「盛安様より伝令! 秀綱殿は夜陰に紛れて密かに側面を突かれたしとの事!」
「確と承った! 某に御任せあれ、と殿に伝えてくれ」
「ははっ!」
天童頼貞が動かない事で敵勢を釣り出せない事と判断した盛安は次なる一手を打つために鮭延秀綱に伝令を送っていた。
「……やはり、最上八楯は一筋縄ではいかぬ相手か」
盛安からの命を受け、秀綱は頼貞が容易ならざる相手である事を改めて痛感する。
戸沢家中では満安と同じく、最前線に所領を持つ秀綱は頼貞と睨み合う機会が度々あった。
若くして鮭延城を受け継ぎ、真室を治めてきた身としては最上八楯は身近な敵であり、警戒すべき相手。
それ故、秀綱は頼貞が動かない可能性がある事を理解していた。
「しかし、殿は頼貞殿が動かぬと気付くや否やすぐに次の一手を閃かれた。ならば、某はそれに応えねばなるまい」
だが、盛安は動かない頼貞に対して無理にでも動かざるを得ない状況を作り出そうと手を打った。
奇襲や伏兵といった芸当を得手とする秀綱にとっても相手を動かさせる事によって戦術を成立させるなど、聞いた事は無い。
偽装退却から相手を引き込んで伏兵にて撃破すると言う野伏に関しては嘗て蒙古が得意とした戦術であると知っていたのだが……。
まだまだ自分でも解らない戦があるのだと秀綱は盛安の采配に感嘆する。
「殿が信頼してくれるのならば、全力を尽くすのみだ」
だからこそ、盛安の期待に応えなくてはならない。
秀綱は疑う事なく、従う事を決断する。
奇襲をかける事は自らの得意とする事だ。
力を発揮出来る機会を与えられた以上、力を出し切るのが家臣としての務め。
秀綱は盛安の采配に則り、自らの戦に挑むのであった――――。
だが、秀綱はただ一つだけ気付いていない。
此度の戦は自らが盛安の采配に初めて従う戦であり、盛安が普段の力を存分に発揮出来ている状態に無い事に。
逸りがあるが故に戦術眼に誤りがある事に秀綱は気付いていなかった。
戸沢家に属してからの戦は真室の戦い以外には小競り合いしか無く、真室の時も秀綱が総指揮を執った戦いだ。
何れの戦も秀綱が自ら采配を振るった戦であり、盛安の采配に従って戦った経験は一度もない。
他の者であれば、盛安の違和感に気付いたかもしれないが……。
初めて盛安が総指揮を執る戦に参戦した秀綱ではそれに気付く事はない。
普段の戦では軍勢を全権委ねられている形で参加していたが故の弊害であるとも言えた。
故に秀綱が動こうとしている事が既に敵方に察知されているとは知る由も無かったのである。
「相、解った。盛安殿の指図に従おう」
盛安からの伝令を受けた満安は唯々諾々と従う旨を伝える。
このまま睨み合うだけでは戦の進展は何もない。
寧ろ、伊達家の援軍の分で数に勝る最上家の方が優位なくらいだ。
奇計を以って当たらねば頼貞を撃破する事が出来ない事は満安も理解していた。
(……盛安殿らしくない采配だな)
だが、些か此度の戦における采配は盛安にしては拙速に過ぎる気がする。
野伏は確かに有効な戦術であり、釣りの手際も相手が天童頼貞や最上義光でなければ奥州で意図に気付く者がどれだけ居たか解らない。
精々、盛安の盟友である津軽為信と沼田祐光の主従や安東愛季、九戸政実、それに今は亡き蘆名盛氏くらいのものだろうか。
満安から見ても盛安の釣り野伏に関しては感嘆を覚える程ではある。
しかし、気が逸っているのが明らか過ぎるのが問題だと満安は感じていた。
盛安は確かに自ら前に出る気質の人物ではあるが、此度の戦ではそれが表に出過ぎている。
総大将が自ら斬り込むのは夜叉とも鬼ともと呼ばれる盛安らしいものではあるが、相手が義光である以上普段通りにはいかないはずだ。
自らと同じく先鋒を務めている秀綱は盛安が采配を執る戦に参陣するのが初めてであるためにその事に気付かないだろうが……。
(上洛を含め、間近で共に居る機会が多かった俺には解る)
盛安から普段の”らしさ”が感じられない事は満安からすれば明らかであった。
戦で直接矛を交え、上洛した際の盛安の姿を見てきたためにその気質を理解しているのは当然かもしれない。
それに満安自身、織田信長と面会した際に真の天下人たる者が如何なる者であるかを目にした事もあり、盛安の心情は深く理解出来た。
恐らく、盛安が急いで上洛しようとしているのは畿内で何かが起こる事を察しているからであろう。
(……俺としても信長公の事は気にかかるからな。盛安殿が察しているのであれば逸るのも無理はない)
だからこそ、盛安に普段のらしさが無い事に違和感はない。
鎮守府将軍の官職を賜る際に世話になった織田信長という人物に心底惚れ込んだ様子であったのは傍目で見ても明らかだったからだ。
それに満安も信長には圧倒される何かを覚えていただけに同じように思うところがある。
(ならば、俺に出来る事は盛安殿の命に従い、延沢満延殿を打ち破るのみだ。何れにせよ、最上八楯を突破しなくてはこの戦に勝機は無い)
故に満安は盛安の采配が逸っている事を承知の上で従う。
幾ら盛安が戦上手であるとはいえ、頼貞とは戦歴に大きな差がある。
頼貞に読まれている以上、小細工をするよりは満延を打ち破る方が余程ましだ。
とは言え、満安と満延の武勇は拮抗している。
一騎討ちともなれば間違いなく死闘が繰り広げられる事は目に見えていた。
だが、先鋒である最上八楯を突破しなくては早期に決着をつける事は不可能。
満安が盛安の命に従い満延に戦いを挑むのは決して愚策では無い。
寧ろ、戸沢家中で唯一、満延に対抗出来るのは満安しか存在しない以上、打つ手がない。
それは最上家の方も同様で満安に対抗出来るのは満延しか居らず、選択肢が一つしかないのは同様だ。
結局のところは満安が満延と戦う以外に次の展開を望む事は出来ないのである。
しかし、それは頼貞の思う壺であり、義光としても望むところであった。
乱戦に強く、驚異的な突破力を誇る満安の手勢を封じてしまえば打つ手は更に増える。
それだけに満安が盛安の采配に従う事は諸刃の剣でもあったのだ――――。
――――1582年4月11日深夜
「……此処までは順調か」
盛安の采配に従って動き始めた秀綱は夜襲を仕掛けるために迂回しつつ軍を進めていた。
元より軍勢を伏せている形であったため、頼貞に気取られる事なく動かす事に関しては特に支障はない。
問題となるのは歴戦の将である頼貞が秀綱が動く事を先に考慮した上で動いている場合だ。
可能性としては五分五分くらいであろうと見ているが、油断は出来ない。
「……はい。しかし、敵は知将と知られる頼貞様と義光様。此処から先が順調にいくとは思えませぬ」
家臣である佐藤信基も秀綱と同じような感覚を覚えていた。
秀綱と共に最上家と対峙してきた者として手の内を知るのは主君だけではない。
信基もまた主君と共に戦った身であるが故、彼の家が如何なる手を打ってくるかの予測は充分につく。
特に奇襲といった類の戦は秀綱が尤も得意とする事であり、真室の戦いで一躍武名を馳せた事もあってか予測されている可能性の方が高い。
頼貞に気取られなかった場合でも義光が動かないと言う可能性はほぼ無いと言えるだろう。
「信基もそう見ているか。先程より某もそのような気がしてならぬのだ。……最上には奇襲といった類を得意とする者が居ると聞いた事はないはずなのだが」
秀綱は義光の気質を踏まえつつ、警戒する。
確かに最上家に奇襲を得意とするような将が居ると聞いた事はない。
義光自身が智謀に優れるために対処が早く、読まれてしまうと言ったのが秀綱からの印象だ。
そのため何故、自分がこう感じるのかが解らない。
何か予感でもあるのだろうか。
「……殿、御話はこれまでです」
「やはり、先手を打たれていたか。流石は義光殿と言うべきか」
しかし、自らの感覚はやはり間違ってはいなかったらしい。
信基もそれに気付いており、奇襲に対する備えをされていた事を察している。
「だが、見慣れぬ相手だ。某とは一戦も交えた事の無い者だろう」
目の前に現れた軍勢を率いる者は秀綱には見覚えない無い人物だ。
年の頃は自分よりも2歳前後くらい若いだろうか。
盛安とは同年代の若者であると見える。
「名のある者と御見受けした! 我が名は最上義光様が家臣、志村光安! 一手、御相手願おう!」
若者も秀綱の姿を認め、名乗りを上げた。
志村光安――――最上義光の腹心にして、家中で最も才気溢れる若者であるとその名は秀綱も聞いた覚えがある。
奇襲と言った類を得手とする可能性も決して無いとは言い切れないだろう。
「その意気や良し! 某は戸沢盛安様が家臣、鮭延秀綱! 光安殿よ、御相手致そう!」
名乗りを上げた光安に対して、秀綱も名乗りを上げ采配を振るう。
鉄砲などの装備を含め、軍勢の数は殆ど互角。
腹心である光安が率いる軍勢は間違いなく、最上家の精鋭であり、主力であるのは間違いない。
此方も盛安から預かった精鋭と秀綱自らが鍛え上げた軍勢だ。
練度においても殆ど差が無い以上、此処は純粋に率いる武将の力量で勝敗が決するだろう。
鮭延秀綱と志村光安。
史実において最上四天王と呼ばれ、その双璧を成した二人の人物が遂にぶつかり合う。
御互いに譲れぬものを抱えた若き武将同士の戦いが此度の戦の趨勢を決める一端と成り得る事は明らかだ。
それ故、秀綱も慎重に動かざるを得なくなる。
本来の目的である奇襲は慎重さが求められるものであるが、それ以上に大胆に動く事も要求される。
こうして光安と戦う事になった以上、大胆な動きは阻害される事となり、更には隠密といった奇襲に必要とされる要素は尽く潰された。
事実上、盛安の釣り野伏は第二段階に移行する以前の段階で失敗に終わってしまったのである。
――――4月12日明朝
「鮭延秀綱様、敵勢と交戦中の模様!」
「……見破られたか」
夜が明けて直ぐの報告で俺は秀綱の夜襲が事前に防がれた事を聞く。
如何にも全てが上手くいかない。
彼の事件まで残り時間が少ないだけに否応にも今の状況は腹立たしく感じられる。
少なくとも敵が最上義光でなければこうはならなかったはずだ。
「盛安、一度退いた方が良いのではないか? 義光殿も頼貞殿もそう甘くはないぞ」
「しかし、此処を離れるわけには……」
いらつく様子の俺を見かねたのか、陣を訪ねて来ていた兄上が一度下がるように進言してくる。
確かに兄上の言う通り、此処は仕切り直した方が良いのかもしれない。
だが、一度退けば戦が長引く事になるのは明白だ。
「ならば、代わりに俺が此処に残ろう。……旗印も含め、陣容の外観は変わらぬ故、見破られる心配もないはずだ」
悩む俺の的を射たかのように兄上が申し出る。
懸念していたのは俺が下がる事で頼貞が一気に前進してくる事を選んだ場合だ。
秀綱の奇襲が失敗した以上、恐らくは満安の方も延沢満延によって抑えられる事になるのは想像に難くない。
このまま対峙するだけでは戦が動かない事は事実だった。
「……確かに兄上の言う通りかもしれません。申し訳ありませんが、後を頼みます」
そのため、俺は兄上の申し出を受ける事にした。
これは一度、策を練り直す必要があると言う兄上の意見の方が正しいからだ。
釣り野伏でも頼貞を動かす事が出来ない以上、正攻法に切り替える必要性も出てきた。
彼の事件への介入までの残り時間が少ない事を踏まえれば、悠長に考えている時間などないが……。
別の手を考えなくては頼貞を突破出来ない。
動じる事の無い敵に対して、此方から仕掛けるのは出来れば避けたかったが、奇策の類が通じない以上仕方が無いだろう。
それに此度の戦は唐松野の戦いの時のように火力を前面に押し出して戦う事は出来ない。
主力の鉄砲隊は重政が率いている者達を覗けば、昌長と重朝が全て引き連れて行ってしまっているからだ。
特に練度に優れている雑賀衆が全員不在であるのが俺に真っ向からの決戦を躊躇わせる。
数で劣っている以上、質でカバーするしかないにも関わらず、精鋭が引き抜かれている状況なのだから。
重政の率いる根来衆を主力とする軍勢だけではどうしても、数と火力が足りない。
本来ならば、両方の鉄砲集団を完全に揃えた状態で対峙しなくてはならない相手に半分以下の戦力で挑んでいるのだから尚更そうである。
かと言って持久戦に持ち込めば俺が目標としている事は達成出来ない。
難しい戦況とも言える中で結局、俺は一度後ろに下がって仕切り直す事を決断する。
この判断がすぐに二度と取り返しの付かない事となるとは気付かずに――――。