「失礼ですが、良いですか、ミランダローラー」
二度目、机に影が掛かった時、二人は過剰に反応したりはしなかった。その人影が、意図してか、こちらに存在を悟らせたいかの如く、堂々と歩いてきたからだが
聞かれると拙そうな会話が既に終了していると言うのが、言うまでも無く最もな理由である。横合いから近付いてきた人物に、二人は無遠慮な視線を向ける
ゴッチは表情にこそ出さなかったが、軽く舌打ちした。赤布で頭を覆った冒険者の男は、名前は忘れたが、気に入らない奴だ。それだけ覚えている
ゴッチに名前を忘れ去られているインガは、ゴッチの事を極力無視して、ゼドガンに会釈した
「俺はインガ。一端のジャルクだと、自分では思っています」
「うん? ……知っているようだが、俺はゼドガン。何の用かな」
「アヴニールの討伐の話、恥ずかしながら初めて知りました。ジャルクとしては、心が躍ります」
インガが皆まで言う前に、ゼドガンの眼が値踏みする者のそれに変わる。冷たく突き放すような視線に気付いたインガは、俄然威勢よくなった
インガは、食い付くのが得意なようである。ゴッチの意地の悪い眼には、元気に尻尾を振る犬のようにも見える
「俺の依頼で、仲間は募集していないのだが」
「知っています。ミランダローラーは孤高で、群れない物だと。ですが、相手はアヴニールです。俺は役に立ちます。間違いなく」
「ローラーの一匹狼振りが、ミランダの伝統のようになっているのは偶然だろうが、俺には理由がある。生半な者が俺に付いてくると、死ぬ」
「其処のろくでなしに出来る事が、俺には不可能だと?」
なんだとコラ、と立ち上がりかけたゴッチを、ゼドガンが制す。ゴッチは、素直に止まった。ゼドガンに制止されたから、と言うのもあるが、野次馬に中に、イノンを見つけたからだ
イノンは不安げな顔でゴッチを見ている。また今まで、インガの相手をしていたのだろう。そう考えた瞬間、ゴッチは首から上が燃えるように熱くなって、激発しそうになってしまい、それを抑えるために、止まったのだ
女を取られて憤激するのは下だ。常に余裕を見せていなければ。復讐しないのは下の下だったが、それは後々幾らでも出来ること
ゼドガンがゴッチを見た。必要以上に刺々しいインガの物言いを、訝しく思ったようである。ゼドガンは、ゴッチとインガの間に何らかの確執があろうと、驚きはしない
ゴッチは平静を取り繕って、肩を竦める。肯定を示しているのだと、ゼドガンは気付いた
「お前とゴッチの間に何があるのかは知らないが、ゴッチは俺の友人だ。問題の多い奴だが、不当な侮辱は許さない」
「……申し訳なかった。しかし、本当です、俺は使える。ミランダローラーにも、そう思って貰える筈です」
「お前の力がその大口と同じくらい大きい物だったら良いんだが」
インガの視線がイノンに向いたのが解った。その後、本当に僅か、偶然と言えなくも無いほど少しの間、ゴッチにも向く
俺に当てつけてやがるのか、虫けらが、一丁前に
け、と不愉快気に、ゴッチが割り込んだ。イノンを見つめながら、酒盃を煽る
「良いじゃねぇか。連れていきゃぁよ。潰れた蜂みてーな貧相な面に寄らず、使えるかも知れんぜ」
「なんだと……。人に集る街角の乞食が」
「……ほらな、少なくともゼドガン、お前よりは爽やかな悪口を使いやがる。それに、娼婦の纏め役が言うには、俺が十人居たって敵わない腕前なんだとよ」
ゼドガンが笑い始めた。ゴッチの言い草に何か思うところがあったようだ
「馬鹿言えゴッチ、自分が十人居るところを想像してみろ、悪夢だぞ?」
「あぁ、ゾッとするね。酷いなそりゃ」
「お前が十人居たらアナリアが滅ぶ。アシュレイだって泣いて許しを乞うだろうよ」
「馬ぁ鹿、そんな可愛げあるかよ、あの化物に」
「よし、良いだろう。インガ、お前がゴッチほど猛々しく戦えるとは思わないが、それでも優秀なのは間違いなさそうだ。それに、ただ戦うだけがジャルクではないしな。お前の気が変わらないなら、依頼に付いてきて貰おうか」
ゴッチがべぇ、と舌を出した。ゼドガンが制止する間も無かった
「感謝しろよ? 俺は今、良い事尽くめで気分が乗ってる。手前の潰れた蜂みてぇな面を眺めてること以外はな。こんな幸運、早々ねぇんだ。勘違いするんじゃねぇぞ」
インガの顔はとうの昔に真っ赤に染まっていた。ゴッチの態度の事もあるし、それに対するゼドガンの態度もそうだった。如何にも自分が、毎日ミランダの薄暗闇の中で惨めに虚勢を利かせる、娼婦を食い物にしてその住処に転がり込んでいる下衆よりも、格下だと扱われたのだ
インガは眼を閉じていた
「ミランダ、ローラー、重ね重ね、申し訳ないが、少し、時間を、下さい。…………表へ出ろ乞食野郎。ここだと迷惑が掛かってしまう」
ゴッチは悠々立ち上がった。ゼドガンは何時もと変わらない微笑を浮かべながらも、「これは面白くなった」と言う気配を隠そうとしない
そのすかし面に意地悪く、ゴッチは話を振る
「ゼドガン、お前、俺との付き合い方、少し考えモンじゃねぇか?」
「ふ、別に、何処の誰が何を言っていようと」
掌を天に向けて“お手上げ”のポーズだ。ゴッチは少し興を殺がれた風で、インガの横を通り過ぎる時、ぽん、とその肩を叩いた
唖然とするインガを尻目に、イノンへと歩いていく。懐から金貨を一枚取り出し、指で跳ね上げた。コイントス
ティトから先んじて支払われた報酬の、三十分の一だ。娼婦達の様子を観察していた限りでは、今しがたゴッチがトスしたこの金貨は、娼婦の身柄を三日丸々束縛してもまだお釣りが来る
金貨を受け止めた右手で、イノンを引き寄せた。吐息が触れ合う距離でイノンの瞳を見つめながら、ゴッチは鼻を鳴らした
「今日は客だ。お前は可愛くて、綺麗な、娼婦だ。だよな?」
「あ……そんな……」
「なんだ?」
「ゴッチ、目が違う、……何時もと、全然……」
「……ケ、じゃーな、ゼドガン。後はその虫けらと仲良くやってくれ。……心配なぞしちゃいねぇが、ソイツに足を引っ張られたとか言って、死ぬんじゃねーぞ」
そのまま出口へ向かおうとするゴッチに、追いすがる声
「逃げるのか! 乞食!」
「あぁ、そうだな、また今度な」
ちょっとだけ足を止めて、ゴッチは見せ付けるようにイノンに口付けた。歩きながらインガに向かって投げられる言葉は、如何にもどうでもよさげであった
インガの自制心は相当な物であった。彼は、後ろから斬りかかるのを好まなかったのだ。例え相手が誰であろうとだ
ゴッチにしてみれば、別にインガに自制心が無くても良かった。掛かってくればぶちのめして、掛かってこなければ間抜け面を嗤うだけ
「クソ!」
白けたな、と内心思いつつも、微笑を崩さないゼドガンが、どこか面倒くさげに言った
「全く、奴め……。インガ、気が済んだら仕事の話だ。やるよな?」
蒼褪めたり、おろおろしたりしながら事態の推移を見守っていた野次馬達が、ほっと安堵の息を吐く
普通の酒場と違って、手引き場にいるのは女子供や雑事を執り行う老人であった。お相手を探しに来た血の気の多い男や女は、さっさと手続きを済ませて出て行くのが普通だからだ
――
「ふ、う、嫌だわ、そんな目つき」
「アイツ、なんだ? 何で拘る」
「…………く」
「俺、怖いだろ」
「今のゴッチに見られると……ひりひりする」
「本当は、こんなモンだ」
「ゴッチは……気に入らないって思ったら、……もうその事しか見えなくなる」
「……イノン、アイツが良いのか?」
イノンはゴッチの腕の中で、漏れ出る吐息を堪えた
「…………弟、だもの、……そうよ、愛して、いるの」
イノンの家を出たときには、既に夜だった。融けた硝子のような深い闇が、ゴッチの足元を覆い、隙あらば掬おうとしている
ゆらゆらと篝火が揺れている。色町には、特に明かりが必要だ。何もかもが危うい場所だった
篝火の傍に、ぼんやりと女が立っている。ヌージェンである
ヌージェンは俯いている。怪しげな様だ
「……アンタ、……イノンから、冒険者インガについて何か聞いたか?」
無視して通り過ぎようとしたゴッチに、ヌージェンは静かに言った。静かではあったが、奇妙な迫力があった
「似てねぇ弟だよな」
「…………そうかい、イノンが、ね。…………アンタ、本当ははした金くらい持ってるんだろう」
「そこそこな」
ゴッチのスーツの懐には、金貨の重みがあった。どうせ元の世界には持って帰れない代物だ、と思っているが、世界が違ってもはっきりとした存在感を放つ金の重みが、そこにはある
金、ひいては財産とは、重要な物だ。これの重みが解らない奴は、長生きしない。誰でもこの事を知っている
だから事情を知らず、ゴッチの金への執着の無さばかりに目が行っているゼドガンは、ゴッチの事をある種の求道者か何かと勘違いしているのかも知れなかった。強いということは正しいということ、そう何気ない面で言ってしまう男だから、尚の事であった
「……皆、言ってんだ。アンタはイノンにべったり付き纏って、他の女は気にも留めない。まるでガキみたいだって。金があるなら、堂々と客として来れば良い。あたしらだって、文句は無い。……アンタ、変だよ」
「金払わずに女抱けたら幸福だろうが」
「本気で言ってんのかい」
ゴッチはイライラしながら壁に寄りかかった。篝火を挟んで左側にいるヌージェンが、射殺すような視線を投げかけてくる
また、イノンの顔がちらついた。笑顔と不安顔、そして乱れた艶姿。イノンの事なら何処までも鮮明に思い出せる
気に入る、というのは、そういうことなんだろう。ゴッチは鼻を鳴らした
「イノンの事……どこまで本気なんだ。正直に言いな」
「…………煩ぇな。ケ、俺の事が気に入らねぇんだろ? 感謝しな、もう来ねぇよ」
「なんだ、そりゃ。おい、イノンの事は?」
懐の金貨の膨らみを、ゴッチはもう一度確かめた
これと同じだ。全て終われば、こちらに置いて行かなければならない
多寡が商売女一人、何を思う事があるのか。大体ゴッチにしてみれば、この世界の娼婦なんて軒並み異次元の存在だ、文字通り。大昔丸出しの装いで、耳慣れない呼称の仕方で下品な笑い話を飛ばす。未成熟で根拠も無い民間療法によって体調を維持しており、どんな病を持っているか解ったものではない
そんな事を、考えれば考えるほどに苛立ちは増した。どうしても、イノンの顔がちらついた
「………………アイツにゃ、あの間抜けが居るだろう。実の姉といたしてるなんて知りもしない、間抜けがな」
「ふ、くくく、なんだい、アンタ、……凹んでやがる、傑作だ! 人を人とも思ってないような振る舞いのごろつきが、なんてケツの青さだ!」
「あぁ? 調子に乗るなよ。そのにやけ面の乗っかった首ひねって、ゴミ捨て場に運んでやってもいいんだぞ」
「ははは、はははは!」
急に、ヌージェンは泣き笑いの表情になる
「イノンとインガさんはね、父親が違うんだとさ。……どういうことか解るだろ? あの子をこの町に売り飛ばしたのは、あの子の」
ゴッチがゾッとするような声を放つ。汚れた冷たい油のような、毒の溶けた泥のような、寒気のするような声だ
「黙ってろ」
顔を上げたヌージェンと、目が合う
「俺が何時、そんなくだらねぇ話をしてくれと頼んだんだ? お涙頂戴なんぞ、聞いても仕方ねーんだよ。お前らは、一々そんな事気にしてんのか?」
「……そうだ、アンタが正しい。全く正しい、本当に」
ヌージェンがまた笑う。ゴッチは、少し信じられないような気持ちだった
この女が自分を見るときは、苛立ちと嫌悪が目に顕れていた。イノンを目に入れても痛くないほど可愛がっていたのだから、寧ろ当然である
打ち解ける、なんていうのは、どうしようもなく嘘くさい話だ。自然と、眉根が寄った
「(何だコイツ、もしかして、…………俺が、マジでイノンにイカれちまってるとでも思ってやがるのか)」
否定の言葉が吐けない。ゴッチお得意の悪態が、思うように出てこない
クソ、と吐き捨てた。童貞かよクソ
どの道、もうイノンには会わないと決めた。もう知らない、知ったこっちゃ無い
休暇は終わりだ。仕事の時間だ。イノンの要らない世界がある。イノンを連れて行けない世界があるのだ
「……ゴッチ、と、何とまぁ、面と向かって名前を呼ぶのは初めてかね」
「あぁ、そうだろうな」
「イノンの所をとうとう叩き出されたって、色町中の噂にしてやるよ。構わないだろ?」
「好きにすりゃ良い。知ったことかよ」
「なら色男、あたしの住処に来ないか。アンタはまともな奴じゃないが、少なくともただの下衆じゃ無い。ミランダローラー様と親しいなら、あたしらも商売が遣り易くなりそうだし」
あっさり言うヌージェンに、悪びれた風は無い。商売の出汁にするにしても、もう少し言い様と言う物がある筈である
「あっさり言うな。下品な奴だなてめぇ」
「あぁ、止めな! アンタみたいな下品な奴に、トチ狂って下品なんて言われた日にゃ、恥ずかしくて表を歩けない」
「裸に剥いて表通りに放り出してやろうか……」
「ふ……で、どうすんだ? あたしは何も、冗談で言ってる訳じゃない」
「……おとといきやがれ」
ざぁ、と風が吹く。篝火が激しく揺れる
「…………ふん、そうかい」
荒い息遣いと、乱れた足音。静寂を破って女が一人現れた。ヌージェンの妹分の一人だ
走りこんできて、ぶっ倒れた。慌てて抱き起こしたヌージェンも、尋常でない様子に声を荒げる
「なんだ、どうした?!」
女は顔を真っ赤にしてゼェゼェ喘ぎながら言う
「ぬ、ヌージェン姉さん、み、み、ミランダに、アヴ、ニールが!」
「あぁ? アヴニール?」
「イン、ガ、さんが、大怪我して、と、屯所に担ぎ困れてて、アヴニールが、きてるって!」
歯を剥き出しに、ゴッチが唸る
「ゼドガンは?」
「あ、アンタ……」
「ゼドガンは? 三度は言わねぇぞ」
「わかんないよ、でも、屯所の方にはいなかった」
馬鹿な、まさか、しくじった訳じゃなかろうな、ゼドガン程の男が
人間、死ぬときゃ死ぬ。どんなに強化手術をしようが、薬を使おうが、死ぬのだ。其処には、まぁ、理由は無い。理由は無くても死ぬ
だが、ゼドガンが死ぬ、死んだ、と言われても、ただ胡散臭いだけだ。ゴッチは肩を竦めた
「え、なに、なんで……」
「……聞いてたのか」
「今、インガが」
イノンが音も無く姿を現した。闇に紛れて、住処の扉が開くのにすら気付かなかった
完全に気が抜けていたのである
「おい!」
「そんな!」
「おい、イノン!」
イノンが走り出す。ヌージェンが声を上げたが、まるで聞いていないようだった
「(すっ飛んで行きやがった。……そうか、そうかよ、クソ)」
「ご、ゴッチ」
「行くぞ。……あぁ、うざってぇ、畜生、行くぞ」
苦みばしった顔で、そうかよ、クソ。もう一度、胸の中で吐き出す
――
ミランダにも、お粗末ながら防壁があり、鉄の門がある。冒険者の町だけあって治安が悪く、その気になれば忍び込むのもその逆も苦労なく行えるミランダで、どれ程の意味があるか解らないが、入出管理だってやっている
その、ミランダ正門に近付くほど、人々は混乱していた。大事件のようだな、と、ゴッチは走りながらあちらこちらに目を遣った
「屯所って何処だよ!」
「門の、直ぐ近くの、白いのが、屯所だよ」
「アレかよ、もう着いてたのか。……へ、たいした有様じゃねーか」
以外にもヌージェンは健脚であった。本当に辛うじてであったが、ゴッチによく着いてきた物である
門の周辺は大量の血で汚れていた。転がっている、衛兵何人分かの手足や、臓物。それと、一体のアヴニールの死体
ヌージェンが凄まじい惨状に唖然となる
「なんだい……こりゃ」
凄まじい形相のミランダ衛兵達が、あちらこちらを走り回っている。ゴッチは視線を走らせて、探したくも無い男の姿とイノンを探した
インガは、屯所の壁に背を預けて座り込んでいた。それに治療を施す衛兵と、泣きながら取り縋るイノン。ゴッチは心持早足に歩みよった
「おい、なんだその様ァ。ゼドガンはどうした」
「ゴッチ」
「下がってろイノン。おい、青瓢箪の衛兵野郎、お前もだ。邪魔だっつってんだ」
イノンを押し退けたゴッチは、手当てを施していた衛兵に睨みを利かせた
ゴッチにガンつけられた衛兵は、鳥肌を立たせて後ろにずり下がる。インガの応急手当自体は、既に完了していた
「乞食、野郎か……。ここから離れろ、直ぐに、アヴニールが……」
「一体じゃねぇのか……?」
「一体なんて、モンじゃなかった。ざっと、五、六体は……」
「ゼドガンは? 何で手前だけおめおめ戻ってきやがった」
「黙れ……! ミランダローラーは、解らない、一体を斬って、もう一体を……。囲まれて応戦しながら、俺を逃がしてくれた……!」
「…………大きいのは、口だけだったみてぇだな。ゼドガンも、運の無い野郎だぜ」
ゴッチは不愉快そうに言って、唾を吐いた。ギリギリ歯を食いしばるインガは、怒りに任せて身を立たせようとする
しかし、立てない。力が入らないのだった。胸に巻かれた血の滲む包帯が、湿り気を増す
「アヴニールだ、来たぞ! 来たぞぉ! さ、三体居る!」
見張り台の上の衛兵が、ひっくり返った声を上げる。場に衝撃が走った。ミランダの野次馬は根性があるのか、悲鳴を上げながらも殆どの者が逃げようとしない
危機に対して、冷静な判断が下せないと言うのは、良くある事だ。逃げるべきであるのに、足が地面に張り付いたかのように動かない野次馬達も、或いはそれなのだろうか
「拙い……。俺の……剣を……」
「無理よ、そんなの!」
ゴッチを押し退けて、イノンがインガの手を握る。
イノンの剣幕は並ではなかった。今の今まで、イノンが声を荒げる所など、ゴッチは見ていない。初めて見た。こんなに、必死になる所を
イノンの横顔を見て、血塗れのインガを見て、夜空を見上げた。周囲に篝火が増設されており、昼間のように明るい。篝火の熱で、肌が焼けそうなほどである。そのせいで星は見えない
門にアヴニールが体当たりする、轟音が響く。衛兵が束になって門を抑えているが、どれ程も持つまい
一歩下がって、イノンとインガの二人を、視界に収める
あーあ、と、大きく息を吐き出して。ゴッチは右手で目元を覆った。ごしごしと俯きながら目をこするゴッチは、冷たい声を発する
「ヌージェン……、アヴニールってのは、どれぐらいヤバイんだ?」
「く、……暢気な面しやがって。どんなにヤバイか、解らないのかい?」
急に話を振られたヌージェンは、焦ったように言う。事実、焦って当然の状態なのかも知れない。アヴニールとやらは三体居て、今もう既に門が破られようとしている
「そうかい、つまり、お前がビビッて逃げ出すぐらいヤバイって事か。宛てにならねぇ情報をありがとうよ、クソッタレ」
どぉん、と一際大きい地響きがした。錆びた鉄のこすれる忌々しい音が響いて、急激に獣臭が充満する
「破られたぞ! 畜生め、構えろぉ!」
視線を回せば、灰色の巨体が見えた。一本角の鬼達が三体、巨大な蛮刀をもって周囲を睥睨している
取り囲む衛兵達と、その中に混じった冒険者達。更にその後ろの野次馬達。アヴニールはそれらをまるで気にせず、無人の荒野を見渡すが如き悠然とした態度で其処にいた
イノンはインガに覆い被さっている。今すぐにでも、アヴニールが突っ込んでくるでも言いたげに
インガを庇っていた
仕方ねぇ、仕方ねぇよなぁ、愛なんてねぇもん俺は
「だせぇなぁ、俺」
イノンが、こちらを向いた。真正面から向かい合って、ゴッチは小さく、笑った。ゴッチの何時も通りの、底意地悪そうな、嫌らしい笑い方だ
「ゴッチ? ゴッチ!」
周囲を、ゾッとするような気配が包む。ゴッチは身を翻して、カチコチに固まった衛兵達を押し退けた
イノンの制止が、聞こえていないかのような振る舞いである。振り返りもせずに、強引に歩いていく
アヴニールは動かない。何故か、ゴッチの方を見ている。アヴニールの内の一体の首元で、何かが輝いている
悪魔の矢だ。脊椎を破って首を貫通している。クソッタレガランレイの呪いが、まだ付き纏ってきやがる
結局、今回のコレは、俺のせいなのかもな。苦笑したゴッチは、とうとう衛兵と冒険者達の囲いを通り抜けて、ゆっくり、本当にゆっくりした足取りで、アヴニール達の前に歩み出た
「な、な、なん」
「黙ってろ、良い子だから」
ガチガチ震えながら口を開いた衛兵の一人は、最後まで言うことが出来なかった
その場に居る皆が、ゴッチを見ている。最高に興奮するシチュエーションだった。見られる快感……じゃねぇ、見せ付ける快感だ、とゴッチは笑い続ける
自己顕示欲を満たすには良い舞台である。顔を右手で覆ったゴッチは、背筋がゾクゾクして、震えてくるのに気付く
全身が力みだした。筋肉が破裂しそうになっている。興奮しているのだ。町の薄暗がりの中で呆としているのでは、絶対に味わえない高揚と快感
顔面を掻き毟る様に、右手をそのまま握り締めた。爪で裂けた赤い肌から、血が滲む
「(燃えてきたぜ、ゴッチ・バベル! パーティータイムだ!)」
笑みを浮かべてガンを付け、左足に体重をかけて半身になり、格好をつける
「あぁー…………るぅああぁぁぁぁーッシャアァァァァー!!!!」
バチン、バチン、と音がした。ゴッチの身体を這い回る、青白い光。今にも暴れだしそうな蛇が、のたうつように、ゴッチの全身を駆け巡っている
次の瞬間に、駆け巡る閃きは濁流のようになっていた。篝火よりも眩い雷光が、何物にも例え難い独特の異音を放ちながら空気を引き裂く
歯を剥き出しにして笑う、雷の獣。獰猛凶悪な様が、強烈な存在感を放つ。ヌージェンが呟いた
「雷の魔術師、そんな……全然、聞いてた姿形と違うじゃないか……」
左手はポケットに。右手は空中に捧げられて、中指をおったてた。FU○K YOU
隼団ソルジャー、ゴッチ・バベル、グレイメタルドールメイア3捜索隊、筆頭隊員
休暇は終わった。ゴッチは、更に口端を吊り上げた
「来いよ、ボディビルダーズ。俺とダンスだ」
――
「ヒャッハァー!」
アヴニールの体格は、人間とは全く比べ物にならない。何せ、ゴッチの二倍はある
巨体で重圧をかけるように、二体が並び立ち、堂々たる構えから鋭く蛮刀を振るう。ゴッチは奇声を上げながらそれに突っ込んでいく
左右から挟みこむような横なぎ。一足飛びに二体の腕の内側、懐まで潜り込んだゴッチは、左右から迫る蛮刀の柄を受け止めた
振らせない。振らせないのだ。アヴニールが虎のように咆哮し、身を震わせて力を篭めるのが解る。だが、矢張り、動かない
「ぐぐぐ……あぁ、オイ、どうしたよ……!」
バチバチと稲光を発しながら、ゴッチは笑った。この状態で放電を行えば、大打撃と言ったところか
しかし、それをしなかった。敢えて力で押し返す
「どうしたってんだコラァァァー!」
二本の蛮刀、二本の構えを、天空に放り投げるように跳ね除ける。灰色をした、筋骨隆々の肉体が泳いだ。がらあきの懐
じゃ、とゴッチの摺足が地面を削る。振り被った右の拳。自慢の拳骨
雄叫びと同時に、それは右手側のアヴニールの腹に吸い込まれていった。岩を殴ったような感触と、ガキンと言うとても肉と肉がぶつかったとは思えない音がする
べ、と唾を吐いた。今ので解ったのだ。中々タフだ
左手側のアヴニールが持ち直して、拳を構えた。鬼同士でも仲間意識はあるらしい。この密着状態でゴッチを斬りたければ、味方ごとやるしかない
思い切り深く身体を沈みこませたゴッチの頭上を、岩のような拳は通り抜けて行った。ゴッチはニヤニヤしながら、アヴニールの腰に抱きつく
「ヘイ、オーガ、欠伸が出るぜ」
そのままするりと腰を胴回りを伝って、背後を取った。力任せの直情的な動きでは、こうは行かない。経験と技術が垣間見える、熟練の動きである
「ジャーマン・スープレックス・ゴッチカスタムと名付けよう」
ゴッチアレンジの、ジャンピングジャーマンスープレックス。人間の二倍の身の丈、八倍の体重は、ゴッチの前では何の意味も持たなかった。アヴニールの腰元を抱きしめて思い切り仰け反り、思い切り飛び上がり、思い切り地面へと叩き付けた
次、腹に一発打ち込んだアヴニールが持ち直していた。流石の耐久力である
蛮刀を持ち上げてギラギラした目を向けてくるアヴニールに対して、ゴッチはべぇ、と舌を出した
倒れ伏す一体の頭を、それはもう嬉しそうに踏み躙る。動かずにゴッチを睨みつけている最後の一体、悪魔の矢に貫かれているアヴニール。こちらにに対しては、ゴッチは手招きするかのように指を動かした
「何で手前、そんなに偉そうなんだ。何で踏ん反り返ってやがる。勘違いしてんじゃねぇぞ」
ゴッチは足の下のアヴニールが動き出そうとする気配を察知すると、ゆらゆらと気負い無く立ち退く
……と、思わせて置いて、動き出す前にその両足を引っ掴む
「あぁぁ?! 良い夢見てるかコラぁぁッ!」
雑草を根から引き抜くような感じで、アヴニールを持ち上げた。遠心力で腕をばたつかせながら、巨体は人形のように踊る。天空に向けてそそり立つ奇妙なオブジェのような、無様な異様を晒した直後に、そのアヴニールは当然の如く重力と、ゴッチの暴力に従って、地面に叩きつけられた
ばりばりばりばりと、稲妻は留まる所を知らない。活性化して電流を垂れ流すピクシーアメーバの細胞は、盛り上がって自壊せんばかりであった
「来いよ、そら、来い! 俺と手前らは対等じゃねぇ! 間違えんな、対等じゃねぇんだよ!」
手招きに応じて、静観していたアヴニールが蛮刀を担ぎ上げた
これで一対三だ。これで良い
これが良いのだ
――
蛮刀を、避けて、すかして、そうすると、身体が泳ぐ物だ
それに合わせるのだ。ゴッチは地を蹴って弾丸のように飛んだ。ゴッチの二本の足が健在である、と言う事は、地面は何処も彼処もカタパルトである、と言う事と同義だ
「サンダァァァー! ドラゴンキィィィィーック!!」
雷を帯びた弾丸の如き蹴りがアヴニールの顔面に炸裂する。アヴニールは漫画のように吹っ飛んで、ミランダの防壁に叩きつけられた
アヴニールが起き上がるよりも早く、肉薄する。次は、足を折りたたんで、眩く輝く膝だ
シャイニングニーである。問題は、本当に光り輝いている事だ。凶悪な青い雷光によって
「サンダァァァー! シャイニングニィィィー!!」
足の裏が突き刺さった顔面に、今度は膝が突き刺さる。アヴニールの後頭部が防壁にめり込み、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた
ゴッチの背後から、凶行を止めんと二体のアヴニールが迫る。先を走る一体が蛮刀を振り上げ、後ろに続く悪魔の矢の一体が突きの構えだ
「おイタすんな阿呆がよぉッ!」
首だけ振り向いたゴッチの、無造作な後ろ蹴りが、正確に先を走るアヴニールの膝を打つ
一瞬動きが鈍った。ゴッチは踊るようにぐるりと身体を回転させて、下に下がってきていたアヴニールの米神に当る箇所へと、拳を叩き付けた。張り手のようにも見えた
ぶあ、と奇妙な風音を立ててアヴニールの巨体が吹っ飛んでいった。悪魔の矢の刺さっている一体が、少しも動揺せずに突きを放つ
首を少しだけ動かした。耳元でひゅ、と音を立てて、蛮刀は、ゴッチの左耳の直ぐ傍を通り過ぎていく
蛮刀は、平気で防壁を割っていた。腐っても石壁である筈のそれに平然と突き刺さった蛮刀、そしてその膂力。ゴッチは、凄絶に笑って、アヴニールの特徴的な角を掴んだ
強力に任せて、引き寄せる。圧倒的な暴力はアヴニールに一切の抵抗を許さず、勇壮な灰色の面を、ミランダの防壁へと減り込ませた。先に習うかのような綺麗な減り込み方である
そして、身を沈みこませて、ゴッチは飛ぶ。もう一つ、蹴りだ
「サンダアァァー! ドラゴンキィィィィーック!!」
悪魔の矢の刺さったアヴニールは、哀れにも防壁に顔面を減り込ませていたのだ。その後頭部に向けて、ゴッチはまるで情け容赦なく、全力の飛び蹴りを放った
アヴニールの角が圧し折れて飛び、亀裂が極端に大きさを増した。飛礫が飛び散り、ゴッチの肌を浅く裂く程の、凄まじい衝撃であった
ゴッチが拳を、蹴りを放ち、宙を舞う度、雷光が瞬き雷鳴が轟く。何度もそれらを受けながら、驚くことにアヴニール達は戦闘能力を残している
死なぬなら、死ぬまで殴れ、アヴニール。ゴッチの雷を纏ったテレフォンパンチが、交互に、何度も、防壁に減り込んだ二体のアヴニール達に突き刺さる
「アヴニールゥ? 知らねぇ! 知らねぇなぁ! 食い物か? アクセサリのブランドか? 手前ら一体何なのか、俺にでっけぇ声で言ってみなぁ!」
殴って、殴って、殴って、殴って、殴った。先ほど張り飛ばしたアヴニールが、懲りずに立ち上がって、ゴッチに組み付く
巨大な二本の腕に抱すくめられたゴッチは、悪鬼の如き形相で後ろを振り返った
きっと、アヴニールは困惑していたに違いない。己の半分程しかない小さな人間を、幾ら持ち上げようとしても、地に張り付いたように動かないのだ
ゴッチに機会があれば、「これが踏ん張るって事だ」と自信満々に語っただろう。ぐあ、と悪鬼が口を開く
「離せぃッ!」
ゴッチが大きく身体を揺さぶると、いとも容易く拘束は解けた。仰け反ったアヴニールに対して、堂に入ったテレフォンパンチが入る。パンチの駄目な見本である筈のテレフォンパンチで、木っ端のように吹っ飛んでいくアヴニール
「るぅぅあぁーッ!」
ゴッチはまた吼えた。獣のように
吼え声と共に、二体のアヴニールの頭部を引っ掴んで、盛大に放電する
まるで雷が落ちたかのようであった。二体のアヴニールが激しく痙攣する。岩のような肌を持つアヴニールも、一応生身であり、生物であるという証なのか、肉を焼くような臭いがした
そこで、背後から凄まじい殺意を感じた。先程ゴッチに殴り飛ばされたアヴニールが、身体を膨らませ、大きく息をし、蛮刀を天高く捧げるように構えている
ゼドガンから感じるような気配すらした。剣豪の気配だ。等と言っても、ゴッチにはそんな物は解らない。何となく言ってみただけだ
ゴッチは無言で走り出した。身を屈め、脇を締めて身体を揺すると、裾からナイフが飛び出した。隼のエンブレムが雷光に煌く
ナイフを身体に引き寄せ、疾走を続ける。一歩、二歩、確実にアヴニールの領域へと近付いていく
そして、踏み込んだ。アヴニールが前に出した右足のつま先から、二メートルの距離。天から降る刃の速さは、ゴッチの想像を超えていた
が、しかし、無意味。ゴッチを両断しようとした蛮刀は、ナイフで容易に逸らされ、地面へと食い込む
同じように、ゴッチのナイフが、アヴニールの首元に食い込んだ。矢張り、生物の肌を抜いたとは思えない異様な感触。岩の如き硬さ
しかしそれでも、生きている奴は死ぬ。死んでいる奴だってゴッチは殺すのだ。生きている奴は、尚の事死ぬだろう。ゴッチはナイフに刻まれた隼のエンブレム目掛けて、思い切り放電した
「この屑肉がぁぁ!!」
びくびくと煙を吹きながら巨躯が痙攣する。そこかしこの血管が膨れ上がり、眼球は飛び出し、猛烈な鼻出血を起こす。腕が曲がり、足が曲がり、そこには冒険者を震え上がらせるアヴニールの威容など、何処にも無い
正に屑肉
ナイフを引き抜いて、その死骸を蹴り飛ばした。ぶすぶすと生々しい音を立てるアヴニールの死骸は、ゴッチにかるく蹴られただけで腕が崩れ落ちるほど、激しく損傷していた
「フッ……フッ……フッ……」
ゴッチは独特のリズムで浅い呼吸を行った。最後に大きく吸い込み、鼻から吐き出すと、悪魔の矢のアヴニールが、弱々しく立ち上がる
「生きてたのかよ」
アレだけ暴れまわって、ゴッチには息を荒げる様子も無かった。平然としているのだ。正に絶好調である
ずりずりと、アヴニールは歩く。蛮刀を持ち上げ、一応の構えを取り、じりじりとゴッチに近付いていく
ゴッチは鼻を鳴らして、首を回し、何時ものように肩を竦めた
最後のアヴニールは、門を背に、ゴッチへと相対している。ゴッチには見えていたのだ
アヴニールの向こう側。鉄門の石壁に寄りかかって興味深げにこちらを窺う、血塗れのゼドガンの姿が
ゴッチが自分に気付いたのを確認したゼドガンは、肩を竦め返した。そして悠々とアヴニールの背中に近寄っていく
気配に気付いたアヴニールが、後ろを振り返ったとき
ゼドガンが無造作に振り上げた大剣が、その頭蓋を割っていた。どろ、と脳漿を零しながら、巨躯は、地に沈んだ
「流石に危うかったがな」
ゴッチはゼドガンに背を向け、歩き出す。衛兵も、野次馬も、誰一人として声を発さない。それどころか、僅かに動くことすら出来ないでいる
ばち、ばち、と名残惜しげにゴッチの身体を這い回る雷が、ゆっくりと消えていった。イノンの前に立った時には、もう跡形も無い
イノンも、インガも、ヌージェンも、唖然としていた。おそるおそる、ゴッチには似合わないが、そう、おそるおそる、イノンの肩へと手を伸ばす
びく、と目に見えてイノンは震えた。ゴッチの手が背中に回る。イノンの震えは強くなる
ぱっと離れる。ゴッチの顔には、矢張り底意地の悪い笑みが浮かんでいた。その隣を、ゼドガンが通り抜けていく
「酒でも飲むか。兎に角今回は儲かった。奢ってやろう」
「頭割れてんじゃねーか。それで飲むのかよ」
「飲みながら手当てするさ」
ゼドガンは何事も無かったかのように歩いていくし、ゴッチもどうでもよさげに着いて行く
「あ、あ、…………ゴッチ……ぃ」
ふと、ゴッチは立ち止まった。居心地悪そうに首を掻き毟ったゴッチは、振り返らずに、再び歩き出すのだった
――
後書
天使とダンスだ!!
推敲したけど大分誤字あるかも