、それでも非装甲兵器に傷を付ける程度は残る。150メートル先の戦車装甲ならはね返せても、トラックなどに当たれば無傷とはいかない。
これが大量に撒き散らされるだけでも脅威だが、悪魔の化身と恐れられる理由は落下傘と電波にある。
西部戦線でこの日初めて実戦使用された自己鍛造弾には落下傘が付いている。当然ながら風に乗って動きつつ比較的ゆっくりと落下していくことになる。
投下してある程度の高度に達すると缶詰の底についている被いが外れ、缶の底がむき出しになるが外れた被いは薄い鉄板が入っている。
つまりその被いが外れてからは、缶詰の底方向から来る電波は金属板によって遮蔽されず素通しになる。
あとは缶詰に仕掛けられた電波式近接信管が下方向からの反射電波をとらえて作動すれば、下手な戦車砲並の威力を持つ砲弾が空中から発射される。
近接信管が作動するからには缶詰の下には電波を反射する物体がある。逆に言えば反射する物体がないと砲弾は発射されないまま漂いつつ降下を続けるのだ。
もちろん反射電波を感知する、ラジオの親戚に当たる部品は適度に調節されている。全てではないが大方の自己鍛造弾は目標との距離が有効範囲内となったときに信管が作動していた。
海上の船舶などから見れば、落下傘が頭上まで来ると次々爆発して砲弾が浴びせられることになる。
ただ単に小型爆弾を多数ばらまく収束爆弾などと違い、落下傘付き自己鍛造弾は知性を持つかのように車輌や兵器などの機械類を狙って破壊する。
ドラム缶などの電波をよく反射する囮を設置すれば多少は被害が減るが、あくまでも多少だ。更にいうと砕け散った囮の破片でも被害は出る。正に悪魔の発明だった。
なお、普通に接触信管も付いているので自己鍛造弾は人間など電波を反射しにくいものにも効く。直接当たれば零距離から戦車砲なみの威力が炸裂するのだ。更に一部は時限信管も付いているので、迂闊に不発弾を触ると危険だった。
有効範囲内であれば、自己鍛造弾は赤軍の「空飛ぶ戦車」ことイリューシン襲撃機ですら一撃で撃墜する。戦闘機として華奢な部類に入るP51の装甲がはね返せる訳もない。
・・・・・
戦略爆撃の効果は今次大戦でも認められ、実行されている。
港湾施設などへの梅花(Fi103)大量投入も戦略爆撃の一種だ。ハワイ戦線に投入された最初期型と異なり、40年末にブリテン島南部へ撃ち込まれていた飛行爆弾には無駄弾を減らす仕組みが追加されていた。
一言で言えば電波式の距離測定器だ。この部品を搭載された飛行爆弾は自分が発射地点からどれだけ離れているのかより正確に把握できる。旧型よりも正確に目標を狙えるのだ。
正確かつ柔軟に目標をねらうために、ドイツ軍は海上の船舶や空中の大型機そして大型飛行船などからも電波を放っていた。
電波受信機には受信できる範囲限界がある。故に電波発信源の位置と強度を柔軟に変えれば飛行爆弾でもかなり正確に墜落地点を指定できるのだ。
例えば飛行爆弾に、ある波長の電波が一定の強度以下になったときに降下するよう設定すればあとは発信源の位置を動かせば望ましい距離で降下させられる訳だ。
縦方向はこの方法で良いが水平方向での照準変更はできない。舵取り機能の追加や無線誘導化など飛行爆弾の機能拡大も研究されているが進捗が遅れている。安さが取り得の飛行爆弾に凝った仕組みを載せては長所を殺してしまいかねない。
簡単で安価で効果が大きい仕組みを簡単に作れるのならば世の発明家達は苦労しない。
仕方がないので飛行爆弾を運用する現場では、飛行爆弾母艦を使って発進位置や方向を変える方法と、横風など天候を利用して進路を故意に曲げる方法を併用していた。
当然ながら天気予報の精度が命中率を大きく変えることになり、各地から敏腕気象予報士が引き抜かれ報奨金制度もできている。
同盟国の影響もあってか、今大戦でドイツ軍は以前よりも更に命中精度に気を配るようになった。
実際の話、戦略爆撃の拡大だけでなく効率化も目指すドイツ空軍には余計なものに当てて良い爆弾など存在しない。
サウザンプトンの港湾地区だけでも大小の船舶にドックに船台、倉庫やクレーンや運河扉など狙うべき物が幾らでもある。市街地に流れ弾など落としている余裕はない。
敵国の市民をわざわざ狙って殺す必要などない。補給線を圧迫すれば勝手に餓える。餓えた自国民がどれだけ厄介な存在か、ドイツ軍は嫌というほど知っていた。
今大戦で計画された戦略爆撃行動の一つ、連合国軍によるルール工業地帯への戦略爆撃計画はドイツ海軍によるブリストル空襲によって間接的に頓挫した。
1940年12月21日早朝、イギリスの港町ブリストルをドイツ海軍機動部隊所属の空母オットー・リリエンタールから放たれた攻撃隊が空襲した。空襲の規模が小さかったこともあり直接的な被害は微々たるものだったが、アメリカから到着したばかりの貨物船ジョン・ハーヴェイ号が被弾して船倉にあったマスタードガスが漏れ出したのだ。
この流出により少なくとも一万人以上の軍人と民間人が被害を受け、そのうち一割以上が即死もしくは即死に近い短時間で死亡したと見られている。詳細な記録はロンドン市街ごと燃えてしまったので、後の歴史書には推定数しか載っていない。
積み荷のマスタードガスは「ドイツ軍が毒ガスを使用した際に報復する」ために、極秘で持ち込まれた物であった。輸送船ジョン・ハーヴェイ号の乗組員はもちろん輸送船団の責任者にすらこの危険物の存在が伏せられていたため初動が遅れに遅れ、被害は甚大なものとなった。
マスタードガス秘密搬入には合衆国陸軍航空隊の戦略爆撃絶対主義派が大きく関わっており、その首謀者はカーティス・ルメイ陸軍少将であった。
かねてからルール工業地帯への無差別爆撃を主張していたルメイ少将はこのマスタードガスを使用する爆撃計画を立て、私的な伝手を使ってホワイトハウスへ働きかけたのだ。
万が一の事態への保険という名目で送られたマスタードガスではあるが、立案者はもちろん実戦使用するつもりだった。それも大量かつ可及的速やかに。
最初の一撃でルール地方の工事用群を壊滅させてしまえばドイツは崩壊する訳であり、ルメイ少将の計算ではB17かそれに匹敵する大型爆撃機を400機とそれに満載する毒ガスさえ用意できれば欧州戦線は一月も掛けずに終息する筈なのだ。
心臓が止まって生き延びられる国家はない。ルール地域が動かなくなればドイツ軍全体が動かなくなる。そうなればドイツ軍は崩壊するしかなく、それを見ればイタリアもスペインも両手を上げるしかない。
一流工業国であるドイツには化学兵器を大量生産する技術も運用する手腕も存在する。当然ながら同様の手段で反撃される訳だが、心臓が止まった敵の反撃は一度か二度が精一杯だろう。
化学兵器の一撃でブリテン島の内臓が全て腐りはてたところで痛くも痒くもない。ルメイ少将は彼個人が巻き添えを避けることにおいて、連合軍随一の才覚を誇る人材だった。
ブリテン島にいる合衆国陸軍航空隊は報復で消耗するかもしれないが、後方組織さえ無事ならいくらでも立て直せるのが戦略爆撃部隊の長所であるとルメイ少将は見ていた。彼的には、大型爆撃機は勇敢で忠実で標準的に有能な士官がいれば充分飛べる存在なのだ。
40年6月上旬に行われ、無惨に失敗したドゥーリットル攻撃隊の壊滅に続いてまたもや起きたこの不祥事‥‥と呼ぶにも大きすぎる事件だったが、連合国側の公式記録には残らなかった。
戦時であることもあり、英米両国の首脳部は面倒くさい裁判などやる気がなかったのだ。臭い物には蓋をするに限る。
毒ガス自体をドイツ軍のものと言い張る案もあったが、首相はじめ英国政府上層部が全力で却下した。禁止兵器を使用されたと公式に宣言すれば報復しない訳にはいかず、通常兵器で押されている現状では化学兵器ぐらいしか報復手段がない。
一度化学兵器を実戦使用すれば報復合戦となり、ブリテン島は滅びる。少なくとも全ての大都市が人間駆除剤で消滅する。
上手くいけば相打ちでドイツ経済に致命傷を与えられるかもしれないが、それで得をするのは英国ではない。
濡れ衣を着せて良い相手は弱者だけだ。ドイツに戦略爆撃能力と大量殺傷兵器の備蓄がある限り、停止も引き返しもできなくなる段階へ戦争を進める気など英国首脳部の誰にもなかった。
戦争は国家の生存と利益確保のためにする行為だ。亡国の危険を冒してまでするものではない。
12月13日、ドイツ軍の空襲によりブリストル港と入港したての輸送船団QB14は壊滅した。それ以外の何ごとでもない。 それが英米両国の公式見解となった。
ドゥーリットル作戦と同じく、ブリストル事件でもルメイ少将は政治的生存に成功したのである。
しかしこの事件によって彼の悪名は更に高まり、軍の統制を乱す一部将校の暴走を許した大統領への非難が軍部内で高まったため類似の作戦は難しくなる。以後の合衆国陸海軍は米国製化学兵器の管理態勢を強化し、陸海軍司令長官の署名がない書類で大量の化学兵器動かすことはできなくなった。
故にルメイ少将を始めとする戦略爆撃教徒たちは、大規模破壊兵器を調達するために暗躍を続けることになる。信仰は障害があればあるほど強固なものとなるのだ。
一方とばっちりをくらった英国民の方はたまったものではなく、ただでさえ良くなかった合衆国軍への感情はこれから更に悪化し続けていくのだが、それはまた別の話である。
なにぶんにも今は戦時中であり、協定諸国軍の本土攻撃と通商破壊による死傷者数は鰻登りだった。ジョン・ハーヴェイ号事件の英国人犠牲者やその遺族達に泣き寝入りする気はなかったが、充分な賠償金と物資が得られるという条件付きで戦争終結まで訴訟を待つことに合意し、一時的に口を閉じた。
事実上、輸送船団QB14とブリストルの港湾機能はこのマスタードガス漏出事件により壊滅したと言って良い。
船や施設への被害は比較的少なかったがただでさえ人手不足なブリテン島で、管制官からクレーンを操作する作業員まで全滅した人員の穴を埋めるには少なくない手間と時間を投入しなくてはならなかった。
ブリストルの惨劇に関して唯一救いがあるとしたら、被害と混乱にドイツ軍が便乗しなかったことだ。
第三帝国政府は便乗し、ヒトラー総統の演説も含めた宣伝放送で「非人道兵器の戦場使用を目論んだ合衆国陸軍航空隊とその暴挙を認めたルーズベルト大統領」を激しく非難したが、同時に毒ガスによる犠牲者達への哀悼の意を表明しクリスマスが終わる25日の日没までの期間、ブリストル周辺半径30㎞以内での戦闘行動を停止すると宣言した。
これは英国との講和を熱望していた副総統ルドルフ・ヘスの献策だと言われているが、和平交渉に向けた動きを後押しする効果があったかどうかは歴史家の間でも意見が分かれている。
ブリテン島、イングランド、ロンドン。世界の中心を、経度0を名乗る地をめぐる激闘はそれからも延々と続いた。
・・・・・
ケイン・ブルック少尉は奇跡的に生還を遂げた。
彼の乗るP51は3発の自己鍛造弾を受けたが、全て急所を外れていたのである。もしこれが全身鋼鉄の塊じみたP47やF6Fであれば助からなかっただろう。彼は乗機の華奢な造りに命を救われたのだ。
彼ほど幸運に恵まれなかった僚機は重要部分を撃ち抜かれて落ちたが、ブルックが命を拾ったのは運だけではなく家族のお陰でもあった。
重傷を負って帰還した彼は不時着と同時に意識を失い、入院中に敗血症を起こして死にかけていたのだが「うちのケインに最優先で使うこと」を条件にブルック家の人々が、担当軍医へ裏から渡した抗生物質によって救われたのだ。
その抗生物質が、ロンドン在住の家族が拾って隠匿したドイツ軍の投下物資だったと後に知ったケイン・ブルックはやや複雑な気分となったのだが、既に英独は停戦し大戦は事実上終わっていたので家族とイエス・キリストに改めて感謝して終わりにした。
当然であった。彼の家族は、英本土が停戦したなかで揃って泊まり込みで彼の見舞いに軍病院付属の療養施設へ訪れたという偶然により、ロンドンを襲った惨禍から逃れられたのだから。
1940年12月24日深夜、ロンドン市内に144個の医薬品入り救急箱が落下傘で投下された。
この行為が偽善であり、同時にドイツの医学ひいては技術的優位を誇示するプロパガンダであったことは間違いない。しかし幾らかの人々が敵からの贈り物によって救われたことも事実だった。
事の是非は、当事者にとって問うにも値しないであろう。
続く。