県庁所在地に当たる地方都市の静かな中心繁華街から歩いて10分ほど。 アンティークなたたずまいと長い年月を過ごした建物だけが持つ風格を備えた4階建てのビジネスビルが一つある。 それこそが俺が勤めているホワイトソフトウェアの本社であり営業本部であり、中央開発室とゲームサーバーとGMルームその他諸々全てを兼ね備えた本拠地だ。 会社に対する遠慮と、外向けの持って回った言い方を全部取っ払ってぶっちゃけると、要するに地方都市の寂れた繁華街を抜けた先にある裏路地めいた地域にある、古びた雑居ビルが唯一無二の我が社の施設だ。 その本社前の猫の額のように小さな一台分の駐車場に止めたリーディアンオンラインのイメージロゴを施した社用車の荷台から近くの業務スーパーで箱で買いあさってきたインスタント食品やらソフトドリンク類の食料品をおろしていく。 後部座席にもドラッグストアで買ってきた栄養ドリンクの類いに、芳香剤やらトイレットペーパー等雑貨の詰まった袋が、わんさかと積んであるので結構な仕事量だ。 7月の強烈な夏の日差しが袖を捲ったワイシャツ姿の俺の肌を焼く。 今年は梅雨という言葉を忘れてしまうほどに雨が降っていない。 乾燥した炎天下というきつい条件での、ペットボトルの詰まった段ボールやら米の積み卸しで、すぐに全身からビッショリと汗が噴き出す。 元MMOゲーマー故か体力などあまりない方だったが就職してから3年。 この手の肉体労働が増えたせいか、手際よく降ろしては台車に積み上げていく。 後はこれを各階の倉庫に納めて本日午前の仕事は終了。 短い昼休みの後は、午後からはMMOゲーム会社共同で行う8月リアルイベントの打ち合わせの為のVR会議出席予定の社長に付き添う事になっている。 遠隔地の者がリアルタイムに一堂に集い、会場を模したVR空間でブースの配置や巨大スクリーンの配置を簡単に動かしながら綿密な打ち合わせができる。 電話での打ち合わせや、テレビ電話を用いた会議よりさらに発展した新世代会議のスタイル。地味ながらこれもVRの恩恵だろう。「にしても暇そうだから付きあえって軽すぎだろうちの社長は……つっ」 VR世界ならこんな荷物もインベントリーに入れて一瞬で運べるから楽なんだが。 痛くなってきた腰を休ませるために手を止めた俺は大きく伸びをしながら本社ビルを見上げる。 ここから階段を使って各階に荷物を運び上げる苦労を思いうんざりする気持ちが、本社を見ているとさらに募る。 ボロイ。それ以外の感想が浮かばないほどにボロイ。 長年の風雨で薄汚れシミだらけの外壁は、人の形しているような痕が多数浮かんでいるので真っ昼間なのにどこか不気味だ。 駅に向かうためにビルの前を通る小学生には、壁の下に人が埋められているだの、中でお化けが出るだの噂され幽霊ビル扱いされているらしい。 そして外見通りに中身もボロイ。 建設当初は飲み屋やら風俗店専用だったというビル内は、仕切り壁が多くフロアの大きさの割には部屋一つ一つが狭く使いづらい。 5人乗りで小さいがエレベーターは設置されてはいるものの、大半の社員はエレベータを使わない。 階段を上るだけの体力が無い者がおっかなびっくりで使う程度で、出入りの宅配業者にいたっては、どれだけ重たい荷物があろうと絶対に利用しない。 なんせフロアとエレベーターの床が5センチくらいずれるのは日常茶飯事。 巻き取りのワイヤーは稼働する毎にまるで悲鳴のようにきしみ声を上げているので、そのうち落ちるんじゃないかと本気で思う。 立入検査もパスしているので大丈夫だと社長は平然と言っているが実に疑わしい。 この外見も由来も中身も全てが怪しげな4階建て地下1階のボロ雑居ビルを本社にしているのは、ともかく賃貸料が安く、ネット設備が充実しているからだ。 ビル丸々一つ借り切っても、最新ビジネスビルのオフィス一室を借りるよりも遙かに安い賃貸料。 VR風俗が全盛期だった一昔前に、同じようにビルを丸々借り切った借り主がその売り上げを改装費につぎ込んだという古びた外見に反して充実した高速ネット回線と容量のでかい電気設備。 ……その店が違法系独自制作VRソフトを扱っていたらしく、警察のがさ入れで全社員が逮捕され、その上、地下室には監禁状態の出演女優達がいたという、曰くありすぎな事故物件だから安いらしいが。 その事件は10年近く前だそうだが、未だに近所の奥様方の多くから、また怪しげな会社が入っていると認識されているのはご愛敬だろう。 年末年始も休日だろうが夜中でもビルの明かりは消えない。 さらにいつから風呂に入っていないのか判らないぼさぼさ頭で無精ひげを生やした開発部の先輩野郎どもが、出張中の備蓄食料計算をミスって尽きた際に、飢えた餓鬼のように這い出して近所のコンビニを占拠して弁当、菓子類を買い尽くす。 この現状を見れば、奥様方の認識はあながち間違っていないだろう。 ともかく入社3年目でありながら新人が入ってこないので正規社員としては一番下っ端である俺の仕事は、それら外聞に対する諸々も含まれる。 会社内では、先輩という名の餓鬼が飢えて外に出るのを防ぐために備蓄食料や栄養ドリンク、サプリメント類を切らさずに補充し、飽きがこないように常に新製品をチェックする、所謂買い出し係。 社外環境保全班と言えば聞こえは良いが、単なる掃除係も重要な仕事。 会社に出ている時は朝8時に向こう三件両隣前の掃き掃除をし、半年に一回ある町内のどぶさらいが社長命令で年間最重要任務にされているあたり、江戸時代の丁稚奉公と変わらない気もする。 ご近所様に対してソフトウェア会社としての仕事らしい仕事をしていないわけでないが、それもボランティアな面が強い。 近くの工業高校で行われる初VR体験授業におけるVR世界内での補助講師や、近所のお年寄りが買ったVRソフト【TAE盆栽】の基本設定のお手伝いなどを時折無償で行っている。 時間加速させた世界で樹齢千年越えの松を制作した爺様に頼まれて、VR内で友人を呼んだ歌会を準備した時は、良い冥土の土産話ができたと礼を言われ反応に困ったりしたが、あれだけ喜んでもらえたのは素直に嬉しかったし、やりがいがあったと思う。 うちの会社がここまで世間体を気にするのには理由がある。 インプラントによる脳内ナノシステムに伴うVR技術が最初期の軍事技術から解放されて三十年。 その間に医療、建設等、多方面の業種で使われて脳内ナノシステムを用いたVR技術は徐々に一般化して発展してきたが、今でも脳に機械を入れることに拒否感を覚える人はそれなりに多い。 さらに幼年期や成長期に脳内ナノシステムを構築すると脳自体の発育に悪影響が有るという学説も有ってか、国内では十六才未満は施術が禁止されており、これだけ広まった今でも危険性を訴え全面禁止を唱える団体もいる。 さらに前述の風俗系VRを筆頭に、違法行為や脱法分野でも、表分野と同様に発展してモラルの低下を懸念する声や、新たなる法規制や罰則の強化の是非を検討したりと、物議を醸し出してきた。 ドラッグ効果再現VR。 悲鳴を上げ血を流すAI仮想体を狩る現実と区別の付かない殺人VR。 有名アイドルのデータを流用した仮想体を使った裏風俗VR。 規制側の決めた条例とその穴を付く業者のイタチごっこは、時々紙面を飾りVRの負の面を映し出す。 負の面は俺が仕事とするVRMMOにも無論存在する。 RMTによる詐欺行為やアイテム複製問題、廃人と揶揄されるプレイヤーは、VR以前のMMOから続く社会問題の一つだ。 VRMMOに全てを捧げた奴の中には、リアルの体の栄養補給は複合調整された点滴で済ませて自動排泄機能が付いた高級専用筐体に籠もってゲームに没頭しつづける者もいる。 酷いのになると、生活費はRMTで稼ぎ、その金で長期没入補助専門業者に料金を支払い完全にリアルを捨て去ったような異常者もごくごく少数だが存在する。 その狂気の果てに衰弱した体が本人も気づかないうちに病気にかかりVR世界に入ったまま死亡する奴が国内だけでも年に一人、二人は出てしまう。 批判を受けたさいに備え自主対策を施しているメーカも多い。 うちの会社もRMT禁止を明記し、悪質な利用者には時にはアカウント停止の手段もとる。 さらに連続接続時間制限を八時間として、その後は二時間の再入禁止措置を設けて、日数単位の長時間プレイができない仕様としている。 しかしそれらの対策もプレイヤーが偽名の別垢を用意するなり、別ゲーとの二重生活をしたりすれば防ぎようがなく、正直いって一社で対処しきれる物では無い。 俺自身もプレイヤー時代には時間制限ぎりぎりまで籠もるのを繰り返す無茶をやっていたし、知り合いにも似たようなのがごろごろいたので、他人の事はあまりとやかく言えない。 だが制作者側になって、社内講習やら先輩らから実際に有った事故や事件の話を聞いて、長期接続による健康問題は重要だと認識を改めていた。 成人に対するナノシステムやVR関連技術に対する規制を盛り込んだ条例もあるが、これだけ発展する前に制定された条例で、規制基準も罰則もかなり緩い物。 VR技術の発展に合わせてさらに規制を厳しくするように求める有識者や団体なども数多く、彼らからは特に違法ソフトや、娯楽目的のVRMMOなどがそのやり玉に挙げられる。 そんな逆風を感じているからこそ世間体を気にし、まずは足元であるご近所から受けいられるような会社にしようというのが、当社社長である白井健一朗の方針。 だからMMO事業がほぼ会社の業務全般となった今でも、VR初心者のための無料講習会というボランティア的な業務をおこなっているとのことだ。 自分の名字が白井だからホワイトソフトウェアって会社名にした安易すぎる人にしては、思ったより考えているんだなと、初めて聞いた時は感心させられた。 そのあとじゃあ本社の建物を変えろよと内心突っ込んだのは秘密だが。 兎にも角にも、ご近所に愛される会社を目指していく方針は俺も理解している。 だから今日も荷物を全て降ろした後は、段ボールの切れ端や結束バンド等、ゴミが落ちていないかを車周りをくまなく確認。 ゴミ一つ落ちていないことを確認してから車からの積み卸しを完了した。「入ります。頼まれたコーヒーと臭い消しの交換です」「おう三崎。ごくろうさん。丁度いい時来たな。お前午後は社長のお守りでイベント打ち合わせだったよな。そっちは代理を送るから、今からちょっと潜ってもらっていいか?」 最上階に設置されたゲーム全域総合管理室に新しい芳香剤と頼まれていた缶コーヒーを持って俺が入ると、主任GMの一人の須藤の親父さんが机の上でせわしなく指を動かしながら言ってきた。 端から見ると何も乗っていないデスクの表面を激しく指で叩いている怪しげな禿げ親父だが、判る人間から見ればとんでもないことを平然とおこなう化け物。 デスクの上を縦横無尽に移動する腕の動きから見て、少なくとも五つは仮想コンソールを展開しており、その網膜ディスプレイには10以上のシステム情報ウィンドウを開いているはずだ。 須藤の親父さんはこの道40年という大ベテラン。 変化の激しい業界でこの年まで生き残り、さらに一線級の能力を維持する希有な人材。所謂魔法使い級のプログラマだ。 はっきり言って、こんな中堅所で給料も安い貧乏メーカーにいるのが不思議なくらいの人材なのだが、本人曰く『こんな年寄りを現場に置いて、その上で十二分な裁量権くれる会社は貴重だ』とのことで、本人は居心地がこの上なく良いらしい。 「なんか問題ですか? 他の先輩らもいるから人手は足りてるでしょ」 総合管理室は人が詰めている事が多い上に、窓が少なく換気性能が悪い。 さらに本社全体も排水管が古くて、雨が降った後はどぶくさい臭いが上がってくる事もあるので各部屋毎に消臭剤が必須。 放っておくと夏場の運動部部室よりもさらにひどい臭いになるといえば、その悪辣な環境が判るだろう。 芳香剤の蓋を開け密封シールをはがし部屋の隅に設置しながら俺は室内を確認する。 8畳くらいの大きさがある総合管理室の中には須藤の親父さんが座っているデスクと同型のダイブデスクが10脚あり、そのうち五つを先輩GMらが使用中だ。 ダイブデスクはVR世界に潜るときに使われる簡易補助器具。 デスク内に埋め込まれた薄型ハードとケーブルをつなぎ脳内ナノシステムとリンクさせ伝達処理性能を上げ、さらに地下に設置された当社のもっとも貴重にして高級な財産である巨大サーバーと直接配線が繋げてある。 先輩社員らは椅子に深々と腰掛けベルトで体を保持した完全没入状態だ。 最大で10万人近いプレイヤーが同時に潜っているVR世界を滞りなく管理するには、ともかく膨大な処理が求められる。 脳内ナノシステムにサポートされた人の脳はその処理をおこなうだけのスペックを発揮できるのだが、リアルな肉体はその処理速度に筋肉疲労や俊敏性の問題で長時間はついていけない。 だからVR世界内に作られた管理室で物理的制限から解き放たれた状態で管理業務を行っている。 ではなぜ須藤の親父さんだけがこちらにいるかといえば、この親父が化け物なだけだ。 仮想コンソールを5個も展開しても使いこなし、さらにそれで徹夜までこなすプログラマ。 こんな化け物が業界にいるという噂は聞いたことは有ったが、こうやって実際目にするまで都市伝説の類いだと思っていたほどだ。「GMコール。お前を名指しのご指名だ」「俺に? つーか普通は呼び出すGMを指名なんてないでしょ」 冷えた缶コーヒーをプルトップを開けて親父さんの机の上に置きながら俺は首をかしげる。GMが特定のプレイヤーを贔屓することは許されない。 だからこそボスキャラ状態ではプレイヤー情報にはフィルターが掛かり特定ができないようにしているし、他にもGMとプレイヤーでの不正を防ぐための措置がいくつも生じられているのだが、「ほれ。お前の知り合い。開発部の佐伯がチェックしてるアリスとかいう姉ちゃんからの呼び出し。昨日の討伐戦参加プレイヤーのうち6250人の同意署名付きの特別GMコール」 右手は休むことなく動かしながら左手で缶を取ってグビリと飲みながら親父さんが俺の疑問に答える。 親父さんがあげたのは、正式には『アリシティア・ディケライア』という名のプレイヤーだ。 若干……いやかなり重傷気味の中二病を煩った廃人プレイヤーの仮想体名にして、俺が設立したギルドの二代目ギルドマスターという名のギルドマスコットにして元相棒。 正式名称が長く言いにくいのと、本人の仮想体の外見から通称でアリスと俺とギルドメンバー達は呼んでいた。 GMになった時に、他のプレイヤーに公私混同と誤解を与えぬようにと考えて、アリスやギルドとの付き合いは距離を置いたのですこし疎遠となってしまったが、相棒であったことに変わりは無い。 そんなアリスに久しぶりに会うのは楽しみではあるが、問題はそっちでは無い。「それアリスからっていうより、同意書コールがメインでしょ」 今回重要なのは呼び出し相手ではなく、親父さんがついでのようにあげた同意書付きの特別コールの方だ。 リーディアンオンラインはお客様に楽しんでもらうことを第一とするゲーム。 だからお客様であるプレイヤー達からあげられる意見、要望は無碍にできない。 かといって少数意見を全て取り上げ対処していたのではゲームは進まない。 そこで導入されたのがプレイヤーによる同意書制度。 一つの案件に合計で千人を超えるプレイヤーからの同意書があれば、運営側は対応を検討すると確約している。 無論その意見を話し合って却下する時もあるが、その場合は却下に至った会議内容と全ログをプレイヤー向けに公開もしている。 全員を納得させるのは難しいが、それでも運営側が真剣に話し合った結果の上で却下したことを理解してもらうためだ。 同意書の乱発を防ぐために同意書権は半年に一回だけ全プレイヤーに供給される、ある意味ゲーム内でもっともレアなアイテムになっている。 そんなレアアイテムを使った六千を超えたプレイヤーからの名指しとなるとこれを無視するのは難しい。「呼び出し案件はなんです?」「昨日のアスラスケルトン。被害甚大でプレイヤー側に公開されてないスキル使ったチートじゃねぇかって声が一部からあるんだとよ。だから昨日のスキル設定と戦闘ログの開示しろって」 ボスキャラの基本ステータスと所持スキルや、その基本レベルはオフィシャルHPで公開している。 さらに公式ツールとしてスキルレベルを調整した際の攻撃力計測ソフトを公開している。 これは自分の防御力で攻撃をいくつまで耐えられるかや、秒間与ダメージをプレイヤーが計算しやすくするためだ。 だから昨日のスキル設定を公表するのには何の支障も無い。 さらに戦闘ログもどの時間にどの位置にいたとか、MP回復量がいくつだったかを記録しているだけなので、そこまで重要度の高い情報ではない。 だから運営側のチートを疑っているのならば、開示して証拠を指し示せば良いだけのように一見聞こえるのだが、「そりゃまた……見え透いた古い手を使ってきましたね」 実際には運営側のチートを疑うプレイヤーがいない事を知っている俺は、思わず呆れ声を上げる。 この要求の真の意図はボスキャラの数値データではなく、実戦時の詳細なデータを手に入れること。 スキルレベル構成と戦闘ログから実際にどういうルートを動いたとか、スキルを使ったタイミング。スキルの有効範囲を詳しく調べて、次の攻略に役立てるための情報収集がメイン。 運営側が開示を拒めば、事情を知らないプレイヤーにチートを使っていたと思われかねないので拒否しにくいだろうという考えが実に性格が悪い。 今までのMMOではなかった毎回毎回スキル内容が変化するボス討伐戦に膨大な被害を出していた稼働最初期に、少しでも多くの情報を得るために考案されたあの手この手の一つだ。 初期から存在するアスラスケルトンの戦い方は中身のGMがどう変わろうと魔術攻撃がメインで攻略法が出尽くしている感があって、最近は初手特攻作戦一辺倒だったが、どうやら昨日の俺の死霊魔術師作戦にプレイヤーが危機感を覚えて早速対策に乗り出したようだ。 マンネリ化していたアスラスケルトン戦が変われば、これでまたゲームが面白くなる。 俺の浮かべた人が悪い笑顔を見て、会話の最中も各地のプレイヤー数から適正なモンスター沸き数を調整している親父さんがあきれ顔で眉をしかめた。 「その見え透いた手を最初に使ったのお前だろうが。ほれ許可するからとっとと行ってこいクソガキ。そこの机」 かなりおざなりではあるが主任GMとして情報開示許可を出した親父さんが使用可能にしたダイブデスクを顎で差した。「了解。んじゃ行ってきます。打ち合わせ用の資料は共有フォルダに8月イベント打ち合わせで入ってますから頼みます」「おう」 最低限の仕事の引き継ぎだけを親父さんに頼んで、俺は指示されたダイブデスクの椅子に座る。 複雑な操作を求められるボスキャラ時なら高性能なハードを備えたゲーム専用筐体が必要だがただVR世界へと潜るだけならこれで十分。 机の脇から巻き取り式の接続コードを引っ張りだすと首筋のコネクタに手早くはめて、椅子のベルトで体を固定する。 接続確認のシグナルが仮想ディスプレイに出ると同時に俺はこめかみを軽く叩いて没入を開始した。 俺が降り立ったのはゲーム内での仮想本社としての役割を持つホワイト商会本部の会議室の一つ。 ゲームのメインデザイナーでもある開発部主任の女史の趣味である欧風バロックを基調としたこの建物は、家具や壁紙さらには柱の彫刻から絵画まで全てが一体化し調和のとれた渾身の作品。 リーディアンオンライン世界全体もファンタジー色が些か強い物の、それが異世界に来たと思わせる秀逸な物で、顧客や業界からも評価は高い。 しかし現実のボロイ本社を知る身としては、仮想世界の宮殿と見間違える建物のとのあまりのギャップにむなしさを覚えるだけだ。 ここに来るといつも出てしまう空しいため息を吐いていてもしょうが無い。 WISでアリスを呼ぼう。 俺はシステムウインドを起動するために右手を挙げて、『遅い。シンタなにやってたのよ』 コールする前にその本人から先にWISが飛んできた。 一介のプレイヤーであるアリスにはGMの俺がいつ入ってくるかなんて判らないはずなのだが、まるで計ったかのようなタイミングの良さ。 アリスの異常なまでの勘の良さは相変わらずのようだ。 しかしどうも機嫌が悪いようだ。声がむすっとしている。 そんなに待たせたはずはないのだが、 「なにって仕事だっつの。待ってろ。すぐ呼ぶから」 俺は右手を振ってシステムウインドからWISに設定を変えてアリスに返事を返す。 勝手知ったアリスといえどプレイヤー。お客様に変わりないのだが、こいつには敬語やら丁寧語で話す気はない。 前にゲーム内イベントで偶然会ったときに無視するのもあれなのでGMとして丁寧語で話しかけたら、かしこまった言葉遣いが気持ち悪いとすこぶる評判が悪かったからだ。「GM権限。プレイヤー『アリシティア・ディケライア』召還」 右手を突き出して目の前の床を指さして、アリスの正式名称を口にして短いコールを唱える。 プレイヤー強制召還はGMにだけ許された特別権限。 移動魔術不可能地域だろうが、プライベートルームだろうが一瞬でプレイヤーを呼ぶことができる。 主に規約違反者の捕縛や事情聴取に使うシステムだが、セクハラ被害者の緊急保護や今回のような特別コール提案代表者を呼ぶさいにも用いられる。 俺が指さした床の一面に一筋の光が走る。 光はまるで瞼のように中心から割れながら、折りたたまれていた複雑な魔法陣を展開していく。 たかが呼び出しにいちいち大仰な仕掛けだと思うプレイヤーも多いようだが、こういうファンタジーな雰囲気を喜ぶ者もいる。 そういったプレイヤーの中でもさらに濃い連中。 リアルの名前はもちろん出身地や職業、年齢などを一切口にせず、キャラになりきる者達は通称『ロープレ派』と呼ばれる。 そしてリーディアンオンライン全プレイヤーの中でロープレ派の筆頭をあげろと言われたら、「……………」 魔法陣から姿を現した金髪西洋少女+ウサミミという狙いに狙いすぎた感がダダ漏れ気味なこの女騎士の名を俺は真っ先にあげる。 セミロングの金髪に碧眼の15才ほどの美少女。 頭にはデフォルメされたウサギの耳を生やすこのプレイヤーこそアリシティア・ディケライア。 西洋風金髪キャラに頭のウサミミが合わさり、ルイス・キャロルのアリスをイメージするので、仮想体名を略した『アリス』と俺たちは呼んでいる。「乙女の心を傷つけて弄んだシンタ刺していい?」 眉をしかめて不機嫌を隠そうともしない顔のアリスは出現するやいなや、手に持っていたロングスピアを俺に突きつけ、わけの判らない物騒なことを宣う。 普段のアリスなら召還されたら、自分の名を名乗って、『はせ参じました』やら、『参上』なり、嬉々として口上を述べるのだが今日はそれがない。 どうやら本気で機嫌が悪いようだ。 何かあったのだろうか? 極めて機嫌が悪いアリスの様子が気にはなったが、槍を突きつけられたままでは話にもならない。「あーアリス。一応忠告しておく。GMへの暴力行為とか脅迫行為は垢BANの対象にもなる悪質行為だから。あと武器は建物内ではしまおうな。良い子だから」 今の状態だけ見ればアリスの行動はまさにそれだが、どうにも子供っぽい所があるアリスの場合、単に不機嫌で八つ当たりしているだけの事だと長年の付き合いで知っている。 いくら公私混同はしないと言っても昔の相棒をこんな下らない理由で追放したくはないので一応忠告をしておく。「子供扱いしないでよ……判ってる。これで良いでしょ」 子供扱いされたことにふてくされたのかぷいと横を向くが、その手を振って槍を消し去る。 俺の忠告通りインベントリーへと戻したようだ。 それにしても相変わらず子供みたいな奴だ。 知り合ったのがリーディアンオンラインオープン間もない六年前。 さらにナノシステムの年齢制限も考えると、最低でも中身は二十二才を超えているはずなのだが、その仕草や言動の一つ一つがどうにも幼い。 姉貴の所の今年七才になる姪っ子の方がまだマシかもしれない。 骨の髄まで染みこんだ中二病もあって精神成長ができないんだろうなと、つい同情を覚えそうになる。「シンタ……失礼なこと考えてるでしょ」 俺の表情から内心を読んだのか、頭の上のウサミミを威嚇するように立てアリスが睨み付けてくる。 リーディアンオンラインはプレイヤーがある程度自由に仮想体の表情や動きを自作できるツールを提供している。所謂MODツールだ 獣人タイプキャラの耳はただの飾りでバニラ設定では動くことはないのだが、アリスは自作 MODを入れて感情に合わせて動くようにした最初のプレイヤーでもある。 これに限らずアリスは本当に細かいモーションまでこだわって作っており、ウチの開発部がこのアリスの作ったMODを参考にして公式新エモを作っているほどだ。 「あーないない。で、どうした」 適当に流してから一体どうして機嫌が悪いのか聞く。 本来ならコール内容の方を優先すべきだが、どうにもそういう雰囲気ではない。 たぶん俺が原因なのだと思うが、会うのは久しぶりなので思い当たる節はないのだが、どうにも俺に文句を言いたげだ。 というかひょっとしてコールはついでで、俺に文句を言いに来たのが本命の用事か? そのためなら六千人くらいの署名を集めかねないからこいつはある意味恐ろしい。 「シンタのせいで花嫁さんが花婿さん斬り殺して喧嘩になってあたしが狩りに参加できなかった」 こいつの勘の良さははっきりいって異常。 こちらの言葉が少なくても俺がなにを聞きたいのかすぐに察してくれる。 ただ問題はこちらにも自分と同じ理解力を求めること。 特に機嫌が悪いときはこの傾向がさらに酷くなり本当に過程がすっぽりと抜ける。 アリスに言わせると俺の手持ち情報でわかるはずの事情説明らしいのだが、はっきり言おう意味不明だ。「花嫁と花婿って? 細かく話してくれ。ちゃんと聞くから」 だからこちらは気長に一つ一つ確認していくしかない。 幸いこんな性格のくせにアリスの気は長い。 むしろちゃんと話を聞いてもらえる方を喜ぶ節がある。「ギルド掲示板に書いてあった。チーちゃんとタスの結婚式をやるって」 アリスはそれこそ一日の限界である二十時間ぎりぎりで毎日潜っている廃人。 下手すると寝ているとき以外は、生活の全てがこっちにあるんじゃないだろうか。 リアルに知り合いがいるのか心配になるほどなので、リアルでの話の可能性はこいつに限っては絶対にない。 ただその徹底的にこだわった容姿やこの廃人ぶりで有名な所為でゲーム内でもトップクラスに顔が広い。 だからアリスが知り合いをあげても名前だけでプレイヤーを特定するのは大変なのだが、今回はまだヒントがある。 アリスがただギルドというときは、俺が設立したギルド『KUGC』しかない。 正式名称上岡工科大学ゲームサークル。 名前の由来は字の通り。 将来的にVRMMO関連の仕事に興味のあった大学の同サークルの先輩、同期、後輩連中が集まって、丁度オープンしたばかりのリーディアンオンラインを見学がてら始めたのが切っ掛けだ。 ちなみに当時大学二年だった俺が先輩を差しおいてギルマスになったのは、『お前が飲み会の幹事で仕切り一番上手いから』との部長命令だ。 そんな始まりだが、別に母校の学生だけが入れるといったギルドではなく、二代目ギルマスであるアリスを筆頭に、適当に気の合った連中を入れまくって拡大化した結果、今でも続く古参ギルドの一つになっている。「あーと……あぁチサトにタイナスか。悪い。最近は仕事が忙しくてそっちの掲示板覗いてないから知らなかった」 しばし考えてようやくその名に思い当たる。 プレイヤー名。チサトにタイナス。 俺がギルマスとプレイヤーを引退する直前の三年前にギルドに入った当時高校生の幼なじみカップルプレイヤーだ。 二人同時にあげてくれたからまだ思い出せたが、単独だと思い出せない程度の付き合いしかない。「シンタもっとちゃんと見てよ。昨日シンタが来てくれれば、あたしが立会人の服着られたのに。ついでにシンタも。チーちゃん達にも立会人になってほしいって頼まれたんだから。あたしとシンタみたいにボス戦の最前線で背中合わせに戦うような夫婦像が理想なんだって」 見てなかった事を正直に伝えるとアリスはさらに機嫌が悪くなった。 イベント事が好きなアリスは結婚式の立会人が着る特別衣装にあこがれがあるようだ。 本物の服飾デザイナーがあしらった花嫁と立会人の服はリアル結婚式で再現していたプレイヤーもいるほどの人気があるらしい。 その立会人になる条件とは婚姻関係にあるプレイヤー二人だ。要はリアルの仲人と同じ。 「知ってても俺昨日は仕事だから無理だっての。つーかGMになってからプレイヤー時代のキャラはアクセス不可能な封印状態だって知ってるだろ。無茶言うな」 俺とアリスが夫婦と言ってもリアルで付き合っていたとか結婚していたわけではない。というか俺に限らず誰一人こいつのリアルを知らない。 何せほんとに自分のリアルの話には黙りこくっているロープレ派の鏡みたいな奴だから。 しかも俺とアリスとの関係は、プレイヤー時代にゲーム内で婚姻関係を結んだ相棒であるのは間違いないが、そこには男女の恋愛感情という物も無い。 リーディアンオンラインの婚姻システムには夫婦のみでパーティを組んで近距離にいれば全てのステが二割増しになり、HP、SP自然回復が若干早くなる強化要素がある。 俺とアリスは戦闘方法は違うが、基本的に二人とも狩りの時もボス戦も常に最前線に突っ込んで穴を開けていくいく先鋒タイプだった。 どっちがより早く多く倒すかと競い合い張り合って、気づいたら突入しすぎ周囲には二人だけという状況も多々有り、生存確率を上げるために軽い気持ちで婚姻を結んだというわけだ。 本来ならこの関係は俺がプレイヤーを引退したときに解消しているはずだったのだが、今でもゲームシステム上はアリスと俺のプレイヤー時代の仮想体データは婚姻関係にある。 本当ならば大学卒業と共に正式な社員としてホワイトソフトウェアに入社すると決めたときに、不正を嫌う会社の規約もあり自分の分身とも言うべき愛着の有った仮想体も消すつもりだった。 アリスも俺が現役引退するのが多少嫌そうであったが、GMとしてゲームに関わるのならと一応納得してくれたのだが、俺が引退するという情報が流れると共にアリスに結婚を申し込むプレイヤーが大挙して出てきたことで状況が一変。 廃人であるアリスがゲームに入って来るのを躊躇するくらいの数のプレイヤーが会いに来たりWISやらが飛んできた。 このままでは狩りにもいけないとアリスに泣き付かれ、しょうがなく会社に頼んで俺のキャラをアクセスできないが存在はする封印状態にしてもらって、婚姻関係を持続して現在に至っている。 目立つ容姿とトッププレイヤーに属する抜群の戦闘能力というアリス個人の魅力に、うちのギルドKUGCの和気藹々とした雰囲気が作り出す高い結束力と集団戦闘能力もあいまって、いろいろなメリットからアリスと婚姻を結ぶ事を望む者は未だに数多くいる。 そんな輩はアリスも適当に断っているが、たまに本気で告白してくる者もいるらしくそういう時には俺の名前を出して断っているらしい。 その所為で各掲示板で俺の名前が出たときなんかに『アリスととっとと別れろ腐れGM』と書き込まれるのはある意味テンプレとなっている。 「GMの癖に融通が利かない」「そう簡単に利かせちゃまずいだろうが。にしても、あの二人まだやってなかったのか?」 チサトとタイナスが入ってきた当初からリアル幼なじみ故か仲が良かったのは何となく覚えているので、とうの昔に結婚していると思っていた。 婚姻強化はステ的においしくデメリットもないので、早めに結んでおくことに越したことはないんだが。「二人ともリアルでも付き合う事になったからその記念にだって。チーちゃんがタスとほんとに恋人になるまで、リーディアンの中だけっての嫌だったみたい」「……なんつーか甘酸っぱいな。で、それがどうとち狂って結婚式当日に花嫁が花婿を刺すサスペンスになってんだよ」 聞いているこっちの背中がかゆくなるような話だ。 しかしここまでの話だけなら幸せそのもの。果たしてそれがどうして花嫁が花婿を刺すような話にって…………あぁなんか判った。 ここまで来てようやく繋がった。 しかし遅かった。 最後の問いかけが余分だった。 察しの悪い俺にさすがにアリスの堪忍袋の緒が切れたみたいだ。 プルプルとアリスの長いウサギ耳が揺れる。 言葉にせずとも感情がわかりやすく、本当にこだわって作っているなと現実逃避気味に考える。 「結婚式場が東方の水面神社で、式が丁度終わった位でアスラスケルトン出現の鐘が鳴ったの。場所が近いしギルドメンバーと友好ギルドの人たちも大半そろってたから、良い記念だから突入しようって事になって、あたしとチーちゃん達が先陣の特攻メンバーになって、しかも一番に六層に突破できたのに……」 そういえば昨日の槍を持った騎士の気合いの入った戦いぶりみて、こいつを思い出してたんだけどそれも当然か……本人だしな。 あの時の槍騎士がアリスで、大剣騎士がチサト。んで撤退時に背中守ってたアサシンがタイナスか。 俺の出番が月一回くらいしかないボス戦で、しかも新戦法を試した初陣の相手がかつての相棒とは。 世間は狭いとはよく言ったもんだ。「アスラスケルトンでマリオネットポイズンなんて使う!? っていうか遠距離専門のアスラスケルトンじゃ死にスキルで使えないから考えなくて良いってシンタが昔断言したよね!? しかもスキルレベルいくつ!? チーちゃんはともかくあたしのレベルに即死で効くなんて普通ないでしょ!? ログ見せてよ! シンタならチートとか汚い手でやりかねないもん! チートだったらGM首にしてやるんだから!」「使ってないっての。しかもお前にそんな権限ないから」 激高したアリスが悔しさから泣きそうな顔を浮かべて、ログをよこせと右手を突き出す。 どうやら俺は読み違えていたようだ。 運営のチートを疑っているプレイヤーは俺の目の前にいた。