毛布の中で身動ぎしてから、カスケード伯子アリアテートは目を醒ました。
しっとりと汗ばんだ肌の下では、まだ昨夜の行為の余韻が火照りとして色濃く後を引いていた。
火を盛んに燃やしていたからか。
冬にも関わらず、室温は快適に保たれており、肌寒さは感じない。
閉ざされた鎧戸からは、微かな光が差し込んできている。
気だるげに半身を起こすと、アリアは張り付いた前髪をかき上げて、室内を見渡した。
「……朝か」
「お昼です」
誰にともなく呟いた傍らで、寝転がっていたエルフの娘がくすくす笑いながら応えた。
どうやら、エリスは先に起きていたらしい。
「何をしてた?」
「寝顔を見てた」
肌を重ねた間柄に特有の、馴れ馴れしくあけっぴろげな微笑を浮かべると
「……可愛かった」
まじまじと見つめてから、恥ずかしげもなく真顔でそんな言葉を掛けてくる。
そんな風にアリアを表現した人間は始めてであったから、戸惑った後に苦笑を浮かべる。
乱れた黒髪を整えながら起き上がろうとして、卓上にある朝食に気づいた。
湯気を立てている黒パン、ベリーを潰した簡素なジャム。玉葱や人参、蕪の入ったコンソメスープ、蕩けたチーズと焼いたベーコン、塩を振った目玉焼き。刻んだ腸詰入りの暖めたエールが、湯気を立てている。
「昨日のうちに用意しておいた。そろそろ起きると思って」
相変わらず、食事に関する手際がいい。ただ、少し釈然としなかった。
かつての恋人とは、互いに止むを得ない理由で袂を分かち、以降、アリアは誰とも肌を重ねてこなかった。
恋人がいたのも数年前の話になる。互いに愛し合い、ぎこちなく情愛を交わしたものの、蒼い果実であった肉体からは悦びを充分に引き出すことは出来なかった。
今、アリアの肉体は成熟していたし、新しい恋人のエリスは自分と相手の肉体を制御し、生理的な反応を引き出す術に長けていた。
忘我の境地に誘ってくれた手練手管は悪くはないが、しかし、物事には限度というものがある。
それとも、あんなものなのだろうか。
その他、諸々にやけに手馴れているのが少し気に喰わない。
恋人は一人でいいし、恋人にとっても己一人を見て貰う関係が望ましいとアリアは思っている。
が、世の中には、異なる哲学の持ち主も少なからずいることも承知していた。
一途に思えるが、同時に手練手管に妙に隙がなさ過ぎた。
不覚を取って、百戦錬磨の遊び人に情人の一人にされたのではないか。
由緒正しい戦士の家柄であるアリアにとって、誇りや自尊心の比重は他者に想像付かないほど重く大きい。
一族相食む戦乱の地の、代々の諸侯の後継である為、基本的に他者を疑って掛かる傾向を持っていた。
生まれ育った環境が環境であるだけに猜疑心が強くて偏執狂の気も幾らかある。
血と教育によって根付いた現状や他人に対する疑心暗鬼は、根本の性質になっている。
昨夜から脳裏を掠めるそんな疑念が再燃しかけた時に、エリスが呟いた。
「……幸せ」
数年を孤独に生きてきたエリスだから、思慕が叶ったことが単純に嬉しくてならない。
そっと手を添えて、しっとりと汗ばんだ胸に体重を預けてきた。
恋人の内心も露知らず、ひたすらに愛しそうな眼差しを向けてくるエリスの誠意を疑うのは、流石のアリアにしても些か気がひける。
そもそも、色恋の経験は薄い。二十年近くを生きて肌を合わせたのが二人目だ。
エリスの人格を疑うのは見当違いだと思い直すも、半エルフの娘は放浪の身。
肉体の遍歴を重ねてきたのだろうかと邪推し、悶々と曇ってしまう。
昔の男だか女だかに対しても、甲斐甲斐しく世話したのだろうか。
胸のうちに生じた微かな苛立ちに気づいて、アリアは僅かに眉根を寄せた。
おや。どうやら、私は嫉妬しているらしい。此れが嫉妬という奴か。
数秒を葛藤していたが、恋人の過去について想いを馳せるのは打ち切って、空腹なので食事を貰うことにする。
過去は過去だ。もう止めよう。
素焼きの壷を手に取った。
水差しを傾けて口を濯いでから、窓の外に吐き捨てて食卓に着いた。
下水など殆ど存在しないヴェルニア世界では、清潔を保つ為の一般的な風習である。
温かいお湯と布で互いの身体を拭きあってから、炎が燻る石造りの暖炉の前に腰を降ろし、二人で食事に手を伸ばした。
エリスが口を開いた。
「で、どうするの?」
質問に首を傾げるアリア。
パンを毟り、口に運ぶ女剣士は上着を羽織っただけの格好で、エリスの目には酷く扇情的に映っていた。
会話しつつも、エリスは幸せ過ぎて殆ど現実感がなかった。
胸の奥底は、今も甘酸っぱい幸福感が仄かな熱を放っているが、しかし、何とか冷静さは保っている。
「そうだな……ここら辺も、物騒になってきただろう」
「うん、それが?」
アリアは喋りながら食べているので、黒パンにつけたジャムが掌の上に垂れた。
「傷も癒えたし、もうそろそろ旅立つ頃合だ」
ジャムの付いた指をしゃぶりながら、アリアは脳裏に地図を広げて地名を思い起こす。
「川向こうには小さな草原が広がっている」
「フィンの草原だね」
相槌を打つエリスは鼠を狙う猫のような眼差しで、アリアの指と朱色の唇を眺めている。
「例に拠って、旅人を狙う賊が跋扈しているそうだ。
まあ、物騒な土地だが、越えてしまえばその先では複数の街道が合流している」
アリアは肩を竦めた。
「ティレーは、辺境でも随一の要衝で、近郊の街道筋には旅人相手の旅籠も増えてくる。
宿場町というかな。中には、遠来からの隊商が泊まれるくらいの大きな旅籠もあるそうだ。
道も歩き易いそうで、旅も楽になるだろうよ」
其処まで説明してから、何故か瞳を潤ませているエルフ娘に気づいて問いかける。
「聞いてる?」
「聞いてるよぉ」
相槌を打ちながらも、夢見るように蒼い瞳を蕩かせて笑みを浮かべるエルフの娘は、奇妙に上機嫌で、傍目から見ると少し不気味な位だった。
それでも、この時、アリアはエリスの内心を殆ど正確に読み取れた。
そんなに私が好きか。少し安堵を覚えていた。
常なら、色呆けに幾らか危惧を覚えたかも知れない。が、悪い気はしない。
他者に愛されるよりは恐れられる方を好む厳しい人物であるが、しかし、アリアは、愛情を惰弱と見做すまでには苛烈な人格でもないし捻じれてもなかった。
混じりっけなしの穏やかな愛情は、確かに心地いい。
そう感じられる真っ当な感性も有しているので、手を伸ばして卓上で指を絡めあう。
相手が相手なので、愛情を素直に顕すのにアリアも躊躇はしなかった。
「愛いやつ」
熱っぽく囁いてみると、エリスはびくりと身体を震わせて指を握り返してきた。
手を放すと名残惜しそうに「……あ」と熱いと息を洩らす半エルフの娘の横顔を見つめると、
長く付き合える関係になりそうだ。漠然とそんな予感を覚えながら、アリアはくつくつと笑った。
薄暗い室内で、低い声と共に鈍い衝撃がグ・ルムの身体を揺らした。
「……起きろ」
蹴りでも喰らったらしい。
喘ぎながら意識が覚醒させる、其処は広い納屋の一角だった。
咳き込みながら喘ぐと、肺腑を苛む苦悶が少しずつ薄れていく。
闇に包まれた室内も、洞窟オークの視力に掛かれば見通すことが出来た。
土間の片隅には木製、青銅製の農具が山と積まれ、床には縄や薪が転がっている。
相も変わらず後ろ手に縛られている。
全身は彼方此方が痺れ、意識が明瞭になると共に酷い苦痛が襲って来て、洞窟オークの族長グ・ルムは、苦しげに貌を歪めた。
特に火傷は、長く、しつこく苦痛がもたらされる。
苦痛に耐えるように、短く浅く呼吸を繰り返し吐いているうちに、漸く耐えられる程度に収まってきたのか、脂汗を流しながらも身体を起こした。
ぼさぼさした黒髪のウッドインプが、卑しい笑みを浮かべていた。
「お嬢のお帰りだ。良かったな、またたっぷりと可愛がってもらえるぜ」
ドウォーフがにやにやと邪な笑顔で笑いかけてくる。
「羨ましい奴だ。あんな美人に楽しませてもらえるんだからな」
「……代わってやろうか?お前らなら性悪女とお似合いだ」
グ・ルムの皮肉に笑いながら、亜人の二人組は納屋へと入ってきた女に道を開けた。
乱暴な扱いに抗議するように呻きながら、歩み寄ってくる外套の女を睨みつける。
洞窟オークの族長は、全身に細かい傷が刻まれていた。
爪は剥がされ、皮膚に焼けた石を押し付けられ、幾つかの指は粉々に砕かれている。
二度とまともには動かんだろうな。
グ・ルムは淡々と思う。諦めた訳でもない。
受け入れて、なお、心のうちには不屈の炎が燃え盛っている。
自分の身体が其れほどまでに我慢強く出来ているとは、グ・ルム自身も知らなかった。
「喋る気になったかな?」
ヘイゼルの瞳で冷然と見下ろしてきた人族の小娘は、確かに、心と肉体の仕組みについて忌々しいほど熟知していた。
その尋問と拷問は恐ろしく効率的で、かつ洗練されており、信じがたい苦痛をグ・ルムに与えていたのだ。
一体、何人。いや、何十人の人間から、そうして秘めたる言葉を引き出してきたのか。
それでもグ・ルムは、一言も洩らさなかった。
拷問に耐えられたのは奇跡のように思える。
眼を抉られても、歯を食い縛って耐えていた洞窟オークは、しかし、実のところ、あと少しの力で心身ともに破滅させられていた。
喪失への恐怖は凄まじかった。
目隠しをされ、暗闇に包まれた中、突然に焼けた石を皮膚に押し付けられた時、洞窟オークの心は、もう一歩で折れる寸前だったのだ。
あと一歩で、洗い浚い吐かせる事ができたとは、拷問者も悟っていなかっただろう。
吐けば楽になる。だが、未だに尋問者は、グ・ルムからなんら実りある言葉を引き出していなかった。
(……頑強で強情な奴……なんとも骨だな)
長時間の騎行と拷問の実施に次いで、さらに一昼夜の強行軍の後である。
さすがに疲労の色を見せながらも、郷士の娘リヴィエラの器量のいい、しかし冷酷な表情と冷淡な眼差しは、冷え冷えと冴え渡っていた。
眼の色を見る者が見れば、諦める様子がないのは一目瞭然だった。
リヴィエラは、足元に蓑虫のように転がる洞窟オークの族長をじっと観察してみる。
こうした奴は時々いる。仲間を売るくらいなら死を選ぶような、強い人間。
そしてその弱点も、リヴィエラはよく知っている。
(お前のような人間は、得てして己の肉体の苦痛には耐えられても、他者のそれには弱い)
その手段を取る事を、しかし、胸のうちでリヴィエラは躊躇っていた。
さすがに女子供を出汁にした事は、まだ無かったのだ。
此処まで来て、何を躊躇しているのか。私の手は、もう血で穢れきっているのに。
苦笑を浮かべつつも、胸の奥底に蠢く闇は、リヴィエラを虚無に引き摺り下ろそうとする。
だけど……こいつを吐かせても、吐かせなくても、変わらないのではないか?
私の行いに意味はあるのだろうかと、一瞬、弱気になりながらも歯を噛み締めた。
いいさ。どの道、誰かが手を穢さなければならない。なら、私がやるさ。
何時か、誰かに惨たらしく殺されても不思議ではない。
また一歩、後戻りできない道へと踏み込むなと思いながら、リヴィエラは口を開いた。
「お前は、何か重要な事を隠している」
低く冷たい声音で囁きかけながら、洞窟オークの小さな瞳を覗き込んだ。
「匂いで分かる」
事実、リヴィエラは鼻が効いた。隠し事や嘘の匂いを巧みに嗅ぎ分ける。
裏にいて示唆した者にも、当たりをつけている。恐らくはゾム氏族だ。
だが、この小さなオークが何を隠しているのかまでは、リヴィエラにも分からなかった。屈みこんだ郷士の娘は、洞窟オークの顔を背後から覗き込みつつ、脅しかける。
「……お前を唆した者の名前を言え。吐けば楽にしてやるぞ」
洞窟オークの族長は沈黙しつつも、その小さな瞳に燃えるような憎悪を滾らせて睨み返してきた。
ここまで痛めつけてしまえば、放免は出来ない。復讐者を解き放つようなものだ。
自然、殺してしまうしかない。
「耐えるのは、家族の為か?」
何とか感情を激発させて言葉を引き出させようと、リヴィエラは嘲りを込めて囁きかけ続ける。
「秘密を守れば、何時かオーク族が究極の勝利を収めるとでも妄想を抱いている?
相変わらずオークは愚かな種族だな」
グ・ルムはじっと黙り込みながら、異様に輝く小さな瞳でリヴィエラを見上げている。
「お前がこれほど強情ではな。仕方がないか。連れて来い」
リヴィエラが立ち上がり、納屋の外へと声を掛けた。
と、数人の屈強な男たちが踏み込んできた。
郎党たちによって外から連れられてこられたのは、縄で縛られたオーク族の女子供。
グ・ルムの小さな瞳が大きく見開かれ、息を飲んだ。
ふらついている洞窟オークの女は、グ・ルムの妻であり、そして傍に寄り添うのは……ああ!彼を守って死んだ親友の妹ではないか!
「お前の身内だ」
リヴィエラの低く冷たい言葉を嘲るように、洞窟オークの小娘は得意げに叫んだ。
「馬鹿なババアだ!その人は例えあたしが殺されたって、仲間を売ったりしないよ!」
「……さて、どうかな?」
妙に確信があるように、リヴィエラは薄笑いを浮かべてグ・ルムに一瞥をくれた。
「お前が話さなければ、あの子達に聞くことになる。
私としてもしたくないが、必要ならどのような手段を取るにも躊躇わない」
空の眼窩が睨みつけてきたようにリヴィエラには感じられた。
常人なら畏れを抱くであろう空虚な眼差しに微笑を返して、リヴィエラ・ベーリオウルは洞窟オークの耳元で低く囁いた。
「人は皆、いずれ死ぬ。だが、あの子達はまだ若い。
子供らが今すぐ恐怖と苦痛に満ちた惨い最期を迎えるか、この先の運命を切り開く機会を与えるかも、すべてはお前の胸先一寸に掛かってる。族長殿」
地に倒れた姿勢のままグ・ルムは精一杯に首を伸ばして、郷士の娘リヴィエラを見上げた。
「……悪魔め」
呟きに込められた感情には、沸騰寸前の溶岩を思わせた呪詛が込められていた。
「違うね。『人間』だよ。私こそ正しく『人間』だ。そして、此れこそ『人間』の業だ」
平然と、楽しそうに洞窟オークの族長に微笑を返すリヴィエラ・ベーリオウル。
彼女は死に行くものとの最後の会話を酷く好んでいる。
一方で、自分も何時か惨たらしく殺されるだろうことを信じて疑っていない。
「貴様ら、人族に特有の邪悪さと偽善には反吐が出る。貴様のような奴が『人間』であって溜まるか」
憤怒と悲嘆の込められたグ・ルムの罵りは、しかし、リヴィエラの心に漣一つ起こせない。
「ふっっ、ふっふ。オークは人を捕らえても、甚振らないとでも云うの?
人も、オークも、なにも変わらない。
大切なのは、勝つか、負けるか。そして貴殿は敗北した」
器量のよい貌に仮面を思わせる冷たい笑顔を浮かべて、洞窟オークの族長に問いかける。
「さあ、返答を聞こう」
洞窟オークの族長グ・ルムは、部屋の隅に立たされている彼の身内をじっと見つめた。
それから天を仰ぐように納屋の薄暗い天井を眺めると、口を結んだまま目を閉じる。
「わしが話せば、その子等を助けるのか?」
「大抵の約束は守る。あいつらは助けてやる。殺す価値もないからな」
リヴィエラの即答に、しかし、何を感じ取ったのか。グ・ルムは、強い眼差しで郷士の娘を睨みつける。
リヴィエラの視線を冷たく、細められたヘイゼル色の瞳は微塵も揺るがない。
「お前、どの道わしらを皆殺しにする心算だろう?」
グ・ルムの問いかけにリヴィエラは唇を舐めた。
「さて?」
グ・ルムの恐怖に関する想像力を刺激する為、リヴィエラは酷薄な微笑を浮かべたまま、敢えて曖昧に言葉を濁した。
「確実なのは、お前が喋らなければ、全員が死ぬということだ。お前の責でな」
この脅しは応えた。肩を落とした洞窟オークの族長は、力なく崩れ落ちたように見えた。
「……二人きりで話がしたい」
暫し黙考した後、郷士の娘は肯いて手下たちに振り返った。
「皆、下がれ」
「……だけど、お嬢」
「構わないよ、大丈夫だ」
縄で縛られた洞窟オーク一匹、如何に暴れようが己を害せるとはリヴィエラは微塵も考えていなかった。
「……何が聞きたい」
グ・ルムの独眼が力なく見つめてくる。
やっと、オーク族の蠢動に対する手掛かりを掴んだ。此れで奴らの手のうちを暴ける。
気が急いた様子を隠そうともせずに、リヴィエラは口の端を吊り上げる。
「全て……全てだ」
郷士の娘は、熱っぽく囁きながら身を乗り出した。
「……モアレだ。そこから南下して……」
洞窟オークの族長グ・ルムが語ったオーク族の陰謀は、衝撃的なものだった。
「油断している村々を抜き、勢力を塗り替える、か」
呟いたリヴィエラは、楽しげな微笑を浮かべて冷静さを装っていたが、内心は激しく動揺している。
「やはりな。小競り合いではなく、十数年ぶりの本格的な侵攻」
其処まではリヴィエラやクーディウス姉弟も薄々、推測していたが、内実はそれ以上のものが在ったようだ。
同盟者を募る為、カーラは此れと見込んだ相手に限って、その構想の一端を明かしていた。
個別の事象だと考えていたモアレの陥落も、各地でのオークの小氏族や小集団の蠢動や小競り合いも、本当に全てが一つに繋がっていた。
そう耳にした時には、見かけによらず豪胆な郷士の娘すら、迂闊にも小さく悲鳴を上げそうになった程だ。
北部人の勢力圏から迂回して攻めてくるとはね……何故、気づかなかった。
此の計画ひとつとっても、辺境の人族にとっては相当な打撃になりかねない。
確かに、豪族たちの北国街道への守りは薄い。
武威を誇る北方諸国とは、辺境との交流は少ないものの友好的な関係で安心しきっていた。
盲点といっていい。今の時点で掴めたことは僥倖だろう。
だが、と、リヴィエラは困惑を隠しきれなかった。
己が拷問で引き出した情報にも拘らず、郷士の娘には捕虜の話が少し信じられない。
あまりにもスケールが大きすぎて、途方がなさ過ぎる。
第一、どうやって様々な氏族や部族の枠組みを乗り越えて協力させているのか。
はったりで私を混乱させ、恐れさせようとしているのではないか。
リヴィエラの勘は、洞窟オークの話が真実だと告げていたが、彼女の感情と理性の側面が信じられぬ、信じたくないと訴えていた。
それに私が此れを報告したとして、他の人を納得させられるだろうか。
確証といっても、オークの虜囚一人の証言に過ぎない。
しかし、モアレの村が落ちたのは先月。
にも拘らず、あんな南の端の洞窟オークがこんな話をでっち上げられるだろうか。
僅かに貌を強張らせたリヴィエラのヘイゼルの瞳が揺れる傍らで、無表情になった捕虜の洞窟オークはさらに何か重要な手掛かりを囁き始めていた。
「すべてはあの人の計画だ……王女が……」
「なに?」
オーク族を影で動かしている実力者の正体まで知っているのか。
だが、体力を消耗したグ・ルムはぜいぜいと呼吸が乱れていた。
それでも何かに憑かれたように、ぼそぼそとか細い声で何かを喋っている。
縛られている洞窟オークの言葉を聞き取ろうと、リヴィエラは常の冷静さと用心を忘れて身を乗り出した。
と、その瞬間、力を溜めていたグ・ルムがカッと喰らいついた。
リヴィエラの耳朶を、凄まじい軋みと激痛が襲う。
「が……ああっ」
悲鳴を上げながら郷士の娘はグ・ルムの顎を掴んだ。
歯と歯の間に鋼鉄のような指を挟んだ。
洞窟オークの族長の噛筋力を、しかし、リヴィエラの力強い指が上回った。ぎりぎりと口を開いていく。
リヴィエラが右の耳を抑えつつ、喘ぎながら後退すると、グ・ルムが血塗れの肉片を床へ吐き出した。
藁の散らばる土間へと転がった赤い肉片は、引き千切られた耳朶だろう。
激痛によろめき、喘いでいるリヴィエラの指に、ぬらりとした感触が触れていた。
衝撃に声帯が麻痺したのか、声も出ない。
猫のような、不明瞭な唸り声しか出せなかった。
「がっかっ、はははっ、似合ってるじゃねえか。その耳」
憤怒に顔を歪め、しかし、口元には笑みを貼り付けながら、グ・ルムが眼で嘲っていた。
りぃぃんと、鈴の音のような耳鳴りがリヴィエラの耳の奥で響いていた。
獰猛に笑っていた洞窟オークの族長の野太い声が、ひどく勘に触った。
部下達が入ってくる気配はない。
手元で出血を抑えながら、涙目のリヴィエラもくすくすと笑った。
幾たびもの戦を越えながら、一度たりとも傷つけられなかった身体に油断から傷を負った。
其れが自分でも何かおかしかった。
楽しそうにくすくすと笑いながら、手を伸ばしてグ・ルムの口に両の指を入れると剛力で口を引き裂いた。
顎を外されて、グ・ルムが激痛に絶叫を上げた。
近くに立てかけてあった棍棒を手に取ると、振り返り、無抵抗の相手に容赦なく振り下ろした。
頭蓋が割れて崩れ落ちても、なおも数発殴りつけてから、手元についた脳漿を目にして郷士の娘の激情が一瞬で醒めた。
顔を押さえながら、しまったと忌々しげに舌打ちする。
死人は喋らない。オークの侵攻計画の全貌を知る証人を自分の手で消してしまった。
冷静さを取り戻したが、手遅れだった。
「愚か者……リヴィエラめ。どうする?」
己を罵りながら、顔を歪めて床へとへたり込んだ。
友人のフィオナなら聞く耳を持つだろうが、実権を握っている……兵を動かせるのは、当主である老クーディウスだった。
フィオナは父親に信頼されている。その線から動かせればいいのだが、親戚筋の叔父やら、従兄弟やらが数人いて、婿の座や党首の座を狙ってもいる。
フィオナの後継者としての地位はかなり安定しているが、絶対に磐石という訳ではない。
友人として、出来るなら失策は犯させたくないし、いまだ大勢の兵を動かせる立場でもないのだ。
じんじんと痛む耳朶がリヴィエラの思考をかき乱した。
「兎に角……先に傷の手当か」
床で痙攣する死にゆく亜人を放置して、あぶら汗を流し、よろめきつつ、リヴィエラは踵を返して納屋から立ち去った。
後に残された洞窟オークの虚ろな眼差しが、力なく納屋の天井を見上げていた。