他所との往来が乏しい僻地の集落や僅かな備蓄しかない寒村などでは、時として貨幣を使おうとしても拒まれる事がある。
河辺の村は街道沿いで艀の渡し場も設けてあるくらいだから、旅人や行商人もよく通りかかる。村の農夫たちとて貨幣の価値や使い道くらいは知っており、一握りの硬貨と引き換えに幾ばくかの食料を購える筈であった。
旅慣れた人々は、何かしらの保存食を持ち歩いているものだ。
代表的な物としては、燕麦のビスケットや日持ちするよう石みたいに焼き固めたパンなどがある。他にも木の実に干した豆。食べられる蔦を乾燥させ編んだ縄などだが、それらは到底、食の喜びを期待出来るような代物ではない。
二人とも一応の保存食は持っているが、これが今泊まっている宿屋の粥よりも不味かった。というより、長期間の保存と携帯に耐える代わりに最低限の味付けさえ放棄している。
どうせ人里にいるなら、せめて火の通った暖かな食事を取りたいと思うのが旅人ならずとも人の心の常だった。
腹を空かせた二人の旅人は、改めて何かないかと村の中を歩き回っていた。
革の長靴を履いた長身の剣士は、泥濘も苦にせず容易に踏み越えていくが、やや背が低いエルフ娘の履物は藁と革に木を編みこんだ簡素なサンダルで、どうしても少し遅れがちになってしまう。
村の周囲に広がるささやかな畑には、大麦の他に荒地でも育ちやすいライ麦や燕麦に蕎麦などの雑穀や蕪などを見かける事が出来た。
畑で育てるあれらの穀類や野菜に河で獲れる魚介などが村人の主食なのであろう。
時に僅かばかりの兎や鳥の肉が食卓を彩るかも知れないが、やはり貧しい食事である。
「うあ……酷いものを食べてる」
あばら家の入口で小さな蕪を齧っている村人の姿に、エルフは微かに眉を顰めて呻いた。
同じ食べるにしても、スープにするなり、焼くなりすれば、味わいだって違うだろう。
勿論、世の中には生の蕪を好む人物とているが、中年の農夫は料理が下手か、或いは手間を惜しんだに違いない。
蕪をもそもそと咀嚼しながら、如何にも不味そうなしかめ面を見せてくれた。
此れは期待できないかもと、エルフ娘が微かに顔を曇らせる。
と、黒髪の女剣士が小道の途中で急に立ち止まった。
女剣士はエルフ娘に合わせて歩く速度を緩めていたから、追い抜いてしまった連れは困惑の表情を湛えて振り返った。
丘陵の傍らに建っている背の低い藁葺小屋は、周囲にぶたくさが生い茂っており、もし迂闊な者であれば見過ごしてしまうほどに、辺り一面の素朴な田園風景によく溶け込んでいた。
エルフ娘も遅まきながらに気づくと蒼い瞳を軽く細めた。
囲いもない村に迷い込んだ野の獣だろうか。或いは村人か。
藁葺き小屋の扉の前。草葉の陰に何やらもぞもぞと小柄な影が蠢いていた。
「ああ……今朝方、旅籠にいた老ゴブリンだね。此処に住んでいるのかな?」
今朝方に旅籠の親父にパイプ草を売ってた老ゴブリンが突き出した屋根の下に茣蓙を敷き、小雨にも関らずパイプを吸いながら旅人相手であろう慎ましやかな露店を開いていた。
客の来る様子も無いのに地べたに座り込んで平然とパイプの煙を燻らせているところを見ると、どうやら露店が本業という訳でもなさそうだ。
「オルの店にようこそ。何か買うかね?」
冷やかし半分で覗いてみると、木の実、干し魚や焼き固めたパンなど貧しげな食べ物の他にサンダルや皮袋なども売ってる。
老ゴブリンは、しばし女剣士の豪奢な装束とエルフ娘のみすぼらしい衣服を訝しげな眼差しで見比べていたが、兎にも角にも片方は金を持っていそうだと判断したらしい。
「取って置きの品があるよ。うふふ」
不明瞭な発音で喋りながら改めて小屋の奥から出してきたのは、変な色をした茸にパイプ草などゴブリンやホビットが喜びそうな食べ物やつまらぬ嗜好品だった。
新たに並べられた取って置きの品々とやらにエルフ娘はさしたる興味を示さなかった。
表面上礼儀正しく振舞いながら、安物のパイプ草だの魔法の茸を喜んで買い求める旅人なんてドウォーフ族みたいなチビの亜人だけに違いないと心中で意地悪く決め付ける。
「黒パンはないかな?」
大麦の黒パン自体それほど美味いものではないが、燕麦のビスケットや石のような固焼きパンに比べれば随分とマシである。
ゴブリンが首を横に振ると、元からさして期待していなかったのか。
次に魚の燻製の値段を訊ねて、幾らか値切ってから二人分を買い取った。
大葉に包んだ燻製が手から手へと渡り、半分を女剣士が受け取って自分の革袋に仕舞い込んだ。
半エルフが値切った方が安く上がると考えて、あらかじめ二人の間で取り決めていたのだ。
半エルフは早速、魚の燻製を口に入れた。久しぶりの淡白な魚肉の味。
濃縮された旨味が口腔に広がり、胃の腑に染み渡り、脳裏を痺れさせる。
唐突に子供の頃に故郷の森の泉で、双子の妹と魚を釣ったことを思い出す。
懐かしい郷愁。ほろ酸っぱい過去の情景が蘇り、エルフ娘はつかの間の郷愁に浸る。
あたしが釣った魚なのに、なぜか妹が母ちゃんに差し出して褒められてたな。畜生。
何処からか冷たい風が吹きつけて、薄いマントを纏っただけのエルフを軽く撫でていった。
「……さて、如何する?他でパンかなにか探すか、此れで済ませるか。
どちらにしても日が暮れる前に食事をすませてしまったほうがいいよ」
小魚を齧りながら、無言で佇んでいる同行者にそう促したが女剣士は視線を釘付けにしたまま微動だにしない。
「……どうした?」
まさか、あの怪しげな色彩の茸を食べて、幻覚に耽溺する退廃的趣味でも持ってるのだろうか。
幾ばくの不安を抱きながら怪訝そうに訊ねるも、女剣士は沈黙を保ったまま老ゴブリン。正確には彼の傍らにある一点を眺めていた。
半エルフの娘は早速、鉛貨で買い取った小魚の干物をポリポリと齧っている。
しかし、女剣士の目を惹き付けたのは、小屋の壁に縄で吊るされている野兎であった。
黒髪の娘の視線が野兎に釘付けとなったのを感じ取ったのだろう。
「あれ、売りもんじゃない。わしの晩餐。槍で獲ったんじゃ」
どうやら老ゴブリンは中々の猟師でもあるようだ。
小屋の奥には、小さな手槍と短弓がよく手入れされ、置かれていた。
しわくちゃの顔に浮かべた歯の抜けた笑顔には、木製の入れ歯が嵌まっていた。
「久しぶりのご馳走じゃ」
「ふむ、冬にしては肥えている」
女剣士が兎に値踏みする視線を向けて、無遠慮にじろじろと眺めていると、
人族の娘の視線に穏やかならざるものを感じ取ったか。
段々と不安そうな面差しになった老ゴブリンが軽く腰を浮かせて、尖った耳を動かし始めた。
女剣士は巾着を取り出すと、ゴブリンの目の前に銅貨を放った。
兎一匹買うのに普通は真鍮銭一枚で充分にお釣りがくる。
「美味そうだ。売ってくれ」
「駄目。あれ、売り物じゃない。わしの晩飯」
だが、老ゴブリンは皺だらけの顔に渋い表情を浮かべると拒否した。
黒髪の女剣士は目に見えてムッとした様子になり、冷ややかな眼差しでゴブリンを見下ろした。少しだけ緊迫した空気が漂い始める中、干魚を口にしたエルフ娘は、御座なりな気分で我関せずと事の推移を傍観していた。
銅貨一枚払う女剣士の金銭感覚は破綻しているが、裕福な貴族ならまあ不思議ではない。
兎だって次も運よく獲れるとは限らないし、ゴブリンが売るのを渋るのも分からんでもない。
いずれにしても彼女にはどうでもいい事である。
女剣士は不満げに喉の奥で小さな唸り声をあげると、無言でゴブリンを眺めた。
ついで半エルフを見つめると何故か頷き、それから再びゴブリンを見据えた。
やがて半エルフの形のいい尖った耳に口を寄せると、小声で囁いてきた。
「なあ、御主の口車で何とかならんか?」
唐突な提案にエルフ娘の返す声も自然と小声になった。
「口車と言われてもな……随分と渋ってるよ。
それに今、買った魚は如何する気だい?」
「なに。明日の朝食でも構うまい。上手くいったら兎半分やる」
「……半分?」
「御主、交渉してみてくれ。駄目元で構わんから」
女剣士は黄玉の瞳を細めて、悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
云われて半エルフの娘は、微かに目を細めてみすぼらしいゴブリンの露天商を観察した。
此方を油断なく見据える老ゴブリンからは、警戒と微かな困惑の臭いが嗅ぎ取れた。
悪い話ではない。が、人生は顔に出るものだ。
半エルフの見るところ、老ゴブリンは頑固そうな容貌をしていた。
当惑して女剣士を見つめながら、エルフ娘は少し悩んだ。
高貴なる森の民としては、此処は連れを諌める場面ではなかろうか。
断ろうと口を開くも、瞬間、胃の腑が強硬な抗議の叫び声を上げた。
造反した胃の腑が高らかに奏で上げる空腹の唄声は、人族の娘の耳にも聞こえた。
頬を赤く染めて歪な彫像の如く固まっていたエルフ娘が動き出したのは、十を数えた程の時間が経ってだかろうか。
「やってくれるな」
「取り合えず、やってみるけど……」
結局、肉の誘惑には高貴な森の民の精神力でも勝てなかった。
いまだ頬を紅潮させながら、黒髪の剣士の耳元に口を近づけて囁き返した。
ぼそぼそ呟きあう怪しい二人組に、ゴブリンの翁は益々警戒の色を強めた。
「うむ、期待してるぞ」
「失敗した時がこわいなぁ」
ぼやきながら老ゴブリンに近づくと、エルフ娘は小さく咳払いしてから話しかけた。