緊張に喉を鳴らしてから、エリスは呆然と呟いた。
「……オーク……村が襲われてる」
自失の態を見せる傍らの友人とは裏腹に、アリアは至極、落ち着いた態度を保ちながら村に鋭い視線を注いでいた。
丘陵の高みからは、村中で動き回るオーク勢の動きが俯瞰できる。
なだらかな丘陵に挟まれた村で蠢く幾十もの黒い影を観察して、アリアは微かに眉を顰める。
「見たまえよ、エリス。連中、実に手際よく村人を狩り出している」
どこか感嘆の響きさえ含んだアリアの指摘に、改めて河辺の村を眺めたエリスは、視界の先で村人がオークに切り倒される光景を目にして気分が悪くなる。
それでも確かに、オーク兵団の連携が手際よいこと、エリスのような素人にさえ一目瞭然であった。
「……凄い。まるで蟻みたいだ」
「分かるか?よほどによく訓練された兵団でなければ、そう、あのように昆虫めいた動きはできぬ。普通はもっと無秩序に動いているものだ」
溜息を洩らしてのアリアの言葉は、微かに強張っていたかも知れない。
手練のアリアの黄玉の瞳にも緊張した光が見て取れて、エリスも乾いた唇を舌で湿らせた。
「集団としてみれば、モアレでやりあった連中より数段上であろうな」
鋭い目付きで村を見つつ、アリアは澱みない口調でオーク兵団の練度を分析していた。
「先刻、始末した見張りの連中とて弱くはなかった。一人一人が中々に良い武具を着けて、結構強い。なによりも統制が取れているのが恐い」
エリスの横顔を眺めてから、再び村へと視線を転じた女剣士は冷静な口調のまま訊ねかける。
「ノアとニナを助けに行きたいか?」
一瞬だけ口ごもったエリスに射抜くような鋭い眼差しを向けるとアリアは首を振って宣告した。
「ならんよ。あの中に飛び込んでいくのは、勇気を通り越して無謀でしかない」
俯いたエリスは、喉の奥で無念そうに唸り声を洩らした。
「……あの村に飛び込むのは些か気が進まぬなぁ」
悔しそうなエリスに対して、見知った程度の知人に過ぎないからか。アリアは動じた様子を見せず、まるっきり他人事の口調で呟いている。
暗い影がエリスの表情をよぎった。翠色の髪を右手で押さえてエルフの娘は小さく呻いている。
「何か……何か、手はないかな」
丘陵の斜面に佇む二人の人間など、村からは胡麻粒のようにしか見えないだろう。
見つかるのを恐れた訳でもないが、しゃがんだ姿勢で大きな岩陰からそっと村を覗き込んでいたエリスは、思わず手元の青っぽい草を毟ってしまった。
静かに首を振ったアリアは、どこか哀れむような眼差しを友人に向けた。
「あそこに飛び込んで見つかってしまったら、死ぬな」
あまりに淡々とアリアが呟いた為に、エリスは危うくその言葉を聞き流しそうになった。
「二人では何も出来ん。老いた野良犬のように呆気なく殺されるのが落ちだろう」
懇願するように見つめてくるエリスの蒼い瞳に、再び首を振って無謀だよと諌めてアリアは踵を返した。
地面に転がるオークたちの亡骸へと近づきながら、
「あの連中相手に掻き回して誰かを救い出す心算なら、シレディア騎兵の五、六騎はいるな」
「何もできない?」
曲げた指を噛みながら、エリスは悔しげに尋ねる。
アリアはエリスに背中を向けたまま、屈みこんでオークの亡骸を改め、戦利品を見繕っている。
「村人に対して、今、私たちに出来ることはないな」
冷静なのか、突き放しているのか。冷淡なアリアの態度に一瞬、行き場のない怒りを覚えたエリスだが、それは筋違いな責任転嫁に過ぎないと唇を噛み締めた。
苛立ちを覚えているのは、何も出来ない私自身への無力さだ。
エリスは天を仰ぐが、やはりいい考えは浮かんでこない。
オークの武具の幾つかを戦利品として奪ったアリアが立ち上がった。
手斧を革のベルトに差込み、中剣を鞘ごと背負い、槍を片手に持ち、オークの懐を探って奪った財布や腕輪、指輪などを袋に入れながら応える。
「ここらは丘陵地帯だからな、起伏も多い。村には丘や土手など隠れる場所もあろうし、後は村人たち自身の機転と幸運を期待するしかあるまい」
額に皺を寄せて沈思黙考しているエリスを元気付けるように、アリアは友人の肩を軽く叩いた。
「ノアは重傷者だが、療養している小屋は奥まったところにある。芽はあるよ」
見つかれば、まず逃げ切れぬであろうなと、薄々思いつつ、アリアは前向きな言葉を掛ける。
「さあ、ここにじっとしていても、何にもならん。新手の敵が来ないうちにとっとと退こうではないか」
オークから奪った短槍をエリスに差し出しながら、アリアは戦場を離れようと促がす。
「さっきの連中が仲間を連れて戻ってくると?」
短槍を受け取ったエリスが、顔に緊張を強張らせる。
肯いたアリアが踵を返すと、先に立って歩き始めた。エリスも慌てて背中を追いかける。
街道に向かって一緒に勾配を降り始めながら、エリスは悔しげに顔を歪めて唸り続けていた。
「ここは退くべきであろうよ。旅籠の親父は街道筋では顔役の様子。
知らせに戻れば何らかの手を打ってくれるだろうし、そちらの方が村人の為にもなろう」
アリアの態度は冷淡に思えるが、危地に取るべき行動としては一理あるのだろう。
知己のノア母娘が気に掛かるエリスではあるが、しかし、出来ることは何もなかった。
暗鬱な灰色の雲の下、二人の娘は街道へと降りた。
暗く色の失われていく世界の中、街道を駆けながら、エリスは後ろ髪を引かれる思いで一度だけ背後を振り向いた。
遠目に臨む河辺の集落からは、立ち上る炊煙が北へとたなびいており、エリスの蒼い瞳には常と変わらぬ風情で静かに丘陵の狭間に佇んでいるように見えた。
ゴート河の流域に位置している集落の多くは、各々の民家が隣家に対して一定の距離を保っている散村形式を採っている。
十数年に一度の間隔で引き起こされる河川の氾濫に備えての伝統的な智恵であるが、こと外敵の侵入を防ぐという一点に絞れば、散村は集村のそれに対して劣るやも知れない。
家々の距離が離れている為、孤立した一軒家で何が起こっていようとも隣家の者が中々、それに気付かないのだ。
河辺の村に点在する家屋に踏み込むやいなや、オークの戦士たちが素早く槍や剣を突きつけた為に住人たちは全く抵抗を封じ込めてしまった。
何が起こったのかさえ分からないまま、屈強な男であってもあっという間に手を縛り上げられ、驚愕を顔に張り付けたままの村人たちが広場へと連れてこられた。
戦闘らしい戦闘も殆ど起きなかった。武器を取って抗おうと試みた村人も僅かながらにいたものの、オークの戦士たちは油断も隙も見せておらず、反撃を試みた者たちはあっという間に息の根を止められてしまう。
目の前で見せ付けられた手際のよい殺戮は、村人たちを震え上がらせ、彼らに対する強烈な見せしめとなってその反抗心を萎えさせた。
生き残った者たちは抵抗する気力も奪われ、されるがままに大人しく広場へと集められていく。
呆然とした顔つきのホビットの親子の後ろにすすり泣いているゴブリンがいれば、諦めたように俯いている若い女の傍らには、殴られたのか。顔に大きな青痣をつけた農夫の青年が、穀物の袋を担いで家から出てきた得意げな顔のオークを悔しげな顔で睨みつけていた。
村人たちが気がついた時には、村はオークに制圧されていたのだ。
河辺の集落では家々は点在しており、村外れのなだらかな丘陵の麓にはホビットやゴブリンにとって住み易い洞穴も開いていた。
まるで村の地理を熟知しているかのようなオークたちの動きであった。
侵略者たちが余りにも静かに、そして恐ろしく速やかに村の中央を占領しまった為、主だった家屋が制圧されたにも関わらず、村外れでは何も気づかずにのんびりと過ごしていた村人たちもいたほどであったし、一方ではそれほどの幸運に恵まれず、出歩いていてオークに遭遇してしまった者たちや、抵抗した為に一家皆殺しの憂き目にあった者たちもいた。
オークの戦士たちがその家屋に踏み込んだ時、家の者たちは既に何らかの形で警告を受けていたのだろう。
驚き慌てふためく様子を見せながらも、一家の主らしい農夫が棍棒を振り回して激しく立ち向かってきた。
財貨を捨てて逃げるより戦うことを選んだ農夫の行動は、それがこそ泥が相手であれば、けして間違いではなかっただろう。
もし少数の亜人が相手ならば、短時間のうちに他の村人が駆けつけてくることも充分ありえたし、村人に捕まるのを危惧した亜人たちが窃盗を諦めて逃げ出すこともしばしばあったからだ。
激昂した賊の手に掛かって家人が殺されることも珍しくないが、乏しい財貨を奪われれば、どのみち生活は立ち行かない。この場合、無抵抗こそが愚か者の所業であった。
相手が単独、或いは二、三匹の放浪のオークやこそ泥の類であれば、父親の選択もけして悪手ではなかった。
しかし一家に襲い掛かったのは、そこら辺を放浪するオークや賊ではなく、濃密な血と暴力の気配を纏ったオークの戦士たちだった。
戸口の影に潜んで不意打ちをかけようと棍棒を握り締めていた農夫だったが、最初に踏み込んできたオークは、微かに違和感を感じ取って用心していた。
今まで踏み込んだ民家からは喧騒とは言わぬまでも人の気配がしていたのに、このあばら家からは、先ほどまで喚いていた癖、奇妙に押し殺した雰囲気が僅かに漂うだけだ。
待ち受けていやがるな。
オークが一歩、戸口の中に踏み込んだ瞬間、横合いで微かに砂を踏むような音が響いた。
咄嗟に身を捻ったオークの頭上を振り下ろされた棍棒が掠めていった。
オークは唸りながら素早い動きで手にした刃を横合いに突き出した。
不意打ちを掛ける心算が逆撃を喰らい、腹を刺された農夫が呻きながら後退った。
夫の危機に、木製の鍬で武装した逞しい農婦が喚きながらオークに襲いかかってくるが、強烈な前蹴りを喰らって壁に叩きつけられる。
怯んだ夫婦の目前に、戸口から後続のオークの戦士達がなだれ込んできた。
争いは長くは続かなかった。凄まじい罵りや叫び声、鈍い打撃の音、甲高い悲鳴。そして断末魔の絶叫。何者かが倒れるような音。
小さな家の片隅に、震えて縮こまっている年頃の娘と少年の目前で、オークたちに取り押さえられた父親が屠殺される豚のように泣き喚きながら、次々と刃を刺された。
母親は棍棒で頭を叩き割られ、頭蓋から湯気を立てながら朽木のように地べたへと倒れる。
泥と土でできた狭いあばら家には、子供二人が隠れる場所も逃げられる場所もなかった。
「……二匹とも殺しちまった」
禿頭のオークが唾を床に吐き捨てながら、忌々しげに呟いた。
「いや、餓鬼がまだいるぜ」
両親の血に塗れた腹が突き出たオークの声に、オーク語は分からずとも子供たちはびくりと身体を震わせた。
オーク達が顔を向けると、鋭い視線に射抜かれた少年は恐怖に絶叫し、泣き叫びたいのを我慢して姉が強く弟を抱きしめる。
「……女か」
腹の出たオークが下卑た笑みを浮かべて踏み込もうとするのを、軽蔑の念を現しながら禿頭のオークが肩を掴んで諌めた。
「おい。大将はいい顔しねえぞ。特に今日の仕事は急ぐように念を押されてんだからな」
「ここが最後の家だろ。仕事は済んだじゃねえか」
背後にいた別のオークも腹の出たオークに同調して、禿頭のオークに意味ありげな視線を送る。
「なあ、頼むぜ。兄い。大将にだって言わなきゃ分からねえだろ?」
女子供を嬲るのを好かない気質としても、別に異種族の娘をそこまでして庇う心算にはなれなかったのだろう。禿頭のオークは舌打ちして踵を返した。
「ちっ、勝手にしろ。ただし、集合には遅れんなよ」
言い捨てて離れていく禿頭のオークを見送ってから、腹の出たオークが舌なめずりする。
「へへっ、済まねえな」
地面に落ちた棒切れを素早く拾い上げ、震えながら構える農民の少女を見て、周囲を取り囲んだ三匹のオークたちは面白そうに下卑た笑いを浮かべた。
「おうおう、おっかねえなぁ」
笑った次の瞬間、オークの一人が一気に踏み込んで娘の腕を掴みあげる。
「手早く済ませるぞ」
「ああ」
薄い襤褸布の服を引き毟ると、藁の寝床の上へと突き飛ばした。
蹲って震えている少年を見ながら、オークの一人が顔を歪めた。
「男の餓鬼はどうするかな」
「騒がれても煩えし、そりゃあ始末するしか」
笑いながら、恐ろしげな刃を構えたオークの腕にむしゃぶりかかって姉が叫んだ。
「……にげ、逃げなさい!逃げてぇええ!」
瞬間、その言葉に背中を突き飛ばされたかのように、蹲っていた少年が跳ね起きると、オークの隙間を縫って小屋を飛び出した。
槍を手にして田舎道を歩いていた長身のオークが、背後の足音に気づいて振り返った。
あばら家を挟んで反対方向の田舎道を一目散に駆けていく少年の背中を目にして、険しい顔となった。
「馬鹿共が……逃がしたな」
手にしていた槍を構えて狙いを見定めると、走っている少年目掛けて投げつけた。
木陰の繁みに蹲って、メイは震えていた。
目の前の恐ろしい光景に、金縛りになったかのように喘ぎながら震えている。
逃げたくも逃げられない。恐怖が見えない鎖となって彼女の足を縛り付けていた。
村の共有井戸の傍らで、槍に腹部を貫かれた少年が手足をもがれた昆虫のように弱々しくもがいている。
村の子供、メイの友だちのキッシュだ。
脅えた少女の喉の奥から僅かな掠れ声が洩れて、少年は気づいたのだろうか。
口から真っ赤な血を吹き出しながら顔を上げると、苦しそうな表情で見つめながら手を指し伸ばしてきた。
「……いたいよ、ねえちゃん……おねえちゃぁん……」
メイの頭が真っ白になる。膀胱が痙攣する感覚を覚えて、喘ぎながら下腹部に力を込める。
全く理不尽に違いないが、その瞬間のメイは凶暴なオーク族の戦士よりも寧ろ友人の少年の視線の方に脅えていた。
「……こっち見ないで」
涙目になりながらの弱々しい声は、メイ自身の耳に思いの他に大きく響いた。
声を出したら、まずい。そう思いつつ、メイは友達の心配など欠片もしてない自分に気づいて愕然としながら、泣きそうになる。
聞こえたのか、キッシュ少年は目を見開いて涙を零した。
友だちが酷い目にあってるのに、メイには保身の為の考えばかり浮かんでくる。
涙を零しつつも、近づいてくるオークに気づいて、メイは臆病な猫のように素早く繁みの奥に隠れた。
行って。どっかにいっちゃえ、オーク
声に出さずに必死に念じながら、繁みの奥で息を殺してオークを観察する。
オークは少年を足蹴にして、槍を引き抜いた。
それから腰の短剣を引き抜くと、僅かな陽光に反射して刃が鈍く煌めいた。
「苦しいか。今、楽にしてやる」
奇妙な響きの声、残酷さと慈悲の入り混じった囁きを洩らして少年の喉を掻き切った。
洞窟オークとは違う。メイははっきりとそれを感じ取っていた。
メイが腰から吊るしたちっぽけな青銅のナイフ。洞窟オークの襲撃の際には、握りしめればお守りのように力強く感じられたそれが、今はちっぽけな玩具にしか感じられず、勇気も与えてくれない。
恐ろしげなオークたちの放つ凄まじい殺戮の気配は、幼い少女のなけなしの勇気も覚悟も吹き飛ばして、洞窟オークの時みたいに勇敢に振舞う事を許さなかった。
オークが踵を返した。
息を抜いたメイが僅かに身動ぎした瞬間、足元でペキリと音が鳴った。
枝を踏んでしまったらしい。
「……ん」
少女の必死の願いも虚しく、オークが気づいたのか。
立ち止まってメイの隠れている繁みを見つめてくる。少女の心臓が跳ね上がった。
「おい、そこを動くな。動くなよ」
それでメイは動けなくなった。足音が近づいてくる。
恐怖に声も出ない。殺されるのか。脅えながらメイはギュッと目を閉じた。
ざっざっと土を踏む音だけが響く。と、その時、後ろで繁みががさがさと鳴り、誰かの声が響いた。
「……待ってください。今、出て行きます」
驚いたメイが目を見開くと、ゆっくりと近づいてくるオークが繁みの横を通り過ぎていく。
口を半開きに振り返り、オークの歩いていく先を見ると、田舎道に蒼白の顔色で立ち尽くしている少女はニーナだった。