大きな機織り機であった。向き合っているのは、赤毛を後ろに纏めた若い娘だ。
機に張られている糸は青く染めた極上の麻糸で、大きな機織り機の真ん中では折り目の細かい布が半ばまで丁寧に織り上がっている。しっかりと織り上げられていく美しい布は、完成の暁には素晴らしい出来栄えとなるのは間違いなかった。
豪族の娘であるフィオナも思わず嘆息したほどに、赤毛の娘ジナの機織りの技量は卓越していた。
一心不乱に機に向かうその手元は流れるような動作で魔法のように早く動いており、その正確さは見るものにある種の感動を与える熟練した技能の美しささえ伴っていた。
普通、機織り機というものは高価な機械で相当に裕福な家でなければ所持していない。
海を隔てたキリキア地方の最新型にも拘らず、赤毛の娘はあっという間に使い方を覚えてしまった。
高価な機織り機を完全に使いこなすだけの職能を有する赤毛の娘は、元が自由民で在るなら、恐らくは裕福なモアレ村でも地位の高い家の出だったに違いない。
クーディウス氏の屋敷に勤めている数十もの使用人のうちにも、赤毛の娘のように上手く布を織り上げられるものはいない。土地の有力な豪族の娘であるフィオナの侍女たちは、大半が近隣の郷士や裕福な自作の娘たちから選ばれた気立てのいい娘たちである。
行儀見習いを兼ねてクーディウスの館へと上がり、年上の女たちに礼儀作法や刺繍や裁縫を習う彼女たちは、指示に従ううちに自らでも家内の取り仕切り方などを覚えていく。
同じようにクーディウスに奉公し、あるいは訪問してくる郷士や自作農の息子たちと知り合うのも、侍女たちの目的の一つであるから、
当然に良き妻、良き母となる事を期待され、家内の主として恥ずかしくないだけの作法や家事を叩き込まれた働き者の娘たちではあるが、
こんなにも上手く機織りを使いこなせる人間などいない。
布の出来を見ても、作業の早さを見ても、同世代の娘たちなどとは比較にならない。
長年、機織りを担ってきた老女も館にはいるが、彼女さえもジナの早さと布の出来には舌を巻いていた。老女の熟練の技にも勝るとも劣らない。いや、もしかしたら、赤毛の娘の方が上手かも知れない。
「よく働きますね、彼女。まるでアルスラ様の化身みたい」
もう二刻も前から、リズミカルな音が寸分の乱れなく繰り返されている。
赤毛の娘を眺めているフィオナに暖かな香草の茶を差し出しながら云ったのは、フィオナの侍女の一人であるリルだった。
アルスラとは南方で信仰される女神の一柱で、織物を司る職能の神でもある。
香草の茶を受け取って啜りながら、椅子に座ったままフィオナは同感だと頷いた。
侍女のリルは土地の富農の娘で、此れまでは若い娘のうちでは一番機織りが上手かった。
当初はジナの腕に嫉妬する様子を幾らか見せていたが、境遇を伝えてからは、一転して何くれとなく親身になって話しかけている。
十年来の付き合いで人好きのする性格と知っているので、フィオナは此の侍女に赤毛の娘と友人になって欲しいと願っていた。
出来る仕事はないか?
赤毛の娘にそう聞かれて、働く必要はないというも引き下がらない。
根負けして何が出来るのか問い返してみれば、糸紡ぎと機織りが得意だと答えてくる。
試しにやらせてみれば、人の何倍もの早さで布を織り上げていく。
いい拾い物をしたと思うべきかしら。
一心不乱に機織りを続けている赤毛の娘を眺めつつ、胸中に僅かにそんな感慨を覚えてから、フィオナは僅かに自己嫌悪を覚えるも、だが、それもまた豪族の娘にとっては偽ざる実感でもある。
だけど相手は、そこら辺で拾い上げた旅人や雇い入れた自由労働者とは訳が違う。
故郷をオーク族に襲われて、寄る辺を失った哀れな自由民であり、冒険の果てに敵の襲撃を伝えてくれた勇敢な娘でもある。
その境遇を考えれば、拾い物という言葉は口に出していい単語ではないだろう。
フィオナは、興味深そうに機織りを続けている赤毛の娘を見つめていた。
お湯で身体を洗い、髪を梳かした赤毛の娘は別人のように美しくなっていた。
今、赤毛娘の纏っている厚手の衣装は暖かく動き易い上等な女物の冬服で、こうして見れば、凛々しい顔立ちに理性的な瞳も相俟って如何にも良家の娘にも見えてくる。
いや、実際に良家の子女なのだろう。
此れほどの職能を持つ自由民の娘が、最下級の奴隷として潰えるところだった。
見つけることが出来て本当によかったとも、よくぞ諦めないで生き残ってくれたとも思う。
本人の望みどおりに援軍が送られるかは望み薄いにしても、兎も角も、運命を切り開いた意志と行動力には、フィオナは敬意を払わざるを得ない。
人の世というものは、何が起こるか分からない。
長い歴史のうちでは、時に貴種でさえ転落することが間々有りえる。
同じ境遇に陥った時に、自らにそれだけのことが出来るだろうか。
「……大した子よね」
運命の流転に空恐ろしさを覚えながら、フィオナはそう独りごちた。
「そろそろ休まない?ジナ」
フィオナの呼びかけにも、聞こえてないのか、聞いていないのか。
赤毛の娘は手を休めようとせず、機織りを続けている。
「ジナさん」
怪訝そうに侍女が話しかけるのを、フィオナは手をあげて押し止めた。
「いいよ。好きにさせてやりましょう」
疲労と緊張に倒れたばかりの身を気遣っての言葉だったが、余計な世話だったようだと、無視された事に腹を立てた風情もなく、豪族の娘は苦笑を浮かべた。
根を詰めすぎにも思うが、心のうちに荒れ狂う不安や悲しみ、絶望。
そういった負の感情に抗い、発散する手段の一つが赤毛の娘にとっては機織りなのだろうか。
赤毛の娘を出来るだけよく遇してやりたいが、故郷を喪失した人間にとって、それが何の慰めになるというのか。赤毛の村娘を眺めつつ、心の片隅には取りとめもなく陰鬱な考えが浮かんでくる。
同じ境遇の娘は、探せばきっと幾人もいる。
偽善かも知れない、そう思いながらもフィオナは鳶色の瞳を伏せて、時が癒してくれる事を願うばかりであった。
だが、偽善だとしても、無為よりはマシな筈だ。
(ならば、弱き者を救うのはクーディウスの責務であろう)
先日、邂逅した東国人剣士の言葉が耳の奥に蘇った瞬間、粟立つ感覚を胸に覚えて、フィオナは軽く目を閉じると手を組んだ。
握り締めた拳がかすかに震えている。
嘲弄や蔑みで口にしたのではない。
目の前の女は思ったままを口にしているのだと、そう悟った瞬間に豪族の娘が感じたのは、強烈な屈辱であった。
何も知らない余所者が、好き勝手に言ってくれる。
弟に掛けられた女剣士の言葉は、寧ろ姉であるフィオナの誇りを鋭い刃で切り裂いていった。
言われてから数日はろくに眠れなかった。
時間が経って冷静には立ち返ったものの、今もなお、思い出す度にフィオナは屈辱と羞恥に苛まされている。
敵愾心でもない。単純な憎悪や怒りでもない。
オークを打ち倒す。民草を救う。やってみせるとも。
そしていずれは、カスケード伯子アリアテート。今に見ているがいい。
辺境に我らが名を刻みつけてみせる。
クーディウスの名をお前たちのいる東国にまで響かせてやるから。
何故、自分でも此れほどに悔しいのか分からないながらも、フィオナは身震いと共に決意した。
言うは易しであろう。
眠れない間、延々と如何すればいいかを真剣に考え続けていた。
連年の不作に暮らせなくなって土地を離れた農民。人買いや盗賊の跳梁跋扈。
丘陵民とて、隙あらば平地人の土地に押し入って畑を荒し、家畜を盗み、女をかどわかす。
そして極めつけはオーク族の侵攻。
辺土は、年々、少しずつ暮らしにくくなってきている。
恐らく、辺境は受難の時節にあるのだ。
にも拘らず、近隣の有力な豪族たちやローナやティレーと云った市の商人たちは、小競り合いを繰り返し、好きあらばクーディウス氏の豊かな領地を切り崩そうと虎視眈々と付け狙っていた。
南王国との交易。木材や布の販売に岩塩の関税で財力を蓄えつつあるクーディウス氏であるが、周囲はいまだ敵に囲まれており、前途は多難であった。
「……なに、その方がやりがいがあるもの」
目を瞑って機織りの音に耳を澄ませながら、己に言い聞かせるように呟いた令嬢にたいして、侍女が不思議そうな表情で尋ねてきた。
「何か仰いましたか?」
「いえ、なんでもないよ」
フィオナは誤魔化すように笑って、数年来の付き合いの侍女の顔を覗き込むと、指先を伸ばして茶色の毛髪を指に絡め取った。
「それよりも、貴女もそろそろ年頃ね」
「え、あの……はい。でも、お嬢さまが結婚なさるまでは私は結婚しませんよ」
頬を赤らめながら、力強く断言する召使いに手を振って悪戯っぽく言葉を返した。
「私はいいのよ。それより、想い人がいるなら、早めに想いを伝えておきなさい。
いつ何時、何が起こるか分からないのだから」
「お嬢さま」
断言したフィオナは、廊下の方に鋭い一瞥をくれてから椅子から素早く立ち上がった。
寝台に立てかけてある中剣を手に取り、腰のベルトに巻きつけた直後、部屋の入り口に弟のパリスが姿を見せた。
金髪の青年の顔色は悪く、表情は緊張に激しく強張っている。
「姉さん。艀の渡し場が襲われたぞ」
室内に響いていた機織りの音は、何時の間にか止まっていた。
豪族の姉弟が父親の待ち受ける大部屋に入ると、もう一人の弟であるラウルも既に来ており、姉と視線が合うと気まずそうに目を逸らした。
最近、姉弟仲が少し良くないが、互いに喧嘩したい訳ではないのは分かっている。
近いうちに和解しないと。だけど、今は用件を片付けるのが先だろう。
部屋の隅で息も絶え絶えに椅子に座り、ぐったりとして身体を休めている若い農夫。
恐らくは彼が使者だろうと当たりをつけてから、フィオナは父親に会釈して状況を尋ねかけた。
「何があったのです?父上」
「おお、フィオナ」
難しそうな顔で唸っていた初老の豪族が、娘の顔を見て一転表情を明るくした。
「うむ、もう少ししたら皆、揃うゆえにそれまで待て」
余裕を取り戻した様子で顎鬚を撫でながら、椅子に座って皆が揃うのを待ち受ける。
次に姿を見せたのは、先日から館に滞在しているベーリオウル家のリヴィエラだった。
早足で部屋に入ってくると、幼馴染のフィオナに歩み寄ってきて
「聞いた?川辺の渡し場がオークに襲われたそうだけど……」
「私も今聞いたばかり」
暫らく雑談しているうち、幾人かの男たちが慌てた様子で部屋に入ってきた。
郎党や傭兵の主だった者などが顔を揃えるのを待って、話し合いが始まった。
豪族のクーディウスがざわついている一同の顔を見回してから咳払いした。
「皆も聞いたと思うが、川辺の渡し場がオークたちに襲われたそうだ」
疲れ切った表情の農夫が、クーディウス一族を見回して頭を下げた。
「北の農園から使者が辿り着いた。途中の農園で大足鳥を乗り継いで、此処までやってきたそうだ」
馬に比べて速度でも耐久力でも劣る大足鳥ではあるが、その分、粗食に耐えるし、育成が簡単な為に辺境では広く使われている。
南王国や東国などでも、馬を持てるのは富裕な騎士や郷士だけである。
貧しい騎士などは、驢馬や大足鳥を騎馬の代用品とすることも多い事例であった。
妾腹の息子であるパリスが口火を切った。
「近くの村が襲われたのなら、すぐにでも助けに行くべきでしょう」
どこか翳のある美貌の為か、少なくない女たちに魅力的に映るパリスだが、信義を大切にする人柄からか、意外と村の男たちからも一定の信望を集めている。
「……気持ちは分からんでもないが、川辺の村はさして付き合いはない。
小さな村を救う為に大切な武具と兵を費やす訳にはいかん。敵の数も分からんのだぜ」
正妻の息子である次男のラウルが兄の意見に口を挟んだ。
兄を嫌っているとは言え、感情的な反論でもなさそうだ。
「だが、村人を見捨てるわけにはいくまい」
「簡単に言うがな。聞いた話じゃオークの数は相当だ。オークの本拠に攻め込むための大切な兵を……」
「この期に及んで協力せずにどうする心算だ。オークたちが力を合わせて……」
「持ち堪えているなら兎も角、あの小さな村だ。
今頃、落ちてないとも限らんし、そうなれば援軍も無駄になる」
弟たちの言い争う声を他所に、長女のフィオナはじっと目を閉じていた。
「フィオナは、どう思う?」
息子たちの論議を聞いていた初老の豪族が、ふと娘の方を見てたずねてきた。
考えを纏めたのだろう。フィオナがやっと目を見開いた。
壁に寄りかかって腕を組んでいたリヴィエラは、微かに目を細めて幼馴染を眺めた。
言い争っていた兄弟も口を閉じて、沈黙していた金髪の長女に自然と視線を向ける。
「川辺の村には、艀があります。
他にも艀や橋はありますが、ティレー市に行くにはあそこが一番、使いやすい。
いずれにしても、他所を通れば余計な時間を食われます」
「ふむん」
一見、関係のない話に首を傾げながらも、初老の豪族は意見を聞いている。
喋りながら脳裏で言葉を整理しているのだろう。
豪族の娘はところどころ説明を区切りながら、淡々とした口調で意見を述べ続ける。
「渡し場を奪われたら、我らはティレーで武具を買い付けたり、傭兵を雇うことも出来なくなる。
西の村々からの連絡と応援も遮断され、その代わりに連中は西の土地の野良オークやならず者とも連絡を取れるようになる訳です」
部屋にいた傭兵や郎党たちが顔色を変えた。川から遠いパリトーを拠点とするクーディウスの一党では、誰も渡し場の重要性を指摘されるまで気付いていなかったらしい。
指摘されて、改めて表情を顰めたり、露骨に舌打ちしたりする。
不眠症に掛かる前、先日までのフィオナであれば、同じように気付かなかっただろう。
頭に掛かっていた霞が晴れたかのように、今まで漠然としか見えなかった物事の繋がりが理解できるようになっていた。
「オークたちは、艀を手に入れたことで一帯の道を抑えられるし、此方の連絡を遮断しながら、最悪の場合、河の向こう側から武器を運んできたり、西の悪漢共も彼らに助勢しようと渡ってくることも考えられます」
部屋にいる誰もが真剣な表情でフィオナの様子を窺うのに、部外者のリヴィエラは僅かに驚きを覚えながらも、内心、舌を巻いていた。
友人のフィオナは、若い女でありながら家内では相当に重んじられているらしい。
確かに子供の頃から戦の詩吟とか軍記物の巻物が好きな変な娘だったけれども、それなりの人物に育ったようだ。此れならクーディウスは安泰だろう。
理路整然と述べた娘の意見に影響されたのか、父親はやや青ざめた顔で歯噛みする。
「直ぐに出陣するぞ。よしんば落ちているなら取り返す」
老クーディウスの宣言に、我が意を得たりと長男のパリスも大きく頷いた。
「落ちていたとしても、村人が抵抗していれば、オークも疲労しています。
回復する前に連戦に持ち込んで叩くべきでしょう。今すぐに兵を整えて……」
「お待ちください。父上」
フィオナが制止してから、休んでいた農夫に歩み寄った。
若い農夫は、豪族の娘を見上げて眩しそうに瞬きした。
「村が襲われたのは昼時ですか?」
「へえい。多分、そうだと……」
気後れしているのか。もじもじとしながら喋った農夫の言葉は小声で聞き取り辛かった。
「……多分とは?」
「あっしは村人ではなく、近くの農家のもんで……」
答えを聞いた豪族の長女は、頤に指を当てながら考え込んだ。
「今は夕方。今から人数を出せば、向こうに付くのは夜になりますね。ここは夜襲を掛けるべきか」
郷士の娘リヴィエラも農夫の傍によって質問を投げかけた。
「襲ってきたのはどんな連中だった?」
傍らの壮年の傭兵も、口火を切る。
「オグル鬼はいたか?」
「いいえ、ちっせえ連中です。ちっせえ穴すまいのオークが沢山……」
聞いた途端に、壮年の傭兵が顔を歪めた。頭をかきながら、音高くした打ちする。
「穴オーク。拙いな。連中だとしたら夜目が効きます。夜襲は有り得んですよ。フィオナ様」
夜の闇の中では、普通のオークよりもさらに手強い相手となる。
一瞬、絶句したフィオナだったが、数瞬をさらに考え込んでから首を振った。
「では、村人には気の毒ですけれど、援軍が着くのは明日になりますね。
ならば出発は明日の黎明」
初老の豪族が頷きながら立ち上がった。
「聞いたな。皆の衆。出発は明日の黎明!今宵のうちに戦支度を整えておけ!」
頷いた傭兵や郎党たちが部屋から出て行く中、何か考え込んでいた豪族の娘が父親へと振り返った。
「父上。敵の人数が分からないのは拙いです。
本隊は明日の早朝に立つとしても、今のうちに斥候を送っておくべきかと」
初老の豪族は、愛娘の成長振りを眩しそうに見ながら上機嫌で頷いた。
「では、そうしよう」
「信頼のできる騎馬に乗れる者……斥候は、私が務めましょう。パリスとラウルは……」
「いかんぞ!フィオナ!それはいかん。他の者を送れ!」
初老の豪族が大音声で反対して言葉を遮るが、娘はなだめるように言って聞かせる。
「父上、大切な任です。危険と見たらすぐに引き返しますし、目が良くて見るべき点を見れるものしか勤まりません」
「だがな。しかし……」
渋っている父親を前に、フィオナは辛抱強く言葉を重ねた。
「斥候として先行します。どうか許可を」
「……ううむ」
唸っている父親を暫く見てから、返答しないと見ると勝手にきびすを返して部屋から立ち去ろうとする。
「私も付き合うよ。鳥にも馬にも乗れるし」
隣を歩き出したリヴィエラが声をかけると、豪族の娘は思わず微笑を浮かべて頷きかけた。
「期待していた。心強いよ」
言ってから、まだ唸っている初老の豪族に会釈して部屋を後にする。
「では、父上。兵を三名連れて行きます」
「姉さん。俺も行こう」厩に向かう途中の廊下。
後ろから駆けてきた次男が声をかけたが、フィオナは首を横に振った。
「ラウルは残って兵を整えて……それも大切な仕事ですよ」
姉の言葉に含まれていた諭すような穏やかな響きは、弟に反発を覚えさせないで肯かせた。
戻っていく豪族の次男を見送ってから、郷士の娘リヴィエラが歩きながらぼやきを洩らした。
「に、しても……こう立て続けに続くとね。
曠野(エルゴ)では蛮族共も暴れているって言うし……どうなるのかね。辺境は」
金髪の娘フィオナは、幼馴染を一瞥して苦く微笑みを浮かべ、戸口を潜った。
「恐らく辺境は、悪い時代に差し掛かろうとしているのよ」
冬の日暮れは早く、東の空の地平には既に紫紺の幕が広がって星々が煌いているのが見て取れた。
肌寒さに思わず震えてから、郷士の娘リヴィエラがため息を洩らした。
「……長い夜になるかな?」
広場では、酔っ払ったゴブリンが耳障りな声で歌をがなっている。
その隣では、ホビットたちが大騒ぎしながら輪になって踊っていた。
其処此処で篝火が焚かれている。
高揚した村人たちや近隣の農家、農園から駆けつけてきた農民たちは所かまわず騒ぎ、
歌い、踊り、わめき散らし、村中が大変な乱痴気騒ぎに包まれていた。
夕刻に始まった戦勝を喜ぶ為の祝宴は、陽が暮れても続いていた。
川辺の村落での宴には、黒髪の女剣士と老ドウォーフも主役として引っ張り出されている。
老ドウォーフは先ほどからひっきりなしに酒盃を薦められて、美髯の先まで酒に濡らしながら、尚も杯を重ねていた。
女剣士の元にも命を救われた村人やら、噂を聞きつけた近隣の郷士やら豪族やらが引っ切り無しに挨拶しに来る。
疲れているだろうにも関わらず、鷹揚な態度を崩さずに対応しているのは、意外と人馴れしているのだろうか。
隣に腰掛けて、もそもそ茹で野菜のお粥を食べていたエルフ娘の方は、心此処にあらずといった様子で、あらぬ方を眺めていた。
「是非、我が家の客人に……」
「貴方を雇いたい」
エルフ娘は、食事を取りながら器用にも客に対応をしている女剣士を眺めていたが、ふっと立ち上がって席を離れようとする。
「うん、何処にいくのだ。エリス?」
「……野暮用」
見咎めた女剣士の問いに言葉を返すと、そのまま村道の闇の先へと消えていった。
戦と祭りで生存本能を刺激されたのか。物陰や草叢で半裸の男女が絡み合っている。
一人歩きの女と見て声を掛けてくる酔っ払いもいたが、フードを被ったエルフの娘が足早に躱すと強引に追いかけてくる者はいなかった。
闇に紛れてエルフ娘が訪れたのは、河原の傍に建つ小さな小屋であった。
小屋の床には知り合った農婦がかすかな寝息を立てて横たわっていた。
寝床の傍らに座り込んで母親を見つめていた少女が、エルフに気づいて振り返った。
「……具合は?」
エルフの問いかけで、少女がおずおずと肯きかけた。
「悪くないみたい。さっきまで起きていたんだけど、疲れたみたいで寝ちゃった」
「そう」
少し迷ってから、エルフ娘は懐から小さな布の包みを取り出した。
「これは痛み止め……もしお母さんの傷が痛むようなら、少しずつ与えてあげて」
黒い種のようにも見える、芥子の実から作った鎮痛剤を手渡した。
用量によっては習慣性を持ち、幻覚作用もあるが、痛み止めとしては優れている。
「強い薬だから少しずつね。
痛まなかったら、古くなったら効き目も弱るからそのまま捨ててしまっていいから」
「分かった」
少女は肯いて、大切そうに薬を胸元で握り締めた。
「何か食べた?」
エルフが袋から大きなパンを取り出して差し出したが、少女は食欲がないのか。首を横に振った。
「身体が参ってしまうよ?食べなさい。
お母さんを看病する為にも、貴方が倒れる訳にもいかないでしょう?」
言われて肯くと、少女は、エルフが差し出した大きなパンを受け取った。
口にすれば、やはりお腹が空いていたのだろう。
これも渡された水筒の水を飲みながら、固いパンを勢いよく噛み千切っては飲み込んでいく。
「食べたら休みなさい。横になっているだけでも違うものだから」
云ったが、少女は休みはしないだろう。
農民の少女はパンを三分の一ほど食べると、己のずた袋へと仕舞い込んだ。
きっと、残りのパンは母親に食べさせる心算なのだろう。
「……お母さんには、パンを上げては駄目よ。スープにしておきなさい」
「え?」
翠髪のエルフ娘の言葉に、少女は目を瞬いて見返してくる。
「もしかしたら、内臓が傷ついているかもしれない。
だから、直るまではスープでね。ノアにも伝えてね」
「あ、うん」
色々と言い含めてから、エルフ娘は小屋を後にした。
歩き出そうとした瞬間、背中から声を掛けられる。
「ありがとう」
応えずに田舎道を歩き出すと、すぐ目と鼻の先の岩に黒髪の女剣士が腰掛けていた。
宴を抜け出してきたらしい。少し驚いて目を見張った。
「……何しているの?アリア」
「優しいことだな、エリス」
アリアは立ち上がると傍まで歩み寄ってきて、黄玉の瞳でエリスの顔をじっと見つめてきた。
「あの農婦。もう助からんのではないか?」
「……分からないよ」
憂鬱そうに暗い表情で答えた友人を見つめると、女剣士はそっと手を伸ばしてエルフの翠色の髪に指を絡めた。
「疲れただろう……旅籠に戻って休もう」