夜気の冷たさに、ふと、目が醒めた。
毛布の中でぎこちなく身体を動かしながら、エリスは高い天井を見上げてみる。時刻は何時頃だろうか。真夜中か。それとも夜更けか。いずれにしても、夜明け前には違いない。
閉じきった鎧窓から弱々しい星明りの欠片が差し込んできている。濃密な闇をも見通すエルフ族の瞳は、直ぐに薄明の室内に順応した。目が慣れてくると、配置された家具の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。
上半身を起こしたエルフの娘の傍らで、人族の娘が穏やかな寝息を立てていた。
熟睡している友人の姿に一瞬だけ微笑みかけてから、急に何かを思い起こしたのか。
秀麗な容貌を真剣な表情に改めたエルフの娘は、掌で口元を覆って眼を瞠った。
昨晩の記憶を振り返るうちに、その顔色はどんどん青ざめていく。
やがて大きく天を仰ぐと、無念の呻き声を途切れ途切れに漏らした。
「……そんな、こんなことが……馬鹿な……あってはならない」
恋慕の相手から一夜を共にする誘いを貰ったその晩に、事に至る前に疲れて寝てしまった。泣きそう表情で瞳を潤ませてから、エリスは無念の想いで大きくかぶりを振った。
数年の歳月を掛けて熟成させた貴腐ワインを床に零して台無しにしてしまった人間のように、時が巻き戻る事などないと知りながらも、エリスも神々に奇跡を懇願して虚しい祈りを捧げてみる。
「うう、わたしは酷い愚か者だ……世界よ、今すぐ滅びろ」
がっくりと肩を落としたエリスは、憂鬱さの余り、思わず物騒な事を呟いてしまうが、幸いにも神々が彼女の祈りを聞き届ける事はなかった。
狼狽した哀れなエルフの娘が世界を呪っているうちに、しかし、唐突にアリアは友人の下半身に抱きついてきた。押し付けられた胸の柔らかさに、エリスの頬が上気した桜色に染まる。女剣士の唇から洩れる穏やかな吐息の暖かさが産毛を柔らかく刺激して、情欲を覚えたエルフの娘は唇を舐めた。
闇夜に青白く映える人族の女の肌からは、心臓の鼓動が確かに伝わってくる。
「まだ……駄目になった訳ではないよね」
一瞬、自暴自棄に成りかけた気持ちを前向きに立て直してから、エルフの娘は独りごちた。
一緒に行動しているうち、気心も知れてきている。疲れて寝てしまったからといって、怒るアリアではないと思い返した。
まだ好機はあるに違いない。いや、あって欲しい。
寝ているアリアの頬をそっと指先で撫でてから、エルフの娘は寝台を抜け出した。
皮の上着を羽織って、僅かな星明りを頼りに部屋から抜け出る。
廊下に出て重たい扉に鍵を掛けようとして、思い直した。
予備の鍵は持ってない。樫で出来た頑丈な扉に鍵を掛けてから、エリスが鍵を持って出かけてしまえば、アリアは部屋に閉じ込められてしまう。
少し考えてから鍵は掛けずに個室の卓に鍵を残し、大部屋を兼ねた旅籠の食堂へと歩いていった。
旅籠の主人は寝ている様子だったが、起きていた女奴隷に散歩をすると伝えて予備の鍵を借りると、個室に戻って錠前を掛けてから旅籠を後にした。
辺土の夜は物騒であり、女一人で出掛けるものは珍しい。旅籠の用心棒をしている茶色いホブゴブリンが、怪訝そうな顔をしつつも道を開けた。
僅かな星明りが夜道を照らしている。夜陰に包まれている地平の向こうには、雑木林や丘陵の黒々とした影が踊っている。辺り一帯は濃密な闇が広がっているが、エルフの血筋なので夜目は効いた。
他の種族には敵意を抱いて拒絶するように感じられる夜の世界も、しかし、エリスにとっては馴染み深い環境でしかなく、彼女は枯れ草と茨を踏み越えて曠野に踏み込んでいった。
人族では命取りになるような夜の森での移動も、森エルフの旅人には珍しくもない。
彼の種族は木々に囲まれていると、まるで植物が教えてくれるかのように何とはなしに方向感覚が鋭くなるのだ。
エリスは森エルフの血を色濃く残している。懐には獣避けの匂い袋を掴んでいた。
襲われた際に投げつけて逃げ出す時間を稼ぐ為の道具で、強烈な薬草の香りは、吸い込んだ獣の鼻を麻痺させて完全に馬鹿にしてしまう。
流れる空気は澄んでいる。夜と朝の狭間では、不思議と空気に流れが感じ取れることが多い。或いは、昼夜の寒暖の差から生まれるのだろうか。
もうじき夜明けになる。空気の流れから感じ取って肯くと、エリスは道の向こう側、鬱蒼と生い茂る雑木林を目指して音もなく優雅な足取りで歩き出した。
拷問は一昼夜に渡って続いた。虜囚となったオークたちの呻き声や絶叫が夜の闇を切り裂くたび、眠りを破られた奴隷たちは不安そうに顔を見合わせて、身体を震わせた。
郷士の娘リヴィエラは、捕虜とした洞窟オークの指を捻じり上げ、生爪を剥がし、焼けた石を押し付け、傷口に塩を擦り込み、天上に吊るして棒切れで滅多打ちにした。
彼より屈強な大男でも音を上げただろう苛烈な拷問を受けながら、しかし、族長のグ・ルムは、一言も喋らなかった。
強い眼差しに強固な意志を湛えて、歯を食い縛ってただ耐え続けた。
屈強の奴隷たちや雇った冒険者を助手に、休みなく洞窟オークを責め立てては、情報を取り出そうと企んでいた郷士の娘だが、洞窟オークの頑固さに遂に音を上げると、拷問を中断し、信じられないといった様子でかぶりを振った。
「しぶとい奴だな」
屈強の盗賊や人食いのオグル鬼でさえ、泣き喚いて許しを請うたほどの拷問を此処まで耐え切ったのは、目の前の洞窟オークが始めてであった。陰惨な表情をして罵詈を浴びせていたウッドインプや、サディスティックな嗜好の赤毛のドウォーフも、冬にも関わらず冷や汗を浮かべながら、己らより背丈の低い虜囚の亜人に感嘆の入り混じった驚愕の眼差しを向けていた。
虜囚に食事を与え、手当てするように奴隷に命じてから、リヴィエラは納屋を後にした。
郷士の娘は重たい足取りで重厚な石造りの母屋へと向かうが、徒労感もあって冴えない表情をしている。
虜囚の隠している秘密はなんとしても取り出さなくてはならない。死なれては元も子もないのだ。
しかし、此の侭では其れも難しそうだ。もっと激しい拷問を施せば、洞窟オークを殺してしまう。
そして死ぬほどの苦痛を与えても、今のままでは到底喋るとは思えなかった。
手強い奴だ。さて、どうしたものか。
思索しながら、生欠伸を洩らすリヴィエラ。幾度か休息は取っているものの、拷問が行なう側にとっても気力や体力を消耗する重労働であることに違いはない。
瞼を擦りながら、ささくれ立った気分のリヴィエラが母屋への小径を歩いていると、背後から呼び声が掛かった。
「リヴィエラ」
やや悪相になっている郷士の娘は、険しい目付きで呼びかけてきた方向に首を向けた。それから相手の顔を見て露骨な溜息を洩らした。
「人の顔を見て、溜息を吐かないで欲しいものだね」
傍らには弟のパリスと数人の郎党を引き連れて歩み寄ってきた豪族の長女フィオナが、不満げに渋い顔をする。
パリスは拷問を好かない性質らしく、リヴィエラの動き易い装束に付いた返り血を見て、僅かに首を振ったのを郷士の娘は確かに捉えていた。
「……疲れているんだ」
どうやら失恋したらしい。苦い想いで呟いたリヴィエラの表情は、確かに生気を欠いている。
「例の捕虜は何か吐いた?」
幼馴染の疲労困憊した様子を見て、フィオナはマントの中をまさぐって革袋を取り出した。
飲み物を受け取ったリヴィエラが口に含むと、フィオナの好きなベリーの絞り汁だった。
冷たい甘味は、確かに疲れた頭と身体に心地よく感じられた。普段から智恵を絞る仕事の多いフィオナが、酒精の類よりジュースを好んでいる理由も分かるような気がする。
「……一言も」
首を振ってから、リヴィエラは虜囚たちを閉じ込めている屋敷の一角を睨みつける。
「一筋縄ではいかない奴だよ。あんなしぶといのは初めてだ」
郷士の娘の洩らした言葉には、忌々しさと共に賞賛するような響きがあった。
口元を掌で覆いながら再び欠伸するリヴィエラを眺め、やや表情を改めたフィオナも深刻な口調で最近の噂を告げる。
「オーク共……少人数だけど、北へと向かう姿があちこちで目撃されている。何を考えているのやら」
豪族勢の攻撃に備えて人数を集めているのか、はたまた攻勢を掛ける為に戦える者を招集しているのか。未だ見当もつかない。
浮かない顔をしている豪族の娘フィオナを見てから、リヴィエラは私案を告げる。
「やはりあの人に話を聞きに行こうと考えている。何か知っているのは違いないのだから」
「屍の山を築き上げるような剣士を相手にあなたと交渉させるのは、気が進まないね」
「……それほどの腕だったか」
フィオナの嫌そうな呟きに、難しい表情のパリスが口を挟む訳でもなく声を洩らすと、中年の郎党が肯きながら補足した。
「街道筋では、結構な噂になっています」
不機嫌そうに渋い顔で地面に視線を彷徨わせている豪族の長女は、突然、年相応の若い娘にしか見える。幼馴染の変化に戸惑いながら、リヴィエラは問いかけた。
「フィオナ、あの人を嫌ってるのか?」
東国人の剣士アリアが嫌いというよりは、根拠もなく幼馴染のリヴィエラに近づいて欲しくないと感じただけだ。取られそうな気がしたなんて言い出せるはずもない。
リヴィエラの意外そうな声に、豪族の長女フィオナは感情を抑えて首を振った
「別にそう云う訳ではない。確かに腕は立つのだろうが……ん、何か分かるといいね」
どうも普段の明快で理路整然とした友人とは違う。釈然としない面持ちでフィオナを眺めていたリヴィエラだが、気を取り直して、もう一人の幼馴染に訊ねかけた。
「パリス、今日の見回りの順路は?」
「変更するさ。まだいるかどうか分からないが、竜の誉れ亭の方に行こう」
肩を竦めた豪族の息子パリスに肯いてから、リヴィエラは押し寄せてきた眠気に瞼を揉んだ。
「えっと……出発は?」
「昼の少し前だ。何故?」
怪訝そうに訊ねてきたパリスの前で、リヴィエラは大きく欠伸してから涙目を拭った。
「それまで少し寝るとしよう。出発する時に起こしてよ」
黎明の陽光が地平線から差し込んできた頃、薄明の木立で目当てのものを見つけたエリスは、足早に帰途に付いた。
そろそろ雑木林に棲まう獣たちも動き出す頃だろう。冬の弱々しい日差しが木々の狭間を照らし出している。行きと帰りでは周囲の光景は一変していた。
雑魚寝の大部屋を通り抜ける際に見てみれば、客の殆どは暖炉の炎の傍らで未だに眠っている様子であった。
往来を一刻のうちに済ませ、しかし、それでも少し遅くなったとエリスは独りごちた。
早朝の散歩を終えたエリスが漆喰と石組みの旅籠に戻ると、同室の女剣士は既に起床しており、姿を消していたエルフの娘を待ち受けていた。
丁度、汲んで来た水で顔を洗い終わったところらしく、乾いた布切れで顔を拭きながら部屋に戻ってきたエルフ娘を軽く睨みつける。
「……何処に行っていた?」
不機嫌さを隠そうともしていない女剣士の声は、やや硬質さを帯びていた。
「散歩を……」
「随分と長い散歩だったな」
咎めるような口調を耳にして、エリスは僅かに瞳を細めた。どうやら、機嫌を損ねてしまったらしい。
「ちょっと雑木林まで……此の間、珍しい薬草を見かけてね。ほら、洞窟オークに追われた時。その時は持ってくる余裕もなかったんだけど、で、離れる前に採って来ようと……」
口ごもったエリスが摂取してきたばかりの薬が入った革袋を見せながら言い訳していると、アリアはふいっと彼方を向いた。
「もうよい。ただ、次からは、散歩に行くなら一言告げてからにして欲しいものだな」
「……心配してくれたの?」
エリスは首を傾げて問いかけると、渋い表情で肯いた。
「寝ていたから起こすのも悪いかと思って……ごめんね、次からはそうするよ」
身を寄せてきたエルフの娘は、何時の間にか吐息が触れ合うほどに顔を近づけて潤んだ瞳で長身の女剣士の容貌を覗き込んでくる。
「そんなに怒ってる訳では……エリス?」
言いかけた女剣士の鼻の頭に背伸びをしたエルフの鼻梁が接触した。ついで唇が微かに触れ合う。
「少し嬉しかった……心配してくれる人なんてもう何年もいなかったから」
至近でじっと見つめてきたエルフの熱っぽい眼差しが、戸惑っているような女剣士の視線と交差した。
「……まっ、また、君はッ!」
狼狽したような小さな悲鳴が上がったような気もしたが、エルフは無視する。
拒んでない。そう見て取ったエルフの娘の舌が蛇のように素早く女剣士の唇を割って侵入し、口腔内で蠢いた。
急な接吻に目を瞠った女剣士だが、やがて目を閉じると思わぬ情熱を見せたエルフの求愛に応え始めた。
歯茎や舌の上、根元を弄りながら、エルフは桃色の舌を絡ませてくる。腰骨を女剣士の股間に素早く押し当てて腰をくねらせて焦らすように巧妙に刺激を与えてくる。
「ん……ああっ!」
すぐに耐え切れなくなった黒髪の娘が、翠髪のエルフの身体を強引に引き離した。
黄玉の瞳を陶然とした色に染め、目元を桜色に上気させながら、しかし、アリアは胸を抑えて乱れた呼吸を整えていた。
「もう怒ってない……からッ」
二、三度、耐えかねたかのように背筋を慄かせながら、女剣士はなお迫ろうとするエルフの恋人を腕力で強引に押し止める。
情熱的な接吻を堪能したエリスは感じ入ったように深々と熱いと息を洩らしてから、なおも続きを渇望するように蒼い瞳を濡らして間近からアリアをじっと見つめていたが、
「エリス」
腰砕けになりつつも女剣士が叱り飛ばすと、エルフの娘は意外とあっさりと引き下がった。
女剣士も機嫌を直してくれたらしい。アリアは吐息までいい匂いがするのだ、と、エリスはうっとりとしながら上機嫌で動き出した。
「お腹が空いたでしょう?ご飯を作ってくるね」
キャベツと腸詰を抱え込み、楽しげに鼻歌を歌いながら廊下へと向かうエルフの背中を見送ってから、アリアは濡れた瞳を静かに伏せるとそっと己の身体を抱きしめた。
官能の余韻に浸るように太股を擦りあわせていた女剣士だが、やがて昂ぶった躰も鎮まったのだろう、再び瞳を見開いた時には常の怜悧な雰囲気を取り戻していた。
「……油断も隙もない」
苦笑を浮かべて呟いたアリアだが、実は彼女も満更ではない。
美しい唇に残った涎の糸を指先で拭い取ってから、鋭い視線を卓の上に転がる革袋へと向ける。
「珍しい薬草ね」
云いながら手に取った革袋の中身を何気なく覗き込んだ女剣士は、軽く息を呑んだ。
捻じれ節くれだった古木の根元より採取してきた黄色い苔は、アリアにも見覚えのある植物だった。
「カコトリス※……なぜ、こんなものを」
※物語世界の架空の植物。湿気が多い森の古木の根元を好む黄色い苔、毒性がある。
見つめる眼差しは、常よりもやや険しさを増していたかも知れない。
その苔は人の肉体に強烈に作用する猛毒として、一部の貴族の間には悪名高く恐れられている。具体的には酩酊したように意識を朦朧とさせ、筋肉を弛緩させる。
傷口に塗りつけるだけで躰は麻痺し、経口から多量に摂取すれば死に至る事も有り得る代物である。
殆ど無味無臭であり、かつ水溶性なので、食べ物や飲み物に容易に混ぜる事が可能で、熱しても無害化しない。自然死に似た症状を装える為に、古来より暗殺に用いられる事も多い毒物だった。エリスも薬師ではあるから扱っても不思議ではないが、革袋を掌で弄びながら女剣士は不快そうに鼻を鳴らした。
鳥肉と蕪、キャベツ、玉葱、豆、人参が浮かんだコンソメスープには、出汁としたブイヨンがよく効いており、深みのある塩味となっていた。
鳥肉も新鮮なものをよく煮込んだお陰で、脂がスープの表層に浮かんでいる。
湯気を立てている壷から、エルフは大麦のお粥を手早く木皿によそっていく。
炙った腸詰と玉葱に蕩けたチーズを絡めて僅かな魚醤で味付けた料理に、玉葱や人参、胡瓜の酢漬け、そして目玉焼きが食卓に並ぶ。
「魚醤がね。厨房に入ってたんだよ。南方からの行商人から壷で買ったんだって。
今は冬だから、内陸まで持ってこれるって。で、分けてもらって」
料理の内容を説明しているエルフの娘を眺めながら、女剣士は静かにエールを啜っていた。
「はい」
エリスに手渡されたスープの椀を眺めてから、アリアは微かに眉根をよせた。
勇猛果敢な武人と称されるカスケード伯アリアテートも、身内同士で争う事が珍しくない東国貴族として、一面では病的に猜疑心の強い側面を持っている。
疑い深さは時にアリアを罠から救いもするが、時に人格上の欠点としても作用することもあった。
今も理性では有り得ないと分かっているのに、友人に対して無用の疑念を抱いてしまう。
エリスが私を毒殺することはない。彼女は命の恩人だ。貧しいが誠実な人間に思えるし、動機もない。仮に私を殺して金を奪う悪党なら、他にも幾らでも機会はあった。
暖かいスープで木の匙で掬い取り、女剣士は胃袋を暖めた。美味い。当然に毒など入っていない。
それに彼女は、私に友情と一方ならぬ好意を抱いてもいる。
そしてどうやら、私も彼女に好意を抱いてきたらしい。
胡瓜のピクルスを摘まんだ後、アリアは指をナプキンで拭いながらそれを認めた。
キスは悪くなかった。背筋には、まだ痺れるような快楽の余韻が漂っている。
分析しながらも、心の奥底から血塗られた追憶が絶えず昏い声で囁きかけてくるのだ。
本当にそう云い切れるか?女は分からない。お前は彼女の事を何も知らない。
親友や血族、恋人とさえ、しがらみと因縁に縛られて互いに刃を向け合ったのだ。
何故、知り合ったばかりの他人を信じられる。
粟立つ疑念を鎮めるために、女剣士は対面に坐るエリスの蒼い瞳をじっと見つめた。
「どうしたの?」
真正面から見つめ返してくる穏やかな眼差しに安堵の念を覚えると、アリアは口元に柔らかな笑みを浮かべた。
私はどこかで他者の裏切りを恐れている。まるで影に脅える臆病な子供のように。
恋人になれば、互いにもっと踏み込んだ間柄になるだろう。
肉体関係を結べば、私の身も心もエリスに対してある程度、無防備になる。
その気になれば、彼女は毒を使って簡単に私を害せる訳だ。
猜疑心の強さを自覚つつも、其れを抑制する術もアリアは一応、身につけている。
気持ち的に信じたいのか、本能と理性の両方で信じられると結論したのか。
兎に角、女剣士が心中で抱いた友人に対する疑念の霧は薄れて払われつつあった。
構わない。エリスは大丈夫だ。信じてもいいだろう。
もし害されたなら、その時はその時だ。
見る目の無さを、冥府で待っているかつての敵たちに嘲笑されるであろうな。
まあ、喧嘩をした時には注意が必要か。
エールを一息に傾けた女剣士は、杯を置くと手を組んで皮肉っぽい笑みを浮かべた。
誰も彼も疑って。東国貴族とは難儀な人種だ。神々から見れば、きっと滑稽に違いない。