魁偉な容貌とは裏腹に、ルッゴ・ゾムは物事を為すにあたって周到な下準備と調査を重ねることを欠かさない。
人族の勢力圏に侵入するに当たり、オークの王子が予め密偵に命じた調査は二つ。
村の地形と家々の位置を調べ上げることと、近隣の農場や郷士、豪族の村々への距離である。
密偵の報告からルッゴ・ゾムが割り出した時間は、恐らく最小で一刻(二時間)
それがルッゴ・ゾムとその手勢が村を襲撃してから、何処かに捕えられた洞窟オークの虜囚の一団を救い出し、撤退するまでに与えられた猶予であった。
救出部隊のオーク戦士は五十。精兵に絞ってある。
近隣の村落の農民兵や郷士、土豪の兵であれば、例え妨害に出てきても蹴散らして砦に帰還するに充分な筈の兵力であった。
しかし、戦に予期せぬ出来事は常に付き物である。
緊張の高まっている辺境である。偶々、近隣に有力な豪族の警備隊が巡回していることは充分に有り得るし、二十、三十もの豪族勢に地元の者らが加われば、これは侮れぬ兵力となる。
足の遅い洞窟オークを連れていれば、突破するに梃子摺って、負けないまでも手痛い打撃を蒙らないとも限らない。
村への滞在が一刻、長くとも一刻半を越えれば、有力な豪族が兵を出し、ルッゴ・ゾムの手に負えない数の兵が押し寄せてくる恐れもあった。
他のオークと違い、ルッゴ・ゾムはけして人族を侮ってはいない。
オーク族と同等か、それ以上に智恵の回る種族だと見做していた。
故に急ぐ。この際、時間は黄金のように貴重であった。
村への滞在が長引けば長引くほどに、危険は大きくなるのだ。
如何に手際よく村を制圧し、恐らくは弱っているだろう洞窟オークたちを連れ出すか。
其処に全てが掛かっていた。
なにも辺境に限った話でもないが、その頃のヴェルニアは、農村が自衛する力を備えているのが当たり前の時代であった。
何しろ、物騒なご時勢である。
特に辺境は統一権力が存在しない空白の土地でもあったから、定住する農民と小規模なオーク、ゴブリン、群盗の襲撃に丘陵の民との間での縄張り争いは日常茶飯事であった。
男であれば誰でも二度や三度の小競り合いは経験しているものであったし、村人の中には、女でありながら戦に出る者も少なからずいた。
家々には棍棒や六尺棒、投石器、短弓、青銅製のナイフ、小剣や短槍など武具も蓄えられているのが普通であり、故に小村落であっても制圧するのは容易なことではなかった。
それを考えれば、ルッゴ・ゾム配下のオーク戦士団による河辺の村への襲撃は実に手際よく行なわれたと言っていいだろう。
村人の誰も気づかないうちに村境にある北側の柵を乗り越えると、其の侭、少人数の隊に分かれて村中へ散って行き、前もって密偵に下調べさせてあった家々を順々に襲撃していく。
洞窟オークなどとは違い、士気を上げる為に鬨の声を張り上げるような真似もしない。
各々がやるべきことを頭に叩き込んでいるから、行動に迷いがなく、村の其処此処で農家に押し入っては住民に武器を突きつけ、手早く縛り上げて、家々を制圧していく。
河辺の集落は、村を取り囲む低い柵の内側に畑と農家の点在する散村で、家々は離れて建っている。
季節は冬。夕暮れも近くなれば、大半の村人は家の中で過ごしている。
僅かな村人たちも野良仕事を終えて家に帰るだろう時刻を見計らい、ルッゴ・ゾムは配下の兵たちに命令を下していた。
目的は、村の中心部を制圧し、洞窟オークたちを奪還する事。
その為の命令は、三つ。
物音を立てずに行動し、見つけた者は逃がすな。
村人を捕らえたら、村の中央にある広場へと連行してこい。
そして、歯向かうようなら殺せ。
銀閃が唸りを上げて冬の大気を切り裂いた。躱し損ねれば容易く首を刈るであろう威力を秘めた恐るべき鋼の刃を、斜めにした剣で受け流しながら灰オークは腕に伝わる痺れに戦慄を覚えていた。
致死の一撃を辛うじて凌いだ灰オークの戦士だが、しかし、刃こぼれして飛び散った愛剣の小さな破片が頬を僅かに切り裂いていた。
灰オークが仲間を鼓舞せんと雄叫びと共にアリアへと切り込んだ。
同時に真横からオークの戦士が横薙ぎに斧の刃を振るうが、俊足を活かしたアリアは連携を見せたオークたちに対してなんと踏み込んできた。
横合いからの強打をぎりぎりで潜り抜けながら、左手で短剣を抜くとすれ違い様に振り抜いた。
強かに切り裂いた感触を覚えながら、そのままオークたちの背後に廻り、間合いの外から素早く振り返る。
此方も身を翻して眼前の敵手を鋭い眼差しで睨み付ける灰オークの頬を、一筋の血が流れ落ちた。
血と脂肪に濡れた短剣の刃を一瞥して地面に投げ捨てると、アリアは不敵な笑みを浮かべて長剣を構え直した。
危険な敵手を相手に命がけの舞踏を舞い続けるオークの戦士たちだが、形勢はなんとも芳しくない。
アリアの素早い動きを捉えきれずに翻弄され、オーク達も激しい動きの連続に息が上がっている。
三人のオーク族の戦士は、そして倒されてしまったオーク達もけして弱くない。
人族や賊徒、そして丘陵の民や他のオーク部族を相手にして、幾度もの戦いを生き残ってきた歴戦の古参兵である。
鍛えたオーク戦士が三対一で人族の女に敗れるなど凡そ考えられることではなかった。
にも拘らず、信じられない事に三人掛かりで一人を攻めきれない。
灰オークは舌打ちを禁じえなかった。
黒髪の女剣士は尋常ならざる使い手だった。
俊敏さと粘り強さを兼ね備えた強敵で、明らかに多勢を相手にしての戦いに慣れている。
同族の血と命をたっぷりと吸った筈の長剣も、些かなりとも威力を減じさせた様子が見えない。
暗鬱な灰色の雲が空に広がって陽光を遮っていた。辺りは薄暗く、肌寒いくらいに気温は低下している。
五人の仲間が倒され、当初は頭に血が昇りかけたオークたちであったが、冷たい空気が危険なまでに高まりかけた怒りを醒まして彼らの思考を冷静に保たせてくれた。
強い。と白い息を吐きつつ、灰オークは敵味方の様子を一瞥しつつ考え込んだ。
息を乱しているのは多勢で攻めているはずのオークたちであり、アリアはいまだ壮健なまま、今も囲まれないように素早い動きで間合いを保ち続けている。
日頃から余程の鍛錬を積んでいると見えて、動きからは未だに体力の余裕が窺えた。
常人離れしたタフネスだと悔しげに顔を歪める。
「手強いな」
不安に襲われた訳でもないが、灰オークのふと洩らした呟きに、頭に鉄製の環を嵌めたオークが同意した。
「ああ、手強い奴だ」
忌々しげに吐き捨てられた言葉は、賞賛と言うよりは、多分に苛立ちの現れであったかも知れない。
連携することで辛うじて女剣士に拮抗しているオークたちだが、手傷を負うのは彼らばかりであった。
恐らく一人倒されれば、此の均衡もあっという間に崩れて、残る二人も忽ちにやられてしまうに違いない。
そう目算する灰オーク自身、幾度か命の危うい場面が在った。
それが分かるだけに迂闊に攻める事が出来ず、だが、またアリアの知らない事ながらも、彼らには退くことも侭ならない理由もあった。
本隊が襲撃している村への来訪者。その悉くを排除するか、さもなければ虜囚とするのがオークたちに与えられた役割であって、此処で見張りの任を放棄してアリアを見逃してしまえば、半刻もしないうちに近隣の郷士の手勢や武装農民が押し寄せてくるに違いないのだ。
「……こんな奴がいるとは、世の中も広いな」
思わず洩らした感慨を聞きつけて、中背の灰オークが苦々しい口調で吐き捨てた。
「……怖気づいたか、兄貴」
弟分の言葉を鼻で笑うと、大柄な灰オークは改めて眼前の女剣士の力量に値踏みの眼差しを向けた。
女二人と侮り、当初は生け捕りを目論んだオークたちだが、罠に掛かった獲物は無力な兎どころか、途方もなく凶暴な狼であった。
罠は食い破られ、いまや狩人たちが生きて帰れるかすら危うい。
オーク達は攻めの手を休めて立ち止まった。
各個撃破されぬように固まりながら、息が整うのを待つ。
アリアも逆に攻めるでもなく、やはり呼吸を整えつつ、オークたちが迫ってくるのをじっと待ち受けていた。
「気づいたか?」
鉄環のオークが手強い敵手から視線を逸らさずに仲間たちに囁いた。
「なんだ?」
「エルフが消えた」
鉄環のオークの苦々しい声に、大柄な灰オークも思わず舌打ちを洩らした。
木立から此方を窺っていた筈のエルフ娘の姿が消えていることに改めて気づくも、目前の強敵に牽制されて後を追うことも侭ならなかった。
任務の失敗を悟って、灰オークの戦士は覚悟を決めた。
「……仕方ないか。お前ら、村に戻って大将に警戒網を破られたとご注進してこい」
「兄貴は?」
中背の灰オークが聞き返してくる。
「俺はこいつを足止めするよ」
「……弱気になるなよ。幾ら使うっても、女一人相手に尻尾巻いて逃げるのは気がすすまねえ。
よりは、一か八かで全員で攻め立てた方がいいぜ」
確かにアリアは優れた技巧を持ち、その上、巧みに戦いを進める手腕に長けている。
手強い相手だが、別に超人的な膂力や体躯の持ち主ではない。
速度と駆け引きに長けている為、掻き回されて連携を乱されたが、刺し違えてでも倒す気で掛かれば、けして届かない相手ではないと中背のオークは見做していた。
強引な攻めは隙も大きくなる。或いは、三人のうちで一人か二人が死ぬかも知れない。
それでも、おめおめと逃げ帰る気にはなれない。余りに大勢の仲間が殺されていた。
激しく湧き上がる憤怒の情動に支配され、中背の灰色オークはやれるだけやってやろうではないかという気持ちになっていた。
出来ることなら、目前の女剣士を引き毟って辱めてすらやりたい程だ。
憎悪に駆られ、刺し違えてでも戦い続けようと提案する中背の灰オークだが、大柄な同族は首を縦には振らなかった。
灰オークの戦士は己の脇腹に触れる。と、指先に生温かいぬるりとした感触を覚えた。
「さっき、脇を斬られた。臓腑には届いとらんが深い。
此れ以上やりあっても、三人ともやられるだけだ」
段々と激しく疼いてきた苦痛を堪えながら、大柄な灰色オークはどこか穏やかな声で喋り続けた。
「それに、エルフを逃がした。豪族共の手勢が押し寄せてくる前に本隊退かせないと拙い事になる」
顔を強張らせた二人のオークが喉の奥から悔しげな唸りを発した。
「万が一にも、此処で三人とも返り討ちに合う訳にはいかねえ。
見張り全員やられて、本隊が気づかないうちに豪族に囲まれたら如何なる?」
低く抑えたオーク語でぼそぼそと喋っているうちに、少しずつ動いたアリアが抜け目なく高い位置に陣取ったのに灰色オークは気づいた。
強かな野郎だ。此れほど腕が立つのに油断もしねえし抜け目もない。
仲間たちとは今生の別れになるか。仲間の顔を見たかったが、そんな余裕を許してくれるような生易しい敵ではなかった。
「行け。大将に知らせろ」
大柄なオーク戦士は、アリアを睨みつけながら悔しげに唸る二人の仲間に命令した。
「……分かったよぅ、兄貴」
渋々と従う二人のオークに灰色のオークは淡々と別れを告げた。
「元気でな」
二人の仲間の離れていく足音を背中に聞きながら大柄な灰オークが敵と相対していると、何を考えたのか。人族の女剣士の方から話しかけてきた。
「別れは済んだのか?」
「待っててくれたのか、悪かったな」
「死に逝く者への最後の慈悲ゆえにな。僅かな時間くらいくれてやるさ」
自らの勝利を欠片も疑わずに淡々と述べたアリアの言に、一瞬だけ天を仰いだ灰オークの戦士は愉快そうに笑い声を洩らし、
「舐めるなよ!人間!掛かって来い!!」
憤激の雄叫びが轟いた丘陵に、二つの刃が鋭く風を裂く音が響き渡った。