「は、そ、そ、その耳、その尻尾は……!」
「何だよ、人間!」
「だぁーってろ、良い子にしてろ、俺に怒られたくなけりゃな」
「…………」
「…………」
「さぁて、コイツは俺の奢りだぜ、カザンよぅ」
――
カザンは唇の隙間から侵入した生温い液体に、意識を覚醒させた
ポタポタと、髪から滴が落ちる。ブルブルと頭を振って、カザンは気付いた
酒だ
カザンは目の前で不敵に笑うゴッチを見ても、少しも驚かなかった
「…………そうか、お前ほどの男ならば、不思議な事ではないか」
「美味いか?」
「…………」
「おぉ、こりゃ中々」
空になった小さな酒瓶から酒の滴を舐め取り、ゴッチは笑う。結局大事に取っておく破目になったダージリンの屋敷の酒は、この世界で呑んだ内では、一等級だった
カザンも、笑っている。最初は小さな、掠れたような声だったのが、段々と力を取り戻していく
地の底から響くような声だ
「カザン、大丈夫か?」
「ウルガ」
狼少女がおどおどと話し掛けた。カザンは視線も寄越さなかったが、しっかりと認識できている
「馬鹿な、殺されるぞ、ここは」
「仕方ないじゃんか、ねーちゃんが…………泣くんだから」
「おい」
「知るかボケ、屋敷の中で搗ち合っただけだ。俺が連れてきた訳じゃねぇ。寧ろそいつの危機を救ってやったんだぜ、俺は」
「…………そこの侍女は?」
「協力者だ。『カザン様の為なら何でもしますぅ』っつーから、ここまで案内させた」
「そ、そ、そ、そんな言い方はしてな、無いです!」
「…………済まん、『ファティメア様の為なら死ねますぅ』だった。間違えてたぜ」
「ひーん」
卑猥に体を捻り、腰を振りながら茶化すゴッチに、ネスは泣いた。半ば本気の泣き方だった
ネス自身は否定したが、ゴッチの発言も、そこまで間違っている訳でもない
「まぁ、こいつ等の事情なんぞ知らん。お前との関係もな。とっととお前の女も攫って、早めに逃げちまおうや。あぁ?」
「何故、お前が、俺を助ける」
「お前の育ての親がな。みっともなく土下座までしやがるから、つい鬱陶しくてよ」
「…………毒を仕込まれて、力が出ない。鎖を頼めるか」
ゴッチはカザンの腕を取る。鈍く光る手錠には、カザンが足掻いた証か、血で赤く染まっていた
踝の辺りを弄ると、ナイフが滑り落ちてくる。ゴッチはまずカザンの左手の鎖をナイフで叩き斬り、続いて右手の鎖をも絶った
カザンが呻き声をあげる
「少しは気を使え、腕が折れる所だ」
「折れてから言えよ、手前見たいな頑丈な野郎はよ。……立てるか?」
カザンは平気で立ち上がった。毒を仕込まれて牢屋にぶち込まれていたなど、感じさせない立ち振る舞いだった
将校は、如何なる時でもゆったり歩く。なるほど、とゴッチは頷く
「ウルガ」
「後で話すよ、カザン。それより今は早くここから逃げないと」
埃まみれの耳をピクピクと動かしながら、ウルガは言った。新たに近付く足音を感じ取っているのかも知れない
犬と猫は勘が良い物、と相場が決まっている。ゴッチはナイフをズボンの裾に仕込み直して、トントンと、爪先で床を突いた
「君は」
「ね、ね、ね、ねネスです、騎士か、か、カロンハザン様!」
「ネネス? 済まん、迷惑を掛けたようだ」
「…………ネス、です」
「漫才は程々にしとけや。行くぜ」
「……ふ、お前にも一応は礼を言って置くぞ、ゴッチ」
不思議な顔をするネスとウルガ。二人の表情を見て、カザンも訝しげに眉を寄せる
「ゴッチって、何?」
「俺の名前」
「さっき、スーパーなんたらって」
「それは俺の養父の名前」
ゴッチは気持ち悪く笑った
――
四人組、となると、多人数で行動する事があまり無いゴッチにとっては、少々小回りの利かない規模であった
これがドイツもコイツも手練揃いと言うなら話は別だ。実際、隼団で徒党を組む時は、少なくとも仲間の実力は心配要らなかった。が、今回は半分が戦力外で、更にその内の片方は素人も良い所である
どの道邪魔になるなら置いて行くだけだ。ゴッチは周囲を警戒しながら、慎重に、しかし迅速に四人組の先頭を走った
「(スムーズだ)」
何となく思い浮かぶ言葉は、否定されて然るべき物だ
ゴタゴタに巻き込まれて、挙句追い回されて、結局力尽くで事態を打破した。スムーズとは言いようもない
そうだ、本来なら……失敗している
「(まともじゃねぇ。ロベルトマリンでこんな糞無様な事やってたら、あっと言う間に死んでやがる。俺が今生きてるのは何でだ?)」
何度目かの曲り角に至り、ゴッチはハンドサインで追随してくるカザン達を静止させた
カザン達がハンドサインなど知っている筈も無かったが、意図するところは伝わってしまうのだから、これらは便利だ。ゴッチが曲がり角の先の気配を窺うと、兵士達が待ち受けているのが把握できる
隠れる場所の無い通路で棒立ちになっていれば、殺してくれと言っているような物だ
数は五人。ゴッチは声も漏らさず躍り出て、最寄りの兵士の口を塞いで、鳩尾に膝を入れる。罵声の代わりに吐瀉物を撒き散らして倒れる男
「あ」
と漏らした兵士の顔面に、ヤクザキックが減り込んだ。逃げ腰の相手だったせいか、キックの威力が伝わりきらず、兵士は大げさに吹っ飛んだ物の目立った怪我もなく生きている
ただし、失神していた。次だ、と吼えるゴッチの横をすり抜けて、カザンが兵士に組み付いた
「おい、体は」
唖然とするゴッチを尻目に、カザンは美しい手並みで兵士を転倒させる
「相手がただの人間であれば、倒すのに特別な力は必要ない」
腕と足を同時に抑え込むと、間を置かずに鈍い音が鳴る。兵士の右腕と左足が奇妙な方向に曲がった
ゴッチは満足げに笑う。スムーズだ
この二人組は、圧倒的だった。何人掛かってきたところで、相手にはならない
ゴッチは中指を立てて、剣を抜こうとしながらも硬直してしまった残り二人の兵士に、脅し文句を仕掛ける
「おうコラ、やんのか。手加減してやんねーぞ」
「無駄だ。アラドアの私兵だぞ。平気で命を捨てに来る」
兵士二人が呼気を合わせ、抜剣と同時に踏み込んでくる
カザンが落ちていた剣を足で跳ね上げ、片方に体当たりした。兵士の腹部に刃が埋まる。背中を晒したカザンに向けて、残った一人が剣を振り上げた
ゴッチは見た。振り向き様のカザンの目付きだ。何もかも見通すような眼をしている
カザンは突き刺した剣を抜こうとした。兵士がそれを阻む。突きを食らった兵士は、自分の腹に深く埋まった刃を抱きしめて、抜けないようにしていた
ぱ、とカザンは剣を手放した。恐ろしい形相で身を捩り、剣から逃げる
兵士の一撃には、遠慮が無かった。カザンに避けられた必殺の一撃は、命を賭してカザンの動きを止めようとした兵士の頭を真っ二つに割っていた
「うおお!」
絶叫する兵士。両の目から涙が噴き出る
容赦のない拳が顎の先端に命中した。カザンは拳を振り抜いたまま、兵士が崩れ落ちて行くのをジッと待った
「よぉ、どんな気分だ、味方殺しは」
カザンはゴッチを一睨みしただけで、答えようとはしなかった。曲がり角からネスがビクビクしながら、ウルガが恐る恐る小走りに出てくる
足を折られてうつ伏せのまま倒れ伏す兵士が、凄まじい形相でカザンを睨んでいた
年のころは、カザンとほぼ同等に思えた
「騎士カロンハザン……! 自分が何をしているのか、貴殿は理解しているのか!」
「なんだコイツ、全然元気じゃねーか。きっちり殺しとけよな、カザァーン」
「……時間が惜しい、行くぞ」
兵士が尚も叫ぶ
「これはアナリアに弓を引く行為だ! 騎士カロンハザンともあろう男が……! 忠誠と信仰は何処に消えた、貴殿は本当に」
ゴッチが高く踵を振り上げ、兵士の右足に落とす。狙いは足首。寸分の狂いもなく突き刺さった其処からは、やはり鈍い音がした
こちらの世界の医療技術では、完治は絶対に不可能だ。二度とまともに歩けはしない。ゴッチは鼻で笑って、兵士の悲鳴に背を向ける
カザンが凄まじい形相で居た。ゴッチが感嘆の溜息を吐くほどの、恐ろしい殺気を放っていた
「武門セグナウとの闘争が、アナリアへ弓引く行いだと言うのなら、最早それで構わん。セグナウの兵士よ、俺はな」
カザンがゴッチに習うように、踵を振り上げる。狙いは右手首
何度目になるのか、鈍い音が響いた。兵士が悲鳴を上げ、ネスも小さく悲鳴を上げる
二度と剣は振れまい。四肢を折られ、再起は敵わず、兵士としては終わったと言って良い
「怒っているのだ。契約を破り、毒で持成し、女を攫う。王国騎士のする事か……!」
ゴッチは全てを見ていた。仕草、挙動、視線、感じられる物全てを感じ、見る事の出来る全てを見ていた
三日前の男とは違った。今のカロンハザンは、間違いなく“こちら側”に居た
「(へへへ、…………スムーズだ。ひょっとしたら、何もかもが上手く進んでいるのかも知れねぇ)」
ゴッチが悠々と歩きだす。この通路の先は、屋敷の玄関広間の筈だ。ネスが、そう言っていた
玄関広間を越えたら、ファティメアの軟禁されている部屋は直ぐである。ファティメアを奪還すれば、仕事は完了だ。後は逃げれば良い。その、逃げるのが大変なのだが
体制を低くして通路をじりじりと進み、ゴッチは玄関広間を覗き込む
アラドア・セグナウという男の権威を示すかのように、豪勢な広間だった。見事な装飾が至る所に施されている。まさに、屋敷の顔にふさわしい玄関と言う訳だ
ゴッチは首をかしげた。何か、ざわざわするような気配を感じていたのに
玄関広間には、誰もいなかった
「上だぁぁぁー!」
突然のウルガの叫び声に、ゴッチは身を捩る
――
何かに殴りつけられて、吹っ飛ばされた
上から襲ってきたのは灰と黒の毛並みを持つ巨大な虎だった。少なくとも、虎のようにゴッチには見えた
山脈の岩肌のようなギザギザの牙と、鎌のような鋭い爪。濁った白い眼球の中心で、黒い光が尾を引いたように、ゴッチは錯覚する
そして何よりその巨大さ。四つん這いの姿勢のままで、既にゴッチの倍はある背丈
己を見ても怯えぬ獣を相手に、ゴッチは一瞬だけ硬直した
「(飛びかかって、きやがるか?!)」
床に伏せるように虎は身を撓らせた。前足の筋肉が盛り上がっているのが解る
ゴッチの顔が引き攣ったのは、気のせいだった。ゴッチは笑っていたのだ
「(飛びかかって、きやがる、か?!)」
咆哮が響いた。立ちあがり、ファイティングポーズをとる
「飛びかかってきやがれ!!」
怒鳴ったゴッチは、しかし自分から飛びかかって行った。虎が全身を振り乱して、爪を振るう
虎の前足を打ち抜くゴッチの拳。爪が頬を掠って、血が噴き出した。ゴッチのパンチが、押し返される
「なんだそりゃぁぁぁーッ!!」
虎の腕力に負けて、ゴッチはぐるんと一回転した。これ幸いと足を振って、虎の横面に回し蹴り
パン、と顔面が弾けたように虎は仰け反る。ゴッチは地を這うように体制を低くして踏み込み、虎の腹に全力のストレートを叩きこんだ
「(一発二発じゃ駄目か、コイツぁ)」
「ウルガ、ネス、ここにいろ」
「カザン、アタシも!」
「許可できん」
効いた様子がない。ゴッチは虎の巨躯に体当たりする。真正面からがっつりと組み合う形になる
「ケ、こうなりゃ力尽くだぜ」
やったらぁ、と気合い一発、ゴッチは咆哮し、全力を以て前進し始めた。壁の近くで戦うと、奔放に暴れまわるゴッチの動きが制限される。それに、ネスとウルガの近くだというのも拙い
じりじりと、一歩ずつ、黒灰の虎を押していく。押し捲って、玄関広間中央へ。そこにカザンが滑り込み、剣を振り上げた
五本の矢が、それを阻んだ。カザンの、肩と、足。二本が命中し、三本は外れる
カザンが呻き声をあげながら、矢が飛んできた玄関の方向を睨んだ
「アラドア……!」
「あぁ?! アラドアだぁ?」
見ている暇が無い。虎がゴッチと組み合うのを止め、再び前足を振り上げる
咄嗟に両腕を体に引き寄せて、縦に構えた。爪が横薙ぎに振るわれて、それを真正面から受け止めたゴッチは、空を飛んだ
「(痛ぇ……。どういうこった、血だぁ。俺が? 俺の?)」
両腕に刻まれた裂傷から血が流れる。ぶわ、とゴッチの髪が逆立つ
玄関入口を見れば、何時の間にか七人居た。兵士が五人、白いマントを揺らめかせる、他と格の違う男が一人、最後に、くたびれたフードですっぽりと顔を隠したのが一人
白いマントの偉そうなのがアラドアだろう、と当りを付ける。年は四十ほど。年相応の渋みを持った金髪の中年で、口元は真一文字に固く結ばれ、表情がないかのようだった
「屋敷に曲者と言うので戻ってみれば、こうか」
虎が壁を走ったかと思うと、足音もなくフードの男に近寄ってゆく。そのまま寝そべり、フードの男に向かってじゃれつき始めた
「クソが、なんだありゃ……」
「ジューダ。人語を失う代わりに獣の声を手に入れた魔獣使いと聞く」
「奴の名前か? それとも“そういう奴ら”の名前か?」
「“そういう奴らの”だな」
アラドアよ。カザンが声を張り上げた。アラドアの周囲を守る五人の兵士が、弓矢を構える
「……最早貴様を我が将とは思わん」
「私はとうの昔に、貴様をアナリアの騎士とは認めていない」
「ファティメアを返してもらうぞ」
「無理だ」
アラドアの合図で、兵士達が一斉に矢を放った。カザンは剣を構える。五矢を全て受け止める
人間のしてよい技では無かった。アラドアの真一文字の口元が、ほんの少しだけ綻んだ
「毒もまだ抜けて居らんだろうに、大した男だ。だが、ファティメアは帰してやれんよ、最早。もう絶対に無理なのだ、それは」
「どういう事だ、それは。……何だ、その笑い方、止めろ」
カザンが首を振る。目が見開かれていた
アラドアの言葉の意味が、カザンには解っていた。認めたくは、無い
「止めろ、そんな、全て否定するような物言いは」
「ファティメアは自害した。最早二度と貴様の手の内には戻らん」
「馬鹿なッ」
カザンが切り込んでいく。弓を構える兵士達を、アラドアが制止した
代わりに、フードの男が動いた。虎がのそりと起き上がり、カザンを睨む
「ひゃっは! 何だかしらねぇが、ムカつくぜ!」
ゴッチも走り出す。カザンに食らいつこうとする虎に、罵声を投げながら飛びついた
「ぶっ殺せカザン! 絶対ぇに殺せ! 俺がお前を男にしてやるぜ!」
「アラドアぁぁッ!」
ゴッチが虎の突進を受け止めて、カザンがその横をすり抜けていく
抜剣する兵士達を、アラドアは再び止めた。己の腰の剣を引き抜いて、一歩前に出る
「手を出すな、お前たち」
「将軍?」
「良いのだ」
そのまま密着し、激しく切り合う。初撃、カザンは上段から、アラドアは下段から
アラドアは大した腕前だった。毒で体が動かないカザンでは、ほぼ互角どころか、少し分が悪い
その事はカザン自身がよく自覚しているだろう。しかし、怒声と共に食らいついて行く
「ファティメアにとっての生は、全てがこれからだった!」
「獄で体を汚され、消えぬ傷を負ってもか?」
「貴様が言うのか、それを!」
「アレは巫女だった、アナリアの。我儘で己の役目を投げ出す半端者が、どこでどうやって生きてゆけるのだ」
劣勢だろうが、何だろうが、カザンに任せておけば問題ない。ゴッチは虎に向かって、歪んだ笑いを投げかける
両の腕から滴る血が、ゴッチの体を濡らした。酷く気に入らなかった
「けひひ」
何時になく掠れた笑い声が漏れる。バチバチと、ゴッチの全身から乾いた音が鳴った
「この下等生物がァーッ! 誰に向かって粗相してくれてんだコラァァーッ!!!」
青白い光が玄関広間を埋め尽くした。雷は、何者をも全て例外なく貫く
魔物だろうが何だろうが関係ない。人だろうが虎だろうが関係ない
感電して、虎の黒灰の毛並みが逆立った。体組織が燃えて行く。苦しげな咆哮が響き渡る。それにひきかえ、全身に稲妻を纏わせたゴッチは肉が盛り上がり、受けた傷が塞がっていく
ゴッチは組み合う虎の足を振り払った。ガラ空きになる虎の胴体。隙だらけの体制
「ぬぁぁ」
ゴッチは拳を振り回す。嵐のような拳打の雨だった
目の前、腹、滅多打ちだ。ボコボコにしてやる
「ボディッ! ボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディ」
乱打に次ぐ乱打。五十発からは、数えるのを止めた
骨を砕き、内臓を破裂させる感触が拳から伝わってきても、ゴッチは殴るのを止めない。この虎が死んでも、或いは止めないのかもしれない。気が済むまでは
「ボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディボディ」
体を左右に振り回し、一発一発体重の乗った鉄拳を打ち込む。力を込めた拳でありながら、只人の目には、止まらぬ程には早い。両の腕は青白く光りっぱなしで、拳の威力と電流により、虎は最早悲鳴すら上げられなかった
苦しめ、もっと苦しめ。ゴッチは壮絶に笑った
「アッパァァァァァァーッッッ!!!」
虎の頭蓋骨が顎部から粉砕され、巨体が宙を舞った。おまけに空中で一回転して、それから床に叩きつけられる
折れた骨が肉体を突き破り露出している。絶命しているのは、誰から見ても明らかだ。電流で焼かれた虎の肉からは、不味そうな匂いが漂っていた
ゴッチは、ジューダとやらを睨みつけようとして、ジューダが既に逃走している事に気付いた。何とも行動が早い
クレバーな奴らしかった。ああいう奴は、相手にするとキツイ。フン、と忌々しげに鼻を鳴らして、息絶えた虎の頭を念入りに踏み潰す
ゴッチは未だ切り結ぶカザンとアラドアの方へと向き直る
――
「手を出すなよ、ゴッチ」
「良いのかよ、負けそうじゃねーか」
「負けん、この男には、このような外道には」
ゴッチの足元まで倒れ込んで来たカザンの顔色は、蒼白だった。既に、血液の循環すら怪しくなっているように、ゴッチには見えた
アラドアが息を整える間に、ゆっくりと足を付き、危なげなく立ち上がる。一つ一つの動作が、盤石な物に見えて、実は危うい
傷を負い、疲れ果て、毒を食らい、血が回らず
しかし、立つ。まだ戦う。全身から、殺すと言う気配を放っている
アラドアが額の汗をぬぐい、ゴッチを睨んだ。背丈はゴッチよりも低い癖に、見下ろすような視線だった
「貴殿が報告にあった魔術師殿か」
「どの魔術師かは知らねーが、そうなんじゃねーのか?」
「この狼藉、今回に限り見逃そう。直ぐに立ち去れ。これ以上、首を突っ込まないで貰いたい」
先ほどの雷の流れを見ただろうに、堂々とした態度だった
ゴッチは小さく笑った。今更それは在り得ない。そして、この男の態度も在り得ない
「『見逃そう』だぁ? 『立ち去れ』だぁ? 違うだろうが、戯けが。『見逃してください』『帰って下さい』だろうが。手前の立場を間違えるんじゃねーぜ」
アラドアよりも、アラドアの周囲の兵士達の方が殺気立った。五名の兵士が油断なく構えながら、アラドアの前に展開する
「私がどういう男なのか、理解しているのだろうな。如何に魔術師殿と言えど、一国を相手取って我を通せると思うのか?」
「思うね」
ゴッチがべぇ、と舌を出した
「手前はカザンに毒を盛って、ファティメアとやらを誘拐して、ついでに殺した臆病者の、玉無しの、粗チン野郎だ。何でそんな情けねぇ野郎に遠慮しなきゃならねぇんだ? 手前をバラして畑の肥しにしたあと、このアナリアとか言うイカレた国をぶっ潰せば、後腐れも無くてすっきりするじゃねぇか」
そんなことやってる暇ねーけど、と、口の中だけで呟く
アラドアの表情が凍った。対照的に、カザンが笑い始める
それは良い、と本当に嬉しそうに笑っていた。天啓を受けた、とでも言いたげな、自信に満ちた笑い方だった
「潰してやる。契約を違え、ファティメアを死に追いやったこの国を。所詮は腐敗が進み切った斜陽の国だ。一切合財潰して立て直した方が、民も喜ぼう」
「けけけ、どうした、アラドア将軍様よぉ。青筋が立ってるぜ」
「ゴッチ、気が変わった。手を貸してくれ」
あぁ? と首を傾げるゴッチを引き寄せ、カザンはめくらましを頼む、とだけ言った
取り敢えず、と言った風情で、ゴッチが電流を放出すると、カザンはネスとウルガが待機している通路まで走りだす
数秒以内に確保を完了して、カザンは再び走っていた。ゴッチは意図を察して、アラドアと兵士達に向かって突撃した
「何だ、全然元気じゃねーか馬鹿野郎」
「突破しろ!」
「俺に命令するんじゃねぇ!」
光る拳を床に叩きつけて、怯ませる。一瞬の隙を作り出し、ゴッチは手当たり次第に殴り飛ばした
当然、アラドアも殴った。上手く防いだようだったが、ゴロゴロと床を転がって倒れ伏す。その無様な姿にカザンは指を突き付け、宣言した
「決着は預ける。俺はアナリアを滅ぼす。それを見届けろ、アラドア・セグナウ!」
――
夜の闇に紛れながら、ゴッチは酒場に辿り着いた。酒場の親父が眉を顰めながら出迎える
「何処に行ってたんだ? 今外を出歩くなんぞ、無謀にも程がある」
「服を取りに行ってたんだよボケ。何時までもダセェ格好で居られるか。……大丈夫だ、尾行されちゃいねぇよ」
酒場の親父は、カザンに聞く所によると、バースと言う名前らしい。呼ぶ機会など皆無に思えた
「カザンの様子は?」
「意識はあるが、身体は動かんみたいだ。今、侍女の嬢ちゃんが付きっきりだ」
「へ、放っといて良いのか。カザンの奴、ありゃ相当“来てる”ぜ。我を失ってネスを強姦、なんて結構ありがちだと思うがな」
バースは苦み走った顔をして、背を向けた。酒瓶の整理をしていたが、身が入っていない。小さなミスを何度も繰り返している
机で、ウルガが赤い顔でのびていた。呑めない酒を無理に呑んだらしい。酒瓶を抱きしめて、ぶつぶつと何か言っている
「おいクソガキ。手前は良いのか」
「…………だって、アタシが居たって邪魔なだけだし」
「……そりゃ間違いねぇな」
ウルガが無言で酒瓶を振り上げた。受け止めるゴッチ
「手前、何であの場所に居たんだ? 無謀だろ、どう考えても。手前とカザンの接点は何だ?」
ぐでん、とウルガは机に倒れ伏した。そのまま、矢張りぶつぶつと話しだす。半分寝ている
「カザンは……アタシ達ミストカの恩人なんだ……。二年前、戦争で、アタシ達の森に火が掛けられそうになった時、カザンがそれを防いでくれた。……カザンは、良い奴だ。人間は嫌いだけど、カザンは好きだよ」
「ほぉ、あの男、本当に評判良いのなぁ」
「それに、姉ちゃんは、カザンの事が好きで好きで仕方ないんだ。へへ、姉ちゃんは、森で一番の美人なんだ」
「…………手前がカザンを助けたかった理由は解った。じゃぁ、カザンが捕まってたのを、どうやって知った?」
ゴッチはウルガが抱きしめる酒瓶を引っ張った。しっかりと抱き付いていたウルガを引き離せず、そのままぶらぶらと酒瓶にぶら下がらせる
獣の耳がピクーンと立って、尻尾が伸びた。ゴッチはウルガをゆらゆらさせて、直後に酒瓶を奪うのを諦めた
「八日前に、森に変な人間が来たんだ。最初は追い出そうとしたんだけど、ソイツが『このままだとカザンが危ない』って言うから」
「はぁ?」
「ソイツの説明が、凄く納得行ったんだ。他の奴は信じなかったけどさ。アタシ達って世情に疎いけど、カザンがどんな立場に居るのかぐらいは知ってたから。それで、ずっと走り詰めでアーリアまで辿り着いて、その変な人間のくれた地図を頼りに屋敷に忍び込んだんだ」
「おいおい……手前、実は相当頭が弱いんじゃねぇか? どんだけ納得行っても、一人で潜入かますか?」
ゴッチの言ってよい台詞ではない
「……変な人間が、アナリアの兵士とか、そう言うのに働きかけて、有志を募るからって。それまで時間稼ぎしてくれって。カザンは良い奴だから、命令に逆らってでも命を捨てて駆けつけてくる奴らが、沢山居るって」
「……わぁーった、わぁーったよ。……カザンも大した男だが、手前も大した女だ。大物になるぜ」
おい、とゴッチはバースに声を掛ける。バースは、振り向かない
「良い息子じゃねぇか。奴一人の為に、平気で馬鹿やらかす小娘が居やがる。この分だと、きっともっと沢山居るな」
「……当たり前だ。……俺の……自慢の息子だぞ」
「ケ、取り敢えず、カザンが復調してもしなくても、明日の朝日が昇ったらアーリアから逃げる。こうなった以上ここには居られん。だが、契約を忘れンなよ。手筈が整ったらこっちから連絡すっから、手前はきっちり“ラグラン”と“アシラ”について調べろ」
解ってる、とバースは呟くように言った。いつの間にか、ウルガは机に突っ伏して寝ている
奇妙な沈黙が場を覆った。ゴッチは今度こそウルガから酒瓶を奪い取り、傾ける
…………中身が無かった。ゴッチはウルガの頭に拳骨を落とした
「(チ、なんか、スッキリしねぇ終わり方だな)」
途中までは、もっとイケイケのノリノリに事が進んでいた筈だった。それが終わってみたら、この有様だ
こうなってしまっては、そもそもの目的も果たせそうにない。病人を殴り倒して勝ち誇れるほど、ゴッチは都合の良い性格をしていなかった
「あーあ、何やってんだ俺は…………」
何かが割れる音がした。音の発生源は、ネスがカザンに付きっきりで居る部屋からだ
バースが声を掛けると、ネスが直ぐに返答した
『だ、大丈夫です、こここ、来ないで下さい!』
酷く焦った声だったが、普段からあんな声だから今一判別がつかない
しかし、バースも、ゴッチも、部屋に確かめに行こうとはしなかった。男と言う物は、女が居れば大抵は立ち直ってしまう物だ。二人とも、良く理解していた
「あー馬鹿馬鹿しー」
テツコか、ファルコンか、ダージリンと話したい。ふとそんな事を考えて、ゴッチは気付く
テツコへの言い訳を考えねばならない事に思い至ったゴッチは、一瞬で顔を青褪めさせた
――
後書き
愛の逃避行させてない事に気付いた。カッとなってやった。反省はしているが、後悔は以下略。
思うまま書いていたらいつの間にかファティメアが……! これは難解なミステリーサスペンス……!