一人暮らしを始めるうえで覚悟していたことが一つある。それは……奴との対決。奴ってのは、つまり黒くてテカテカしたアレのことだ。俺はアレが物凄く苦手で、もし奴と相対して仲間が『ここは俺に任せて先に行け!』なんて行ったら、これ幸いと『はい喜んで!』と居酒屋のノリで置いて逃げる、それくらい苦手だ。見た目も、生態も、羽音も……全てがおぞましい。だってアイツら意味が分からない。顔なくなっても生きてるとか……んで死ぬのが餌食べられなくて死ぬとか……マジ怖い、理解不能。ん、そういうえば愛と勇気が友達の人も顔なくなって生きてるよな……あの人も怖い!実家にいた頃、アレが出た時はウチの頼もしい妹ちゃんが無表情で踏み潰してくれていた。俺は妹ちゃんの背後で『これが人間様の力だぜ!』ってはやし立てるのが仕事だった。その後妹ちゃんが足をこちらに向けて『汚れてしまったので、綺麗にして下さい』って言われて足をぺろぺろするのも仕事だった(こっちは妄想)だが、今は違う。今の俺は一人暮らし。正確にはエリザとの二人暮らしだ。もし仮にアレが出たら、俺はなんとかしなくてはいけないだろう。か弱い女の子であるエリザにやらせるわけにはいかない。俺がやるしかない。そうやって覚悟を決めていたある日、とうとうアレが現れた。正直今まで一度も遭遇しなかったのは、奇跡かもしれない。アレはどこにだっている。いくらこの部屋がエリザによって、綺麗で清潔に保たれていても、だ。奴らはどこにでも蔓延し、人の生活領域に侵入してくる。アレは仰向けで漫画を読んでいる、俺の腹の上に落ちてきた。「……?」最初『とうとう俺の元にも空から落ちてくるヒロインが現れたのかしたら?』なんて思った。それが現時的思考でないと思い、じゃあエリザちゃんが膝枕ならぬ腹枕でも求めてきたのかな?とか思いつつ穏やかな表情で腹の上を見たら……アレがこちらをジッと見つめていたのだ。黒光りする体躯、蠢く触覚……アレ、ゴキさんが。思わず俺の心の中『いつでも帰っておいで』区画にある海の家れもんに逃げそうになった。でもたかがGさんがお腹の上に落ちてきただけで妄想の中に逃げてたら、イカちゃんに嫌われれる、そう思って踏みとどまった。そして俺がここで気絶したら、次はエリザが標的になる。エリザとイカちゃんの為、俺は命をかけて踏みとどまった。今にもディラックの海に入水自殺しそうな意識を必死で止め、台所で洗い物をしているエリザに声をかけた。「……エ、エリザー。ちょっと新聞紙取ってくれるかな?」冷静に、慌てず、騒がず。手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に……俺の心の先生の言う通りに。「んー? なに辰巳くん?」エリザが台所からこちらに視界を向ける。瞬間、その動作に反応したのか、Gさんが羽を広げて飛び立った。――エリザに向かって!「え? にゃわぁぁぁぁぁぁー!?」自分の顔に向かってくるGさんに恐怖から悲鳴をあげるエリザ。悲鳴と取り落とした皿が割れる音が響き渡る。まずい。このままではエリザが大変なことになってしまう。具体的にはGさんに驚いたショックで転倒、皿洗いに使っていた泡が飛び散りエリザの顔にかかり、卑猥な一枚絵が――!それはそれでいいんじゃない? 心の中の悪魔が囁く。適度なエロスは天使的にもありですよ? 心の中の天使も囁く。ただ、それでも――俺は嫌だった。例えラッキースケベ的な展開を否定してでも……エリザにはいつも笑っていてほしい。悲しい顔なんてしてほしくない。俺はエリザと初めて会ったあの日、彼女が泣きながら言った『一人は寂しかった……』その言葉を聞き、ずっと彼女の笑顔を守っていこうと思ったのだ。「――!」Gさんがエリザの元に辿り着くまで、殆ど猶予がない。それこそ刹那。俺の体は驚くほど軽く、そして俊敏に動いた。立ち上がり、すぐ傍にあった漫画雑誌を手に取り丸める。そしてGさんを追い越しエリザの前に立つ。その動作をほぼ同時に行えた。普段の俺からは考えられない動き。人間の可能性。人は本当に守りたいものができた時、その可能性が開花する。「た、辰巳君!」背中からかけられるエリザの声。守らなきゃいけない。戦わなければ守れない。今まで闘争とは無縁の人生だったけれど。闘いの本質が理解できた。闘うことは守ること。守る為に戦うのだ。この本質は決して間違ってなんかいない。だって今の俺は、こんなにも力が溢れてくる――心の奥の熱、信念から。Gさんは耳障りな羽音を響かせながら、俺の元へ向かってくる。顔に。俺は正眼に丸めた雑誌を構えた。Gさんが俺の射程距離に入る。「――シッ!」体が自然に動いた。腕を動かす動作、腰を捻る動作、踏み込む動作――まるで昔からこの動きを知っていたかのように。それは記憶を参照した動き。……記憶?俺にそんな記憶はない。武器を持って闘った記憶なんて……ない、はず。いや、記憶の奥、もっとも原初の記憶、赤子の頃の更にその奥に――その記憶はあった。闘争の記憶。剣を奮い、魔力を放ち、荒野を駆け抜けた記憶が。……なんだこの記憶は。矛盾している。赤子の前? そんなのまるで前世……前世? 前世の、記憶?それを自覚した途端、原初の記憶の奥にあった枷が外れ、膨大な量の記憶が流れ込んできた。溺れそうになりながら、その記憶に触れる。前世、四天王、魔界、勇者、深淵……深淵の……リクルス。そうか、そうだったのか……、今全てを理解した。俺の存在、この世界での意味を。ゴキブリは恐らく自分が斬られたことに気づくことはなかっただろう。それほどに速く、そして鋭く、現実離れした剣の軌跡だった。魔法のような。それを俺が……行ったのだ。奇跡も、魔法も……あったのだ。「た、辰巳君? 大丈夫?」背中からかけられたか弱い言葉に、振り返る。少女、エリザがこちらを気遣うような表情で見つめていた。彼女を守る。この力で。俺はもう二度と失わない、大切なものを。二度と離したりしない。どこにもいかないよう、しっかりと抱きしめる。「へ? あ、え……は、はわぁ!? た、辰巳君!? ど、どうしたのいきなり!? こ、こんなお昼から、こ、こんなの……だ、だめだよ……」やんわりとした拒絶の言葉を吐きながら、体をこちらに預けているエリザ。俺は彼女の頬を手を当て、その唇に――■■■「……めだよ辰巳君。辰巳君ってば!」ん? んん?おかしいな。急に真っ暗になったぞ。え? もしかしてコンシューマー版? 暗転して事後? ンモー、こんなの絶対おかしいよ!これから俺とエリザのちゅーちゅートレインが出発するところだったのに、そこをカットするとかなに考えてんだよ!責任者出てこい! こんなの、俺が許さないぞ!「たーつみくーん! 起きて、もう起きてよー!」待ておかしいな、色々混乱してる。一体何が起こったんだ?取りあえず目を開けてみる。「あ、辰巳君! よかったー……もう心配したよ」視界に入ってきたのは、ドアップのエリザの顔。あれ? やっぱり事後? キンクリしたシーンは後に出るPC版で?「辰巳君、大丈夫? 痛いところない?」「え? いや……ないけど、あれ?」記憶を整理してみよう。部屋でごろごろしてたら、Gが俺のお腹に落ちてくる→Gエリザの所に飛んでいく→俺前世パワーに覚醒、Gをブチ殺す→エリザとちゅっちゅ→暗転。で、今に至るわけだが。エリザはさっき『起きて』って言ったよな。つまりさっきまでのは……夢?全部夢、なのか? 全部? 全部ってどこからが夢なんだ?覚醒したところ? それとも今日部屋でごろごろしてたところ? いや……そもそも俺がこのアパートに越してきたのは……現実なのか?今こうしてここにいること自体、現実とはいえるのか?俺が認識している現実は……本当に現実なのか?今ここにある世界は、誰かが見ている夢……胡蝶の夢じゃないと、言えるのか?と俺がマトリックス的思考に陥っていると、優しいエリザちゃんが説明してくれた。「びっくりしたよー。辰巳君いきなり気絶したんだよ? わたし驚いてお皿割りそうになっちゃたよー」「き、気絶? 俺が?」「うん。なんか『ミッシェルさん助けて!』って言いながら泡吹いて気絶したの。……ミッシェルさんって誰?」フィギュア4レッグロックが得意な肉食系美人だよ。いや、しかし何で俺は気絶したんだ?理樹きゅんじゃあるまいし、ナルコなんとか煩ってないし。そんなことを思いつつ、現状把握しようと部屋を見渡したら……『……』背後にいたんですよ、Gが。ふわふわと宙を浮いてこっちをジッと見てるの。ここで悲鳴をあげながら気絶しなかったのは、すぐ側にエリザがいたからだろう。二度も気絶した無様な姿を見せるわけにはいかないと俺のライオン(実はノミ)ハートが頑張ってくれたからだ。ズリズリと後ずさり、宙に浮いたGから距離をとっているとふと奇妙なことに気づいた。『……』Gが動かないのだ。機敏な動きがウリのGが全く身動きもせず、宙に留まっているのだ。不思議な事に羽を広げてもいない。これは一体……。「お部屋ちゃんと綺麗にしてるんだけど、どうしてもゴキブリって出ちゃうんだよね」俺が今まで直接的に出さなかった名詞を、平然とエリザは呟いた。ほんのり眉を寄せた困り顔で。まるで『今日の夕食なににしよう、迷うなあ』と思っているような顔で。俺は美少女幽霊が呟いた『ゴキブリ』という言葉に心の奥底の被虐を司る部分が何故反応したのかを考察しつつ、エリザに問いかけた。「こ、これ一体どうなってるんだ? 何でその……Gが、浮いてるんだ?」「へ? ああ、これねー、わたしがやってるの。えっと……幽霊的な力で?」小首を傾げながら言っちゃうエリザは可愛い。だがそれはそれとして、俺は納得した。エリザは幽霊だ。俺が彼女を認識する前から、この部屋では物が勝手に浮いたり、何もない場所から物音がしていた。それはエリザの力だったのだろう。幽霊なら、そういうことができてもおかしくない。それはそれとして、いくら幽霊的パワーで動きがとれないとはいえ、いつまでも部屋に俺の最悪の天敵が浮いているのは気分がいいものではない。先ほどからジッとこちらを見ている様な気がして、正直気が気ではない。「エ、エリザちゃん。できればそのG、早くどうにかしてくれると、うれしいんだけど」自然とへりくだってしまうのは仕方がないことだ。だってこのままエリザがふとした拍子にプンスカ怒ったりなんかしたら、あのGが俺にぶつけられるのは自明の理だからだ。エリザは優しいからそんなことしないだろうけど。「うん、分かった。じゃあ辰巳君、窓開けてもらってもいい?」「はい!」俺はとてもいい返事をしつつ、窓をガラリと開けた。さあ、お帰り。もうここのは近づくんじゃないよ。もし帰ってくるとしたら、美少女に擬人化してからだよ……。窓の横からエリザを見る。エリザは右手をスイと上げた。そのままGを窓の外へと――飛ばすかと思いきや、上げた右手をぐっと握り締めた。ガッツポーズをするかのように、平然とした顔で。Gは俺とエリザの中間地点に浮いている。俺からはGの姿がハッキリと見えている。エリザが右手を握り締めた瞬間――Gを包んでいた不可視の力が凝固し、縮むような錯覚を覚えた。いや、それは錯覚ではなかった。だって……『ピギィ!』まるで周囲の力で圧壊されたかの如く、その体は粉々に霧散したのだから。目の前で弾け飛ぶGの体。不可視の力は未だ存在し、その肉片はその中に漂っている。「はいっ、おーしまい。よいしょー」エリザは一仕事終えてスッキリした笑顔で、右手を前に振るった。Gの破片がふわふわと窓の外へと運ばれていく。俺はなんとも言えない顔で、それを見送った。そうか……エリザってゴキブリとか普通に殺っちゃえるタイプだったか……。俺が守ってやるって思ってたけど、そうだよな……今までウチの全部の家事やってたんだよな……。多分ゴキブリとか出ても俺が気づかないうちに処分してたんだろうな……。それも知らず守るとか……俺ってほんとバカ。■■■Gの脅威が失われ、再び台所仕事に戻ったエリザに俺は問いかけた。「エリザはその……ああいう虫とか怖くないのか?」「ん? 虫? 子供の頃は怖かったけど……もうわたし大人だしっ、今はぜーんぜん」にへへ、なんて笑っちゃうエリザに、じゃあGがお腹に落ちてきてお漏らしそうにそうになった俺って子供なの?と問いかけようとしたが、それは残酷な真実を招きそうなんでやめといた。実際、俺のプライドは守られたわけだし。エリザには俺が虫が嫌いってことは、バレなかったわけだし。「でも、辰巳君」「ん?」「虫が怖くて気絶しちゃうなんて……可愛いね!」「……知ってたのか」悪意なく俺を可愛いとか言っちゃうエリザに、お前の方が可愛いにゃん!とか言って飛び掛ったらどうなるだろうと思いつつ、見た目年下の女の子に可愛いと言われて赤面する俺ってひょっとして可愛いんじゃないか……?そんなことを思いつつ、赤面した顔を隠すように居間に戻って漫画を読み直すのだった。■■■後日、アパートの庭掃除をしている大家さんに出会ったときにこんなことを聞いてみた。「大家さんってゴキブリとか大丈夫な人ですか?」「大丈夫か大丈夫じゃないかでいうと……アドルフさんが心配で全然大丈夫じゃないですっ!」大家さんはやっぱりどこかズレてんな……。俺もアドルフさんの事は心配だけど、それよりもあの腹ペコ可愛い女の子が心配……。あの子がじょうじされたら俺読むの止める。「いや、そういうことじゃなく。ほら、部屋でいきなり出た時とか、どんな感じかなーって」「はあ。部屋でですか。そんなの別に……」と大家さんは言葉を途中で止め、思案顔になった。『いや、ここは……うん』と小声で呟いている。と、大家さんはぱっと顔を上げ、両手を口横に持ってきてヨヨヨ……不安そうな表情を浮かべた。「えっと私……すっごく怖いです! 悲鳴とかめっちゃあげちゃいます!」「あ、やっぱりそうなんですか?」よかったイメージ通りだ。「そういう女の子って可愛いですよね」「か、可愛いっ、ですか? ……やった!」実際虫とか怖がって可愛らしい悲鳴あげちゃう女の子っていいよね。守ってあげたくなるっていうか……いや、実際俺はエリザに守られてるんだけど。それはそれとして、母性本能をくするよな。俺なんかイカちゃんが早苗に迫られて涙目のシーンで何度……ふぅ。「雷とか怖がる女の子もいいですね」「へ? 雷ですか? あんな自然現象……めちゃくちゃ怖いですー! 想像しただけでキャー!」大家さんが気のせいかワザとらしい悲鳴をあげながら俺に抱きついてきた。雷を想像しただけで悲鳴あげちゃう大家さんマジ大家さん、悲鳴がワザとらしいけど。大家さんの悲鳴に反応したのか、近所のマダムが集まってきてマジ勘弁。あんたら魔物かよ。「お、大家さんちょっと離れて欲しいなあって」「へ? あ、ご、ごめんなさい……ちょ、ちょっと調子に乗りすぎちゃいました」周りのマダムが見ていることに気づいて、大家さんは頬を赤く染めつつ俺から離れた。俺の中の天使と悪魔が腕を組みつつ『何でそこで諦めるんだよ! もっとギュッとしろよ! この童貞!』とか罵ってくる。あんたら仲いいね。結婚すれば?しかしよかった。大家さんが虫を見て悲鳴あげちゃう系のガールで本当安心。平然とした顔でゴキブリつぶす女の子は一人で十分!と、俺と大家さんの間の地面を何か黒くて小さい物がサッと走った。どこかで見たようなそれは、つい最近、家の中で見た、ような……。それは多分、とってもゴキブリだなって。俺がその姿を捉え、ハッキリと正体を見極める直前、「えーい」気の抜けた掛け声と共に大家さんが笑顔を浮かべながら、箒の背でその黒い物を潰していた。「やりましたっ、今年4匹目です! ……はっ」「……」俺の信じられないものを見るかのような視線に、大家さんは眼に見えて慌て始めた。「……い、いや、違うんですよ」「なんか今の虫っぽかったですよね?」「そ、そうですか? いやー、私は違うと思いますけど」「でも黒くてゴキブリくらいの大きさでしたよね」「そうとは限らないんじゃないですかねー、あははー」「俺にはそう見えましたけど」「私には見えませんでしたよ」「でも、明らかに何か潰しましたよね?」「いえ、何も。ただ何となく箒の背でトンってやりたくなっただけですよー」「じゃあ、箒の背見せてください」「だ、だめですよー」「何でですか?」「もー、辰巳さんってば、女の子が見ちゃだめだって言ってる場所を見たいなんて変態さんですか? ふふっ」「……」「……」「もう、学校行った方がいいんじゃないですかー? 遅刻しちゃいますよ?」「そうですね」議論は平行線を辿り、俺は何も見なかったという結論を出した。笑顔でGを潰す大家さんはいない。そう、いないんだ。こんなの絶対おかしいと思うけど……いないといったらいないんだ。わざわざ最後に残った希望を自ら潰す必要はない。俺は本当の気持ちから目を背けつつ、学校へ向かうのだった。■■■「なあ、遠藤寺」「なんだい?」「お前ゴキブリとかってどう?」「……ゴキブリ? 聞いたことがないな……それは一体なんだい?」「死ねブルジョアジー!」■■■「会長はゴキブリとか好きそうですよね」「きゃ、きゃっ! ど、どこ!? どこにいるの!?」「……いや、いないですけど」「……」「……」「ゴホン。さて一ノ瀬後輩。アナタに伝え忘れた掟が一つあります。このワタシの前で、その名を口にすることを許されない、いいデスか? 仮に呼ぶとすればそう――例のあの人と」「その名ってゴキ――」「ストップ! 奴らに嗅ぎつかれます! 命が惜しければその名前は口にしないよう! ……ゆめゆめ気をつけることデス……フフフ」「……」「……フフフ」「ゴキブリ」「あああ、もう! やめてってば! 怒るよ!?」今日分かったのは、先輩が可愛いってことだった。