息を潜めて繁みに伏せていた二人の娘の目前に、足音の主たちが姿を現した。
きいきいと甲高い声で鳴き叫びながら必死に逃げ惑う一匹のゴブリンを、怒り狂ったオークの集団が剣や棍棒を片手に追い掛け回している。
草叢の後ろから用心深い老猫のようにそっと顔を覗かせたエリスが、再び顔を引っ込めて言うには
「あれは河辺の村のゴブリンだね」
「確かか?」
振り向いたアリアが念を押して訊ねるも、エリスは間違いないと云う。
「見覚えがあるよ。村外れでうろついるのを何度か見た」
散策でもしている最中に、オークの斥候隊と出くわしたのだろうか。
だとしたら運のないゴブリンだと女剣士は哀れんだ。
「……変なところで追われてるものだな」
アリアの言葉に、瞬きしたエリスは怪訝そうに首を傾げてから再びゴブリンを眺める。
「……捕まっちゃいそうだね、逃げ切れるといいけど」
喚き声を撒き散らしながら逃げるゴブリンとそれを追う数人のオークの逃走劇を見つめながら、女剣士は思案に耽った。
見知らぬゴブリンとは言え、見捨てるのは些かの寝覚めは悪い。
とはいえ……と、オークたちの所作や装備、体格を見定めながら、難しい顔で呟いた。
「少し厳しいな」
「そう?」
低く伏せた姿勢のまま、オークたちへと視線を走らせてから、エリスはアリアの傍に身を寄せた。
「……いや、かなり出来るぞ。あのオーク共」
雑兵にしては動きに遅滞がない。走る姿勢も安定している。
手練とまでは言わないが、それなりに鍛錬を積んでいる者たちだと女剣士は見定めた。
二人の目と鼻の先の街道でオーク共は剣を振り回しながらゴブリンへと飛び掛るが、小人も必死に掻い潜っていた。
「旅籠まで逃げ切れればいいのに」
エリスが呟くが、アリアは厳しい顔つきのまま応えなかった。
竜の誉れ亭はあれで中々、堅固な造りを備えている。武装した用心棒もいるし、建物も頑丈で、賊徒に追われた者が逃げ込むには適しているのだ。
だが、街道の行く手を塞がれたゴブリンは、道から逸れて赤茶けた大地を逃げ惑っている。
やがて口を開いて、一言だけ呟いた。
「もう駄目かな……あれは」
ゴブリンは中々のはしっこさを見せて伸ばされるオークの腕を掻い潜っているが、オークは兎に角、数が多いし、連携も取れている。
鼻水まで垂らし、醜い顔をくしゃくしゃに歪めて泣き顔で逃げ惑うゴブリン小人は、しかし、疲労で鈍ってきたのだろう。苦しそうに喘ぎ、足がもつれて捕まるのも時間の問題に見えた。
「五人か。灰色オーク。それに黒オークもいるな」
普通のオークより体格的に勝る、少しばかり手強い連中だった。
金属片を縫い付けた布鎧や革服、小さな盾を背負っているオークもいる。
青銅の穂先の槍や手斧、鉄製の中剣に小剣など、かなりいい装備をしており雑兵には見えなかった。
「見つからないように此の侭、隠れていよう」
判断を下したアリアは、見ず知らずのゴブリンの為に危険を侵す心算にはなれなかった。
エリスにしても同感で、憐憫を孕んだ視線の先で遂にゴブリンが追いつかれた。
「たすけて!誰か!死にたくない!おっかちゃん!」
断末魔の叫び声が上がるだろうと耳を塞いだエリスだったが、しかし、オークたちには梃子摺らせてくれた獲物を簡単に楽にしてやるような優しさはなかった。
殴打するような鈍い音、泣き叫ぶ声と啜り泣き、許しを請う惨めな呻き声、枯れ枝の折れるような軽い音と、そして恐怖に満ちた絶叫。
オークたちは、ゴブリンを痛めつけ、弄り始めていた。
ゴブリンの悲鳴にげたげたと笑う者、さらに怒り狂う者、無表情になる者。
「許してぇ!」
泣き叫んでいるゴブリンを前に、無表情になった灰オークが首を横に振るう。
「……あまり弄るな。さっさと殺してやれよ」
慈悲を掛けるように言われて、しかし、一際大きなオークが怒りの唸り声を洩らした。
「駄目だ。こいつは、俺の顔に糞をぶつけやがった」
ゴブリンの腕を踏みつけて体重をかける。悲鳴を上げる小人の顔を蹴り飛ばした。
「散々に痛めつけてから殺してやるぞ。糞ゴブリンが!」
慈悲を掛けるようにいった灰オークが鼻を鳴らしてから、唾を吐き捨てた。
「……付き合いきれないぜ」
やがて一匹のオークがゴブリンの髪を掴んで無理矢理立たせると、槍で串刺しにした。
惨たらしい断末魔の叫び声を耳にして、エリスは表情を歪めながら目を逸らした。
オークは五人もいた。繁みの後ろから慎重に様子を窺うエリスの目算では、距離は七十歩幅から百歩幅(30m)か。
街道上のかなり離れた場所で屯っているオークたちは、アリアの言葉通りにかなり用心深そうな振る舞いを見せていた。
暴行に加わらずにいたオークのうちには、木立に寄り掛かりながらも周囲を見回している灰色オークもいた。
と、その灰色オークの視線が、エルフ娘の隠れている位置でふっと止まったのが見えた。
まずい。と、本能的に見つかったと感じて、エリスは反射的にさっと頭を引っ込めた。
動いた瞬間、自分の間違いに気づいて唇を噛んだ。
人の目は素早い動きをするものに引きつけられるものだ。
こうした時は、ゆっくりと動いて隠れるべきだった。
経験則でそれを知っていながら、脅えたエリスは、無意識に仕出かしてしまった。
案の上、視界の隅に素早い動きを見咎めたのか。
此方を見ていた灰色オークが、寄りかかっていた木立から離れた。
嫌な予感がエリスの背筋を走り抜ける。
灰色オークは、隣のオークの肩を叩いて此方を指差していた。
額を押さえたエルフの娘は、動揺を押し殺すように一瞬、強く目を閉じた。
「ごめん……見つかったかも」
「多分な」
アリアはエリスの迂闊さを責めるでもなく、淡々とした声で指示を出した。
「走って逃げる準備をしておけ。エリス。くれぐれも戦おうとは考えるな」
オークのうちの二人が歩み寄ってくる。
近づいてくるオークに注視しながら、中腰になったエリスはじっと動かずに逃げる時期を見計らっていた。
歩み寄ってくる二匹のオークは革服を着込んでおり、かなり強そうに見えた。
瞳を細めたアリアが静かに剣を引き抜いた直後、オークの集団から声が飛んで二匹を呼び止めた。
二匹はオーク語でなにやら言い返していたが、やがて肩を竦めると引き返していった。
暫らくの間、二人の娘は息を飲んでオークたちを観察していたが、やがて踵を返した彼らが街道の向こう側へと立ち去っていく姿を見送ると、大きく溜息を洩らした。
「見つかったかと思った、胆が冷えたよ」
額の冷や汗を拭っているエリスの傍らで、僅かに立ち上がったアリアはじっと街道の先に見入っていた。
オークの集団が完全に見えなくなったのを確かめてから、首を振るう。
「連中、かなり戦い慣れているに違いない。一体、何者であろうか」
「連中は、村の方からやってきたな。あのゴブリンが散策中にオークの斥候と出くわしたのなら、普通は村へと逃げ帰るだろう」
黒髪の女剣士の何気ない言葉に、翠髪のエルフ娘は怪訝そうに訊ねた。
「まさか、村に何かあった?」
「分からん……が、今の辺境は、まるで魔女の婆さんの窯のように煮詰まっている。
何が起こってもまったく不思議ではないからな」
肩を竦めたアリアに対して肯いてから、エリスはゴブリンの元へと歩み寄ったが、哀れな小人は完全に息絶えていた為、何を聞きだすことも出来なかった。
「……もしかしたら、村が襲われたのかな」
だとしたら、旅籠に戻って知らせるべきだった。
折悪しく豪族の巡回の兵士は訪れていないものの守りは堅いし、ひいては近隣の住民にも警告を発することにもなる。戻るのが一番だろう。
暫し無言で考え込んでいたアリアだが、エリスに鋭い視線を向けた。
「エリス、君は旅籠の親父に知らせに行け」
「アリアは?」
「村に行って、何か起こってないか確かめてくる」
「危険だよ」
真っ直ぐと見つめて引き止めてくるエリスに、アリアは首を振るう。
「自分の目で確かめなければ、何が起こったのか分からん」
「……豪族の兵隊に任せなよ」
エリスからすれば、何故、女剣士が態々危険な行為を行なうのか、理解できない。
「……時間が掛かる。或いは、目と鼻の先にオークの部隊が陣取っているのかも知れん。
その場合、何も知らずに旅籠に戻った方が、先々ではもっと危険な事態を招くだろう」
「ああ、そっか。旅籠も危ないか。でも……渡し場が使えなくなったら……」
指を噛んで惑うエリスを眺めつつ、微かに瞳を細めたアリアが穏やかな口調で告げる。
「いっそ、引き返すのも有りだと思うがね。東国へ一緒に来ないか?歓迎する」
何を躊躇しているのか、エリスは俯いた。
「ああ、うん……悪くないね。
でも、村には、ノアとニーナがいる。もし村が襲われてるとしたら……」
困ったような嬉しいような態度で、エリスは言い辛そうに知人の安否を気に掛ける。
「状況に拠るな。だが、ノアはいずれにしても時間の問題だ。ニーナは……哀れだが自分で何とかするしかない」
場合によっては見捨てると、アリアは言外に告げた。
「悪いが其処まで面倒は見切れぬ。わたしはまず君と己の安全を優先する。他人を助けるとしても、余力があればの話だ」
云ってからアリアはやや厳しい顔つきに改まって、エリスを鋭い眼差しで見据えた。
「言っておくが、こんな状況では己の身を守れれば儲け物であろうよ」
厳しい口調と言葉で念を押されて、エリスは歯噛みしながら天を仰いだ。
「……分かってる」
沈痛な表情を浮かべたエリスをやや慰めるように、アリアは肩を軽く叩いた。
「だが……まだ、村がどうこうしたとも決まった訳ではない……なに、危険な気配を感じたらすぐに引き返すさ」
今度はエリスがやや厳しい顔つきでアリアを見つめながら、意見を述べた。
「反対だよ……態々、行く必要はあるの?」
「万事、自分の目で確かめるのが、一番いいのだ。村には入らん。
近くまで行ったら、手近な丘陵に昇って遠目に様子を窺う」
それでもエリスの懸念は晴れない様子だった。
「ここら辺のオーク共が鳥騎兵や騎兵を使っていると耳にしたことはなかろう?」
アリアの言葉に、エリスは首を振るった。
反対しても無駄なようだから、せめて自分に出来る限りで手伝うしかないと心に決めた。
「幾ら足が速くても、大勢いる中に飛び込んでしまったり、飛び道具だって在るよ。
わたしも一緒に行く。わたしの耳は役に立つ」