ゴッチは異世界に来て初めて理解した事がある。組織のトップが負う重みと言う奴だ
ソルジャーとしてファルコンの手足をしていた時とは全く違う。それはゴッチに改めて自覚を促す“鬱陶しさ”だった
実際の所はそんな事を言いつつも、その全てを知っている訳ではないのかも知れない。海辺に立っただけで大海の深みまでを知った気になっているだけなのかも知れない
しかし今まで感じなかった何かを感じるのだ
オーフェス婆様の警戒混じりの愚痴を聞かされている時など特にだ
「あー馬鹿馬鹿しい」
一人きり執務室でゴッチは呟いた。以前はもっと多くの言葉を益体も無く無意味に吐き出していた気がする
今は簡単に感情を動かさなくなってきている。ラーラやロージンの前では特に。――瞬間湯沸かし器が如き気性の男が言っても説得力は無いが
異世界の急造支部で構成員は自分を含めてたった二人の、殆ど名前だけだと言っても、ゴッチは隼団の支部長格でありラーラの取り纏める下部組織を持つ身だ
ボスとしての役割と言うのは中々骨身に染みる物だ。異世界の(ゴッチにしてみれば)ひ弱な連中とは言っても、頭の中身はそう差がある訳ではない
オーフェスを初めとした宮仕えの妖怪達、海千山千の商人ども、何を考えているか知れないアウトロー連中、謀の大好きなブルーブラッド
その中に身を置いていて、自分もその類だと思っていたのに、ボスとして居るだけで妙に心が荒む
結局の所マフィアだなんだと息巻いていても、ファルコンの庇護下にあった訳だ。所詮二十歳そこいらの若造とファミリー達に甘やかされていた
この所一人でいると妙にロベルトマリンの曇った空を思い出す。気候と日照の関係で不気味な橙色に染まる空を見上げたのが、もう何年も昔の事のように感じる
ゴッチ・バベルは全く恥ずかしい事ではあるが、今また何度目かのホームシックだった。人を人とも思わない男の中にも、人の部分があった
「何時までこんな紀元前みてぇな場所でお山の大将やってりゃ良いんだ」
『紀元前とは言い過ぎだね』
「テツコ…………ふん。今は嫌味を聞く気分じゃねぇぜ」
『私のバディが余りにも憂鬱そうだから話し相手になってやろうと言うんじゃないか』
ゴッチは隠しもせず舌打ちした。テツコは黙る。ゴッチが本当に心底から不機嫌なのだと理解したからだ
ゴッチはゴッチなりに慌てて取り繕った
今のは献身的な相棒に対して明らかに敬意を失した態度だった。ファルコンが咎めるのは、こういった部分だろう
「……今のはナシだ。俺のチャーミングなバディの心遣いは嬉しいぜ」
『ふぅん? 慮ると言う思考を身に着けたんだね』
「どうやらメイア3の元へ効率よく辿り着く為には、“思いやり”と言う奴が不可欠らしいからな」
『……気落ちする事は無いさ。何せ勝手の解らない土地で、碌な窓口もないんだ。上手く行かない事を前提に進めるべきだよ』
俺が気落ちしているように見えるのか? テツコの悪ぶっている癖に人の良さが隠し切れない所が、ゴッチは好きだったり嫌いだったりする
当たり前の話ではあるが、別段メイア3の元へ辿り着くだけならエルンスト軍団に肩入れする必要はない。アナリア王国軍に取り入った方が余程効率的である
で、あるから、ゴッチも当然ペデンスへの侵入を手引きしてくれそうな人間に手当たり次第接触を試みているのだが……状況は全く芳しくなかった
何せ此処に来てからやった事が事だ。かつエルンスト軍団に近い位置に居るとなればアナリア王国軍側には警戒されて当然だった。こちらの風土や文化等に全く疎いゴッチ如きの工作は言うに及ばず、こちらで一大商人として身を立てていたロージンですら攻め手を欠く有様だ
「向こうからオファーでも来れば話は早いんだがな」
『例えば我らの頼もしいマクシミリアン元帥閣下がテロを受けたとして』
「あぁ?」
『ロベルトマリンアーミーズがその首謀者を許すと思うかい?』
「司法取引ってのがあるだろ」
『そうだね、そう願うよ私も』
全く期待していないような調子でテツコは素気なく言った
ペデンスは重要拠点だ。その守りを務める指揮官は謹厳であるようで、隙らしい隙が無い。袖の下も苛烈な罰則で戒める事によって封じ込められている
商人に化けるのも無理だった。工作としては八方ふさがりだ
「オーフェスの婆様が要らん心配さえしなきゃ、もっと気が楽なんだがな」
そうやってゴッチが動くのにエルンスト軍団の老軍師オーフェスが気付かない筈も無かった。しかもその内容がアナリア王国軍に取り入るような物なのだから眦吊り上げるのも当然だろう
あの老女との拙い付き合いが、ゴッチの閉塞感と憂鬱の大きな原因となっている
『パーティのお誘いが来ているそうだね』
「悩み所だ。俺が仲良くする姿勢を見せりゃ婆様は安心するんだろうが、こっちの仕事は少し遣り辛くなる」
『捜索の出だしに、揉める相手を間違えた』
「ひひひ」
なら、そもそも俺をエージェントに選ばなけりゃ良かったのさ
ゴッチの反論は正に真実だった
――
「全く、戦争やってる自覚に欠けると思わねぇか」
連れ立ってジルダウ大通りを歩くゴッチとルーク。唐突に放たれたゴッチの言葉に、ルークは曖昧な笑みを浮かべた
ルークは居心地が悪かった。ゴッチと一緒に歩いていると、すれ違う誰も彼もが神経を張り詰めさせ、怯えた目を向けてくる
気になるったらない
「……パーティ用の服は、それで良かったのですか?」
いつも通り、金の隼を背負っているゴッチ
指摘したルークは紺色の礼服に腰までのマントを靡かせている
大した貴公子様だ。ゴッチは面倒くさそうに答えた
「スーツは男の戦闘服だぞ」
もう明らかに何も考えていない口からでまかせなのは明らかだ
ルークはまぁ良いかと気を取り直す。スーツが礼服なのは間違いないのだ。背中の金色の隼は――まぁこちらの人間にはむしろ受けがいいだろう
「しかし、オーフェスの婆様が何でお前を迎えに寄越すんだ?」
「エルンスト様のパーティですよ」
「オーフェスがエルンストの尻を蹴っ飛ばして開催させたんだろ。俺でも知ってるぜ。兵士の目も憚らず大声で怒鳴り合ってたらしいじゃねぇか」
「……迎えを任された訳ではありません。自分は先任と御一緒しようと思っただけです」
「何だよ気持ち悪いな。仲良しごっこは余所でやりな」
ルークは冗談っぽく笑った。テツコにゴッチを見張るよう頼まれたのは、もうずっと秘密にしていようと心に誓った
マフィアがパーティをするとどういう事になるのか、嘘か本当か怪しい話をしみじみと語るテツコの頼みは断れなかった
「先任。マフィアのパーティに出席すると」
「あぁ?」
「……セクハラされた挙句ライトマシンガンで追い回されて、最後は紐なしバンジーをやらされるって本当ですか?」
「ひひ、なんだそりゃ。ハハハ! どういうパーティだ?」
ゴッチは全く何のことか解らなかった
大方、リスペクトを失った無礼者を制裁し、始末する過程をパーティと表現したのだろう。そんな風に勘違いした
「くくく、そんなパーティも悪くねぇかもな。例えばオーフェスの婆様の目の前でたっぷりとやってやりたいね。あの婆様には心底から楽しんで貰いたいのさ俺は」
「え」
ルークは一瞬で顔を蒼褪めさせた。本当だったんですか
「ん?」
ゴッチは首を傾げた
――
戦時中だと言うのに中々大がかりなパーティだった。煌びやかな装飾は、年季の入った物と真新しい物が混じっている。このパーティのためにエルンストは仮屋敷を増設し、巨大な広間を拵えたらしい
装飾はその時に増設したのだろうが、違和感を覚える事は無かった。銀をどういった手法であるのか、薔薇の形に変化させた装飾は、教養の無いゴッチから見ても品が良かった
「見られていますね、ゴッチ先任」
「ふん」
ゴッチが銀の薔薇を値踏みするのと同時に、様々なパーティ出席者がゴッチを値踏みしていた
その(ゴッチにしてみれば)珍妙なで古臭い格好をした面々は、目を合わせると慌てず騒がずにっこり愛想笑いしてくる
ゴッチは給仕から酒杯を受け取って、料理の並べられたテーブルに向かった
「此奴らに立食パーティをやる知恵があったとはな」
「はぁ……」
矢張り全く考えなしに放言するゴッチに、半ば呆れたような返答をするルーク
「お前、何時までもここに居ないで女でも引っ掛けて来たらどうだ」
「……いえ、止めておきます」
「いい年だろ。経験は?」
「は、はい? ……はは、勘弁してください」
「ほら、アイツなんかどうだ。右奥の燭台の方の奴。アイツの視線が鬱陶しくてな」
ルークは矢張り困ったように笑うだけだ
これはもう経験済みか。ゴッチは興味を失って料理に目を移す
異国の地の見知らぬ料理に目移りするが、どれも率先して口に入れる気にはなれなかった。食欲を煽るのは、単純に焼いた肉ぐらいの物だった
鬱陶しい視線に耐えながら口に入れる物も無く、オーフェスの登場まで此処に居なければならない
出発をもっと遅らせれば良かった。これは一種の苦行である
そこに、「失礼」と声を掛けてくる男が一人。こういった人付き合いも苦行だ
「お初にお目に掛かる、ゴッチ・バベル殿。ドデー・モーイと申す。エルンスト様直下で三十人率いております」
ぶっきらぼうで飾り気ない言葉だ。兵の事を口に出したと言う事は、それに関連する事なのだろう
大柄でルークのように礼服を着こんでいる。動作は機敏だった
「アダドーレ卿からゴッチ殿のお話を伺い、個人的に興味を覚えたため声を掛けさせて頂いた」
「るせーな。つまりアロンベル派で奴の紹介って事なんだろ? 用件はなんだ」
「は、率直ですな」
「……金か?」
アロンベルへの投資から、こういった手合いは稀ながら居た。と言うより、ゴッチに声を掛けてくるなんて余程切羽詰った者だけだ
若さとやる気はあるが金の無い奴。そういったろくでなしどもに声を掛けて、極少数ながらアロンベルは派閥を作り上げているらしい
遠方からジルダウまで駆けつけて、賊討伐、竜退治、悪魔祓いに派閥造り。更にエルンストやホークなどへの御機嫌取りまでやってのけるのだから、アロンベルとは本当に才気走って行動力に溢れた男だった。ゴッチが呆れるぐらいには
ゴッチはロージンに話せとだけ言って葉巻を一本持たせ、男を追い返した。男は全く意味と用途の解らない葉巻を見て首を傾げたが、ゴッチの機嫌を損ねるのを恐れて大人しく引き下がる
ゴッチの葉巻を持っていれば、ロージンは話を聞く筈だ。どういった結果になるかはドデーとか言う男次第だ
「……ゴッチ先任が派閥の取り組みに熱心だとは」
「そう見えたのか? あぁ?」
「やっぱりそうですか」
「……以前融資した奴がな、この機会に中央に食い込もうとしてるらしい。御苦労な事だよ。ま、」
「どうでも良い、ですか?」
解ってるじゃねぇか。とゴッチは吐き捨てて酒を煽る
派閥でも何でも作りゃいい。名誉も栄達も好きな物を望め
どうせ何時までもここに居る訳じゃない。なら何時までもここに居る奴が何をやってたって、そんなに気になりはしないのがゴッチだった
「これはこれは、お越し頂き誠に嬉しく思いますゴッチ・バベル殿。ルーク・フランシスカ殿」
都合よく、話の途切れたタイミングで声を掛けてきたのがオーフェスだった
オーフェスは小柄な老人で、知恵は回るが貫禄が無い。本人もその事をよく自覚しているのか、地味だが品の良い礼服を着て何時もの頭巾をかぶっている
ゴッチはニタァと嫌な笑い方をしてから返答した
「おう、数日振りだなオーフェス婆様。こんな煌びやかな立食会、俺は場違いかなと思ったんだが、アンタに誘われたのが嬉しくってのこのこ来ちまったよ」
「私のような若輩が御招きに預かり光栄です、軍師様」
「とんでもない! ルーク殿も、そんなに堅苦しくする必要は無いよ! さぁさぁこちらへどうぞ!」
常ならず、オーフェスはルークが唖然とするほどに上機嫌だった。実の所、エルンストを諸侯の上に立つ男と知りつつも全く敬意を払わないゴッチは、その点では非常に受けが悪い
きっとここいらでゴッチが歩み寄りの気配を見せなければ、一戦構える必要すらあった筈だ。ゴッチに対する反発はそれ程に大きかった。そしてそんな毛ほどの利益にもならない事をオーフェスが喜ぶ筈もない
オーフェスは深緑の礼服の裾を慣れた手つきで直しながらゴッチを先導した。案内された先には一際豪奢なテーブルと椅子があり、酒杯が三つ並べられていた
オーフェスは給仕を呼びつけ、追加で一つ杯を要求すると、ゴッチとルークを座らせる
「婆様、何時もそんな風にニコニコしてくれてたら俺も嬉しいんだがなぁ」
「はははー、そうですな、魔術師殿。魔術師殿が嬉しいと私も嬉しいですからな。しかしこの婆も力なき故に悩みの多い身、中々笑顔では居られませぬ」
「あぁうん。知ってるぜ。悩み事があるんだろ。あぁ何でも言ってくれよ力になるから」
ゴッチがオーフェスにとって巨大な悩みの種である事は間違いない。ゴッチの余りに白々しい言葉に、しかしオーフェスは笑みを深めた
「ほぉ、魔術師殿にそうまで言ってもらえるとは。……ならばお言葉に甘えましょうかね」
「おう言ってくれ言ってくれ。代わりと言っちゃ何だが、日に二度も部下をご機嫌伺いに寄越すのをそろそろ勘弁してくれよ」
「お気に召さぬとは残念ですな。しかしそれはさておき、魔術師殿に会ってもらいたい方が居られます」
居られます?
給仕がオーフェスの要求した盃を持って現れる。これで卓には銀の杯が四つ。ゴッチは嫌な予感がした
「あぁ、ほら、いらっしゃった。……ん?!」
オーフェスの朗らかな笑みが瞬く間に訝しむ表情へと変化した。ゴッチはそれにつられて背後を見遣る。この大広間の入り口の方だ
ドアボーイが恭しく礼をする前を女が通り過ぎる瞬間だった。剣呑な目付きで周囲を睨みながら歩く女は、パーティ会場にはそぐわない格好をしている
純白の上等なシャツの上に銀の胸当てを装着し、手には黒い革紐を巻いていた
金髪を結い上げ、背筋を伸ばす女は、どう見ても酒を友にして和気藹々とした歓談を求めているようには見えない
会場に居た者達は皆何事かと女を見詰める。女はそれをまるで気にも留めずこちらに向かって一直線に進んでくる
「あれはロクショール様」
ルークも訝しげな声を上げる
ロクショールの背後に続く、屋内だと言うのに頑なに防塵頭巾を外さない無精髭の男を見つけ、更に困惑を深めた
「それにミランダローラー殿」
ゼドガンは何時も通り涼しい顔で其処にいた
ゴッチは肩を竦めてオーフェスを見遣る。オーフェスは愛想笑いをしてみせるが、予定外の事態だと言う動揺を隠しきれていなかった
「アレが俺に会わせてぇ奴だって?」
「は、はは、それは、そうなのですが……」
オーフェスは一瞬沈黙してから立ち上がり、ロクショールに小走りに近寄った
「ロクショール様! 一体どうなされたのです?!」
「オーフェスさん。御免なさい。先に謝っておきます」
「はい? 取り敢えずこちらへ、直ぐに御召し物を……」
別室へと先導しようとするオーフェスを押し退け、ロクショールはゴッチの前に立ち堂々と見下ろす。その態度に初対面の者に対する遠慮や、鬼か悪魔かと言う程の悪評を垂れ流す存在に対する恐れだとかは、一切ない
しかしその敵意だけは明らかだった。ゴッチはロクショールの背後に佇むゼドガンを見遣る
ゼドガンは応えず、微笑するばかりだ。日を追うごとに酔狂ぶりに磨きをかけるこの男は、面白いと思えばどんな事でも割と平然とこなす
ゼドガンに常識的な行動を求めるのは無理だ。元から常人とはズレた思考を持つ男だった。そういった面倒臭さではゴッチ以上だ
「貴方がゴッチ」
「そういうお前はロクショール」
からかうように言い返す。ゴッチはロクショールの事なんて名前しかしらない。その名前だってルークやオーフェスが漏らさなければ知らなかった。全くの赤の他人だった
服は上等な物だ。だからロクショールは貴種なのだろう
だが挨拶とも呼べない初めての会話には、貴種の持つ礼儀や敬意と言った物は全くなかった。ゴッチは礼を失したロクショールの言葉に嘲弄を返す
「そう、私はロクショール。今日は貴方にどうしても差し上げたい物がある」
「ほぅ? 悪いな。気を使わせちまったみたいで」
明らかに尋常の様子ではなかった。ルークも流石に愛想笑い、とはいかなかった
「だがまぁ貰えるモンは貰っておくぜ。婆様の説教以外ならな」
鼻を鳴らしたゴッチに、次の瞬間酒が浴びせられていた
「ルークさん。御免なさい。止めないで」
それを行ったのはロクショール。銀の杯を振り回し、用が済んだらそのまま投げ捨てる
ゴッチは両の目に酒が入り、思わず声を上げて飛び上がる
その全くの無防備状態であったゴッチの右頬に、ロクショールの見事な右ストレートが突き刺さった
椅子から転げ落ちながらゴッチは思った。良い喧嘩の仕方だ。目潰しから問答無用にパンチ。しかもかなり重たい
ただの女じゃねぇ
オーフェスが金切り声をあげる
「ロクショール様ぁぁッ! 何をなさるのですかぁぁーッ!!」
ロクショールを取り押さえる為に飛び掛かるが、ロクショールはあっさりとオーフェスを押し退けた
「今のは我が友の分! そしてこれも我が友の分!」
酒は酷く目に染みた。滲む視界を堪えながら何とか立ち上がったゴッチの腹に今度は蹴りが飛んできた
ゴッチとてただ蹴られるだけではなかった。気配で察したゴッチはロクショールの直蹴りを両手をクロスさせて受け止める
このまま放電して黒焦げにしてやる、と思った時、ロクショールはゴッチの防御を足場にして飛び上がっていた
もう防ぐ余地は無かった。ゴッチの側頭部に蹴りが決まった。並みの亜人なら失神していても全く可笑しくない綺麗な蹴りだった
「そしてこれが」
追撃の手は止まなかった。ロクショールは今しがたゴッチが使っていた椅子を軽々と持ち上げ
容赦なくそれを叩き付けた。ゴッチは脳天に痛撃を受け、思わずたたらを踏んだ
「生まれる事の無かった子の分だ」
ロクショールは興奮の為に荒くなった息を整え、冷徹に言った。オーフェスはあんまりな展開に卒倒していた
ゴッチは目を押えながらそれを聞いていた。胸の奥がざわざわする
いや、ざわざわする、なんてモンじゃぁ断じてない
このへばりつくような感覚。自分でも辟易するほどの、粘着質な感覚
ゴッチは平坦な声を出した
「どうした、何で止めを刺さねぇ」
「え?」
「何故今の一瞬で俺を殺さなかった。……まぁ、そう易々とは死なねぇがよ」
「…………」
ゴッチは目を瞬かせた。酒が染みて未だに痛むが、視界事態は取り戻した。その表情には全く変化が無かった。何時もの表情。何も考えていなさそうな無表情だ
「お前が何処の誰かなんて知らねぇけどよ」
スーツの袖で顔を拭う。この大事な男の戦闘服も酒に塗れてしまっている。酒の臭いがするし、ドレスシャツが水分を含み鎖骨辺りに張り付いてくる。この嫌な感覚と言ったら無い
「ひょっとして、俺がお前を殺さねぇとでも思ってんのか」
当然の事ながらゴッチは怒った。余りに当然で正当な反応だった
ゴッチは激怒した
「死んだぞ手前ぇッ!!! たった今ッ!!!」
唐突な展開に全く動けなかったルークは奇妙な程冷静に考えた
「(なんか……えらい事になってるな)」
――
呻きながら起き上ったオーフェスの悲鳴
「兵ども! 守れ! 姫様の盾となるのじゃ! ゴッチ殿ォーッ! どうか、どうか怒りをお鎮め下され!」
ゴッチは駆け出していた。助走をつけてドロップキック
ロクショールは俊敏に身を屈めてそれを避けようとする。が、ゴッチは蹴り足を放たず、膝を曲げたまま着地した
低い体勢でゴッチとロクショールは見詰め合う。いい加減な体勢でゴッチは拳を繰り出し、それは銀の胸当てへと突き刺さった
ロクショールは吹っ飛んだ。踏ん張りの効かない体勢だったのもあるが、一メートルばかり水平に吹き飛びゴロゴロと転がる
ゴッチは拳を叩き付けた瞬間に違和感を覚えた。空気の壁に押し返されたような不愉快な感覚
とてもパンチを打つべき体勢とは言えなかったが、それにしてもスッキリしないインパクトだった。何かが拳の威力を弱めた
「あぁ何だぁ?! 気に入らねぇ!!」
ゴッチ・バベルを前に無策で出てきた訳ではないらしい。銀の胸当てを押えながらロクショールは激しく咳込み、額から脂汗を吹き出しながら立ち上がる
兵士が滑り込んでくる。彼等もまさかこんな事になるとは思っていなかっただろう。エルンストの主催する立食会で、唐突にゴッチに酒をぶっかける者が居るとは、どんな名軍師にだって予測できなかったに違いない
しかし彼らは命令に忠実だった。決死の覚悟でロクショールを守る為に立ちふさがり、そしてゴッチはあっさりと彼らをショルダータックルで弾き飛ばす
背後からも兵士達は飛び掛かって来た。ゴッチの肩や腰に四人の兵士達がしがみつくが、ゴッチの勢いは微塵も殺がれない
兵士を引き摺ったままロクショールに肉薄し、顎を掴んで吊り上げる。ロクショールは絶体絶命の危機に瀕しながら、全く怯えなかった
怒りに燃える瞳をゴッチに向けてくる。それがまたゴッチの神経を逆撫でした
「史上最低の屑! 殺すなら殺せ!」
「当たり前だろうが!!」
ゴッチはロクショールの後頭部を床に叩き付ける為、彼女を吊り上げる右手を振りかぶった
そこでゼドガンとルークが同時に剣を抜いた
ルークが剣を抜くのは解る。だがゼドガン、お前はどういう事だ
ゴッチは唖然とゼドガンの大剣を見詰めた
「……ゼドガン、テメェ何のつもりだ? 此奴はお前の手引か?」
「その通り」
「酔狂もちと度が過ぎるんじゃねぇか」
「その娘がな、お前を殴れるなら死んでも良いと言うので、これは面白いと思ったのだ。少しだけ戦い方を仕込んでやった」
「で」
何で俺に剣を向けている
ゴッチとゼドガン、そしてルークが睨み合う中、オーフェスが進み出てきてこれ以上ない程大袈裟に鳴き声を上げる
「魔術師殿……! お怒りは全く御尤も、しかしこの婆のお願いです、ロクショール様を御許しください」
エルンスト軍団の軍師筆頭が取るにしては余りに謙った態度だった。オーフェスはゴッチの思考と気性をよく理解している
どんな人物が、どれだけの人数が、「驕った考え」と言おうとも、ゴッチ自身はエルンスト総軍と対等の心算でいる。しかも一戦交える事を何とも思わない
「やめろ! こんな奴に……あっぐっ」
喚き始めたロクショールを、ゴッチはその顎を砕ける寸前まで握り締める事で黙らせる
その行為がオーフェスにより実感させる
エルンスト軍団を敵に回す事を全く恐れていないのだ。ゴッチならば、ロクショールを平気で殺す。ロクショールがどんな存在か知らないのだから尚更だ
「その方は我が主君の宝です。私にとっても、エルンスト様の誤解を恐れず言うなら孫も同然。他の事ならどんな事でも致しましょう」
「あぁ? はーあー?! おいおい、横面一発、米神一発、その後に凶器攻撃だぞ?! 仮に俺じゃなけりゃ、死んでて可笑しくねーんじゃねーかこれ」
「はい、正にその通り。返す言葉もございません。ですがどうか」
ゼドガンが嬉しそうに笑いながらじりじりと間合いを詰めてくる
「ここ最近思っていたのだ。お前と戦う機会が欲しいと」
ゴッチは360度全ての方向に注意を払いながら憤怒を隠す事もせず言った
「さっきのありゃ、殺される覚悟がなきゃ出来ねえ行いだ。だからこのメスガキは殺す。ゼドガン! テメーが止めてもだ」
「ゴッチ先任」
ルークがコガラシを指し示す。冷や汗を流しながら冗談っぽく笑っている
「我々の尊敬すべきオペレーター殿から、お願いだそうですよ」
あーくそ
ゴッチは唾を吐いてロクショールを放り出した
テツコの事だ。ゴッチの勝手を許さないに決まっていた
――
ゴッチの部屋でいきさつを聞いたラーラはぶるぶると震えた。武者震いだった
「戦いの準備をしましょう。思い上がった連中をジルダウから叩きだす。私とボスが居れば十分に可能だ」
「ラーラってばー、駄目だって言ってんだぜ?」
いつも通り宥め役に回るレッドだが、怒髪天を衝く勢いのゴッチにはさしたる効果もない
「何が駄目なんだよ。こうまで虚仮にされて示しが着くか? ロベルトマリンで同じ事された日にゃ、舐められまくってその日の内に隼団は死に体だぞ。報復は、絶対に、必要だ!」
『痴話喧嘩と言う事にしておけば、エルンスト軍団が誠意をもって謝罪するだけで丸く収まる』
お話にならんぜ、とゴッチは吐き捨てた。何だ痴話喧嘩って。馬鹿か
再び声を荒げようとしたとき、ゼドガンが現れる。背後にはロージンと、ルークをを伴っていた
「よくまぁのこのこ顔を出せたな? 流石はゼドガン、胆の据わり方も超一級品だ。おい糞ガキ、あのロクショールとか言うのは何モンだ」
ルークは神妙な顔で問いかけに答えた
「……エルンスト様の、末姫様です。出生時の状況が特殊だったらしく、最近までは会う事も出来なかったとか。それゆえ、エルンスト様はロクショール様を溺愛しているそうです」
「あの娘の知己がな」
ゼドガンが割って入る。ゴッチは胡乱気な声を上げる
「あぁ?」
「ほら、立食会場で喚いていただろう。ロクショールの知己に身籠った女とその恋人が居たらしいのだが、男の方がつい最近殺されている。女の方は子が流れ、悲嘆して自決したそうだ」
「それを俺がやったと?」
「正確には」
ゼドガンはラーラに視線をやった。特に何とも思っていないようだったが、内容が内容であるだけに、流石のラーラもたじろいだ
「……つまり、私の取り纏める者達が、か」
「まぁごろつきを無理矢理従わせているのだから。そういう事もあるだろう」
涼しげに言うゼドガンの言葉を切って捨て、ゴッチが苛立たしげに執務卓を蹴る
「決まりだな、奴等には思い知らせる」
『ゴッチ、今の話に何も感じなかったのか? ゼドガン氏、そのロクショールと言う方のお亡くなりになった知己と言うのは、具体的には?』
「行商人だったようだが、場代と守料の支払いを渋ったそうだ。男は見せしめによってたかって殴られた際に打ち所が悪く。女の方は強姦されたようだ」
ゴッチはラーラですら眉を顰める事件に、少しも怯まなかった
「何か勘違いしてねぇか手前ら。俺が、正義と、道徳と、仁愛の心を胸に、社会奉仕をするために隼団に所属してるとでも思ってんのか。俺達はアウトローだぜ。無頼者だ。……ラーラ!」
「は」
「話は分かった。俺の下には、例え下部組織だろうがそんな下品な奴は要らねぇ。お前の気が済むように決着を付けろ。だが、それとこれとは別だ」
ゴッチは立ち上がる。有無を言わせない迫力がある
先ほどまでの、声を荒げていた時とは違う。静かながら息苦しくなるような圧迫感があった
コガラシを通していてもその気配を感じ取ったテツコは思った。ゴッチも、随分と怒り方が変わった
「俺は隼団のカポだ。奴らは俺が隼団だって事を知ってた。その上で俺に酒を浴びせ、握り拳を叩き込み、米神を蹴り飛ばし、椅子で打ん殴ってきやがった。“隼団は舐められた、完全に”」
コガラシを握り締め、ゴッチはテツコによく顔が見えるようにカメラを覗き込む
「前にも言ったな。全ての隼団はタフで、冷酷だ。暗黒街の怪物どもとぶっ殺したりぶっ殺されたりしながら漸く『一筋縄じゃ行かない』って評判を得て、それで飯を食ってる」
『……あぁ、知ってるよ』
「俺達はやられたらやり返す。当然の事じゃぁねぇか。誰が正しいとか、誰が原因とか、そんな事は関係ねぇんだよ。ラーラ、ロージン、お前達も良いな? どんな理由があってもほんの少しでも怯むんじゃねぇ」
『君も良いかい、ゴッチ・バベル。よーく考えてみたらどうかな。そこは、ロベルトマリンじゃぁ、無いんだ。決してね。向こうさんには話し合いで解決しようとする意思があるし、誰も君の事を侮ってなんて居ない。君が気に入らないだけだろう?』
当然テツコは怯まないから、ゴッチは言いたい事だけ言って後は無視する
ゼドガンの事をはっきりさせなければいけない
「ゼドガン、テメー何なんだ。お前の望みはなんだ」
「ロクショールに興味が湧いた。筋も良い。あの娘に俺の剣を教えたい」
以前、ゼドガンは自分の剣は一子相伝だと言っていた
ゴッチは横面に食らったパンチを思い出す。成程、確かにゼドガンが気に入るだけの事はあった
「あのメスガキに付くんだな?」
「あの娘の事を見届けようと思う」
「精々注意するこった」
で、とゴッチは続けた
「ロージン、糞ガキ、……何か言いたそうだな」
ゴッチに促されて、ロージンは前に進み出てきた。入室してから一言も発しなかった口が、重々しく開く
「……いえ、いっそエルンスト軍団と疎遠になって頂いた方が、ゴッチ様とルーク殿の目的を達成するには有効かと思いまして」
ゴッチはん、と声を漏らした。レッドがはぁやれやれと肩をすくめているのと何か関係があるのだろう
――
後書
何だかうまくかけないんですねー。
言葉にできないんですねー。
すげーもやもや。
文章って難しくて面倒くさいモンだなーと今更。
あまりにももやもやするからsage更新。