――――1582年4月12日
「そろそろ、仕掛けてみるか。睨み合うだけでは盛安殿の手並みは解らぬ」
盛安が兄、盛重に陣を委ねて後方に下がってから四半刻後――――。
頼貞は攻勢に出る事を決断していた。
自ら釣りのために陣頭に出てくる事といい、矢島満安と渡り合ったという話といい、盛安が猛将である事は疑いようがない。
まともに相手をすれば相応の被害が出る事は間違いないだろう。
だが、此方が動かない故か盛安は睨み合う状況のままを維持している。
釣りが失敗したために別の策を考えている可能性もあるだろう。
しかし、要注意とも言うべき相手である矢島満安と鮭延秀綱の両名を抑えている今ならば仕掛けたとしても被害が極端に大きくなる事はない。
中央でも噂に名高い雑賀衆がこの戦場に居ないとなれば、両翼と言えるのはその二名である事は容易に絞れる。
鉄砲隊を伏せている可能性もあるだろうが、この場合は釣り出したその先になるだろう。
それに万が一の退き際に関しても頼貞は弁えている。
対峙した事のない武将が相手である以上、一当てしてみなくては何も始まらないだろう。
幸いにして警戒すべき戸沢家の鉄砲隊も雑賀衆が戦場に居ないため、その数を大きく減らしている。
このまま攻め入ったとしても、彼の長篠の戦いのような被害を被る事もない。
恐れぬ必要がないのであれば攻めかかるのが下策とはならないだろう。
敢えて、誘いに乗ってみるのも一考とも言える。
寧ろ、盛安が夜叉九郎や鬼九郎と呼ばれるに相応しい武将ならば正々堂々と応戦してくる可能性の方が高いくらいだ。
頼貞はそのように盛安の気質を読んでいた。
「皆の者、これより前方の戸沢盛安殿の軍勢に一当てする。この頼貞に続け!」
睨んだ通りの相手であるならば、自らが前に出る事で必ず出てくる。
これでもし出てこないのであれば――――あの旗印は囮でしかない。
少なくとも野伏を行おうとしてきた事からすれば、盛安本人以外にはありえないはずだ。
何れにせよ、戦ってみない事には正体が何者かは解らないだろう。
頼貞は此処に来て一時的に方針を一転させ、動く事を決断する。
背後に居る義光ならば頼貞が一当てした段階で意図には気付くだろう。
釣り野伏を抑えた以上、甚大な被害を被る事が無い事は明らかである。
他にも術がある事に関する否定は出来ないが……。
相手から動かざるを得ないようにするのも一考である。
静から動へ。
機敏に状況を判断し、動くのは長年の戦歴を持つ武将として知られるが故のもの。
頼貞は自らが見極めた盛安が如何なるものであるかを確かめるために動き始めるのであった。
「申し上げます! 天童頼貞殿が仕掛けて参りました!」
盛安と入れ替わる形で先陣を務める盛重の下に頼貞が動いたと言う報せが届く。
情報を伝えに駆け込んできたのは盛安が盛重の身を案じて残していた戸蒔義広である。
「来たか……! 盛安が下がった途端に動くとは流石は出羽にその人ありと言われた頼貞殿だ……」
頼貞の機を見る眼の良さについては父、道盛より伝え聞いている。
最上義光を付け入らせなかったのもその頼貞の手腕があるからだ。
それが盛安を相手にしているこの時にも働いたのだろう。
「如何致しましょう?」
「……応戦するしかあるまい」
盛重は応戦するしかないと判断する。
少なくとも盛安であれば確実に退く事が無いのは明白だからだ。
一時的に盛安と陣替えを行っている今、頼貞にそれを気取られる訳にはいかない。
盛安が不在と知れば、機微に優れる頼貞は烈火の如く攻め寄せるであろう。
確実に欺き通せるとは思えないが、戸沢の旗印を掲げている以上、此処で退く訳にはいかなかった。
少なくとも盛安であれば一歩も退く事なく戦い抜くだろう。
「皆の者、天童頼貞が来る! 此処が凌ぎどころぞ!」
「おおっ!」
迎え撃つ事を宣言し、采配を執る盛重。
盛安のように戦えるとは思わないが、それでも一時的に任された以上、責任がある。
先代の戸沢家当主として再び采配を執るその時が来ただけだ。
自らを叱咤し、盛重は眼前の頼貞の軍勢を見据える。
何れは戦うはずの相手と早い時期に戦う事になったに過ぎない。
盛安とてそれは解っているだろう。
それ故、迎え撃つ選択肢を選んだのだ。
今の戸沢家の力ならばそれも不可能ではない。
盛重は盛安の望んだ早期決戦の願いを叶えるべく頼貞に立ち向かっていくのであった。
「……手応えが無さ過ぎるな」
前方の戸沢家の軍勢へと一当てし、采配を振るう頼貞は僅かな違和感を感じていた。
応戦してきた事は勇猛で知られる盛安の軍勢である以上、当然である。
それについては何ら問題はない。
だが、頼貞は確かな違和感を感じていた。
「練度は申し分無し、軍の士気も高く纏まっている……だが、些か采配に乱れがある」
軍の運用に何処かしらの隙が多いと頼貞は判断する。
此方が斬り込んだ時に射掛けてくる弓、鉄砲の統制が今ひとつ取れていないのだ。
弓の方は慣れ親しんだかのように的確に頃合いを見計らって射掛けてくるが、鉄砲の方はそうではない。
先の唐松野の戦での盛安は騎馬と合わせて鉄砲を運用していたと聞くが、そういった類での仕掛けを行ってくる様子は全く見られない。
明確に表現するのは難しいが……不慣れであるように感じるのだ。
長年に渡って戦場に立ち続けた頼貞からすれば僅かな違和感は容易に読み取れる。
「盛安殿がこの場に居ないのは確かだな」
頼貞はこの場に盛安が存在しない事を確信する。
釣り野伏自体が囮である可能性が無いとは言い切れないが、他に動きがあれば既に義光が気付いているだろう。
最上八楯を捨石にするにしても、それは自らの首を絞めるだけにしかならない事は自身が一番理解しているはずだ。
それ故、義光が仕掛けた罠と言う可能性も有り得ない。
戦場における義光は知将としての側面以外にも勇将である部分も強く、この点に関しては筋を通す人物だ。
頼貞は戸沢家の軍勢の中で指揮を執っているであろう大将の姿を探す。
盛安でなくとも別の者が采配を振るっているのは間違いないからだ。
「……見つけた」
暫し戦場を見渡した頼貞は大将と思われる武将の姿を認める。
歳の頃は30前後といった所だろうか。
盛安の年齢が10代後半である事からすれば、恐らくは兄である盛重だろう。
最上家との出羽における雌雄を決する事になる戦なだけあってか、隠居の身にも関わらず表に出てきた気概は認められる。
だが、その事が此度の戦では決定的な命取りとなる事は間違い無い。
盛重の姿を認めた頼貞は躊躇う事なく、弓を引き絞る。
「この頼貞の前に立った事を後悔するのだな……!」
齢、50に達する年齢でありながらも騎射の構えを取る頼貞の構えには微塵の乱れも見られない。
撃つべき相手を見定めた今、それは遠く先に見える一人の人物に絞られている。
余計な手間は必要ない――――。
頼貞程の武将であれば一射もあれば射抜く事は容易だ。
「……戦場の倣いだ。……悪くは思うな」
的確に甲冑の隙間である首筋を射抜いた頼貞は静かに呟く。
崩れ落ちるかのように落馬する盛重の姿を見つめ、頼貞は手応えを確信する。
不慣れな戦であるにも関わらず陣頭に立とうとした事は見事であったが、頼貞と戦うには些か役者が不足し過ぎていた。
自らが離れた所から狙われている事も悟れぬ様では戦場で必要な感覚が足りない。
もし、今のが盛安であれば射線から外れるか、飛来してきた矢を叩き落とした事だろう。
彼の若き猛将ならばそのくらいは造作もない。
矢島満安を相手に一歩も退かぬ一騎討ちを演じているのだからこの程度ならば容易だろう。
そもそも頼貞自身、自らが射手として優れているとは思っていない。
強弓が引ける矢島満安や延沢満延とは違うのだ。
経験から来る技巧でそれを補って騎射を行ったに過ぎない。
頼貞が自ら進んで動く事は無いと判断しての盛重による代役であろうが、これもまた水物である戦の定めである。
一度も戦った事が無いが故に盛安も読み違えたのだ。
釣り野伏は相手が動こうが動かまいが機能する驚異の戦術であり、それを逆手に一度仕切り直しを図ろうとしたのは間違いでは無い。
だが、天童頼貞と言う人物の前ではそれが尤も悪手であった。
僅かな手応えの違いで敵将を判断出来る武将の前には決定的な隙にしかなりはしない。
盛安が頼貞を甘く見たか、焦っていたかまでの判断は出来ないが……。
自身の打った手で最悪の手を打ってしまった事に変わりはない。
盛重の力量では頼貞と戦うには役者が不足している、と言う事実があるからだ。
淡々と戦況を見据え、盛安の判断の誤りは自分と初めて戦ったからに過ぎない、気を引き締め直す頼貞。
たかが初戦を制しただけだ。
「次に備えるべし、と義光殿に早馬を! すぐにでも戸沢の逆襲があると思え!」
頼貞は声を張り上げ、すぐに次の動きがある事を前提とし、命令を下す。
奇策を正攻法で打ち破った今が好機だが、これ以上の深入りは無用である。
現在の頼貞の兵力だけでは盛安の軍勢を打ち破る事は叶わないからだ。
此処で驕らないからこそ、天童頼貞と言う人物は最上義光を相手にしても一度も引けを取る事は無いのである。
それが初めて戦う相手であろうとも、冷静に見極めて一手を打つ。
猛将として知られていた亡き兄、天童頼長とは違う在り方を求められたが故に至った視野。
これこそが知勇兼備の将であり、出羽にその人あり、と謳われた天童頼貞である所以なのである――――。
「盛重様!」
飛来した矢を受け、崩れ落ちるかのように落馬した盛重の姿に義広は目を見開く。
僅かに瞬きをしたその瞬間の事だった。
盛重が狙われていたと言う気配を察する間も無く、射抜いた技量からすると頼貞が自ら放った矢である事は間違いない。
「おのれ……!」
ゆっくりと弓を下ろす壮年の武将の姿を認めた義広はそれを確信する。
だが、頼貞に構っている訳にはいかない。
盛重の身を案じる事の方が先だ。
「盛重様……! 御気を確かに……!」
「義……広、か……」
僅かに意識はある様子に義広は一息を吐く。
だが、首筋に深々と刺さった矢を見た瞬間に悟る。
盛重が助からないであろう、と。
こうして、盛重が辛うじて意識を保っているのは盛安の事を案じるが故のものだろうか。
既に瞳の中の光は失われているように見える。
「盛安に伝えよ……俺の仇を討とうとは考えるな……天童頼貞を侮ってならぬ、と…………」
虚空を見つめながら盛安に伝えるべき言葉を紡ぐ盛重。
僅かばかりであれば戦況を維持する事くらいは叶うであろうと思っていたがそれは大きな間違いであった。
天童頼貞は自分が思っているよりも、盛安が思っているよりも更に遥か高みに在る武将である。
今の何処か逸っている盛安では万が一すらの勝ち目はない。
幾ら手を打とうとも裏目にしか出る事はないであろう。
「上杉家との盟約の通り……本庄……繁長……殿を頼る事を……義広の口から……伝え、よ……」
「……ははっ!」
最上義光が敵対していた最上八盾と盟約を結んだのであれば此方も盟約を結んだ上杉家を頼るべきである。
織田信長との関係もあり、表立って此方から上杉家に手を貸す訳にはいかないが……。
そのような事情を気にしていては勝ち目はない。
最善の一手とは言い難くとも天童頼貞を破り、更には最上義光をも破らねばならぬとあれば盛安だけでは成し得ない事だろう。
如何に己の意思があろうとも、此処は自分を意思を殺さねばならない時である。
盛重は薄れていく意識の中、盛安への言葉を残す。
「不甲斐ない兄を……許せ……盛安……平九郎……」
兄弟揃って遠乗りに出かけたあの日の光景が頭の中を過ぎって行く。
盛安、平九郎と共に駆けたあの時は盛重にとって新たに覚悟を決めさせた日でもあった。
一度は身を引いたがもし、自らが必要となればその時は弟達の為に全てを擲とうと。
その一念で天童頼貞へと立ち向かったが、全く歯が立たなかった。
今後を左右する今のこの時に盛安の役に立てず、平九郎に何も残せない事だけが唯々、心残りだ。
無念の思いを抱え、盛重は力尽きた。
――――1582年4月12日
――――戸沢家第17代目当主
――――戸沢盛重戦死