ジルダウから僅かに離れた位置に設営された天幕でロクショールは軟禁状態にあった。河の畔で付近に陣を張る軍が多く、間違っても敵の襲撃を受けないと思われる場所だ
ロクショールの胸中は乱れていた。ロクショールは正義を尊ぶが、世の中が正しい事だけで回ってなど居ない事をよく知っている
だから軟禁状態を受け入れていた。思う所は多々あったが、オーフェスの懇願に圧されてしまったのだった
ロクショールはオーフェスの皺の寄った顔を思い出す。エルンストもオーフェスも、自分に非常に良くしてくれているのは理解できる
だが人間の心とは常に一つの方向を向いている訳ではない。エルンストもオーフェスもロクショールを大事に思うのと同時に、その扱いに非常に苦慮していた。ロクショールにだってそれは伝わってしまう
ずっと自分がエルンストの子だなどと知らずに育ってきた。兵団を率いる立場にあった厳しい母の元、兵の上に立つ者の子として人一倍以上厳しく鍛えられた。幾度となく死線を越えた
鍛え、学び、身分の差はあれど如何な人物とも真摯に向き合ってきた
それが母が殺され、エルンストを頼った時から一変した。多くの近衛に守られながら天下の玉の如く扱われ、一歩も動いて欲しくないようであった。その癖諸侯の中には、兵の将として鍛えられたロクショールの所作に粗野な物を感じるのか、ロクショールを侮る者も居た
息苦しかった。エルンストが存在すら知らなかった自分を受け入れ、愛してくれた事には心から感謝している。何くれとなく自分を世話してくれるオーフェスもそれは同じだ
だが、息苦しかった。今は己が発端となった騒動の蚊帳の外に置かれ、全く罪のない将兵達が傷つこうとしている
「私を出してくれ。私が間違っていたなら、私を危険な場所に置いてくれ」
謂れなき彼等にツケを払わせることはできない
友の無念を無かった事には出来なかった。尊厳を奪われた挙句、宿した子ともどもこの世を去ったのだ
ゴッチの顔色を窺ってばかりのオーフェスは黙殺する筈だ。エルンストも最後にはオーフェスに任せるだろう
どうしても認める事が出来なかった。結局は感情だった
だから、その結果がどのような物であれ、受け止めるべきは自分なのだ。オーフェスの懇願を容れるべきではなかった。例えエルンストに逆らう事になろうとも、ジルダウに残るべきだった
私は愚かだ。何時も間違う
「カザン将軍殿! いらっしゃいますか!」
ロクショールは声を張り上げた。ロクショールを見張るのはエルンストとオーフェスが最も信頼する人材、カロンハザンであった
カザンの代わりに兵士が天幕に現れ恭しく一礼する。言葉少なく「将軍を御呼びします」と告げ、直ぐに消えた
程なくしてカザンが現れる。背後には何時ものベルカとニルノア
そして今日に限ってミランダローラーを連れていた
「御呼びでしょうか、末姫様」
「はい。……何故ミランダローラー殿が?」
「おや……」
跪くカザン達三人を他所にゼドガンは斜に構えて立ち首を傾げる
「俺に来てほしい頃合だと思っていたんだが」
「……そうですね。……ミランダローラー殿には敵いません」
楽にするよう伝えると、カザンが立ち上がりロクショールに剣を差し出してくる
天幕に放り込まれた際取り上げられたロクショールの獲物だ。ロクショールは流石に目を白黒させた
カザンは優れた騎士だ。女の為に一度出奔した故に最高の騎士の栄誉には消えぬ傷がついたが、それでカザンの能力が衰える訳ではない。ロクショールも短い付き合いながらカザンを非常に頼りになる男だと思っている
だが同時に一風変わった騎士だとも思っていた。頑なな部分がなく一歩引いた場所から控えめにこちらを観察しているその姿に不思議な物を感じていた
軟禁されている人間に武器を渡すか
「カザン将軍……」
「物事は様々な目で見るべきです。ロクショール姫様。貴方の怒りは正しい」
「……けど、随分筋の通らない事をした。まず抗議すべきだったんです」
「あの男がそんな事、毛ほども気にする筈がありませぬ!」
「ニルノア、無礼だぞ!」
恐れ知らずにも言ってのけるニルノア。それを止めるベルカの瞳は揺れていた。同じ感想を持っているに違いなかった
カザンは気にせず続ける
「ですが、連中はそれだけの人間、と言う訳でもありませぬ。……実の所、無頼者なりにあの街をよく纏めています。商人を守り、交易路を守り、貧民に職を与える事すら」
「……はい」
「全てアナリアが乱れたせいです。正しい支配が行き届いていれば、民草は連中になど頼りはしないでしょう」
「将軍、私は何時も間違うんです。私は優れた人間ではないから。彼がたとえどんな人物だろうと……」
「俺が守ろう、ロクショール。ゴッチと一戦交えたいと思っていた」
しれっと言ってのけるゼドガンは、ゴッチの側近中の側近の筈である
しかしロクショールはゼドガンを信じた。ゼドガンは利権だとか組織だとかそう言った物を超越した場所で自分の理論を展開している。一般の感覚では測れないだろう
「本当に良いのですか。見届けて下さるだけでも十二分に有難いのに」
「興が乗った」
「……本当に、掴めぬ方だ。……それで、その」
ロクショールは悠然と構えるカザンを見遣る
当然ロクショールが此処を出てジルダウに戻れば、カザンに厳罰が下されるのは想像に難くない
カザンはゼドガンを真似たつもりか、こちらもしれっと答えた
「南方の兵に動きがありました。私はこれを一撃し、敵を牽制します。末姫様を見張る余裕はありませぬ」
「それは本当ですか?!」
「えぇ。ですのでこの乱痴気騒ぎは早めに収めていただきたい。ロクショール様が居た方が、そうなる気がするのです」
「……ありがとうございます、カザン将軍」
「馬の用意をしております」
ベルカに案内されてロクショールは天幕を出る
ゼドガンが涼しい顔をカザンに向けた
「何故ゴッチを擁護するようなことを?」
「……」
「言いはせん」
「……普段は控えめで忍耐強いが一度決めたら強情な方だ。……ゴッチが見るべき物の無い害獣のような男だと思っていたら、決して妥協できまい。そうであればあの方は死ぬしかなくなる」
「そうかな。……そうかもな」
ゼドガンはカザンから視線を外した
これほどの男、騙したつもりはないが結果そうなってしまう事には心が痛む
カザンはゼドガンがロクショールを守ると思っているだろう。それは正解だ
だがゴッチと和解させるのが目的ではない。ぶつけるつもりでいる
死ぬ可能性の方がずっと高い
――
ホークは焦げた前髪を毟った。ボロボロの毛髪がパラパラと落ちて風に飛ばされていく
路地の向こう側から火炎がほとばしる。それはホークの顔面をかすめ、整えた髪を再び焦がした
ホークは路地に積み上げ防壁代わりにした木箱に凭れ掛かり舌打ちした
「あの女、俺を禿げさせたいのか」
「弓手! 奴らに顔を出させるな!」
号令が飛び、ホークの兵が路地に矢を射かける。ラーラとホークの戦いは建物と狭い通路を挟んでの睨み合いとなっていた
「粘る。ごろつきの動かし方も巧みだ。アレはそのまま百人長として活躍できるぞ」
「ホーク様! 深手を負った者は下がらせました!」
「屋根の上も警戒させろ。奴らの中でも首巻をした者は身が軽い。奇襲されるぞ。……伝令! エルンスト殿の元まで走って様子を探ってこい!」
敵の数が増えているのをホークは感じた。ジルダウは奴らの根拠地だ。そこいら中からラーラの手勢が集まってくる
援軍が欲しい所だが、ラーラと同じようにゴッチが暴れているのならそれは望めないだろう。寧ろより酷い状況で逆に援軍を求められるかも知れない
ふと視界に影が差し、ホークは上を見た
先ほどの懸念通りの事が起こった。砂色の首巻をした者が五名、短剣を握り締めて建物の上からこちらを伺っている
「弓持てぃ!」
「ご主君を御守しろ!」
砂の首巻が飛び降りてくる。俄かに兵達が浮足立つ
人が大きく動く気配を感じた。通路の向こう側からラーラを先頭にごろつき達が飛び出してくる。ホークはにやりと笑って剣を構えた
「弓は矢張り要らぬ! 通路の敵に集中しろ! こちらは切り抜ける!」
側近達がいきり立って剣を抜いた。多少不安がある
兵の指揮や智の巡りに優れていても年嵩の行った者達が多い。それでも市井の破落戸程度に遅れは取らないが……
ゴッチの元に集まる物は何となく空気が違う。あのラーラ・テスカロンが直々に動かす者となれば尚更だ
「洒落た首巻! 俺を殺せるとでも思ったか!」
「うるせぇクソッタレ!」
短剣の投擲を獣皮のマントで防ぐ。ホークは先頭に立ち怒声を上げた
将を動かすのではなく、実際に敵と切り結ぶ距離に居るのであれば、矢張り勇敢でなければ兵が続かぬ
「エルンスト軍団上等だぁ! 隼が手前等の目玉刳り貫いてやらぁ!!」
「調子付くな下郎! 貴様ら如き、俺に語りかける事すら烏滸がましい!」
通路の向こう側で炎が爆ぜ、ラーラが咆えた。爆炎の上を舞う白金色の魔術師は、炎で家屋を嬲りながら積み上げた木箱を吹き飛ばす
ちぃ、と舌打ち。しかし眼前に迫る砂の首巻を放置する事も出来ない
まず一息に目の前の五名を討ち取り、撤退して体勢を立て直す
ホークは尚いきり立つ。しかし今まさに切り結ぼうとしていた砂の首巻五名は唐突に踵を返して逃げ出した。軽い身のこなしで助け合い、あっという間に家屋の屋根へと逃れる
「アヴォーシュ様に焼かれていっちまいな!」
大胆な陽動もあった物だ。ホークは即座に声を発した
「通路を抜けるぞ! 体勢を立て直す! 積んである木箱を崩せ!」
「逃げずともよいぞ! 殺しはせぬ! 面目が立たぬくらいに辱めるだけだ!」
ラーラが炎を身に纏い、兵士の群れを突破した。無手のまましかし炎を握り締め足取りは少しも乱れずホークへと走る
部下が一人間に割って入る。ラーラは足を振り上げた。顔面に直蹴りが命中し、泡を吹いて吹き飛ばされる
「退け! 退けぇーい!」
ホークは撤退の号令を叫びながら剣を振る。鋭い剣閃がラーラの頬を掠めた
ラーラは一瞬だけ頬を押えて身を固めた。炎を恐れず飛び込んでくる者が居ようとは
「ぐぅぅ!」
ホークは近くに積んであった木箱を満身の力を込めて引き摺り倒す。ラーラは即座に木箱を叩いた。炎が爆ぜ、一瞬で炭化した木片が飛び散る
「ボスはこの街の全ての場所で貴様らを駆り出すと宣言した! 出て行かなかった奴が悪いのだよ!」
だん、だん、と足を叩き付けるようにして歩く。燃え上がり、炎の尾を引いて歩くラーラは確かに魔術師だ。人間をやめていた
ホークは曲がり角に滑り込んだ。其処には既に新しい即席の防御柵が形成されていて、ホークはその隙間に飛び込む。即座に隙間は防がれる
ラーラは積み上げられた木箱や木材に火球を叩き付ける。火の粉と煙、木片で一瞬視界がふさがれ
それが晴れた時には、屋根の上にマグダラの兵士達が一列に並び、矢を番えていた
「撃て! 撃ったら即座に下がれ!」
号令に対し弓兵達は忠実だった。一斉にラーラ目掛けて引き絞った弓矢を解き放つ
ラーラはローブを握り締めていた。全身を這う炎が手に集まり、ラーラはローブを引き千切りながらその手を振り回す
炎の波が無数の矢を焼き払う。高所から、しかも至近距離から十分な狙いをつけて放たれたはずのそれは、一矢も報いる事なく全て燃えて消えた
マグダラの兵達は驚愕を飲み込んで即座に逃げた。ホークは路地裏から抜け出て、首を鳴らしながら兵に指示する
「崩せ」
兵士達が一斉に七本の縄を引いた。それは大きな木造りの宿屋の柱複数に結ばれており、支えを失った宿屋は見事に倒壊して路地裏を閉鎖した
「どうせ燃えかけていたのだ。まぁ良いだろう」
「死にましたかな」
「あの女がか?」
ホークは剣を一振りして、ややうんざりとしながら言った
強き敵はよい。だがあたら優秀な将兵を失うのは避けたい物だ
「まさか」
崩れた宿屋が一瞬で燃え上がる。炎が意思を持ったかのように駆け回り、凄まじい熱気を放った
ホークが溜息を吐く間にそれらは爆発した。木片が四方八方に飛び散り凄まじい熱風が起こる
しかしラーラが目的を達すると、その炎はまるで嘘だったかのように消えてしまった。後に残るのはぶすぶすと音を立てる炭だけだった
「こうまで自由自在か。伊達ではないな、炎の愛娘と言うのは」
呟きに答えるように、ラーラは砂の首巻達を引き連れて堂々と歩いてきた
「多少広い通りに出た。これは良いな、余分な物を燃やさなくて済む」
「あぁ、我々も民草の家々を壊さずに済むと安心していた所だ」
互いの手勢たちが武器を構えて睨み合う。双方ともに戦意は衰えていない
その場にそろそろと音もなく歩み出る者があった。黒いローブから僅かに除く細顎の白さが目に付く
ダージリン・マグダラだった。全く気配無く現れた氷の魔術師にラーラと実の兄であるホークさえ驚きを隠せなかった
ダージリンは感情の籠らない声で言う
「二人して何を?」
「……お前達に思い知らせるための戦いだ。氷の魔術師殿も私との決着をお望みかな?」
ラーラはふんぞり返って返答した。戦い以外の何かに見えるのか?
ダージリンは適当な相槌を打って流した。ラーラとダージリンのぶつかり合いは何時もラーラの独り相撲だ
「兄上」
「ジルダウから離れていろと言った筈だが……」
「私は問題ない。ゴーレムは私を憎んでいません」
「勘違いしているぞ氷の魔術師。愛憎など関係ないのだ。エルンストに与する全ての者をジルダウから叩きだす、そういう命令だ」
「試してみよう、ゴーレムに会って」
「は?」
一触即発の空気が萎んでいくのを感じた。ダージリンは掌に氷の華を生み出して弄びながらどうでも良さそうに言った
「兄上、エルンスト殿がゴーレムとの会談に臨まれるそうです」
「…………いや、それでこそだな。中々……出来ん選択だ」
「既にジルダウ噴水広場にて睨み合っているとか」
「何?! もうか?!」
驚愕の声を上げるホークだったが、予想外なのはラーラも同じだった
エルンストはなんだかんだで盟主を務めるだけはある男だとラーラは不遜にも評価していた。依怙贔屓など平然とするが大問題にまで発展させないうまいやり方と言うのを心得ているし、それ以前に大体は公平だ
勇敢過ぎず、臆病過ぎず、陽気で強引なように見えて相手の裏を読み、或いは慮る事も出来る。立場故にそれが求められる
そしてその立場故に自らゴッチと相対するのは有り得ない。ラーラはそう思っていた。それがそうならなかったのならば
これはもう全面戦争かもな。流石のラーラもうすら寒い物を感じる
「私は行く。ついてきて確かめてみればいい。ゴーレムが私をどう扱うのか」
「…………事前の命令通りやるのなら、お前など早々にジルダウから叩きだしても良いのだが」
興が乗った。確かめてやろう。そういってラーラは部下を下がらせた
エルンストが出張ってきているならこれはゴッチの傍に居た方がよい。マグダラはまだどうなるか解らない
完全に気勢を殺がれたホークが厳かに宣言する
「……我が妹の提案を受けよう。……しかしラーラ・テスカロン」
「何だ、北の」
「大口以上の力量だった。危うく言葉通り辱められる所だったぞ」
「ふん」
「お前、私の側近をやってみないか。場合によっては兵を任せる事もあろう。我が妹も、あれで実はお前の事を気に入っているようだ」
ラーラはくわっと目と口を開いた
「寝言を言うな! 私は寒いのは大嫌いだ!」
「え、そうだったのか」
ダージリンが俄かに驚きを滲ませて言った
――
悪い事をしている自覚はある。しかしそれがゴッチに後悔と反省を齎すかと言ったらそれはNOだ
法律が悪いと言うならそれは悪い事なのだ。だが法律はゴッチが決めた物じゃない。だからそれは上手く掻い潜るか利用する物で、法の番人である警察組織は金を握らせて手を組む相手だった。恥ずかしいなんて思った事はただの一度も無い
世間様の顔は元々ゴッチ達屑の方には向いていない。だからゴッチ達は世間様に顔向けなんて出来なくていいのだ
そう言った開き直った不遜な態度が、ゴッチを嫌う人間を刺激するらしい
「事の起こりは御存じで御座いますかなミスタ・エルンスト?」
おどけた風に言う。ぎらつく目はお互い様だった。睨み合うエルンスト軍団と破落戸の集団は互いに見下し合っている
酷く対照的だった。面白くすらあった
「お前の所の出来の悪いのが、娘の友人に無残な事をしたらしいな」
「そうなんだよ。俺も困ってる。……何せ下手人が見つからんのだ」
エルンストに付き添う諸侯の一人が眉を寄せた
白々しい事を言っている。目付きが物語っている。ゴッチの発言をそのまま信用する者など居ない
「まぁそんな訳でエルンスト、激怒した“お前の所の出来の悪いの”が、俺を酷く痛めつけた。身体じゃねぇぞ? 面子だ」
「あぁぁ?」
ロクショールを出来の悪いのと言い返した途端エルンストが歯を剥き出しにする
エルンストは、解ってそう言った態度を取っている節がある。外交の為に感情を抑え込むよりも、感じたままを表す方がゴッチ・バベルの好みである、と何となく理解している
だから遠慮などしない。理解してなくても遠慮したかどうかは微妙な所だが
「何がお前の望みだ」
「手前等をここから叩きだす事だよ」
「面子と言う癖にこっちの事は考えんのか? 我等の面子も痛く傷ついておるのだぞ」
「おいおい勘違いすんじゃねぇ」
ゴッチは大仰に肩をすくませてみせる。砂を蹴り払った。挑発的な態度に兵士達は怒りを募らせていく
怯えないだけまぁ使い物になるのを引っ張ってきたんだな、とゴッチは評価した。主君の為に怒り、その命を投げ出す事も厭わない。大した忠誠心だった
そしてそれも侮蔑の対象だ
「俺が先に打ん殴られたんだ。やり返して当然じゃねぇか。お前の所のメスガキの友人様だぁ? ……しらねぇよそんなの」
誰も彼もよーく理解していた。ゴッチ・バベルと言う男は正しさを求めていない。自分達が正義でなくたって全然かまわないのだ
面子の問題と言うならそうだった。エルンストの娘ロクショールの友人と言っても公的な立場はただの平民だ。それらが殺されたのは確かにアナリアの法では裁かれるべき罪だが、この中にその平民二人の事を気にした者が一人でもいるか?
彼等が死んでも誰も困りはしなかったのだ。そして唯一怒りを覚えたロクショールが復讐の為に殴りつける相手としてはゴッチは気位が高すぎた
エルンストはロクショールを愛していたが、行動の拙さは否定できない。待ち構えて殴りつけるより、捜査をすべきだった。罪を犯した罪人を裁くのに面子も何もない物だ
「部下の尻ぐらい拭けん物か」
「そうしたいとも。だがそれより……頬が疼くんだよな……。手前等が気に入らねぇってよう」
瞑目して天を仰ぐ。彼の盟主としての部分が、極めて実利的な答えをはじき出そうとしている
「交渉の余地があるな」
欺瞞であることはエルンストも良く解っていた。エルンスト軍団は面子に泥を塗られたが、この場で完全にジルダウを、その繋がりを失ってしまえばペジェンス侵攻作戦は大幅な修正を余儀なくされる
と言うか、オーフェスに言わせれば“瓦解”である
しかし武力ではゴッチを従えられない。交渉しかない。それも今日明日中に結果を出すような類の交渉ではなく、一時ゴッチの要求を呑み、再度足場を組み直し、よりを戻していく、そんな交渉だ
「どんな交渉が出来ると思う?」
「どうしても我々を追い出したいと?」
「どうしても追い出したいね」
「それだけなのだな?」
「それだけでお前達の面子はぐしゃぐしゃさ。……だが気に病む事は無ぇぜ。直ぐにこの大陸の誰もが、『エルンストの判断は止むを得ない物だった』って言うようになるさ。賭けても良い」
エルンストはゴッチが何か大事を起すつもりなのだと悟った。それ以外に取りようのない言葉だ
二、三言、ぽつぽつと交わす。
そのうちに場の緊張は極限まで高まっていた。睨み合う二つの集団の間を真昼間の温かい風が吹き抜けていく
エルンストは己の一騎討ちの内容をよく吟味した。彼の中にとっては強敵相手に引き下がるのは恥ではない
たかが一都市の犯罪組織がエルンスト軍団を引き下がらせればこれは世間的には大勝利だろう。だからこそゴッチの要求だ
面子を潰しても、傷の広がりを押えなければいけない場面もあろう
「よし」
「決まったか? 大人しく出ていくか、纏めて見れねぇ面にされた後叩きだされるか」
エルンストはゴッチの悪辣な物言いに応ずることなく、後ろを振り返った
居並ぶ配下や諸侯達は既に一戦構える覚悟を決めているようで、ゴッチ・バベルと言う怪物を相手に恐れを抱きながらも、闘志を保っている
彼等はエルンストが突撃の号令を下すと信じて疑わなかった
そしてエルンストは堂々と言った
「ジルダウより退く! 周辺の軍には陣を引き払わせよ!」
「…………は、はぁ?! 盟主殿、奴らの要求を呑むのですか!」
「呑むとも!」
朗らかに言うエルンスト。状況を見ればエルンスト軍団の完全な敗北であった。ゴッチ・バベル率いる無頼者たちにしてやられ、敗走するのだ
しかしエルンストは敗北を敗北とも思わせない笑みを湛え周囲を見渡す
「我等が彼等を侮っておったのだ! 正味、エルンスト・オセとゴッチ・バベルは対等であった! ならば彼等の要請に対し敬意を持ち、謝罪の意味を込めて潔く撤退する!」
エルンスト軍団とゴッチ・バベルと言わない辺りが苦しい気遣いだった。潔くと付け足すところもだ
仕方なくではない。ゴッチと言う偉大な男に譲って、一旦は引き下がるのだ。そういう言い訳がだった
エルンストはもう一度振り返る。ポケットに手を突っ込んだままぽかんとしているゴッチに朗々語りかける
「不幸な行き違いであった! しかしこの一件で我等の“対等な同盟関係”に罅を入れるなど、好ましくない事だ!」
「……あぁ?」
「我等は未だに蜜月の友ではなかったが、そうなれる! ここは引き下がる! いやぁ、気位の高い美女を口説くようで心躍るわ!」
エルンスト配下も諸侯達もまたその軍団も言葉を失ってしまった
しかしおっとり刀で片付けたこの男は黙っていなかった
「それは正に英断と言えましょうが」
「ホーク殿に、妹御。それにゴッチ配下の炎の魔術師殿ではないか。今話が纏まった所だ」
熾烈に争ったラーラ勢とマグダラ軍団が現れたのだ。戦いの余韻を隠しもせず互いに警戒し合う二つの戦闘集団は、殺気を撒き散らしながら広場に乗り込んでくる
ゴッチが眉を顰めるのを誰が咎められるだろう
「(そりゃ確かに俺の要求を呑ませたわけだが)」
こうあっさり行くのは拍子抜けだった。目論見通りの筈なのにイライラが募る
面白くない。有体に言えばそうなのだ
「我らは今しがたやり合いましたが……エルンスト軍団が一戦も交えずに引いたとあっては」
「盟友と干戈を交えるなど余りに愚劣」
「オーフェス軍師も同意見で?」
ホークは何とも言い難い表情でエルンストに聞いた。諸侯の前でそう聞かれて流石のエルンストも不機嫌になる
己の統率する軍の手綱すら取れていないのだろう、と遠回しに言われているに等しい。オーフェスはエルンストの忠実なる配下なのだ
「婆やは敵を押える為に要衝を回っている」
「……せめて我等で意見を纏める場を設けて頂きたかったが」
「それについては謝罪しよう。同時に……」
エルンストがちらりと送ってきた視線をゴッチは無視した。エルンストはならばと言葉を続ける
「この男の意思を覆す方策があるなら聞かせてもらいたい」
流石のホークも押し黙る。ゴッチは商売の出来る人間だ。しかし易々と発言を翻す程腰が据わっていない訳でもない。そうさせる為には方便が居る。利益だ
そしてホークはゴッチの感情から来る一連の行動を止めるほどの利益を提示できない。これだから感情と言うのは難しい
マグダラ家はエルンスト軍団と比べればゴッチと親しい関係を築いていた。しかしそれは、ゴッチが一度怒り狂えば何の保証にもならない事が正に今証明されている
兄が押し黙ったのを見てダージリンが進み出る。黒いフードを深く被り直し、手慰みに作った氷の華をゴッチに差し出した
「ゴーレム」
「……何しにきやがった。この洒落た華を渡しに来ただけって事はねぇだろ?」
ゴッチは氷の華の美しさを確かめると、一瞬のためらいもなく踏み躙った
奇妙な空気になったな、とラーラは感じた。ダージリン・マグダラと言う女だけが違う空気を纏っている
この場に居る誰もが多かれ少なかれゴッチを恐れ、その一挙一動を注視している。その緊張感がダージリンには無い
「炎の魔術師殿が私をも叩きだすと息巻いていた」
「それで宜しい筈でしたな、ボス!」
ラーラが踏ん反り返ったまま割り込む。エルンストを初めとした諸侯たちの前で、一片の隙も見せてやるかと言う意地が見て取れる
「何が欲しいのか、ゴーレムは」
「エルンストも似たような事を言ったぜ……。そして俺の要求は変わらねぇ」
「私も?」
「お前でもだ、ダージリン」
よし、と満足の吐息を漏らし拳を握りしめるラーラ
「私がマグダラ軍団の者だからか」
「エルンスト一派だからだ」
「誰もがゴーレムを恐れている。その武名では不満なのか?」
「殴られたら殴り返す。これが出来ねぇ鈍間に武名も糞も無いだろうが」
「金銭でも納得はすまい」
「足りてるよ、残念だがな」
「では」
サラリとした白銀の髪がフードから除く。白い顎が持ち上がり、みずみずしい唇が歪むのが解った
ゴッチは黙って見ていた。ダージリンの顔が迫ってくるのを
ダージリンは背伸びし、ゴッチの胸板に両手を置いて体を支える。そしてそのままゴッチに口づけた
「な、なにをするか!」
ダージリンが激昂する。エルンスト達は言葉を失う
まるで娼婦のような振る舞いではないか。当のダージリンは全く何とも思っていないようで、平然とゴッチの瞳を見続けた
「貴方を満たす物は何だ」
ゴッチは唇を噛み締めた。ダージリンに何者かの幻影が重なる。何が何だかわからない、出所もはっきりしない激しい感情がゴッチを支配する
ゴッチはダージリンの頬に右の掌を叩き付けた。フードが剥がれて銀髪が広がる。ダージリンの細い面立ちが現れる。真っ赤に染まった左の頬
瞳が見開かれた。何が起きたのか解らない、とダージリンの表情が物語っていた
そしてそれがゆっくりとゴッチに向き直る。親から突き放された子のような震える瞳だった
本当に僅かの間二人は見詰め合う。ゴッチは唸るように言った
「洒落臭ぇ」
ダージリンの瞳が一度細くなり、再び見開かれる
気配が鋭くなり、意識は細くなり、ダージリンは全身から冷気を発していた。荒れ狂う感情と魔力の表れだとラーラのみが気付けた
「力こそが全て」
「あ?」
「出会った時からゴーレムはそうだ」
だったらどうした。ゴッチも負けじと雷を迸らせる
エルンストは「これアカン奴や」と思った。取り敢えず一旦場を纏めようとしていたのに、マグダラ家のせいで非常に雲行きが怪しい
ダージリンが右手を肩の高さまで持ち上げる。掌に生み出されたのは氷の華などではない
刃だ。凍てつく氷の小剣が超低温の霧を吐き出しながら陽光に輝いている
暗く光る二つの瞳をゴッチでいっぱいにしてダージリンは言う
「名声も、黄金も、情欲ですら貴方を満足させられないなら、矢張り力しかないのだな」
ゴッチはファイティングポーズをとる。こういう展開を待っていた
エルンストは余りの急な展開に置いて行かれた周囲を見て唸る
「こりゃいかんな」
――
後書
のんでるかーい!
ひぇっひぇっひぇっひぇ!
酒さえあば僕はげんきです!
sage更だっていうのに感想くださる方には感謝のねんが絶えません。
でももうちっとsageさせてほしいんじゃ……。