「テツコ」
『解っているよ、ゴッチの懐に潜る。同時にコガラシ帰還の準備を始める。こちらの作業が完了したらコガラシは自動でワープゲートまで移動するから、もう話は出来ない。再びコガラシと合流するまでは、くれぐれも軽率な行動は慎んでくれ』
「大丈夫だ。ガキじゃないぜ」
コガラシが懐に潜り込んで、力尽きたように光を失った
――アナリア王国王都、アーリアへと到着したのである
朝焼けに城壁が輝いていた。遠くから見ても気持ちの良い、堂々とした佇まいだったが、いざ門の前まで来てみれば更に壮観だった
「漸くかよ……」
眠るダージリンを背に負って、疲れたようにゴッチは呟く。遺跡から脱出して二日、夜通しで歩いた
流石に疲労は禁じ得ない。背中に余分な荷物まであれば、尚の事である
とは言っても、覚悟の上だ。夜を徹して進む事を選択したのは、ゴッチである
本来なら疲労の激しいダージリンは置いて、先を急ぐ心算だった。コガラシに問題が発生した為、一度回収したい、とテツコの要請があったからである。コガラシを帰還させる前に、拠点となる街に到着しているのが望ましかった
「この時勢だ。アーリアには、そう簡単には入れん。私が取りなせば話は別だが?」
しかし、ダージリンの提案も、魅力的だった。地理に疎いというのも、まぁ、あったが
――
門には門番と言うのがファンタジーのお約束だ。少なくとも、監視カメラとレーザーガンは配備されていまい
そう思えば、真正面からでも堂々と近づける物だ
果たして、門番は合計で六人も居た。開かれた門の左右に二人ずつ、城壁の上に、弓を装備して更に二人
「誰か。身の証を示せ」
欠伸をしながら近づけば、槍を突き付けられて誰何される。
マジに鎧来てるよ、こいつら。思った事と言えばその程度だった。カッターシャツを分厚くしたような、黒い服の上に、磨きこまれた鎧が輝いている
「俺の話を聞くよりも、コイツの話を聞いた方がすんなり行くだろうぜ」
ゴッチが体を揺すってダージリンを起こす
この数日で解った事だが、この女、酷く覚醒が早い。一声掛ければ、起きていたのかと思う程に気持ちよく目を開ける
今回も、そうだ。ダージリンはパチリと目を開いて、直ぐに状況を理解した
「到着したか、ゴーレム」
「上手く頼むぜ、ダージリン」
ダージリン、というゴッチの呼びかけに、門番達がたじろいだ
「……ダージリン? ダージリン・マグダラ様ですか?」
ダージリンがゴッチの背から降りて、居住いを正す
「そうだ。元より報告などしていないが、遊行に出ていた」
「はッ! 申し訳ありませんが、通行証を見せて頂きたく思います!」
「落とした」
ゴッチが、ダージリンの横顔をジロ、と睨む。ダージリンは鋭い視線でゴッチを見返す
「川に」
「成程」
落とした、等と言われて、何故か門番の方が困った顔をしていた
「私の屋敷に人をやってくれ。確認はそれで取る」
――
そんなこんなで漸く辿り着いたダージリンの屋敷は、人は少ない癖に無駄に大きかった
ゴッチは外から屋敷を見て口笛を吹き、応接間に通されてからも口笛を吹いた
「でかい癖に使用人は少ねぇが、センスが……趣味が良いや。ダージリン、お前良いとこのお嬢様だったんだな」
「北で兄が領主をやっている。故郷に居着かない私の為に、兄がここを用意してくれたのだ」
「はん? ……まぁ良い」
「何がだ」
「何でもねーや」
勘が働いたのである。ダージリンの言葉には、裏がある気がした。言い難そうな物を感じた
何となく、ダージリンらしくない気がした物だが、別段興味が湧く訳でもない
結局ゴッチはそこでその話を終わらせる。自室に戻る手間が惜しいのか、ダージリンは簡単に身を清めた後は、応接間で服を着替え、威儀を整えていた
「今回の件、王に報告しなければならない。その他の事もある。数日ほど私は屋敷に戻らないが、貴方が良いなら何時までここに居てもらっても構わない」
「ほぉ、ありがてぇ。拠点が必要だと思ってたのよ」
「ゴーレムの旅の目的を聞いていなかったな、そう言えば」
頬杖をついて図々しい態度のゴッチに、ダージリンは白い髪を梳きながら尋ねる
当然、仕事の詳細を口外など出来る筈も無いが、ふとゴッチは思いついた
「(そーだ、コイツに聞きゃ良いじゃねーか。ばっかでぇ、何で気付かなかったんだ俺は)」
――
「ラグラン……。ラグランを探しているのか」
当たりを引いた、とゴッチは思った。身嗜みを整え終えたダージリンは、ラグランと言う言葉にハッキリと反応を示したのである
「知ってるみてぇだな」
「確かに知っているが……どこでその名を」
「何だ? 俺が知ってちゃ拙いのかい」
ふてぶてしくゴッチが返せば、ダージリンは無表情ながらに険しい雰囲気を放った
「ラグランは、アナリア王国の最東端にあった要塞都市の名前だ」
「最東端に“あった”?」
「既に存在していない。あの都市は、十七年前に滅ぼされた。それに存在していた期間もごく短い。建設が開始されてから一ヵ月後、完成もしない内に消えた。ラグランの名を知っているのに、詳細を知らないのか?」
「しらねーんだ。だが、穏やかじゃなさそうだな。戦か?」
「…………まぁ、そうなる」
また、言い難そうな気配を感じる。しかし、今回は放っておけない
「らしくねぇぞ、何故言いよどむ。教えろよ。俺は本気で其処を探してるんだぜ」
「その前に、もう一度聞く。何故ラグランの名を知っている。アナリア王国でその名は、ある意味魔術師である私以上の禁忌だ」
今度はゴッチが言いよどむ番だった。ちろ、とテツコがするように舌を出して、ゴッチは瞬く間に考えを纏める
「俺は、なんつーかな。とある良い処のお嬢ちゃんを探し出して、無事に親元まで帰してやる為にアナリアまで来たのよ。それが仕事な訳よ。その嬢ちゃんは旅をしててな、ちょっと前までは近況を報せる手紙を送ってきてたらしいんだが、それがぷっつり途絶えちまって。それで俺が捜索に駆り出された訳だ。で、その嬢ちゃんの最後の手紙に」
「ラグランの事が書いてあったと。滅びた要塞都市から手紙が届いたと言うのか」
「そこまで過剰に反応するのは何故だ? ラグランを知っている事が、そんなにも可笑しな事か?」
ダージリンが赤い瞳を細めた。真っ直ぐに睨みつけるゴッチの圧力に負けたか、顔を背ける
「……今は時が惜しい。ゴーレム、貴方には恩がある。教えろと言うならば教えよう。だが、また次の機会にしてくれるか」
「あぁん? ダージリン……」
「貴方は、恐らく嘘を吐いているな。もしくは全てを語っていないか。貴方が何でも素直に話す気性でないのは、ここ数日の付き合いで理解している」
虚実を織り交ぜた説明は、その饒舌さから尚の事ダージリンに疑念を与えたようであった
ゴッチは苦笑する他ない。この女は、勘が良過ぎる。しかもこちらの嘘を察した上で、それでも構わんと言い切る度量があった
馬鹿野郎、格好良いぞテメェ
「…………あーあー、構いやしねぇ。次の機会まで大人しく待つさ。今回は、何時になく多弁なダージリンを見られたって事で、我慢しとくぜ」
ダージリンの目が、す、と柔らかくなった。……ような、気がした、ゴッチには
今まで誰の顔色も窺わずに生きてきた自分が、小娘一人の表情を読む事に神経を注いでいる。そう思うと、ゴッチは何だか馬鹿らしい
ダージリンは何処から取り出したのか、黒いローブですっぽりと体を包む。初めて出会った時に来ていた、あの巨大なローブだ
顔も何も見えなくなる。あれを着るのであれば、そもそも身嗜みなどどうでも良いのではなかろうか
ゴッチは立ちあがって、ダージリンに近寄った
「手の平出せよ」
「?」
ローブの裾が捲られて、小さくて白い手が現れる
ゴッチは差し出されたダージリンの手と自分の手をパチンと打ち合わせた。サムズアップすれば、ダージリンがくぐもった声で笑った
「お前も色々と面倒臭そうだ。グッドラック……あー……、まぁ、幸運を祈っといてやるぜ」
「……感謝する。君の使い魔……テツコは?」
「ちょいと今は話せない」
「そうか。ゴッチもそうだが、貴女と話すのも面白いな、と伝えてくれ」
す、と頭を寄せてくる。辛うじて聞き取れる程の小さな声で、ダージリンは言った
「件の裏切り者が、この屋敷に居ないとも限らん。居たところで貴方に害をなす理由など無いだろうが、ここを使うなら……」
途中で思い直したように言葉を切った
「いや、貴方程の魔術師に、言うまでもない事だったな」
ダージリンが足早に応接間から出て行く。入れ替わるように、屋敷の召使らしき女が入ってきて、部屋の用意が出来たと報せてくれたが、ゴッチはそれをぞんざいに追い払う
「チ、アシラとやらの事も聞けば良かったぜ」
ブルブルと懐が震える。コガラシがステルスモードを解除して懐から飛び出し、赤色に光った
ゴッチは慌てて窓に駆け寄り、開け放つ。コガラシは猛スピードで其処から外に飛び出すと、急上昇して飛んで行った
普段はエネルギー効率を考えてそれほどスピードが出ないが、飛ぼうとすればあんな物だ。あっと言う間に遥か彼方へと飛んで行くコガラシを見ながら、ゴッチは溜息を洩らす
「タイミング悪いぜ……」
相談したい事もあったんだがな。その独り言は飲み込んだ。独り言とは言え、らしくなさ過ぎた
――
キーボードを二つに付け加え、空間投影型タッチパネルディスプレイを駆使しつつ、テツコは呟く
「ゴッチ一人で大丈夫かな?」
「心配要らんさ。アイツは何があっても生き残る。今までもそうだった。恐らくこれからも」
「実力を疑っている訳じゃない」
ファルコンが葉巻を銜えながら、テツコの前の画面を覗き込む。テツコが煙を嫌って、ファルコンを追いやった。肩を竦めるファルコン
「ゴッチは……何と言えば良いのか。面倒事を避けても、揉め事を避けるタイプじゃないだろう? 混乱が好きで、同時に混乱に強い。騒動に出会えば、それを拡大させる気質……のような気がする」
「オイオイ、カウンセラーの物真似か。いきなり人様の息子を酷評してくれるな」
「うん? そう言えば、異世界に進入してから既に一週間程経つ。その……ゴッチの性格は兎も角として、生理現象の方は良いのか? ……まぁ、性的な意味で」
テツコが手を止めた。作業が一段落したらしかった
ファルコンは少し沈黙して、煙を吐き出すと、普段と変わらない声音で言う
「大丈夫だ、アイツの性癖はちと特殊だから」
「特殊ねぇ……」
ファルコンの言葉は、ゴッチの人格への信頼から、と言うわけではないらしい
事実として述べている。そんな響きを感じて、テツコは首を傾げた
――
結果から言えば、テツコの懸念は的中していた
ゴッチ・バベルは御すのが難しい男だ。問題を起こすな、軽率に動くな、と言っても、聞きはしない
それは取り敢えず酒場で起こる
ゴッチは、コガラシと再合流するまでは何をするのもかったるいと考えて、今は酒場でくだを巻いていた。自分がこちらの世界の金銭を持ち合わせて居ない事など、すっかり忘れていた
まるっきり古風な王都の街なみは、どう贔屓目に見てもそれほど文化レベルが高いとは思えない
しかし冒険者の存在があるためか、宿屋と飲食店は発達している。馬鹿に出来ない人数が居るようだった
「流石異世界。酒の匂いまで面白いぜ」
酒杯を空けて、ゴッチは熱い息を漏らす。異世界の酒は、それほど度数は無いが、癖のある匂いをしている
酒は美女、と評する奴が、ゴッチの知り合いには居る。そいつに習って言うなら、コイツは癖のある美女だな、とゴッチはニヤニヤ笑う
金も無い癖に遠慮なく飲み続けて、三十分ほど経過した。この程度で後ろめたさを感じていてはアウトローはやっていられない
頭の中で、酒代踏み倒して逃げる算段を考えている時、ゴッチは一人の男を見つけた
見つけたと言うよりも、否応なしに目が引き寄せられた
酒場の客は、筋骨隆々とした男達が殆どだ。皆傭兵か冒険者の類と想像できるが、困った事にどちらがどちらか等と判別できない
つまりどっちだろうが同じようなモンって事だろ。そう結論して、ゴッチ
今しがた見つけた男も鍛えこまれた体駆を持っていたが、周囲とは何やら違っている
服は、門番の兵士達が鎧の下に着ていた物に似ていた。細部に装飾がしてあって、ただの兵士達の物より上等に見えた。荒くれ者が着るに相応の服とは言えまい
腰には薄汚れた布ですっかり巻かれた剣を下げていて、それも何故だか目を引いた
何より気配がでかい。只者ではない雰囲気がある
「(あそこだけ空気が違ってやがるぜ)」
黒髪がしなやかに、うなじまで伸びた男で、酒場の主と机を挟んで親しげに会話している。ゴッチは酒瓶を行儀悪く口に銜え、玩具を見つけた子供のように笑った
ゴッチが見ている内に、酒場の入り口から女が入ってきた
これは驚くべき事だった。男ばかりのむさ苦しい酒場に、女が一人きりで入ってきたのだ
腰どころか太腿にまで届く、長い、こちらも黒髪の、しかも美人である。ゆったりとした旅装の女は、
一度酒場の中を見回すと、お目当ての人物を見つけたのか、足早に移動した
移動した先に居たのは、ゴッチが注視していた男だった
「ほぉー……女連れねぇ?」
異世界の酒場のマナーなどゴッチは知らないが、気軽にデート出来る場所でない事くらい、解る
或いは他の酒場では普通なのかも知れんが、ここは違う筈だ。だって、女は今入ってきた一人しか居ない
ゴッチの記憶が確かであれば、身体能力が強化される前の人類は、男性体よりも女性体の方が力が弱かった筈だ
異世界まで同じなのかは知らないが、ゴッチの世界の人間の、純粋な人類のみが掛かる病――ビッグボム病――が流行る以前の身体能力と、この異世界の人間の身体能力を同一視して考えるなら、こんな荒くれ酒場に女を伴うのは可笑しい筈だった
酒場の主が、男と女に同じ酒を提供する
良い雰囲気で呑んでいた。ゴッチは背中にムズムズする物を感じて、立ち上がった
――
「ひゃっひゃっひゃ……儲かりまっか?」
ゴッチは乱暴な音を立てながら、並んで座る男女の、男の左を選んで座る
「……さて、まぁまぁと言ったところだな」
男はゴッチの気配に気付いていたのか、少しも動揺した様子がない。それはゴッチのギラギラした目を見ても変わらなかった
女の方は、ゴッチのただならぬ気配に身を竦めていた。不安げに、男の腕を掴む
「アンタ、良い服着てるじゃねぇか。美人さんと良い雰囲気で、懐もあったかそうで良いねぇ」
「お前も、見慣れない服装であれど、良い仕立てだと感心していたのだがな。乞食か?」
嘲笑を含んだ猫撫で声で言えば、男も見下したような視線で返す
見下している癖に、妙に真直ぐで堂々とした視線だった。真正直にこちらを馬鹿にしていた
「そうさなぁ、アンタに恵んで貰うのはまぁ当然として、そちらの素晴らしい美人さんも置いて行って貰おうかね」
これがこの男を挑発するための必殺技だ、とゴッチは確信していた。果たして、男の視線が鋭さを増す
ここにきて、酒場の主が仲裁に入ろうと身を乗り出すが、他でも無いゴッチの挑発で気配を変えた男自身がそれを制止した
「本気でないのは、まぁ解る。お前は一度も彼女に物欲しげな眼を向けていない。が」
男が、腕を掴む女の手をやんわりと解かせて、酒場の主に詫びた。「店主、済まんな」
次の瞬間、男が持つ酒杯が逆様になり、ゴッチは香りのよい上等の酒でずぶ濡れにされていた
「挑発に乗ってやるぞ、乞食」
「……おう、店主、ここの酒はどれもこれも匂いが良いなぁ」
ゴッチは少しだけ舌を出して、頬を伝う酒を舐め取った
椅子を蹴倒して、立ち上がる
「殺るかい、色男!」
色男が腰の剣を外して、女に放り投げた
――
さぁて、どうやろうかな、とゴッチは舌舐めずり。ゴッチの全力全開と言えば、体内電流で細胞を刺激して身体能力を高め、余剰電力を放出しながらの白兵戦だが
喧嘩して相手這い蹲らせるなら、条件は対等じゃなきゃいけねぇ
いや、対等じゃなくても良いが、有利なのはいけねぇ。対等か、不利かだ
そう言う状態で勝ってこそ、負けた奴ぁ屈辱に塗れた顔をする
そういう面が見てぇんだ。それでこそ誇れる
ゴッチの方針は定まった
――
「訳有りで名乗ってはやれん」
男の発言に、ゴッチは構いやしねーよ、と笑いながら飛びかかった
いきなり全開の右拳。身を捩る男の頬を掠め、空を刈る
男とゴッチの顔が、共に驚愕に染まる
「(避けたかい)
一発でダウンを奪う心算だった。本気の拳である
ワクワクしていた
「(やっぱりコイツぁ、当りかも)」
ゴッチが身を引こうとすると、男がそれに合わせて踏み込んでくる
引き戻そうとする右拳に左手を添えて、ゴッチの脇を狙っていた。投げるか、組み伏せるか、どちらにせよ密着状態を狙っているのを本能で悟る
咄嗟に膝を打ち上げた。それが男の顎に命中したのは、実を言えば全くの偶然だった
良い塩梅に男の動きが止まる。頭で思考したことではない、体に染みついた反応で、ゴッチの右拳は男の米神を打ち抜いていた
「あれ? 当たっちまったぞ?」
男が勢いよく吹っ飛んで、酒場の出入り口から転がり出て行く
女が悲鳴を上げる。甲高い叫び声は、ゴッチは嫌いだった
「カザン!」
「ほぉ、カザンね。近来稀に見る逞しい名前だぜ」
ゴッチが、外へ出ようとする女の肩を掴んで、酒場の主の方へと突き飛ばす
喧嘩も出来ねぇような、弱ぇ奴に邪魔させねぇ。ゴッチはカザンが転がり出た後、反動で閉まった酒場の扉を蹴破って、王都アーリアの大通りへと躍り出た
「おう、どうしたぁ! 1ラウンド目開始十秒で早くもダウンかぁ?!」
「何を喚いているのか今一解らんが」
飛び出した直後、横合いから聞こえてきた声に、ゴッチの体が硬直する
先ほどの一撃は、確かに偶然の産物ではあった。しかしクリティカルヒットには違いない。ゴッチの鉄拳でクリティカルヒットと言えば、それはもう生身には筆舌に尽くし難い威力の筈だ
もう立てるのかよ。声の聞こえてきた右側を向こうとした瞬間、横面に手袋付きの拳が突き刺さる
今度はゴッチが吹っ飛ぶ番だった。カザンと言う男は怪力で、その威力を余す所なく受け止めたゴッチは、錐揉みしながら宙を舞い、頭から地面に突っ込む
「づぁー……効いたぜ」
仰向けに寝転ばされて、ゴッチに完全に火がついた。見開いた眼が血走って、腹の底が熱くなる
身を撓らせて跳ね起きるゴッチに、カザンが眉を顰める
「立つか、今ので」
「一発ぐらいで沈むかよ」
カザンが仁王立ちする。堂々とした佇まいは、矢張り変わらない
ゴッチが首周りを緩める。赤み掛かった鋼の肉体の上で、銀のネックレスが輝いた
「余裕綽綽って面しやがって。俺ぁな、手前みたいな奴を見ると思い知らせてやりたくなんだよ」
子供のようにゴッチは笑った。歯を剥き出しにした笑顔で、犬歯が光る
己で己の獲物を封じた相手だ、搦め手はねぇ。そもそも、喧嘩に搦め手はいけねぇ
だから、真正面だ。真っ直ぐ行って右拳で打ん殴る。それしかねぇ
両足が地面を抉る。ゴッチは、再び飛んでいた
「身の程って奴をなぁーッ!」
――
野次馬に周囲を取り囲まれての喧嘩は、凄惨であった
ゴッチの拳が刺されば、同時にカザンの拳も刺さっている。カザンの拳には最初、僅かばかりの加減があったが、激しく競り合う内にその必要は無いと悟ったようだ
ゴッチの心は震えていた。こういう男がゴロゴロしているなら、異世界を益々好きになれそうだった
「何者だ、貴様」
鼻と口から夥しい血を流しながら組みつくゴッチに、右の瞼が腫れ上がって開かないカザンが問う
答える前に、密着状態から膝。腹に突き刺さるそれに、カザンは歯を食いしばる
「ゴッチ、ゴッチ・バベル」
「聞いた事がない。お前ほどの男、勇名か悪名か、聞こえて来ない筈があるまいに」
「ひっひっひ、さぁてな」
カザンの頭突きが炸裂した。ゴッチの頭が激しく揺さぶられ、たまらず膝から力が抜ける
追い込むように、二発目、三発目の頭突き
「手前だって、思ったよりやるじゃねーか」
胸倉を掴むカザンの両手を押えこみ、ゴッチは自ら膝を折った
肘を振り回すようにしながら体を捻じり、カザンを地面に引きずり倒す
そのまま澱みない動作で、右腕をカザンの首に回した。裸締め、チョークスリーパーだった
周囲の野次馬がどよめいた。荒くれ者の男と女が半々ずつといった所で、その内の幾人かが、「よぉし決まった!」と歓声を上げる
「決まったぜ。どうもこうも無ぇ、完璧に決まったコイツは」
「ぬぅ…ッ!」
「絶対に抜けらんねぇからよ」
絞め落とす、と更に力を込めるゴッチの体が引き摺られる。カザンが強引に体を捻じって、うつ伏せになろうとしていた
顔が真っ赤になっているのを見て、ゴッチは締まり方が完璧でないと悟った。今カザンは、顔面が内側から圧迫されて、破裂するような感覚を味わっているのだろう
そう言う時は、頸動脈への攻めが甘いのだ。頸動脈を綺麗に抑え、血流をピタリと止めてやると、物の五秒で肉体の自由は失われ、意識だけが異世界へ飛んで、テレビ画面越しに景色を眺めているような感覚になる筈だ。もし肉体の構造が違うのだとすれば、その限りではないが
うつ伏せになったカザンが、ゴッチを背負ったまま起き上がる。そのまま我武者羅に体を振り回して、酒場の壁にゴッチをぶつけた
だが、離さない。ゴッチの口端がいやらしく釣り上がる
すると、カザンが飛んだ。まずい、と思う暇も無い
己と、ゴッチ。二人分の体重を物ともせず飛び上ったカザンは、頭から突っ込むようにして地面に落ちた。当然、カザンよりも頭一つ分高い位置でチョークスリーパーを掛けていたゴッチは、一人だけ地面とキスをする破目になる
流石にゴッチも怯む。その隙に、チョークを解除したカザンが、激しく咳き込みながら距離を取った
「げほ、げっほ、……頑丈な男め、普通死んでいると思うのだが」
「普通じゃ無いのよ、俺。お前も、そこいらの奴と同じにゃ見えねぇ」
ゴッチはフラフラしながら、それでもカザンより早く立ち上がる
肉体の能力は、互角だ。これは驚くべき事だった。カザンの肉体は、恐らく異世界の人間の平均的な身体能力を遥かに凌駕している
カザンの力が一般的な物だとしたら、エピノアや死霊兵等がのさばれる筈もない
「(だが、負けねぇな。テメェの動きは獲物使ってる奴のソレだ。レーザーブレード使ってる奴が良く似た反応をするんだ)」
カザンが立ち上がる。ゴッチは無理にでもニヤニヤと笑った。余裕を見せ付けて、それからステップを踏む。超密着状態でのレスリングはここまでだ
両の拳を顎の前に構えた。ここからはボクシングだった
「(こちとらずーっと二本の腕で生きて来たんだぜ。殴り合いで剣士に負けてられんのよ!)」
オォ、と咆哮したゴッチが突っ込もうとした時、野次馬の一角が破られる
――
黒い服の上に鉄鎧を着込んだ六人組の兵士達。騒ぎを聞き付け、鎮圧に乗り出した。一人だけ鉄兜を装備していない指揮官らしき女が、猛々しく告げた
「止めよ! 止めんか! これ以上市井を混乱させるのであれば、厳罰に処す!」
「ヒュー、勇ましい御嬢ちゃんだこと。けどなぁ」
中指をおっ立てて、ゴッチ
「お呼びじゃないぜ! クソして寝てな!」
野次馬が一斉に囃し立てて、ゴッチに賛同した。指揮官の米神に、青筋が浮き立つのが解る
「決着付けようや、カザン」
「いや、ここまでだ」
「あぁん?」
カザンがいきり立つゴッチに、静かに歩み寄った。殴りかかって来る気配はない
カザンは極めて至近距離にまで近寄ると、小さな声で話しだす。周りには、あまり聞かれたく無いらしかった
「訳有り、と言っただろう。俺としても惜しいが、これ以上はやれん。決着は次の機会まで取っておいてやる」
「取っておいてやるだ? 馬鹿かテメェは!」
小さな声でぼそぼそと言うカザンは、殊更小声で話し出した
「俺の名はカロンハザンだ。良いか、カロンハザンだ。お前とはもう一度戦う。絶対にだ。それまでこの名を忘れるな」
それだけ勝手に言うと、カザンは野次馬を押し退けて歩き出す。野次馬の中で泣きそうな顔で見守っていたカザンの女が、その胸に飛び込む
「おい、何故だ!」
訳有りなんだろう、何故名乗った。それだけが疑問だった
「お前にだけは逃げたと思われたくない」
「カザン、止めて下さい! あぁ、酷い傷。早く行きましょう、手当します」
「上等じゃねーか、楽しみにしてっからよ! テメェをぶちのめすのをよ!」
カザンは足もとがぐらついているようだった。一方、ゴッチはまだまだピンシャンしている
タフネスでも勝っている。周囲の野次馬がブーイングするのも構わず、満足げにニヤリ笑いしたゴッチは、トントンと肩を叩かれて、振り返った
「うぉッ」
超至近距離に、女兵士の顔があった。余りの近さにゴッチが仰け反る程であった
「御終いか? そうであれば、この野次馬どもを散らして、どこでも良いから、とっとと、失せろ! お前が下らない騒ぎを起こさなけりゃ、私はこれから非番の予定だった。この、糞ったれた、大馬鹿者め、目立ちたければ他所でやれ! せめて私の管轄でやるな!」
茶色い髪が怒気で逆立っているようにすら見える。女兵士は、キレていた
眼の下に濃い隈があった。背後に控える部下の兵士達も似たような物で、形相が凄まじい
ゴッチは自分が殺気を仕舞い切れていない事に気付いた。結構背筋に来る物の筈だが、それでも突っかかって来るとは大した胆力だ。ゴッチは、場違いにも感心していた
ほんの少し、悪戯心を出してみた。軽い実験の心算で、ゴッチは中指を立てて女兵士を挑発した
「お呼びじゃねぇっつったろ。家帰って大人しく寝てろ」
ぐわ、と女兵士が大口を開いた。怒りの拳がゴッチの横面を張る
そのまま何と、背後の部下の槍を奪い、ゴッチに飛びかかろうとまでする。部下達が必死になってしがみつき、それを抑えつけた
「うわぁぁーッ! 放せぇぇーッ! 倒す、倒す! ここまで罵られて怒らない奴はアナリア銀剣兵団じゃないぜッ!」
「べ、ベルカ隊長! 抑えてください! 殺るのはやりすぎです! どうか寛大な心で!」
ゴッチは思わず噴き出した。こんな愉快な連中のお陰でカザンとの決着を着け損ねたのかと思うと、苦笑が浮かぶ
カザンに付き添うあんな弱々しい女も居れば、ゴッチの面を張り飛ばすこんな強い女も居る
お前見たいなのがいなければとっくの昔に家に帰って寝ている! と叫ぶベルカとやらに、ゴッチはゆっくり歩み寄った
そして、肩に手を置いた
「まぁ、運が悪かったな」
ベルカの全身が弛緩し、膝が崩れ落ちる。押し殺したような鳴き声が聞こえた
「頼む、お前たち……。頼むから、何も言わず、あの男を殺らせてくれ……! 他には何も要らない。お前たちには私の心が解る筈だ……!」
「うぅぅ、隊長駄目です。貴方は、そんな事をしてはいけない、ベルカ隊長……」
ゴッチは後退りして呻く
「お前らアホだろ」
「鼻血流した阿呆面に言われたくない!」
――
後書き
詰め込みすぎてもアレなので、一話の文量減らしてみるテスト
決してダルくなった訳では
……訳では