郷士の娘リヴィエラの一行が街道沿いの旅籠『竜の誉れ亭』に姿を見せたのは、正午を少し廻った後。太陽が中天から西の空にやや傾き始めた頃だった。
巡察の一隊に先行して竜の誉れ亭に辿り着いたリヴィエラとパリス、そして護衛の二人は、乾燥した冬の季節に馬を駆ってきただけに汗まみれで装束は砂埃に塗れている。
徒歩の手勢は、長年クーディウス家に勤める傭兵が指揮して後からゆっくりと追いついてくる手筈であった。今頃は、中途にある農園で休息を取っている頃だろう。
裏口にある厩に廻ると、リヴィエラは小僧を呼びつけて騎馬の手綱を預けた。
それから、やや横柄な態度で旅籠の親父に用があるとぼさぼさ頭の小僧に言伝する。
小僧が飛び出していくと、裏口にある厩から出て冷たい風が吹く裏庭を母屋へと向かった。
旅籠の食堂に入ると、暖炉では大きく炎が揺れていた。
すぐにオグル鬼のような獰猛な容貌に肥満した巨躯の親父が姿を見せる。
パリスに何度咎められても、下品な言葉で通りかかった奴隷女をからかうのを止めなかった二人の傭兵 ヴィゼーとゲールが、親父を見てやや怯んだ様子を見せた。
元は南方貴族の軍勢で騎兵を務めていたという触れ込みを雇った二人組だが、運を試そうと辺境に流れてきた連中の例に漏れず、余り後先を考えない性質の持ち主だった。
澱んだ瞳の傭兵二人を横目で見ながら、やるせなさを感じたリヴィエラはうんざりして微かに嘆息を洩らした。本音を云えば、もっと頼りになる護衛が欲しかった。
しかし、パリスの郎党で馬を駆れるのは、徒歩の手勢を指揮する隊長を除けば、此の二人しかいなかったのだ。
先日のヘイスやルド、メリムは、本来はフィオナ付きの郎党で、今も他の仕事をしているか、馬を休ませている為に借りることは出来なかった。
近づいてきたバウム親父に改めて親しげな態度で挨拶すると、リヴィエラは件の女剣士の所在について尋ねてみた。
「朝方に出かけました。戻ってくるのは、そうですね。何時もは夕刻ですから、もう時期かと……」
「待たせてもらうよ」
親父に告げると、大部屋の隅にあるテーブルにパリスと二人で坐った。
護衛の二人は、床に坐って何やらサイコロで遊び始めた。
親父がナッツの入った椀を運んでくる。湯気を立てた白湯を啜りながら、リヴィエラは用心深く椅子に浅く腰掛けて、室内に視線を走らせた。
大部屋には普段、雑魚寝の貧しい旅人が屯っているが、オークとの小競り合いの為か。先日に比べて客足は随分と減っているように見えた。
農夫や巡礼、行商人、自由労働者などは大半が姿を消し、代わりに人族とも亜人とも付かぬ薄汚れ、垢染みた格好の戦士や傭兵たちの姿が増えている。
彼ら、そして僅かな彼女らは不愉快かつ露骨な目付きで他人を値踏みしながら、何やら低い声でぶつぶつと耳打ちしたり、卑しい笑いを浮かべていた。
立て続けの襲撃や小競り合いに、戦の匂いを嗅ぎつけた悪漢達が流れてきているのか。
顔面に恐ろしい青色の刺青を彫り込んだ男たちや、黒い毛皮を羽織った見知らぬ痩せた亜人たちもいる。
時折、此方を窺う剣呑な視線を感じたものの、流石に武装した四人組の男女に難癖をつける者はいなかった。
低いざわめきが囁かれている室内を眺めながら、来客を待ち侘びる無為の時間。
リヴィエラは椅子に坐って身を休めていたが、パリスは室内の荒んだ雰囲気に馴染めないのか、落ち着かない様子だった。
「……あの女に会って如何する、リヴィエラ」
パリスがあの女と口に出した時、掠れた声にやや非友好的な響きが含まれているのにリヴィエラは気づいた。
此れから交渉するのに、嫌悪感をあからさまにされては明らかに拙い。というか、話にならない。
余り人に対する好悪の念をあからさまにする人ではないのだけれど、先日の一件はまだ尾を引いているのだろうか。
やや戸惑ったリヴィエラは、これは自分一人で交渉したほうがいいかなと思案しながら、豪族の息子パリスに考えを説明し始めた。
「……幾つか考えはあるんだけど。
オークの企みについて、彼女から何か聞けないか期待しているのが、まずひとつ。
渡し場の村長から聞いた話だと、カスケード卿はオーク連中の企みについて何かを掴んでいるようだ。
ジナの話に寄れば、彼女はモアレでもオーク族と一戦交えたとらしいからね」
頬杖を付きながら、パリスが首を肯いた。肯き返してリヴィエラは言葉を続けた。
「もうひとつ。一人で十人分の働きが出来る剣士は、滅多にいない。是非、力を貸して欲しい」
郷士の娘リヴィエラの言葉を聞いた瞬間、豪族の息子パリスの眉が急角度に跳ね上がった。
「気が進まないな」
吐き捨てるように不機嫌そうに呟くパリスを眺めて、リヴィエラはひょいと肩をすくめた。
「フィオナは賛成した。正直、今の時期には腕の立つ者が一人でも多く欲しい」
旅籠の埃っぽい大部屋の椅子に坐っていたパリスは、視線を彷徨わせながら物思いに耽っているようだったが、やはり我慢ならなかったらしい。
苛立ちを隠せない様子ではっきりと断言する。
「俺は、あの女を好かない」
食い縛った歯の間から、息を洩らすように言葉を口に出した。
貴公子然としているパリスが、此処まで感情を露わにするのは珍しいことだった。
ナッツを指に摘まんだリヴィエラは、次に出す言葉を考えながら、問いかける眼差しで幼馴染をじっと見つめていた。
「何が気に入らないで、いらついているの?相手が東国の貴族なので気後れを覚える?」
少しからかいを含んだ言葉に、幼馴染は本気で不機嫌そうな眼差しを返してきた。
「違う」
僅かに躊躇いを見せてから、パリスは青白く強張った表情で本音を吐露した。
「如何な理由があろうとも、女子供をその手に掛けるような人物が信用するに値するとは思わない」
すっと体温が低下する感覚を覚えて、リヴィエラは動揺を隠そうと目を閉じた。
整った顔立ちを苦しげに歪めて、頬に弱々しく指先で触れている。
何かを思い起こすように瞼を閉じたまま、呼吸は微かに乱れていた。
表情が醜く歪んだのはほんの一瞬だけのことで、次の瞬間には、もう何時も通りの器量の良い若い娘に戻っていたから、パリスも何かの見間違いかと錯覚するほどであった。
重苦しい雰囲気に戸惑ったように、護衛の二人がサイコロ賭博の手を止めて様子を窺ってきている。
微かに表情を曇らせたまま、唇を舌で湿らせてからリヴィエラは反論する。
「オークの死体の山を積み上げたのも、私は此の目で見たよ。
難民を虐殺したのと同じ剣が、また村人を救いもした」
低く抑えられた声は周囲の喧騒に紛れており、他の者たちに会話の内容を聞き取る事は出来なかった。
一瞬だけ乱れた心も、すぐに平静を取り戻しているように見える。
パリスの射抜くように強い眼差しに、リヴィエラは怯まなかった。
「女であれほどの剣士は見たこともない。殆ど、うちの親父殿にも匹敵する腕前だ」
「……東国の貴族たちは気位が高いと聞いている。辺境の豪族風情の風下に立つかな」
考え込んだ豪族の息子の呈した疑問に、郷士の娘は首を横に振った。
辺境豪族の妾の子が爵位持ちの称号に怯むのは、如何にも奇妙に思える。
或いは、劣等感を刺激されたのかな。リヴィエラは、はしばみ色の瞳を面白そうに細める。
「貴族といっても、所詮は遠来の土地の出。よそ者だよ、気を楽にしなよ」
貴族が全員、富裕な訳でもない。
寧ろ、土地や財産を持たずに金に困っている騎士や貴族の末裔も珍しくないし、満足できる報酬が用意されずとも、義侠心や冒険心で戦に参加する人もいる。
そうした事例も上げながら、互いの得になる取引を出来ればいいとリヴィエラは言葉を結んだ。
「最初から当てにするのは間違ってるけど、やってみなければ何も分からないじゃないか。
腕が立つのは確かなんだから、味方にできれば傷つく者は確実に減らせる。
頭を下げて皆が幸せになるなら、試す価値はあるんじゃないかな?」
説得してみるも、なおも煮え切らない様子を見せる豪族の息子パリスの態度に、リヴィエラの口調にも段々と辛辣なものが混じってきた。
「領民たちには義務として兵役を要求できるのに、貴族には気後れしているの?」
押しが強く物怖じしない幼馴染の性格を、パリスはやや苦手としていた。
反対に、リヴィエラの方は、悪い意味で貴公子なのかしらと考えている。
互いにやや醒めた視線を向け合っているうちに、馬鹿らしくなって溜息を洩らした。
「パリスみたいな気位の高い人に、対等や下の立場から交渉するのは難しいかもしれないけれども……」
リヴィエラの言葉には、少し馬鹿にしたような響きが出てしまったのかも知れない。
拙いと思った郷士の娘は、取り繕うように言葉を続けた。
「こういうと言い方は悪く聞こえるかも知れないけれども、上手く利用するんだって考えればいいんだよ。
話を聞いてもらって、もし報酬次第では取引できるなら……」
黙って聞いていた豪族の息子だが、侮辱に気づいたのだろう。眉を顰めた。
考え込んでいたパリスが、沈黙を破って傷つける為の言葉を投げかけてきた。
「君も、俺や姉さんに対してそう考えているのか?上手く利用していると……」
思わぬ言葉を掛けられたリヴィエラは、一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
次の瞬間、小麦色の頬が怒りの朱に染まった。
人間の関係とは単純に割り切れるものでもないし、口にしてはならない言葉もある筈だ。
利害関係で結ばれた一面もあるが、同時に損得を越えた部分でも繋がった大切な友人だとも思っていた。
「そんな風に考えていたんだ」
云った声からは、感情の色が抜け落ちていた。
関係に修復不可能な亀裂の走った音を、郷士の娘は確かに耳にした。
無用心な一言をパリスは後悔したのだろう。苦い顔で首を振った。
「……すまない。思ってもいない言葉を吐いた」
硬く強張った表情でリヴィエラはパリスをじっと見つめていた。
怒りに頬が僅かに痙攣していたが、嘆息して謝罪を受け入れる。
「私に当たらないで欲しいな。貴方が頭を下げたくないなら、私が交渉するから」
やや恨みがましい視線を向けたリヴィエラが、浮かない口調で告げた時、旅籠の親父が大声で怒鳴った。
「お待ちかねのお人が戻ってきましたぜ!お連れと一緒に裏庭に廻ってまさ」
素早く立ち上がったリヴィエラは、後ろを見ることもなく裏口へ向かって足早に向かった。
明らかに怒っている幼馴染の背中を視線で見送ってから、パリスは右の掌で顔を覆うと低く呻いた。
リヴィエラ・ベーリオウルの初陣は、今から四年前。彼女が十四歳の時であった。
辺境で長い不作が始まる前の年、辺境北西部の曠野で飢饉が起こった。
内陸から蝗のように村々を食い潰してやってきた蛮族の軍勢は、辺境外縁部に侵入してきた時点で二千人近くにまで膨れ上がっていた。
後手に廻った近隣の豪族と市町の長たちは、死に物狂いで兵士を掻き集め、名うての戦士として知られている父カディウス・ベーリオウルも、知己であるティレーの執政官に指揮官の一人として招かれた。
防衛の為の軍隊が編成されたのは、蛮族が辺土の要衝に到達する三日前。
辺境最大の都市ティレーへの襲来を直前にして、辛うじて迎撃は間に合った。
各地から招集した豪族たちの郎党、農民兵、民兵や傭兵が集結した連合軍は、辺境外縁部のタルス・メソの谷で北方から襲来した蛮族と衝突。
餓えた蛮族の勢いは凄まじく、装備と練度で勝る筈の辺境軍を幾度となく押し返したものの、丸一昼夜にも及ぶ激戦の末、侵入してきた蛮族は壊滅した。
若年から壮年の武装した壮健な戦士たち(二割ほどは女だった)からなる蛮族の前衛を突破し、柵に囲まれた後方の野営地に踏み込んだ時、粗末な天幕から姿を見せたのは、戦えない老人や女子供であった。
蛮族の長い戦列の後方に残されていた女子供が、敵意の籠もった視線で睨みながら、棍棒や小刀を振り上げて襲ってくる。
今でもその虐殺を思い返すたびに、酷い戦だったとリヴィエラは思う。
戦が始まる前には豪族たちの見目も彩かな戦装束、磨かれた青銅や鉄の武具に目を奪われていた覚えはあるが、血みどろの戦のことも含めて今は途切れ途切れにしか思い出せない。
共に従者として参加して討ち死にした友人についても、何時死んだかさえ定かではない。
気づけば、戦は終わって、彼女は死体に覆われた大地に佇んでいた。
彼方に眺める血のように赤い落日の情景だけが、今も生々しく瞼の裏に焼きついている。
渓谷を駆け抜けている風の音が、甲高い笛の音にも、不気味な死霊の叫びにも聞こえて、酷く印象的だったのを覚えていた。
強い風が吹く夜に目を閉じれば、今もタルス・メソの戦場跡に佇んでいるような気がしてならない。
本当のリヴィエラ・ベーリオウルは今も戦場で戦っていて、今此処にいるリヴィエラは天幕で寝ている十四歳の自分の夢なのではないか。
時々は、そんな妄想を思い浮かべる。
或いは、魂の一部をあの戦場に置き去りにしてきてしまったのかも知れない。
その後も、蛮族の残党は長らく辺境の外縁を災厄のように荒らしまわった。
女子供と思って家屋敷に泊めたが為に、襲撃を手引きされて悲惨な最期を遂げた富農もいる。
父と共に神出鬼没の蛮族の群盗を追跡し、仕留める日々が半年続いた。
父親には無理を承知で随行を懇願した。一度だけ帰還を促されたが、リヴィエラは歯を食いしばって拒否した。
それでも、辺境を蛮族より防衛する軍勢の一員となったことを誇らしく思えたのは当初だけであった。
やがて父の軍勢は曠野へと逆侵攻し、ティレーに近い蛮族の領地を疾風のように荒らしまわり、村々を焼き払い、老若男女を問わず殺し、財貨を略奪した。
最後には何の為に戦っているのかさえ、分からなくなった。
それでも父親に従ったのは、それが一番マシな方法だとリヴィエラにも思えてしまったからだった。
無邪気な少女として出陣したリヴィエラが、故郷の農園に帰ったのは一年以上も経ってからだ。
しかし、そんな血で血を洗う一連の攻防も、殆どが曠野に近い辺境外縁部での出来事で、北方で蛮族の侵攻をほぼ食い止めたが為に、辺境でも南に近い土地では四年前の蛮族の侵攻はさして話題とはならなかった。
リヴィエラは追憶を打ち切った。
郷士の娘は、パリスを無責任とも思わない。
相手は曠野の蛮族ではなく、同じ辺土の農民。
オークの襲来さえなければ、民草として恙なく暮らしてきただろう人々。
彼の言い分は、気持ちとして充分に理解できた。
一方で、やらなければやられる場面、手を穢さなければならない時があることをリヴィエラは知っている。
まして、カスケード卿は、生まれついての戦士貴族。深淵を眺めてきた人間の判断を、どうしてリヴィエラ・ベーリオウルのような辺境生まれの郷士の娘が己の基準で責められるだろう。
勇敢で同時に思慮深く、少なくとも公正に振舞おうと努力している。
幼馴染のそうした性質に、リヴィエラ・ベーリオウルは好感を抱いている。
思慮は臆病に、勇敢さは短慮に。得てして繋がるものだ。
若くして相反する美質を兼ね備えている人間は、貴重であろう。
慈悲深く、出来るかぎり公正に振舞おうとしているならば、尚更だった。
フィオナ・クーディウスは、賢明だけれどもやや怜悧に過ぎる傾向がある。
いずれパリスは、姉であるフィオナに足りないものを補う良い補佐になるだろう。
今は少し甘い性質が残っているが、まだ若い。
時が賢明さと果断さをパリスに与えてくれればいいと思う。
いずれ、甘さを克服したその時、幼馴染が広い視野と調和の取れた人格を兼ね備えた人物となる日を、リヴィエラは楽しみにしていた。
パリス・オルディナスはきっと、リヴィエラ自身がけしてなれないような存在になれる資質を持っている。
ずっと努力を続ける幼馴染の姿を見てきた郷士の娘は、そう感じていた。
私も女子供を殺した。
此の手が血塗られていると知ったら、貴方は嫌悪するかな。パリス。
リヴィエラには分からない。
恋に破れた疼痛を胸の奥に感じながら、もうその事は考えまいと気持ちを切り替える。
嫌われたとしても、卑屈になることはない。
例え想いは届かずとも、私は私に出来ることをすればいい。
うじうじ悩むのは、彼女の気質に合わない。
胸に秘めた思春期の淡い慕情と決別して、次の瞬間、郷士の娘は厳しい表情を浮かべて真正面を向いていた。
裏庭へと廻っていく廊下を大股に進んで、旅籠の裏口を出たところでリヴィエラは、丁度、目当ての人物と顔を合わせた。
裏庭にある水桶の前。屈みこんで冷たい水で顔を洗っていたカスケード伯子アリアテートが顔を上げた。
「リヴィエラ・ベーリオウルか」
濡れた黒髪の下に黄玉の瞳。警戒するように鋭い視線で一瞥するや、前髪をかき上げながら何用かと厳しい声で訊ねてきた。
「カスケード卿」
立ち止まって会釈しながら、リヴィエラは、目の前の女剣士も戦場の悪夢に魘されることがあるのだろうか、ふと疑問を覚えた。
それとも、生まれついての戦士ならば、葦を刈るように人を殺して、そのまままるで揺らがないのだろうか。
「先日、河辺の村を襲った洞窟オークたちの件で貴殿に話があってやってきたのですが、時間は取れますか?」
如何でもいい疑問を振り払い、改めて郷士の娘が問いかけると、東国人の女剣士はおとがいに指を当てて考え込んだ。
一歩、二歩と近づいてくると、リヴィエラの剣の間合いの外で立ち止まる。
と、同時にリヴィエラは、己が外套の下で剣の柄を撫でていた事に気づいた。
どうやら、無意識の緊張していたらしい。
敵意はないと示す為、リヴィエラが軽く両手を挙げて会釈すると、女剣士は厳しい顔つきながらも肯いてきた。
「話か……よかろう。何の話か分からぬが、聞くだけは聞こう」
リヴィエラが手短に説明すると、女剣士は暫らく難しそうな顔で唸っていた。
「私も、それほど多くの事を知っているわけではない。
何やらオークの隊長格が言い残した言葉を頼りにカマを掛けただけなのだ」
不快になるような出来事でもあったのか。女剣士は妙に不機嫌な様子であったが、リヴィエラに対しては敵意を見せずに、知ってるかぎりの一部始終に推測を交えて話し始める。
「……で、街道でトリスの農民の母子と出会ったのだ。
追われていた理由は知らぬ。トリス村の南の渓谷に洞窟オークが住み付いているとも云っていたな」
此れでいいかと、女剣士は不機嫌そうな眼差しで問いかけてくる。
どうやら、交渉するには不向きな日のようだ。
それでも、最低限の聞きたかった情報は聞くことが出来た。
「ありがとう。参考になりました」
頭の中で聞いた内容を整理しながら、東国人に礼を云ってリヴィエラは踵を返した。
旅籠の大部屋に戻って再びパリスと合流すると、聞きだした内容について噛み砕いて伝え始める。
二人の間には、先刻のぎくしゃくした雰囲気が残っていたが、パリスもリヴィエラも私情を挟んで為すべきことを蔑ろにするのは好まぬ性質であった。
冬の空は曇り、外は薄暗くなってきていた。
火鉢や暖炉では盛んに炎が燃え盛っているにも拘らず、大部屋には冷たい空気がしんと張り詰めている。
「ずっと疑問だったんだよ。洞窟オークたちは弱くて臆病な種族だ。
村を襲うという話は、余り聞いたことがなかった」
暖かい飲み物を運んできた旅籠の親父が、話題に好奇心を刺激されたのか。
立ち止まって、興味深そうな顔をして聞き耳を立てている。
特に咎めるでもなく、白湯を啜りながら、リヴィエラははしばみ色の瞳でパリスをじっと眺めた。
「それまで大人しくしていた連中が襲ってきた理由はなんだと思う?」
「最近の不穏な空気に当てられたかな。それとも他のオークと繋がっているか」
自分で口にしてから気づいたのだろう。豪族の息子パリスは、不快そうに瞳を細めた。
「君が言いたいのは……つまり」
「もし、洞窟オークたちを焚きつけた者がいるならば、他にも暴れる連中がいるかも知れない」
肯いたリヴィエラの深刻そうな言葉に、パリスは俯き加減に目を閉じて沈黙に沈み込んだ。
暫らくして見開いた瞳には憂慮の光が漂っている。
「その確証を得たかったのか」
豪族たちを憎みながら山野に潜む野良オークや野伏せりの類は、けして少なくない。
それに原野を彷徨うオークの小氏族までが野合すれば、侮れない数になる。
「で、もし影に隠れて扇動している者たちがいるとしたら、何者かな?」
「パリスは誰だと思っている?」
挑発的なリヴィエラの言葉に、二人の視線が静かに空中で交差した。
「恐らくは、北の丘陵に棲まうオーク部族のうちでももっとも強力な者たちだろうな」
「十中八九、例によってゾム族」
互いの意見の一致に嬉しくなさそうな表情となる。
豪胆な筈の旅籠の親父が顔色を悪くして、額の汗を拭った。
「連中がどの程度、本気なのか」
パリスは固く厳しい表情を浮かべ、郷士の娘リヴィエラは口に半月の笑みを形作った。
「でも、来て良かった。色々と手掛かりになったよ。そして襲撃者が何処から来たのかも、分かった」
パリスは瞳を細めて、無言のうちに問いかけてくる。
「思った通り、あいつらは丘陵地帯の部族とは違う。南に棲まう洞窟オークの群れで、河辺の渡し場の前に先にまずトリス村を襲った」
「……トリス?」
聞きなれぬ地名に、豪族の息子パリスは戸惑ったようだった。
脳裏の記憶を探るように考え込んでから首を振った。
「そう、洞窟オークに追われた親子が、確か其処から逃れてきたと云っていたそうだよ」
豪族の息子パリスは、何かしらの想いを馳せるように暖炉の炎を眺めていた。
やはり綺麗な顔立ちをしていると横顔に見とれながら、リヴィエラは幼馴染に訊ねる。
「聞き覚えは?」
「……ないな。残念だが」
考え込んだリヴィエラは、旅籠の親父に尋ねてみると場所は簡単に割れた。
「トリスの連中なら、時々、見ました。布や塩を交換する為に、豆やライ麦なんかを持ってきますな」
パリスとリヴィエラは、顔を見合わせた。
「街道から南に一刻ほどですかね。丘陵の狭間にある小さな村でさぁ」
艀の渡し場からそう遠くない場所にある小村落の名前だと告げてから、巨体の親父は陰気に黙り込んだ。
気づけば、大部屋は奇妙に静まり返っていた。
何時の間にか、屯する人間の多くが自分たちの会話に聞き耳を立てていたことに気づいて、リヴィエラは小さく舌打ちする。
聞かれたからといってどうとなる訳でもないが、内容が内容だけに噂になるかも知れない。
もう少し気をつけるべきだったかな。
どのみち、もう手遅れかと、気を取り直してパリスとの会話に戻った。
「トリスから程近い渓谷に、洞窟オークたちが住み着いている」
「そのトリスは今も穴オークに占拠されているのかな」
憂鬱そうに云ったパリスが息を深く吸い込んだ。
「行ってみようよ」
「危うくないか?」
リヴィエラの提案に豪族の息子は気の進まない様子で考え込む。
「戦える男の殆どは、先日の河辺の村の戦で討ち死にしたはずだよ」
片目を瞑ったパリスがふむうと肯いた。
「巡察隊と合流して、足りなければ近隣の郷士から人手を借りよう」
リヴィエラの言葉に肯きつつ、立ち上がる豪族の息子。
「案内が欲しいな」
「この辺りの者なら、トリスまで行ったことのある者もいるでしょう。
親父の言葉に肯くと、パリスは懐から小粒銀を取り出した。
部屋にいる者に見えるように高く掲げながら、案内人を募る。
「トリスまで我々を案内してくれるものはいないか?」
言葉に応えて、大部屋の隅からよろよろと老齢の行商人が進み出てきた。
「若さま、ビーズや指輪なんかを売りにトリスにはいったことがあります」
パリスが投げた小粒銀を胸元で受け取り、行商人が暗い瞳を豪族の息子へ向けた。
「……いい村でした」
パリスとリヴィエラ、二人の護衛に案内人が旅籠を出ようとすると、粗いマントを羽織った数人の男女が立ち上がって扉の前に立ちはだかった。
「何の心算?其処をどきなさい」
リヴィエラが声を出すが、目の前の一団は退く様子を見せない。
面食らいつつも、剣の柄に手を伸ばす一行。
旅籠の用心棒である傭兵たちも、すわ揉め事かと緊張した面持ちを見せている。
目の前で邪魔をしている一団には、顔に青い刺青を入れてる男や痩せた亜人たちも混ざっていた。
一団の頭目と思しき男は、黒い毛皮のマントを羽織り、動き易そうな皮服に身を包んでいた。
日焼けした逞しい腕には、狐に似た四足獣を象嵌した青銅製の腕輪を嵌めている。
上背は人並みであるが、がっしりした四肢には力が満ちていた。
腰のベルトには、毛皮の鞘に納められた三日月刀を吊るしている。
リヴィエラが眉を顰めたのは、剣呑な気配を纏う男の衣服や装飾品に何とはなしに見覚えがあったからだろう。
脳裏の深い箇所に眠る遠い記憶を刺激され、改めて男の衣装を目に留める。
「……蛮族」
緊張した面持ちで唇を動かし、微かな呟きを漏らした。
男は腰に幅広の中剣をぶら下げており、薄汚れた顔はかなり精悍そうで、戦いになればかなり手強そうに感じられた。
「兄さん方。オークとやり合っているらしいな」
「……だとしたらなんだ」
パリスが尋ねると、腰の剣を掌で叩いた刺青の男は、獰猛そうに口の端を吊り上げて笑った。
「俺たちは傭兵でね。仕事を探して南からやって来た。そこの二人よりは役に立つと思うぜ」
何か云いたげな護衛たちを腕で制すると、リヴィエラは男の思惑を推し測ろうとするかのようにじっと見つめて呟いた。
「……曠野の民が、敵と見做してきた辺土の民の為に働こうとはね」