しとしと雨の降る沼地はまともな足場もなく、ゴッチの気分を底辺まで突き落とした
何よりスラックスが汚れるのが痛い。それに付け加え、“異世界”に飛び込んでから出会った数々の危険な生物達は、ここにも居た。しかも一際異彩を放つものが
放っているのは、異彩だけではない。ついでに酷い悪臭も放っているそれは、歩く死体だった
『それだ、その、ゾンビの後頭部に刺さってる三角の石のような物だ。それが怪しい』
ゴッチの足の下でゾンビがバタバタともがいていた。右目が無いし、頭は割れているし、所々筋肉が覗いているし、腐臭がする。間違いなく死体だったが、死体の癖に精一杯ゴッチに反抗している
ぬかるんだ大地に押し付けられているため、少し前まで上げていた品のない呻き声は、ガポガポと言う気味の悪い水音になっていた。ゴッチは嫌悪感を露わにしながらも、テツコの言葉に従って、ゾンビの後頭部に手を伸ばす
「クソッタレ、最悪だ。スーツにコイツのエキセントリックな臭いが付いちまったら、どうしてくれる」
『それよりも病気に注意したほうが良い。病原菌の類を満載しているぞ、コイツ』
後頭部には、太い鏃のような形をした石が突き刺さっていた。ゴッチはそれに手を掛けるが、簡単には抜けない
腐った肉に突き刺さっているにしては、妙に硬い。先のほうに返しでも付いているらしかった
「このボケ! ジタバタするんじゃねーよ!」
ゴッチはゾンビに圧し掛かると、後頭部に足を落とす。ゴキ、と骨を砕いた音がした
首が逝っている。すると、頭の部分は妙に大人しくなったのだが、首から下は大人しくなるどころか、より一層激しく暴れ始めた
死に方をド忘れしたらしい。流石のゴッチも鳥肌を立てる
今度こそ、後頭部の石は抜けた。先ほどとは打って変わって、素直に抜けた
途端にゾンビはピクリとも動かなくなる。テツコの勘は正しかった
『見せてくれ、興味がある。何故こんな石ころ一つで、こうまで死体を動かせるのか』
「勘弁してくれよ……。こんな気持ち悪いモンをよぉ。……大体、そっち側の基本は不干渉なんだろ? 調査なんぞしちまって良いのか」
『うふふ、これはゴッチのサポート中に、たまたまコガラシのカメラに写っただけだ。偶然だよ』
よく言うぜ、とゴッチは溜息を吐いた
何でこんな沼地に入り込んでしまったのか、ゴッチには解らなかった。王都へ向かう街道に、食料になりそうな獲物が全く出現しなかったため、仕方なく道を逸れたのである
魚の一匹捕まえでもしたら、直ぐに戻る心算だった。それがなにやら気味の悪い死体に追い掛け回されて、ここまで入り込んでしまった
「なーんで、こんな野郎に苦戦すっかなぁ、俺は」
『ゴッチが素手で触るのを嫌がったからじゃないか』
「いーや、テツコが『ゾンビを調べてみたいから電撃は自粛してくれ』なんて言わなきゃ、一瞬でケリがついてたね」
調査を続けるテツコから突込みが入った。ゴッチの足元には、ゾンビを殴り倒すのに使用した古木が転がっていた
ゴッチに言わせれば、仕方のない事だった。触りたくないのだから、仕方ないのだった
コガラシが震えた。ゴッチが何事かと見れば、ステルスモードになって懐に飛び込んでくる
『レーダーに反応。何か来る。……済まない、気付くのが遅れた。私のミスだ』
「そりゃ良いが、まさかまたゾンビか?」
『恐らく違うと……思いたいが、どうかな。速度は成人男子の平均的な歩行速度より少し早いくらいだ。サイズはこのゾンビと余り変わらないよ。位置は……背後だ』
ゴッチは古木を拾い上げて、尖った先端を地面に突き刺した
ゆらーり、余裕をたっぷり見せ付けるように背後を振り返る
「成る程、確かに人間サイズだわな」
小雨を受けながら歩いてくる人影があった。全身を覆う黒い布を見て、ゴッチは内心ほっとした。腐った死体を殴らずに済んだのが嬉しかったのである
しかし、人影は怪しかった。言うなれば御伽噺に出てくる魔法使いのようで、ゴッチはこちらでは便宜上魔術師を名乗っているが、目の前の人影の方がよほど“らしい”
黒い人影はゴッチに踏みつけられた死体を見て停止する。ゴッチから、約十歩の距離。その気になれば、瞬きした次の瞬間にはぶん殴れる位置だ、と距離の確認だけして、睨む
「それは貴方が仕留めたのか?」
くぐもった声がした。女の声だった
「あぁ」
「冒険者か? 武器も鎧も身に付けていないようだが」
「待てよ。出会いがしらに質問攻めにすんのが手前の礼儀か?」
目を細くしてゴッチが言うと、黒い人影が頭を下げる
全身すっぽりと黒い布に収まっている為、人物が知れない。最悪、人間でも、ゴッチのような亜人でもない可能性だってあった。此処は異世界である
もし中から変なのが出てきても驚かねーぞ、とゴッチ口の中だけでもごもご言った
「非礼を詫びる。私はダージリン・マグダラと名乗っている。魔術師をやっている」
魔術師
動揺は、呑み込んだ。ゴッチは気のない素振で返答した
「へぇ、そーかい」
「貴方の名は?」
「世の中、聞いたら教えてくれるような善人ばかりじゃねーんだぜ」
「では勝手に呼ぶ」
え、とゴッチは漏らした。予想外の返答だった
ダージリンが少し沈黙する
「貴方は今からゴーレムだ」
「はぁ? 何でだ?」
「黒い服を着ている。それに、そんな感じがする」
ゴッチは眉を顰めた。直感で、何かヤバイと悟った
少しからかって見たら、一刀両断にされた挙句訳の解らないニックネームまで付けられてしまった
感性が、常人とは少し違っていた。というか、黒い服着てるからゴーレムって、どんな展開だ?
「相当図太いっつーか、センスが違うっつーか……、手前、ひょっとして気狂いか?」
軽い皮肉の心算だった。友好的な態度は取れそうに無い。怪しい格好をした相手に、身構えてしまうのは仕方の無い事である
勝手にニックネームまでつけられてしまっては、尚更だ
「可能性としては大いに有り得る」
「…………」
『…………』
「何故黙るのか。魔術師は、そうと聞いている」
至極真剣に語られた答えに、沈黙が、降りた
――
王都から沼地まで来たらしい、ダージリン・マグダラと言う女は、見た目こそ非常に怪しい物の、それなりの地位に就いているらしかった
ダージリンは沼地の外に馬車を待たせていた。ゴッチは王都に戻るのだと言う彼女の馬車に便乗させて貰えることになった
対価は、ゾンビの頭に刺さっていた鏃形の石である
ダージリンの手に渡った石は、どんな手品か鈍い赤色の光を放っていた。ダージリンはそれを様々な角度からしげしげと見詰め、しきりに頷いていた
『……ゴッチ、あの石の事を、それとなく聞いてくれないか』
「(あぁ? 勘弁しろよ…)」
『勘弁って、気になるじゃないか。死体を動かす、赤く光る石。可笑しな事だらけで……うん? どうしたんだ?』
「(……何考えてんのか解らんじゃねーか。読めねーんだよ、コイツ)」
『そんな奴は、“こちら側”にだって沢山居ただろうに』
「(コイツは別格なんだっての。なんつーか、雰囲気がよ。威圧感がありやがる)」
テツコが吃驚したように言った
『ゴッチ、らしくないぞ。怯えているのか?』
ゴッチは応えなかった。石を眺めるダージリンを、油断無く見据えていた
黒い布で全身を包んだダージリンは、ゴッチの視線に気付いていて、何も言わないでいる。本当に気にしていないのか、気にしていないように見せかけた演技なのかは、解らない
ついでに言うなら、コガラシとの密談にも気付いている可能性がある。黙認されているのか
警戒はしていないように見えた。ダージリンが、ふと、声を掛けてくる
「ゴーレム、貴方はまるで野生の獣のようだ」
「……ほぉ?」
「私は奴等に警戒される。怯えられるんだ。私がダージリンだからか、それとも魔術師だからか」
ゴッチには何となく理解できる気がした。野生の獣の気持ちが、だ
解る奴には解る物だ。勝てる相手と勝てない相手が
今、はっきりと理解した。一見そうは見えないが、コイツは何らかの要因で、強い。どんなふうに強いのかは解らないが
「実は俺もそうなのよ。兎一匹出ないもんだから、道中寂しくてよ」
ゴッチに余裕が出てきた。ニヤリと笑みが口端に上る
俺がコイツを意識しているように、コイツも俺を意識している。気の抜けた仕種は、フェイクだ
――
その遣り取りの何処に切欠があったのかは解らないが、ダージリンはよく話すようになった
取り留めの無い雑談をした。この世界の知識が無いゴッチには解らない事の方が多かったが、それでもダージリンの感性が通常と比べてかなりズレているように感じられたのは、勘違いではないだろう
テツコは話の内容に集中していた。石の事も気になるが、“異世界”の情報も欲しいようだった。時折、ノートにペンを走らせる音が、コガラシから聞こえた。前に見せられたジェファソン博士の資料も紙媒体だったが、テツコは電子機器よりも紙が好きらしい
「この石は悪魔の矢と呼ばれている。この石で操られている個体は、死霊兵と呼ばれている。古の魔術の遺産だ」
ふと、鏃形の石の事が話題に上った。コガラシの向こうでテツコが耳を欹てる
「あぁ、そうかい。ふざけた代物だぜ。お陰で胸糞悪い思いをした」
「人の屍を、獣よりも早く、強く、突き動かす魔石。しかし、使い捨てなのか或いは何らかの手法が必要なのか、一度取り外すと二度とは使えない」
「……ひょっとしてあのゾンビ野郎は、他にも居るのか?」
「見た、と言う話なら各地でポツリ、ポツリと出る。熟練の兵士が五人がかりで相手にならないらしい。存在が確認されたら、即座に冒険者ギルドで討伐賞金が掛けられる。危険だから」
「ほぉー、それじゃひょっとしてお前は、あのゾンビ野郎で一儲けしようとしてた訳か」
ダージリンは、首を横に振った
「個人的に悪魔の矢に興味があった。本当は早々出歩くことの出来ない情勢だが、飛び出してきた」
「内乱か」
「そうだ。下らない。下らない敵に、下らない味方だ。面白くない世の中だ。帰ったら、また嫌味を言われる」
「ぶっ飛ばしちまえよ、そんな奴ぁ。魔術師だろ?」
「力に任せる事が正しいとは思わない」
ダージリンがまた首を振った。ゴッチは鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった
「ゴーレムは何処から来た」
「遠い所だ。ここでランディって呼ばれてる所よりもずっと遠い所」
「ここに来たのはつい最近なのだろう、どうやって国境を越えた? 内乱が起きている今、出入国の締め付けはかなり厳しい筈だ」
「さぁな? 俺にも訳の解らん道を進んできたからな。国境なんぞ越えたことすら気付かなかったぜ」
いけしゃあしゃあと言ったものだが、ゴッチ自身、嘘を言っている心算は無い。事実、嘘ではない
それでも、国境どころか世界の境界を越えてきた癖に、よく平然と言うものだった
ダージリンが僅かの間、黙った。ゴッチは、ダージリンが笑ったような気がした
「自由だな」
「王都まで後どれぐらいかかる」
「まだ丸一日はかかる。食事は、こちらで用意する。携帯食で悪いが」
「世話掛けるな」
「悪魔の矢の対価には、不足なぐらいだ」
ダージリンが馬車についた戸を開けて、御者に声を掛ける
少し急いでくれ。そう言うのが聞こえた。ゴッチはこちらも窓を開いて、外の風景を眺めた
馬車は、大きな谷にかかる橋を越えようとしていた。底が深い。谷底を流れる水の勢いは、相当な物である
そのとき、何の脈絡もなく、唐突に橋が大きく揺れた
『ゴッチ!』
「お?」
揺れたと思ったら、今度はどんどん馬車が斜めになっていく
何がどうなっているのかなど、聞くまでも無い。橋が落ちようとしているのだ
『ゴッチ、逃げろ!』
「おぉぉ?! 何が起こった!」
「橋が落とされた」
「そりゃ解ってる!」
「なら何故聞く」
えーいこの馬鹿ダージリンがぁー、と罵って、ゴッチは馬車から飛び降りた。背後にダージリンが続く
馬車は既に橋の中ごろまで渡ってしまっており、そして橋は既に落ちる寸前だった。ゴッチは段々と垂直になろうとする橋の上を必死に走るが、どうしても間に合いそうには無い
ゴッチは橋に拳を突き込んで、何とか掴まる。ダージリンが腰にしがみ付いた。動きにくそうな黒いローブを着込んで、大した根性を見せる物である
御者の悲鳴が聞こえた。落ちたようだった。ダージリンは落ちたな、とポツリ言って、後は気にしていなかった
大したタマだぜ
「テツコ! 何とかなるか?!」
『何とかも何も、コガラシでは何も出来ないよ!』
「しゃぁーねーな」
窮地に於いては、形振り構っていられない。ゴッチの懐から飛び出してきたコガラシを見て、ダージリンがほぉ、と息を漏らす
「矢張り使い魔か。魔術師だったのだな」
「……まぁ、そんなもんよ」
『ゴッチ、どうする?』
「どうもこうもねーよ。ダージリンを背負って、壁にへばり付いてロッククライミングだ。全く、お上品なイベントに涙が出るぜ」
そらいくぞ、とゴッチが四肢に力を込める。体を揺らして勢いを付ければ、谷の壁面への到達は簡単だ
「チャー・シュー・め」
メェェーン! …と言い切る前に、橋の根元がぽっきりと逝った。最後の命綱は、ゴッチがダージリンと共に跳躍するまで待ってはくれなかった
当然、ゴッチの身体は自由落下を始める。突き立てた手が音を立てて抜け、後は頭から真っ逆さまだった
「だぁぁ、あほんだらぁぁー!!!」
ゴッチ達は成す術なく、水の中に叩き込まれた。咄嗟にコガラシを引っ掴んで道連れにする所に、ゴッチの性格がありありと表れていた
因みにこれはテツコですら把握していない事だが
ゴッチは泳げない
――
「……ゴーレム、死んだか? 一応蘇生の努力はするが、死んでいたら諦めてくれ」
ゴッチが何となく暗闇の中でまどろんでいたら、そんな言葉が降ってきた
何事だ、と思う前に胸に衝撃が走った。ゴッチは水を吐き出して、堪らず飛び上がった
「生きていたか」
「手前……何をしたんだ……?」
「溺れた者は、胸を押せば飲んだ水を吐き出すと聞いた事があった。泳げないんだな、貴方は」
「…………ピクシーアメーバは、乾燥に耐え得る能力を手に入れた代わりに水中での活動が困難になった種族だ。泳げねーのは俺のせいじゃねぇよ、クソ。それに大体、端から身構えてりゃ水から這い上がるくらい……不意打ちで落ちたりしなけりゃ、畜生」
ゴッチが独り言のようにぶつぶつ言う。ダージリンには意味が通じなかったようで、首を傾げるような雰囲気が伝わってきた
口の中に残った水を吐き出すゴッチの横に、べちゃり、と水を含んだダージリンのローブが降ってきた
見れば、素顔と体を晒したダージリンが居た。白い髪と白い肌の、先ほどまでとは全く正反対の色をしていた。来ている物まで白かった。唯一、目は赤い
ダージリンが血の色の瞳でゴッチを見る。ゴッチは口笛を吹いた。まだまだ若年に見えるが、大層な美人である。
睫毛が妙に長くて、ゴッチに向ける瞳を色っぽく見せていた
「ここは何処だ? カビ臭ぇが」
「何か、遺跡のようだ。アーリアから然程離れていない位置にこんな物があるとは、今まで知らなんだ」
石造りの通路だった。地下にあるのか酷く薄暗く、光源は壁に張り付いている奇妙な石しかない。その石ときたら、これが何とも不思議な石で、ぼんやりと黄色い光を放っているのだ
建物、と言うよりは、洞穴といったイメージのある場所だった
ゴッチは立ち上がって、バタバタとスーツを叩く。ほこり塗れになっていた
「あの後大量の油と空の小船が流されて、火を掛けられた。吹き飛ばして這い上がろうとしたが、弓兵が居たようで断念した。敵の規模も解らなかったし。暫くは、溺れてもがく貴方を無理やり引っ張って潜っていたんだが、流れに逆らえなくてな。敵の油が流れて尽きるまで耐えられなかった。気付けば、変な穴に入り込んでいた」
「…ふん、命の恩人ってか? …………ケッ、ありがとよ。で、その橋を落としてくれた悪餓鬼どもは何なんだ。ダージリン、手前のお友達かよ」
「私に友人など居ない」
ゴッチが、あーあー、と面倒くさそうに言いながら手をひらひらさせた
「何が狙いだったんだ」
「私が邪魔だったのだろう。私はアナリア王家に仕える魔術師だ。反乱勢力の恐怖の的だからな。件の反乱勢力か、アナリアの裏切り者に類する者達と見て間違いない」
「はいはい、内乱でしたね、そーでしたね。ったく、クソ面倒な事に巻き込まれたぜ」
「私の至近に、居るな、間者が。黙って飛び出してきた事が知れるくらいの、近くに」
取り敢えず、脱出の方策を考えねばならなかった。最も解りやすい物として、外に通じているのであろう水場があったが、ゴッチは水に潜るなんて御免だった。それに、まだ敵がいる可能性がある
油に塗れて火達磨になるのも御免だ。ゴッチは辺りを見回して、言った
「困ったときのテツコ頼りだ。テツコ、どこにいる?」
「貴方の使い魔ならば、ここだ」
ダージリンが、ぽい、とコガラシを投げ渡してきた
ゴッチがあからさまに眉を顰める。嫌な展開だ。それも、思いつく限り最悪の
コガラシは、機能を停止していた
――
コガラシが動いていないのに言葉が通じる、と言うことは、ゴッチの体内のナノマシンが正常に稼動している証拠でもあった
「テツコー? テツコー! ……駄目だ、マジで動きゃしねぇ」
「ゴーレム、貴方も感じないか。この遺跡を覆う気配」
「……?」
ダージリンが、見えない何かを見るように、周囲を見渡した
ゴッチも神経を尖らせた。ゴッチの直感は、SBファルコンもお墨付きを出す天性の読みである
背筋に何かピリピリする物を感じた。肌に張り付いてくるようで、激しい嫌悪を感じさせた
「……なんか、ゾクゾクするぜ。相当やべぇ感じだ」
「この遺跡の何処かに強力な魔力を発する存在があると思う。どんな物かは解らないが、その魔力が一帯を覆っている。恐らく、貴方の使い魔はそれによって貴方との繋がりを絶たれているのだ。同じような事例を聞いた事がある」
「……動かんのはその何かのせいだと? ……確かに、見た感じ傷一つねぇし……」
だが、魔力ってのは、テツコご自慢の最新鋭機にまで影響を及ぼせるモンなのかねぇ
ゴッチはコガラシを転がしたり、引っ繰り返したりして点検した。何処にも損傷したような感じは無い
コガラシが水に浸かった程度で壊れないのは、テツコにきっちりと説明されている。ならば、機能を停止している要因は他にあるとしか思えなかった
ゴッチはコガラシを懐に仕舞いこんだ。テツコのサポートを得られなければ、遺跡からの脱出が困難になるのは目に見えている
しかし、立ち止まってもいられない。ポジティブに行くか、とゴッチは考えて、拳に力をこめる
「しゃぁねぇ」
「そうだな」
「出口を探すか」
「そうしよう」
何といっても、剣と魔法のファンタジーに、ダンジョン探索はつき物である。そう考えれば、逆に心躍る展開だ
――
薄暗い通路をずんずんと進んでいけば、程なくして十字路となった
どうやらゴッチ達が進んでいた通路が主道になるらしく、そこから横に逸れるようにして細い道が続いている。横道は石による舗装がされておらず、土が剥き出しになっていた。妙に湿り気が有る
「息苦しいっつーか、圧迫感を感じさせやがる造りだ」
ダージリンが横道の前に立って、目を閉じる。向かって右の横道でそうしたかと思うと、間を置かず左の横道の前でも同じ事をした
何か考えているようだった。沈黙したダージリンに、ゴッチは声を掛ける
「ダージリン、どうかしたのかよ」
ダージリンがゴッチを振り返って、口に指を押し当てる。静かに、のポーズだ
「何か聞こえる」
ゴッチが、ダージリンに習って、横道の前で耳を欹てた
「げぇ…」
背中に嫌な汗が伝った。微かに聞こえてきたのは、身の毛もよだつ下品な呻き声だ
泣くような、唸るような呻き。ゴッチには聞き覚えがあった
あの酷い臭いのするゾンビ野郎が、全く同じような呻き声を上げていた
意図せず、舌打ちしていた。あの腐った死体に対する嫌悪感は、並ではない
「ご機嫌な死体どもが、寄り集まって合唱会だ。横道の先に複数居るな」
「……死霊兵か? 複数一度に確認されるなど、今までに無い事だ。……遭遇すると面倒。私は、悪魔の矢は一つあれば充分だ。無視する」
「妥当だな。ダージリン、奴等の鼓膜が、腐ってまだ使い物になるのかどうか知らねーが、用心だ。あまり音を立てるなよ」
「心得た」
ダージリンの細い顎が上下するのを見て、ゴッチは歩き出した。ダージリンは切れ者だ。きっと言うまでも無かったろう。要らない口数が増えている気がした
しかし、勢いよく石が蹴っ飛ばされ、大きな音を立てて転がってくる
ゴッチは眉を寄せてダージリンを振り返る
「おい、ダージリン、音立てんなって言ったろ…」
ダージリンが、不思議そうな顔をした。身に覚えがないようであった
じゃぁ誰だよ。視線を巡らせる
そして、ゴッチはダージリンの背後に、見た。薄暗い闇の中で、白く濁った目が輝いていた
死霊兵が居た。ぽっかりと開かれた大口は歯が半分ほど抜け落ちていて、場違いにもそんな所に注目してしまったゴッチは、思わず失笑した
「ダージリン……」
「……あぁ」
「……ご招待だそうだ。合唱会やるにゃ頭数が足りないんだとよ」
屈め! ゴッチが怒鳴ると、察しの良いダージリンは石の床に体を投げ出す
床に激しく接吻し、顔に泥を付けながら、しかしダージリン
「気付かなかったとは不覚だ」
軽やかなステップを踏んで、ゴッチは宙を舞っていた。砲弾のようにかっとんで行く革靴の踵が死霊兵の顔面に突き刺さる。鼻は潰れた。肉体が脆くなっているせいか、顔面の骨も同様に砕けた
頭部を後ろから引っ張られでもしたように、死霊兵は飛んでいく。倒れこんだそれを踏み越えて駆けてくるのは、こちらも死霊兵だ
何体も居る。ざっと見ても、十を越える数が通路に犇き、濁った目で此方を睨んでいた。ゴッチは繰り出した足を引き戻し、回し蹴りに変えて、次に駆け込んできた死霊兵の頭を薙ぎ払った
「げぇ……!」
蹴りの勢いに壁へと叩きつけられた死霊兵。そして、その脇を駆けてくる、これまた死霊兵
今度は三体。ゴッチは柄にもない悲鳴を上げた
「マッハキックだボケが!」
ゴッチの体がぶれて、次の瞬間には死霊兵の眼前に居た。瞬間移動でもしたかのような踏み込みである
三人行儀よく整列した死霊兵が反応するより早く、ゴッチのヤクザキックが真中の死霊兵に炸裂していた。吹っ飛ぶ死霊兵
トーン、トーン、とステップを踏んで飛び上がったゴッチが、またもや蹴る。つま先が向かって右の死霊兵の頭蓋を割っていた
まだまだ、まだまだ終わらない。そこから更に、蹴り足を切り返す
「マッハダブルキックだボケが!」
右の死霊兵を打ち倒した蹴りが、振り子のように反転して左の死霊兵を壁に減り込ませていた。振り子は振り子でも、音速の振り子だ
ゴッチが余りにも肉体派過ぎるので、ダージリンは、ゴッチが本当に魔術師なのか疑いたい心境になっていた
しかし、それは一応置いておき、ダージリンも走り出す。死霊兵は、次々と来るのだ
ゴッチのスーツを引いた。体勢を崩して後ろに下がるゴッチの横で、ダージリンが鋭く腕を振る
「腕の一振りで、ほら、こうだ」
突然、爆風が広がるように青い霧が広がった。三体の死霊兵を包んだ霧は、次の瞬間には収束していく
ダージリンが見えない何かを押さえつけるように、両の掌を床に叩きつける。身を切るような冷気が、ゴッチの体を嘗め回した
「凍て付け」
霧が消え去ると、代わりに氷像が出来ていた。三体の死霊兵だったそれは、凍ってからも下品で、醜かった
完璧にカチンコチンだ。動く気配も無い
なるほど、魔法か。大したもんだ。何がどういう原理で凍りついたのか、さっぱり解らない
ほぉー、と感嘆の声を上げたゴッチだったが、視線の先に、尚も氷像を押し倒して襲い掛かってくる死霊兵達
死霊兵、死霊兵、死霊兵ったら死霊兵
感心している暇は無い。こりゃ駄目だ、とゴッチは呟いて、死霊兵の群れに背を向けた
「鬼ごっこと洒落込むか!」
「ゴーレム、どんな物かは知らないが、貴方の魔術で一網打尽に出来ないか?」
ダージリンが横に並んだ。平静そのままの顔つきで投げかけられた問いに、ゴッチはニヤリと笑って返す
「やれん事も無ぇが、こんなに狭いとお前も巻き添えだぜ」
「私もそうだ。大きくやろうとすると、氷は、大雑把過ぎてな」
二人は並走したままで、全く同じようにスピードを上げた
そのまま、取り敢えず駆け続けた。道はくどいほどに一本道で、事態を打開できそうな物も無い
やりようが無いので、兎に角駆ける
そのまま石造りの通路を駆け続けて、駆け続けて、いい加減嫌になるほど逃げた頃だ
唐突に通路の終わりが見えた。先には広い空間が広がっており、壁の発光する石の物とは違う、青白い光が溢れている
そこに飛び込んで、ゴッチはべぇ、と舌を出した。床も壁も舗装されていない地肌剥き出しの其処は、スペースの半分以上が湖だった。青白い光は、湖の中から溢れ出していた
地底湖。其処から抜け出る為の出入り口は三つあるようだったが、そのどれもが湖の向こう側に存在している
踏み止まって、通路へと振り返った。これだけ広さがあれば良い。巻き込みはすまいと思った
「コイツ持って下がってろ、ダージリン。纏めて始末してやるぜ」
動かないコガラシをダージリンに投げ渡し、怖い顔でゴッチは笑う。両の足を地面に叩きつけて体勢を低く落とすと、その体を雷光が取り巻いた
黄色い光が奔る。ゴッチの手を、足を、体を、縦横無尽に駆け巡る
抑えきれない稲妻が拡散した。辺りを無作為に焼き尽くそうとする稲妻で、目も眩むような光が生まれる
ダージリンの足元にも稲妻が落ちる。キョトンとした表情で、更に距離を取った
「死体が跳んだり走ったりするんじゃねぇぇーッ!!!」
ゴッチが握り拳を突き出した。そこから放たれる、閃光。空気は電気を通さない物だが、通らない物を無理に通すので、轟音が生まれた
通路に向かって延びる光は、一瞬で死霊兵の全てを貫通し、一瞬で消し炭に変えた
圧倒的な熱量で焼き尽くした。後に残るのは灰ばかりであった
「…………」
「…………
「…………づぁー……」
ゴッチが、大きく息を吐いて尻餅をつく
「ちょっと疲れたぜ」
ダージリンに向かってサムズアップした。それの意味が解らないダージリンは、やはりキョトンとしていた
――
「凄い。雷を操るのか。死霊兵などどれほど居た所で問題にしない、圧倒的な力だ。素晴らしい」
「まぁな。お前の氷だって、中々イカしてたぜ」
「イカしてた…? 察するに、褒め言葉のようだな……」
指先からバチバチと電流を迸らせながら、ゴッチはダージリンの賛辞に応えた
ダージリンの目は余りにも真剣だった
ちょっと前は、「力に任せることが正しいとは思わない」なんて平和主義者ぶった事を言っていたが、コイツは力の重要性をよく解って居やがる。ゴッチは、そう思った
平静で居ることを旨とし、殆ど表情を変えないダージリンが、“この世界”の只人とは逸脱しているらしいゴッチの力には、好奇心を隠そうともしない
怯えるのでも、無視するのでもない。かといって媚びるのでは、断じて無い
持たざる物の目だ。欲しがる者の目だ。求めているのは、力だ。何故そんな目をするかは、知らないが
息をするように欲しがる。そんな感覚は、ゴッチにも覚えがあった。渇望している奴は、何をやっても強い物だ。ゴッチは、それを経験で知っている
多分、俺が思う以上に、強ぇーなコイツ
些か飛躍し過ぎで、突飛な想像だったが、SBファルコンの御墨付の直感は、その思い付きが強ち間違いではないと告げていた
「……へ、色っぽい目をしてんぜ、お前」
ゴッチは、ダージリンに手を差し出した。ダージリンがきょとん、とする
強引にダージリンの手を取ると、ゴッチは満足げに握った。偉そうにも、見所の有る女だ、とダージリンを批評していた
「俺の国での挨拶さ」
ダージリンの手がするりと逃げる。ゴッチの掌の、がさついた感触の残るそれを見て、ダージリンは呟いた
「そうか、……私と貴方は、対等だったな」
あん? とゴッチは首をかしげた
――
二人並んで湖を眺めていた。青白い光は美しかったが、最悪の場合ここを泳いでいかねばならないのだと思うと、ゴッチは眉を顰めざるを得ない
「一応聞くけどよ……お前の氷でカチーンとやっちまえねーか」
「ただの水なら出来るが」
出来るのか? とゴッチが喜色を浮かべたが、湖の傍ににじり寄ったダージリンの言葉で、それは落胆に変わる
「これはただの水ではない。私の魔術が作用しない水だ」
「出来ねーのか……。どんなのなんだよ」
ダージリンが人差し指を湖に差し込む。直ぐに、引き抜いた
ごお、と激しい音を立てて、その指が青い炎に包まれる。ダージリンが鋭く手を振って、炎を払った。額には冷や汗が滲んでいた
「間違いない。コバーヌの炎だな」
「説明頼むわ」
「…………不老不死の秘薬の原料になる、と言われているが、精製に成功した者は、私の知る限り居ない。人でも何でも溶解する性質を持つ、危険物だ」
「溶解だと?」
「貴方は“不老不死”ではなく、そちらに反応するのだな」
ダージリンが後退りした。しきりに突っこんだ指を気にしているが、溶けた様子は無い
自前の魔術だか、魔力だかでどうにかしたようだった
「溶けちまうのかよ、オイ」
「溶けるな。仮にゴーレムがここに飛び込んだとしたら、蒸発して消滅するまでに、瞬きするほどの間も掛かるまい。そして溶けた物は全て、“見えざる力”としてコバーヌの炎の中に蓄積される」
「嫌な予測データだ」
「?」
「確かに危険物だぜ。超特濃硫酸って訳か。こりゃ、泳いでいく訳にもいかねぇわな」
ゴッチは壁を恨めしげに見た。壁は脆い砂の塊のようにも見え、張り付いていくには不安が残る
硬い岩であれば利用するのだが、砂では無理だ。万が一落ちれば、そのまま蒸発だ
こうなったら、壁でも走るか。真剣に、ゴッチは思う
ここで何でもない事のように解決策を出したのは、頼れる魔術師、ダージリン・マグダラであった
「では、飛んでゆこう」
ひょい、と腕を一振りすると、白い霧が空中に集まる
冷気が渦を巻いて、辺りを冷やした。巻き上げられた砂埃にゴッチが目を覆うと、ダージリンから声が掛かった
「準備は出来た」
空中に平たい氷の塊が浮かんでいた。どういう理屈で浮かんでいるのか、当然の事ながら、ゴッチには全く理解できなかった
ほぉー、と声を上げるゴッチを尻目に、ダージリンが跳躍して氷塊に飛び乗る
手招きに応じてゴッチが後に続けば、ダージリンがまた腕を一振り
二メートルほど先に、同じようにして氷塊が出来上がった。また、ダージリンが率先して飛び乗る
矢張りゴッチが後に続く。すると、不要になった後ろの足場は霞のように霧散していった
「こりゃ良いぜ、楽だ」
「見た目ほど楽では無いんだ、これでも。かなり集中力を使う。私は、まだまだ修行不足だ」
「そうなのかい。だがまぁ、無事に渡れるなら構いやしねぇ。この調子で頼む」
私は少々構うのだがな、とダージリンは呟きつつ、次々と足場を作り出していった
そのまま、広い空間の半ばまで渡ったときだ
下を注意しながら進んでいたゴッチは、“コバーヌの炎”の湖に、僅かな波紋が広がっているのに気付いた
異変を感じた。湖は、ゴッチ達がここに到達してから今まで、少しも揺れていなかったように思う。水の流れが無いのは、どんなに目が悪い奴でも気付く
では、何故波紋が広がるのか。ゴッチはダージリンを呼び止める
「オイ、何か奇妙な事になってねーか」
「何が?」
「下だよ、下」
「下?」
ダージリンが下を見下ろすのと示し合わせたかのように、湖の中から飛び出してくる物があった
ほんの一瞬、刹那の間だけ、ゴッチはポカンと口を開けて呆然とした。湖から飛び出してきたのは、何かの頭蓋骨だったのである。しかも頭蓋骨だけの癖に、ゴッチとダージリンを二人併せたより大きい
「な、なにぃぃーーッ?!」
妙に鼻が突き出た頭骨だった。サイズからして人の物とはかけ離れているが、形状もそうだ
歯の無い口をこれでもかと開いて、真下から襲い掛かってくる。意図せずして二人は、全く同じ方向に跳躍して逃げていた
ダージリンが目を見開きながら、新しく足場を作り出す。集中が足りなかったのか、作り出された氷塊は、かなり歪でしかも小さい
ダージリンは何とか足場に乗ったが、ゴッチは滑り落ちた。渾身の力でしがみ付いたのは言うまでも無い。何せ、落ちたら瞬く間に蒸発である
氷塊をよじ登りながらゴッチは頭骨を睨み付けた。ガパガパと、下品な咀嚼の仕方で氷塊を噛み砕いた頭骨は、自由に空中を飛びまわりながらこちらを窺っていた
「ゴーレム、流石にアレは奇妙どころの話ではないぞ」
「俺だってあんなヤベェのが出てくるなんざ思ってなかったっつーの」
「しかし、それ以前にアレは……」
「し、知っているのかダージリン」
ダージリンがビュンビュン飛び回る頭骨を睨む。ゴッチは体勢を低くして跳躍の準備をした。何時また、無軌道な突撃をしてくるか解らない
「竜の頭骨だな。かなり大きい。生きていた頃は、伝説として残っても可笑しくないほどに、齢を重ねた強力な竜だったことだろう」
骨竜が、空中で静止して大口を開いた
頭部だけのそれに、当然喉など存在していない。声帯どころか肉の一片も無い
無い、筈なのだが、骨竜は咆哮を上げた。腹の底まで響いてくるような、恐ろしい咆哮だった。一瞬とはいえ、豪胆で鳴らすゴッチの体が硬直する程に
伝説級の吼え声って訳だ。ゴッチは誤魔化すように、ニヤリと笑う
「腐った死体の次は骨の竜か、全く、マジでファンタジーだ。退屈してる暇がねぇや。……俺がやるぜ、ダージリン」
「頼む。足場を維持しながらアレを攻撃するのは、私では無理だ
ビビッたら、腹が決まった気がした。怒りが込み上げてくる
ゴッチはビビッたらいけないのだ。相手が誰だろうが、悪態を吐いて唾を吐き掛ける。それぐらいの事が出来なければいけないのだ
相手が神様だろうが王様だろうがそうだ。ちょっと吼えられたぐらいで硬直してしまうような奴は、地面に穴でも掘って引き篭もっているのがお似合いである
「……お前、面白ぇがよ、調子に乗るなよ、カルシウム野郎」
ゴッチは咆哮した。言語としての意味を持たない叫びは、まるで獣の咆哮だった
骨竜が反応してか、こちらも再び咆哮する。ゴッチと、骨竜、双方のやかましい叫びで、脆い壁面からパラパラと砂が落ちた
「ゴォォオラアアアァァーッ!」
『ゲエエエエエェェェェーッ!』
骨竜が突進を仕掛けてくる。ゴッチは真正面から迎え撃つ。ダージリンが、小さい足場をゴッチの為に広く、固く補強してくれる
握り締めた右拳と骨竜の鼻が激突した。パン、と軽く弾けるような音がして、後退したのは骨竜だった
ゴッチの体が仰け反る。骨竜の突進は、思っていた以上に重く、強い。反動を力尽くで押さえつけて、ゴッチは仰け反った体勢から拳を振る
骨竜の突進は続いていた。弾かれて、再び突撃してくる鼻面に、またもゴッチの拳
弾かれては、突撃。弾かれては、突撃。辺りに響く音は、パン、と言う軽い物からゴン、と言う鈍い物へと変わっていく
ゴッチは意地で拳を振っていた。握り締めた右拳で骨竜を迎え撃つ度、反動で体が仰け反る。そして仰け反った身体を力で押さえつけて、また拳を振る
何度も何度も何度でも迎え撃つ心算だ
今まで数多の敵をこの拳骨で捻じ伏せてきた。来る日も来る日も、鍛えて、鍛えて、来る日も来る日も、殴って、殴って
自慢の拳骨だった。拳を一旦握り締めたのなら、最早敗北は許されない
この握り拳と骨の竜、音を上げるのはどちらだ
「手前がくたばるのが先だぜ」
何度打ち合ったか解らない程の激突の後、ゴッチは拳を大きく振りかぶった
そして、氷の足場を、ぎっちりと踏みしめる両足。しつこく突っこんでくる骨竜を、ギロリと睨み付ける
目の前に、一本ピシリと線が通った気がした。ゴッチにだけ見えるその線をなぞるようにして、自慢の右拳は、骨竜へと炸裂した
「手前より強ぇんだ、俺のがよぉぉーッッ!!」
先ほどまでとは一味違う一撃だった。骨竜が大きく弾き飛ばされる
氷の足場が、ゴッチによって踏み抜かれてしまっていた。粉々に砕けてはダージリンも維持できないのか、慌てて新しい足場を作り出し、ゴッチに呼びかけながら、彼女は其処に飛び移った
新しい足場に危うくぶら下がりながら、ゴッチは笑う
「へ、どーよ」
「……さて、どうかな」
――
骨竜が、鳴いた。空ろな眼窩の闇に、赤い光がともる
ぼんやりと、赤い光が尾を引いた。闇から滲むような赤に、ダージリンは得心したように頷いた
「あの竜の頭骨、悪魔の矢が刺さっている。幾ら死した後の骨とは言え、あれほどの竜を操るとは」
「何でもアリだな、お前の研究対象は」
「嫌な気配がするぞ。辺りが震えている。土も、水も、空気も」
赤い光をゆらゆらさせながら、骨竜は再び空中へと舞い上がる
ゴッチは両の手をぶらぶらさせた。何回だってきやがれ、何回だってぶっ飛ばしてやる、そう思った
骨竜が鳴く。ビリビリと震える声で、鳴く。ダージリンが呻いて、米神を押さえた
「ゴーレム、危険だ」
コバーヌの炎から、何かが飛び出した。またもや、骨だった
しかし、竜の頭骨と言う訳ではない。大小様々の、色んな部位の骨が、幾つも幾つも飛び出してくる
竜の骨格だった。赤い光を目指して宙を舞う骨達は、思い思いに重なり合って、着々とその全容を現していく
ゴッチは、余りの事態に唖然として見ているしか出来なかった
僅かばかりの沈黙。十を数えるか数えないかの内に、ゴッチとダージリンの眼前には、巨大な骨の竜がその全身を取り戻し、高らかに咆哮していた
「おい、どうなってんだおい。ちょっと前まで頭しかなかった出来損ないが、見違えちまったぜ」
骨竜が全身をカタカタ鳴らせて尾を振った。鋭く風を切る音と共に、ゴッチの頭上を通過。骨の尾は壁面にめり込んで、砂煙を上げていた
ゴッチは何気なく頭を撫ぜる。前髪の一部が消し飛んでいた
「…………」
「…………」
「…………」
ヤバイ、タンマ。やっぱ、勝てない相手も世の中には居るわ。ゴッチは息を大きく吸い込んだ
「…………ダァァァージリンッ! 足場を作れぇぇぇーッ!」
ゴッチは、問答無用でダージリンを抱き抱えた。突然の事態に驚いたダージリンであったが、彼女は冷静にゴッチの言葉に応える
俗に言うお姫様抱っこの体勢で、ゴッチはダージリンの命を預かった。足場を作る事だけに専念させる
先ほどまでと比べ、かなりの早さで足場が次々生み出されていった。ゴッチはダージリンをしっかりと抱きしめて、次々と足場を飛び移っていく
「ダージリン、俺とお前は会ったばかりだが、今は俺を信じろ! どんな事があっても落っことしたりはしねぇ! お前は足場造りに全力を尽くせ!」
「……解った、貴方に任せるぞ、ゴーレム」
飛び移る端から、骨竜の尾が氷塊を砕いた。僅かでもその場に止まる事があれば、それは死を意味する。コバーヌの炎の湖に叩き込まれ、溶けて消えるか。それとも、全身の骨を砕かれ、内臓を吐き出して死ぬか。どちらにせよ、死ぬのには変わりない
氷の足場は無規則的に生み出される。骨竜を惑わすように飛び跳ねながら、ゴッチは意を決した
「…く、流石にこうも大量に、休みなく生成していたのでは、私の方が持たない…」
「逃げられん、前に出ろ、後退に活路はねぇ!」
ゴッチが叫び、ダージリンが疲れ切った体に再び気合を込めた。複数の氷塊が一度に作り出される。それは骨竜に向けて整列し、唯一の道となる
ゴッチは踏み砕け、とばかりに足場を蹴った。骨竜への四つ目の足場へと到達した時、頭上から尾が降ってくるのが判った
「下だ!」
宙に浮ぶ骨竜の下を潜るように大き目の足場が形成された。ゴッチは出来るだけ体勢を低くして、背中でスライディングするように其処へと滑り込む。ダージリンに怪我を負わせて集中を乱さないよう、極力気を使った挙動だ
そしてダージリンを抱きしめたまま、ごろごろと横に転がって足場を放棄し、自ら落下する
示し合わせたように、また足場。其処に着地したゴッチは、膝をついてニヤリと笑った
目の前には黒い闇の中へと続く通路があった。三つあった通路の内の、一つだ。幅は先ほど通ってきた通路よりも狭く、どう考えても骨竜が通れるサイズではない
何時しか、目的の場所に到達していたのだ。ゴッチは迷うことなく、通路に向かって身を投げる
次の瞬間、通路に骨竜の頭部が食い込んできた。力任せにぐいぐいと押し込んでくるが、頭の大きさが既に通路よりも大きい
ゴッチは、ダージリンをお姫様抱っこしたまま尻餅をついていた
狭い通路に鼻っ柱を突っこんでガジガジやっている骨竜を、意地悪く見やる。ゴッチは、勝利したのである
「ハハ、頭蓋骨を整形しなきゃな!」
必死にこちらへ食いつこうとしてくる骨竜に、ゴッチは下品に中指を立てて、嘲笑を向けた
――
で、また、逃げる
別段追ってくるものなど居はしなかったが、それでも壁をガジガジ削る音と、腹の底まで響くような吼え声は気分の良い物ではない
気が狂ったような高笑いを上げつつ疾走するゴッチは、走り続ける内に、ふと自分がダージリンを抱きしめたままなのを思い出して、立ち止まった
「……どうした? ゴーレム」
「どうしたじゃねーよ。よくよく考えりゃ、何時まで俺に抱えさせてんだ。自前の足二本使って歩け」
「問答無用でここまで走ってきたのは貴方だろう」
ゆっくりと、ダージリンが足場を確かめるように地面に降り立つ
土を押し固めた上に、舗装された名残らしき石の残骸が散らばっている。酷く、荒れていた
壁は地底湖のあった空間の物と同様、砂のように脆い。あの一室を越える前と今では、通路の見てくれは大きく変化していた
ダージリンが後ろを振り返る。遥か後方では未だに骨竜がガジガジやっているのかも知れないが、此処に至っては音も聞こえない
「私と、貴方ほどの魔術師の二人掛かりで、逃げるしかないとは。世の中は広い」
「待てよ、勘違いすんじゃねー。俺は負けてねぇぞ」
「誰も敗北だとは言わない。私も貴方も、生きている」
「そういうこっちゃねーっての。……次やるときゃ、コバーヌの炎の外側に引き摺りだして、健康そうな骨全部圧し折ってやらぁ」
次? ダージリンは首を傾げる
今は退いただけか。何れ戻ってきて逆襲する気なのか、とダージリンは尋ねてくる
しかし、ゴッチが応えるよりも早く、ダージリンは納得したように頷いた
ダージリンにしてみれば、己がゴーレムと呼ぶこの男がやられっぱなしで終わるよりも、凄まじい復讐心を燃やしてやり返しに来る、と言うほうが、よっぽど自然で、違和感なく感じられるらしかった
「ふ、ふふふ、……なら、まずは脱出しなければな。急がねば、魔力消耗での疲労は後からジワリと来るのだ」
「…………あぁん? ダージリン、お前、もしかして今、笑ったろ?」
ダージリンは応えなかった。顔を背けるようにして、ゴッチの前を歩き出す。ずんずんと歩いていく
「おいおーい、笑ったろ? 笑ったんだろぉー? ケチケチすんなよ、恥ずかしい事じゃねーって」
ゴッチはニヤニヤしながらダージリンの後を追いかけた
どんな鉄面皮に見える女でも、美しい微笑を隠し持っているのは、テツコで実証済みだった
――
出口とはとても言えない、外へと繋がる希望を見つけたのは、それからまた暫く歩いた時だった
進めば進むほど通路の損傷が激しくなり、終には壁に埋め込まれた発光物体すら見かけなくなった頃だ
暗闇の中を並んで進むゴッチとダージリンは、壁面に開いた僅かな穴から入り込む日の光を見出した
「一cmくらいか、このサイズだと」
「? ……貴方の故郷の単位か? こちらでは、丁度このくらいの大きさを、一リナと呼ぶのだ」
「へぇ」
どうでもよさそうな返事を返して、ゴッチは穴を覗き込んだ
光が差し込んでくるだけで、外の光景までは見えない。どうやら壁の厚さ自体はかなりあるらしく、どう言った原因があるのかは知らないが、一cmサイズの穴が、綺麗に貫通しているようだった
「ここだけ、得体の知れない魔力の気配が薄い。間違いなく外に通じている。……む」
ダージリンが呟く。懐がもぞもぞ動いたらしく、コガラシを引きずり出した
コガラシの電球が明滅を繰り返していた。電波状況が悪くて、繋がったり繋がらなかったりする携帯電話のようだ
ゴッチは笑って、コガラシを受け取った。ダージリンを一目見れば、激しく疲労しているのが判る。この遺跡に潜り込んでからの騒動で、ゴッチ以上に消耗している
だがしかし、ゴッチは甘くない
「ダージリン、頼めるか」
まぁそれでも、ゴッチらしくなく、幾分かダージリンに譲った口調になるのは、致し方ない事であった
何でもない様に振舞うダージリンは、一歩前に進み出て、細い穴に手を添える
何時もの様に空気が冷えて、ダージリンの掌に氷柱が出現した。先端は穴に食い込む一cmサイズであるが、後方になるにつれて太くなっていく。大体一m程の長さで、極端に太い最後尾は、ゴッチの胴体ほどもあった
「ゴーレム、殴ってくれ」
成る程、頭が回るもんだ。ゴッチは口笛を吹いて、ダージリンの背後に立つ
「どいてな、ダージリン」
そして大きく振り被ると、全身を撓らせて拳を繰り出した
「おぉらぁーッ! コイツでおさらばよぉーッ!」
氷柱の尻を殴るゴッチの超人的膂力で、氷柱は土の壁を貫いていく。小さな穴に大きな棒を通して、力押しで壁に亀裂を入れようとしていた
一撃で、約十cmほど氷柱の先端が埋まった。氷柱の強度を考えて手加減したが、ゴッチの思う以上に、ダージリンの魔法は精巧で、頑強であった
これならば、更に力を篭めても問題ないだろう
ぎゅう、と握り締めた握り拳。自慢の握り拳。脆い壁に氷柱を打つくらい、出来なくてどうする
拳は、鋼のように固かった。鋼の拳が、もう一度氷柱の尻を叩く
「開いたかオラァーッ!!」
壁が割り開かれて、細かい罅が無数に走った
――
「ダージリン? ……なんでぇ、気絶してやがらぁ」
人一人が這いずり出るのに充分なほど穴を広げて、ゴッチは背後を振り返る
ダージリンは、壁に背を預けて目を閉じていた。白い頬に泥が付着して、美貌を損なっている
魔力とやらを使い果たしたか。ゴッチは、コガラシを取り出して、揺さぶる
『……ゴッチか? 無事だな。まぁ俺も、お前がくたばるとは思わなかったが』
「ファルコン?! ファルコンか! 当然だろ、俺を殺せる奴なんて、どっちの世界にだって居るかよ」
ぶぶぶぶ、と奇妙な振動と停止を繰り返して、コガラシは宙へ舞い上がる
聞こえてきた声は、テツコの物では無い。SBファルコンの低い声音が、労わるように響く
『だが、……流石に少し焦ったぜ。お前は水が苦手だからな』
「ファルコン、別に俺は泳げない訳じゃねーぞ」
『はっはっは、そう言う事にしといてやる』
「けぇー……。まぁいーぜ、テツコはどうしたんだ?」
『博士なら、お前の救出隊の投入を、上と掛け合ってる最中だろうよ。俺は心配ないと言ったんだがな』
「……ケ、違いねぇや。アウトローが政府機関に救助されるなんぞ、笑えもしねぇよ」
全身の緊張が抜けていく思いを、ゴッチは味わっていた。駄目だと思いつつも安堵してしまっている自分がいた
無意識に笑みが浮ぶ。くっくっく、と、堪えきれない笑い声が、陽光の差し込む通路に響いた
「……ゴーレム……? 済まん、寝ていた……。道は、開いたのか……?」
ダージリンが、とろんとした目をこちらに向けていた。辛うじて起きているが、再び目を閉じれば、その瞬間に気絶するだろう事は間違いない
「あぁ、心配いらねぇ。万事上手いこと行った。お前のおかげだぜ」
ゴッチはダージリンの傍に膝をついて、サムズアップした
ダージリンは目を閉じる。口元は薄く、しかし隠しようも無く、確かに微笑んでいた
「ゴーレム……後は貴方に任せる」
『……やれやれ、相変わらず手が早いな、ゴッチ』
「ファルコン、何だよ、それは」
『何もないさ。ただ、ガキは作るなよ。セックスぐらいなら俺が揉み消してやるが、お前が現地人と混血児まで作っちまうと、流石に親子纏めて消されかねんからな』
ゴッチが、面倒そうに頭を掻いた
「馬鹿馬鹿しい。下らねーぜ」