ホーク・マグダラは、他人の気持ちなど解らなくても良かった。父から受け継いだ物と、戦いの中で培った物を失わずにいれば、部下達はどんな過酷な状況の中でも、ホークに背いたりはしない
だからホークは、人の気持ちが解らなくても困らない。そうやって悠々と構えていたら、たった今困ってしまったな、と頬を掻く
「何年振りだろうか」
ホークは、黒い被りを脱いだ妹と向かい合って、小さく語り掛けた
「……はっきりと覚えておりません。もう、四年か、六年か、それの倍だったか」
ホークは毅然とした態度を崩せなかった。周囲には古くからの家臣以外にも、新しく加わった者達が沢山いる
妹は冷たく、美しく成長していた。氷壁の中に閉じ込められた華のような、そんな美しさだった
「(どうしてやれば良いのだ)」
抱き締めてやれば良いのだろうか
でもホークは、女の身を愛しむ様に抱いた事が無い。それどころか掛ける言葉一つ浮かばなかった
「よく」
がっちりと食い縛った歯を、強引にこじ開ける
「よく生きていた、ダージリン」
ダージリンは首を傾げて微笑む。目を伏せている
負い目を感じている人間がする、自嘲の笑みだ
――
ヨルドは鎚の前で腕組みする。剣を一本生み出すまでの、その全ての工程を追い掛けて、首を振る
折れず、曲がらず。それがヨルドの思う名剣である
ここぞと言う時に、決して使い手を裏切らない剣だ。丁寧に、丁寧に鉄を打ち据えて、納得行かなければ何度だって打ち直して、ヨルドはヨルドなりに鉄と向き合ってきた
しかし、どんなに真摯に向き合っても、鉄は必ず応えてくれる訳ではない
ヨルドの脳裏を、馬上のエルンストが佩いていた剣が過る。カザンに連れられて、エルンストの隷下の調練を遠目に見る機会があった
目標を指し示す事にしか使われなかったが、輝きは本物だった。ああいう剣を、カザンに振らせたい
振らせたいが、ヨルドには“ああいう剣”を鍛える自信が無かった
「俺で良いのかカザン、本当に」
カザンと言えば、敵が逃げる。そうまで言われる名である
友に剣を、相応しい剣を
友情と、自尊心、理想。思う程に、ヨルドは喉の奥がジクジクと痛む
「俺で良いのか」
炭で汚れた手を見詰める。顔も灰を被ったようで、身体はあちこち火傷だらけ
そんなだから色恋の経験など無いし、それどころか人付き合いも上手くない。ヨルドには、鉄の一芸しかない
鍛冶屋なんて、そんな物だ。不器用な奴しか居ない
では、その一芸で満足の出来る結果を出せなければ、俺は一体なんなんだ?
工房に人の気配が近付く。扉の向こう側で足音がしても、ヨルドは身動ぎしなかった
「入るぞ、良い物を持ってきた」
カザンだった。ここ暫くヨルドの工房に通い詰めのカザンは、今日は白が薄汚れて灰色に成り果ててしまった襤褸袋を握り締めていた
カザンと目が合う。ヨルドはカザンの力強さを感じる。何時も、何時も、この男と目が合うたびに
「南方から流れてきたらしい鉄だ。伝手によると、他に類を見ない質らしいぞ」
カザン。ヨルドはポツリと呟いた
「(俺の背を押してくれ。悠然と構えて、さも何でも無い事のように、言い放ってくれ
お前の堂々たる姿で、俺に力を与えてくれ。俺は出来るのだと、信じさせてくれ)」
ヨルドは襤褸袋を奪い取り、両手で頭上に掲げて大声を上げた
「よっしゃー!! やるぞぉー!!」
「ヨルド?」
――
イノンは懐に少々余る程の酒壺を抱えて市を歩いていた
齷齪働くロージンに手伝いを申し出たら、こうなった。ロージンはどうやら、ゴッチが執心する娼婦に何をさせるのも拙いと思っているようで、必要あるのか無いのか解らない当たり障りのない酒の買い出しを任せられたのである
イノンの白い髪と甘い香りは、よく目立った。ミランダでも特徴的な髪で知られていたが、ジルダウでも物珍しげな視線からは避けられない
それに、イノンがゴッチのお気に入りだと言う事を、知っている者は知っていた。混雑する市の通りを歩いている今でも、そういう人物はイノンと擦れ違う時、さり気なく気を使って距離を取った
しかし、例外も居た
ふとした拍子に、毛皮の旅装を着た男と肩がぶつかる
よく起こり得る事だ。イノンは別段何も気にせず通り過ぎようとしたが、旅装の男は勢いよく振り返り、嫌らしく笑うとイノンの酒壺を奪い取った
「あ?」
イノンは咄嗟に手を伸ばすが、乱暴に突き飛ばされて尻餅をつく。直ぐ目の前で、男が酒壺を検分し始める
「おぉ、良い拵えじゃねぇか。何だってお前みたいなのが?」
「返してください」
「あぁ?」
慌てて立ち上がり、イノンは男の腕を掴んだ。男の笑みが深くなる
イノンの薄手の服に手を突っ込んで、無遠慮に乳房を弄る。小さく悲鳴を上げて、イノンは身を捩った
「来いよ、売ってるんだろう? 相手しろよ」
「い、嫌です」
男はイノンの言葉など聞いては居なかった。太い指を乱暴に首に回し、締め付けながら路地裏に引きずり込もうとする
唇を噛んで、イノンは男に体当たりした。酒壺に抱き着いて体を振る。イノンの肘が、偶然男の腹に入った
「ぐぉ!」
男が見る見る内に酷い形相になった。堪え性の無いのを隠しもせず、あっという間に頭に血を上らせ、イノンの頬を張った
仕立て屋の石壁に背を打ち付けても、イノンは酒壺を取り落さなかった。目の前に迫った危険から逃れる為に、脇目も振らず走り出す
「舐めやがって、待て!」
男は極めて健脚で、機敏だった。あっという間にイノンの肩を摑まえて、力任せに薄い布地の服を破る
悲鳴を上げる前に、口を塞がれた。背の高い樽に叩きつけられ、その上で腹を殴られた
痛みと恐ろしさに、イノンは震えて涙を流す。ミランダでは、こんな事は起きなかった。ミランダはヌージェンの元で娼婦たちがよく纏まっており、無体を働く者には必ず報復があったからだ
ジルダウにそういう結び付きが無いかと言えば否だが、ミランダのそれと比べれば圧倒的に劣っている
加えて、男は旅装から見て取れるように、余所者だ。ただでさえ様々な所から人が集まっている今、揉め事は必ず起こる
「何様だァ? 許せねぇぜ、たかが娼婦が俺の腹に肘をくれやがって」
もう一度、男は拳を振った。腹に。更にもう一度、また、腹に
逆らう力の無い娼婦を相手に、全く躊躇しない。嗜虐的な笑みを浮かべて、男はイノンを俯せにし、腰を上げさせる
イノンは痛みから意識を手放していた。男は大通りで事に及んで、晒し者にするつもりなのだ
「ひひ、馬鹿な女だよ。売女の癖に反抗的だと、こうなるんだよ」
男の背後に、女が三人立つ。汚れた直垂を纏ったケチなスリどもで、顔を蒼褪めさせている
女達はイノンに乱暴する男に反感を抱いても居たが、それ以上にゴッチの事が恐ろしかった。イノンが散々に打ちのめされ、強姦されていた時に、見ているだけで何もしなかった者達を、ジルダウを牛耳る恐ろしい雷の魔術師はなんと思うだろうか
怒りのまま、野次馬を纏めて生き埋めにしかねない
気まぐれ一つで、ゴッチは自分達を嬲り殺しに出来る。癇に障った、それだけで自分達に筆舌に尽くしがたい行いをしても、誰も咎める事は出来ない
ならこの状況、言うまでも無かった
手入れもまともにしていないが小剣を一応持っていた。それを引き抜いた時、人垣を割って、老人が現れた
そしてその老人に案内され、ゴッチ
三人の盗賊は、蒼褪めるどころではない。蒼白になる
「お前ら、下がってろ」
ゴッチは無造作に男の背後に近寄ると、逸物を取り出して下卑た笑い声を上げる男の肩に、ナイフを突き立てる
さく、と何の抵抗もなく刃が埋まる。隼のエンブレムが輝く。男は、あ? と間の抜けた息を洩らした後、絶叫した
「ぎゃあぁあぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ぎゃぁぁ、だって?」
肩からナイフの柄を生やしたまま、男は転がるように這って逃げた
怒りの形相でゴッチを睨み、しかしその風体を確認した途端、殺気がしおしおと萎える。明らかにゴッチを知っている反応だ
「ま、待って」
ゴッチは耳を貸さない。前蹴りが鼻面に突き刺さって、男は鼻血を噴出しながら真後ろに転がった
血がぼたぼたと滴り落ちる顔面を抑えながら、旅装を赤い斑模様にした男は叫ぶ
「あ、あ、アンタの女だったのか?! あ、謝る! この通りだ!」
「謝る、だって?」
側頭部に爪先が入る。意識を失わせないように、或いは殺してしまわないように、ゴッチにしては優しく、本当に優しく蹴った。蹴り転がされた男は痛みに悶絶しながら懐に手を突っ込んだ
「ゴッチ・バベル! 俺を殺すな! 俺はアンタへの手紙を預かってきたんだ! ほら、鼻は完璧に逝っちまった! もう良いだろう?! 話を聞いてくれ!」
もう一度、側頭部に蹴り
男は無様を重ねて這い蹲る。俯せになった男の後頭部を、ゴッチは無表情のままに踏みつけた
首を、踏み砕かれる。圧倒的な死の気配に、男は両手を掲げた。茶色の羊皮紙が握られていた
「“皮袋の毒”首領、ビエッケ様からの手紙だ! 本物だ! 俺を殺すと、話が拗れちまうぞ!」
「皮袋の毒、だって?」
ゴッチは首を踏み砕くのを中断して、後ろを振り返った
三人の盗賊に向けて、一枚ずつ金貨を投げる
「その女を介抱しろ」
女三人、呼吸も上手くできないまま顔を見合わせ、イノンに駆け寄る
その内の一人に、ゴッチはもう一枚金貨を放る。男を踏みつけにしたままだ
「皮袋の毒ってのは?」
「な、南部の盗賊達の総元締めです。南側じゃ、誰もビエッケには逆らわない」
「俺達を知らねぇのか?! ビエッケ様はアンタと仲良くしたいんだ! たかが商売女一人じゃねぇか! な?! 許してくれ、この通りだ!」
ゴッチはナイフを引き抜くと、男を石壁に寄りかからせた。安堵の息を吐いた男は、許されたと思い、命を拾ったことを信じてもいない神に感謝する
横倒しになった密封の完璧ではない酒壺から、少量ずつ酒が漏れていた
ゴッチはそれを拾い上げ、封を破ると、酒でナイフに付いた血を洗い流す
近くの露店に、薄緑色をした珍しい硝子らしき素材の酒杯を見つける。ゴッチはそれに歩み寄って、無造作に拾い上げた。野次馬がゴッチの移動に合わせて逃げ散る
「ビエッケね」
「そうだ……。ビエッケ様も、今この町にいらっしゃってる。こんな事になっちまったが、俺が先ずアンタに手紙を持っていく筈だったんだ」
「へぇ、そうか。よく知らねぇが、大物みてぇだな」
ゴッチがもう一度、盗賊の女達を見遣った。金貨を多く受け取った一人が、つっかえながら声を上げる
「噂、なんですが! 皮袋の毒は、エルンスト軍団に手を貸してると……。一応は、味方って事になるかな、と……」
「へへへ、その女の言う通りだ。信じてくれたか?」
盗賊の女達は、気絶したイノンに打撲用の軟膏を塗った後、壊れ物を扱うかのように抱きかかえ、守っている
不安げに事の成り行きを見ていた。特に、ゴッチを
ゴッチは硝子の酒杯に酒を注ぐ。酒壺を樽の上に置き、酒杯を男に差し出して、ゆったり笑う
「まぁ、呑めよ」
男は愛想笑いして受け取り、痛みに耐えながらそれを干そうと口をつけた
瞬間、ゴッチの右手が撓る。浮き上がった硝子の酒杯の底を、掌で押したのである
全力で
「ぶひゃぁ!」
酒杯は一瞬で砕ける。破片が男の口中をズタズタにし、鋭く不揃いな剣山と化した酒杯の成れの果てが顔面を切り刻む
左目が潰れた。誰がどう見ても、もう二度と物を映すことは無いと判断するだろう
男は大きく仰け反った後、ゴロゴロと転がった。四つん這いになると、惨めに泣き喚く。ゴッチは吠える
「この豚がァ! もう一度笑ってみろコラァ!!」
「ひゃ、やめへぐへぇ! 良いおは?! ひえっへはまは……!」
「あぁ?! どうした、ママからお喋りの仕方も習ってねぇのか?!」
胸倉を掴んで、無理矢理立たせる。腹に一発。イノンがやられたように。更に一発。おまけにもう一発
男が口中の硝子と一緒に胃の中身を吐き出した。すえた臭いのする胃液の水たまりに、ゴッチは男を叩きつけた
「あぁぁ臭ぇな! こりゃ酷ぇ臭いだ! 何て行儀の悪い奴なんだお前は!」
次にゴッチの爪先が狙ったのは、男の右脇腹だった。これも、男を決して殺さないように、加減しての蹴りだ
男は丸まって腹を守る。ゴッチは、許さない。力を篭めて蹴り転がし、強引に仰向けにし、上腹部にストンプキックを繰り返す
仰向けのまま、男は胃液を逆流させた
盗賊の女達は、皆一様に怯え、歯をカタカタ鳴らした
掠れる悲鳴のような声でも発せたのは、奇跡と言ってよかった
「い、良いんですか、相手は、皮袋の毒……」
ゴッチが激情を湛える目を向ける。盗賊は竦み上がって、泣きそうだ。声を発した一瞬前の自分を、殺してやりたいほど憎んだ
最後にもう一度ストンプして、ゴッチは樽の上の酒壺を引っ手繰るように手に取る
「良いか! 手前ら! 祭りを前に、ジルダウに集まってきた野郎ども!」
野次馬に怒鳴り付けながら男の上で酒壺を逆さにする。度数の高い酒が強い臭いを発しながら男の体を濡らす
毛皮の旅装は、コイツぁ、よく燃えそうだなぁ。ゴッチは、男にだけ聞こえるように囁き、笑った
「何処の誰かなんて関係ねぇ! 皮袋の毒だろうが、御前試合に出る剣士だろうがだ!」
ラぁーラ!! 野次馬の一角で黒いローブに身を包み、ひっそりと息を殺していたラーラが、ゴッチの指示に応えて歩み出る
被りを取り払ったラーラに、野次馬は慄いた。雷の魔術師の配下、ラーラ・テスカロン。恐ろしき炎の魔術師
「俺の縄張りで調子に乗った馬鹿には、必ず思い知らせる! 必ずだ! 覚えておけよ、隼団を! 偉大なボス……いや、ビッグボス、SBファルコンが率いる、残忍で狡猾な一家だ! ジルダウは、隼団の街だ!!」
ゴッチは天に人差し指を突きつけ、振り下ろした
ラーラが掌に小さな火球を生み出して、酒塗れの男に叩きつける
男は既に這いずる体力すら残っていなかった。男が火達磨になる直前、目があった気がして、ラーラは嫌な顔をした
「ひぃぃ」
野次馬の一人が、悲鳴を上げる。それを皮切りに、ゴッチを恐れる声が通りに充満した
火達磨になった男は既にゴッチの気を引く物ではなかった。嫌な臭いをさせて燃える焚火に背を向けると、イノンを抱き上げる
口から血を流しているのを見て、ゴッチは顔色を変えた
「おい!」
「く、口の中を切っているだけです!」
盗賊の女達が、悲鳴を上げながら縮こまる
ゴッチは大きく息を吐いた。安堵の溜息とも取れそうな息遣いであった。ラーラは腕組みして難しい顔になる
男の、固い掌に幾度か殴られ、青みを帯びた頬を手の甲で撫でた
イノンが、薄ら瞼を開く。ゴッチはイノンを横抱きにしたまま頭を落とし、無造作に口付けた
「ゴッチ……。あぁ、ゴッチっ、私……」
「すっとろい奴だなお前は」
――
「イノン……? 知らないんだぜ。兄弟が女に入れ込む所なんて見てねーもの。ゼドガンは?」
「確かミランダで贔屓にしていたような気もするな。だが俺とて詳しくは知らん。それにアヴニールの一件以来、女を買う様子も無かった」
思うまま酒を食らって倒れる寸前のトンチキ二人に、ラーラは眉一つ動かさなかった
やるべき事は、必要な時にやる男達だ。今更ラーラが何か言う事も無い。今は、他にすべき話がある
ゴッチの前に現れた娼婦の事だ。胸がざわめく
ゴッチは、あの娼婦が受けた恐怖と痛みの報復の為に、平気で人一人を嬲り、晒し者にした後、ラーラに焼き尽くさせたのだ
どう考えても、“ただの娼婦”ではない
ゼドガンがラーラの隠しきれない憂いを見て取り、杯を置いて飄々と笑った
「何故、気を揉む事がある。奴は他の何よりも、強さを神聖視する男だ。女を抱く事も奴にとっては鍛練の一つというだけさ。溺れたりはしないだろう」
「またぁっ、買い被りすぎだって! 兄弟はチェリーボーイよりも我儘なんだぜ? そんなストイックな理由な訳ないんだぜ!」
ひゃーひゃひゃひゃ、と、レッドはギターのネックに噛み付くように体を丸める
タッピング。ギター内臓の小型出力機が、身を捩るように歌いだす。しめやかで優しげな曲を、そう呟いて、レッドは己の演奏に己で聞き惚れ、陶酔しきった表情になる
「愛は欲だぜ。美しかったり、醜かったり。誰にも見る事は出来ないし、触れる事も出来ないのに、皆愛の存在を知ってるんだぜ! 愛がどれ程人を切なくさせるか、同時にどれ程人を幸せにするか、あぁぁ……! 兄弟にもこの曲を聞かせてやるかぁ!」
何でテメー湿っぽいんだよ! そんな罵声と共に、こんがり焼き上げられた鳥の腿が飛んできて、レッドの額に命中した
ふおぉ! と頭を振って絶叫したレッドは、怒りもせずに大声で笑う
「しゃーねー! オーケーオーケーだぜ! ラヴソングはまた今度だ、オーディエンスの要望に応えて、一丁盛り上がらせてやるだぜ!」
冒険者の類が溜り場にする、柄の悪い酒場だった。レッドがギターを振り回してテーブルの上に立つと、途端に周囲が盛り上がって勝手に大騒ぎを始める
「ステンデァーップ! ゲッレディ! トリックNO.1! 『君のおへそ舐めたい』 チェケチェケナーウ!」
「何と言う名だ……」
ラーラは米神を抑える。ラーラ自身はレッドの演奏が好きで、レッドの事を音楽に愛された天才だと思っているが、天才の感性と言うのは得てして常人には理解し難い物だ
「御前試合が終わったら、ゴッチも巻き込んでジルダウの飯屋巡りをする心算らしいぞ。構って貰えなくて拗ねてるのかもな」
ゼドガンの余りの言い草に、ラーラはふ、と声に出して笑った
これ以上は無意味かな。踵を返して、酒場を出る
ゼドガンは目を閉じて杯を呷った。ラーラは何故、戸惑っている?
ゼドガンも、この世界の一般とは隔絶した男だ。解らないのだ
「(そもそも、誰の為の配慮か)」
「イィィヤッホォォォー! あ?! ん?! イェホーじゃねー! テメーらアナリア語喋れねーのかっつーんだぜーー!!」
「おい、レッド、杯を蹴るな」
これは暫く収まらんな、とゼドガンは呟く。こうなった後に続く曲を、ゼドガンは知っている
『君の耳たぶ噛みたい』と、『君のお尻吸いたい』だ
人間、魔術師と言えども、酒に酔えば頭が可笑しいとしか思えないような事をする
――
ヨルデは、工房から聞こえてくる話し声に、気を重くする
兄のヨルドは、カザンを工房に招き入れて話をすると言う事が、どう言う事か解っているのだろうか
今はまだ幸運だった。アーリアで積み重ねた物を失っても、極短期間の内に侯爵と言う強力なお得意様が出来た
だが、その得意先の侯爵の機嫌を損ねれば、食うに困る貧乏鍛冶屋だ。侯爵位を持つ人間の機嫌を損ねたとなれば、仕事は入らなくなるだろう。鍛冶屋として身を立てるのは今度こそ不可能になるかもしれない
どれだけ自分が頑張っても、全てが無駄のような気がした。駆けずり回って仕事を探して、工房では兄を助け、苦手な銭勘定もしたし、こすっからい商人とやりあう事だってした
でも、カザンと仲良くする、それだけで全ては水泡に帰すのだ
「兄貴の馬鹿」
それでもヨルデは、カザンとの友情を本当に信じていたら、拒むことは無かっただろう。仕事を失う事も、或いは厭わなかった筈だ。そういう所は、矢張りヨルドの兄弟だ
だが、ヨルデはそうではなかった。ヨルデにしてみればカザンは裏切り者だ
何の報せも無く巫女を攫って出奔し、アラドア将軍の屋敷に討ち入って、挙句はエルンスト軍団に参入だ
日頃からカザンの剣を打っていた兄と自分が、国からどれ程の追及を受けたか
身の危険を感じてアーリアから逃げ出し、ジルダウに到着して、何とか鍛冶仕事を受けられるようになるまで、どれ程辛かったか
その間に、カザンが何をしてくれたと言うのか
ヨルデは膝を抱えた。ヨルデの手は荒れ、節くれだって、年頃の娘とは全然違う
兄と同じだ。火傷だらけ、灰だらけ。ヨルデは唇を噛む
ヨルデだって
ヨルデだって、カザンの事が大好きだった
ヨルドとカザンの友情が眩しかった。何時も目を細めて後ろで笑っていたものだ
どれ程カザンが軍中で上り詰めても、失われない物があるのだと、心底嬉しかった
結局
「カザンの馬鹿」
カザンに憧れていた
かつての憧れを罵る醜さと、仕事上での打算を考える醜さ
どれ程苦労を重ねても報われない無力感。今更女には戻れない、灰だらけの鍛冶師としての自分
頭がぐちゃぐちゃになる
何故こんなに苦しいのか。ヨルデには解らない
――
カザンは己の天幕の中で雑務を片付けて居た。昼間、ヨルドの所に入り浸っている以上、必要な仕事は夜にこなさなければならない
ベルカが元気に俎板と見紛うばかりの胸を張りながらそれを手伝っている。ここ暫くは、ベルカも暇になる
「良い剣が出来ると良いですね」
「鎧もな」
小さく微笑んだカザンに、ベルカはほっとした
エルンスト軍団に参入してからのカザンは、何かに取憑かれたようだった
無理もないと言えば、そうではある。ファティメアの一件を聞かされて、ベルカだってそう思った
圧倒的に強く、敵を蹴散らしたが、同時に恐ろしかった。自分達を率い、戦いへと駆り立てるこの将が、異次元の存在のように感じられた
それが以前のカザンへと戻り始めたのは、少々複雑ではあるが、ゴッチ・バベルと言う雷の魔術師と再会した時だ
隔絶して強い戦士の心は、矢張り隔絶して強い戦士にしか解らないのかも知れない
ベルカの微笑みが、少し寂しげな物になる
「明日も?」
「あぁ、暫くは通い詰める」
「隊の事はお任せを」
「ニルノアはどうしている」
「合同修練場に顔を出しているようです。“黒い河の騎士”の内二人とよく打ち合っているそうで」
「そうか、一人見かけたな。剛剣アシラッドと歩いていたが」
「アシラッド殿にも挑んだそうですが、振られたそうですよ」
カザンとベルカは一拍見つめあって、二人して小さく笑った
「カザン将軍、ちょいと宜しいかね」
ふと、天幕の外から声が掛かる。カザンは気配を感じていたようで、平然と応答した
「その声は、オーフェス殿。どうぞ」
皺の刻まれた顔に柔和な笑顔を浮かべながら、オーフェスが天幕に入ってくる
机の上の羊皮紙と向かい合う二人を見て、御邪魔だったかね、と頬を掻いた
「そうでも御座いません」
「……済まないね。……実はカザン将軍と、話をしたくてね。済まないついでにベルカのお嬢ちゃん、席を外しちゃくれないかい」
ベルカが横目でカザンを見遣る。カザンは頷いた
即座に席を立ち、一礼して天幕から出る
机を挟んでカザンと向かい合ったオーフェスは、兎に角言い辛そうに頭を掻いていた
「それで、お話とは」
「その、ねぇ……」
「……あまり良い話ではないようですな」
「そうなんだよ」
オーフェスは口を真一文字に引き結ぶと、頭を下げた
「オーフェス殿?」
「カザン将軍、わたしゃね、決してカザン将軍の名誉や誇りを軽んじている訳ではない。それを信じて欲しいんだ」
「…………」
オーフェスは腹を括ったようであった
「ユーゼと言う騎士を知っておるかね」
「えぇ。……エルンスト様の縁戚の方ですな。凄まじい剣と斧の使い手でした」
「ほぉ、腕を見た事があるの。……カザン将軍、どうだい、勝てそうかね?」
「…………正直に言わせて頂くならば、負けませぬ」
そうかぁー、と苦しい溜息と共に、オーフェスは言った
「御前試合に出る事も知ってるだろう?」
「はい」
「組み合わせは殆ど出来てるんだが、カザン将軍と騎士ユーゼは、初戦で戦う事になってるんだよ」
ここまでくれば、カザンにだって、オーフェスが何を言いたいのか解っていた
「手心を加えてやっちゃ貰えないかねぇ……」
カザンの表情が凍り付いた
「模擬演武の方は全然構わないんだよ! カザン将軍と、将軍の率いる精鋭の力をこれ以上無いほどに見せつけてくれて! エルンスト軍団のカザンこそが最強とね! だが……まぁ、色々あるんだが、騎士ユーゼの家にも華を持たせてやりたくてねぇ」
「オーフェス殿、それは」
「あぁ……。なぁ、カザン将軍、エルンスト様は、いずれ将軍を今よりずっと重く用いるだろう。遣り口は違えど、この婆以上にね。ならば、戦いだけではいけないよ。カザン将軍には、この婆はね、七面倒臭い小細工も、覚えて貰いたいんだよ」
オーフェスはもう一度頭を下げた。カザンの握りしめた拳が震えている
ヨルドの顔が浮かぶ。誇らしげにカザンの事を見ている
部下達を思い浮かべた。矢張り誇らしげに、カザンの事を見ていた
様々な物が浮かんで消えていく
剣を握り締めた自分の姿。どんな剣だ? 形は見えない。しかし解る事がある。この剣は、ヨルドの剣だ
振り上げる事が出来ない。鉛のような重さだ。いや、総身が鉛で出来ていたとしても、カザンなら振れる
ならばこの重さは、なんだ
ゴッチの顔が浮かんだ。強い事を最も重要視する男は、詰まらない物を見る様にカザンを見ている
――
後書
バイオレンスな文書の練習だ!
と思ってたらイノンとモブ男を延々苛め続ける事に……。
俺は屑だ……。
同時に、ちょっとロマンティックな書き方を心がけてみたりしたが、なんだかよく解らなくなった。
おっとぉー、誤字確認していたら既に指摘されてしまったぜぇー
と言う訳でファンゴ氏の指摘により誤字修正。おかしいなー、ワードで見ると気づけないんだよなー。