その日は、よく晴れた冬の空だったが、百人近い人数が埃っぽい地面を駆け回ったが故だろう。今は村全体が砂塵に覆われていた。
立ちこめる濃い砂煙で視界は悪く、わずか十間(二十メートル)も離れれば、相手の顔立ちすら定かではない。
田舎道を歩いていた女剣士が、ふと顔を上げた。今いる道は、特に見通しが悪い。
右手の奥の方で、何かが打ち合うような物音と共に、激しく言い争うような声が聞こえたような気がしたのだ。鋭い視線を向けて足早に物音の聞こえた場所に向かってみれば、村人と洞窟オークが藪の中で激しく争っている。
女剣士は黄玉の瞳をキュッと細めると、抜き身の長剣を片手に藪中へと踏み込んでいった。
ヒュッと息を吐くと同時に、背後から叩き込んだ袈裟掛けの斬撃が一撃で洞窟オークの命を奪い取る。
血飛沫を撒き散らして地べたに倒れた洞窟オークをもはや一瞥もせず、驚愕して立ち尽くしている村人をその場に残して、女剣士は再び田舎道を歩き出した。
時折、立ち止まっては何かを探すように視線を村の其処此処へと走らせているが、族長と思しき洞窟オークの姿は何処にも見当たらなかった。
女剣士は、苛立ちを隠しきれない様子で舌打ちした。オーク小人など幾ら集ろうが、体格差からも技量からも女剣士に抗しえる力は持たない。
だが、友人のエリスは非力な半エルフである。こんな連中でも脅威になるに違いない。此処は、見かけたオーク小人を一人でも二人でも片付けておくべきだろうか。それとも、エリスの捜索を優先するべきだろうか。
「……無事だといいが」
万が一を考えると、女剣士の背筋は不快にざわつく感覚に襲われる。暫し考えてから、虱潰しにしながら捜索しようと結論を出した。
エリス。腕はないが、あれであれでそれなりに用心深い性格をしているし、機転も回る。恐らく、どこかに隠れてやり過ごしているに違いない。戦には勝ったし、あとはオークを虱潰しにすればするほどエリスも安全になる筈だ。もう手遅れだった場合は……今は、考えまい。
族長を討ち取られて一敗地に塗れた洞窟オークたちは、逃げ道を求めて村内を逃げ回っていたが、漸く辿り着いた村の入り口にも、近隣からやってきた郷士や棍棒や殻竿、青銅の鎌を携えた農民が何十人と待ち構えていた。
「あ……新手かよッ!」
「……そんな!」
口々に悲鳴を上げて立ち止まった洞窟オークたちに、怒りに燃えた近隣の農民たちが喚声を上げて一斉に襲いかかって来た。元気一杯の郷士や農民たちに対して、長時間を戦い続けた挙句に敗れ去った洞窟オークたちは士気はどん底の上に疲労困憊している。疲れ切った洞窟オークたちでは、もはや、農民たちの勢いに抗すべくもなかった。
仲間たちが次々と打ち倒されていく中、大柄な洞窟オークが隣の洞窟オークに腕を引っ張られた。
「ここは駄目だ、南から逃げるぞ!」
「グ・ルム。こっちです!」
「……ああ」
数匹の手勢に囲まれた大柄な洞窟オークは、犠牲を払いつつもなんとか包囲網を抜けて、村の反対側へと逃げ出していった。
エルフ娘と農婦が河原へと逃げ延びると、そこには先に避難していた人々が集っている。
「……お母ちゃん!」
農婦の娘が母親の姿を見つけて、泣きそうな表情で胸へと飛び込んできた。
「大丈夫だよ。大丈夫」
娘を安心させようと、農婦は優しく言って聞かせる。
河原を見渡してみれば、集ってるのはかなりの人数で、こんな小さな村にこれほどの人がいたのかと、エルフ娘は戸惑いを隠せなかった。女子供に加えて、戦うには年を取りすぎているだろう老人、四肢に欠損があり戦力に数える事のできぬ村人、他には所在無げにうろついている旅人の姿も混じっている。
過去に受けた戦傷であろうか、左足の脹脛から下がない老人が杖を持って岩に腰掛けている姿を見て、エルフ娘は表情を曇らせた。
恐らくは、今日の戦で指や手足を失ってしまった村人もいるに違いない。
旅人の中には腰から剣を吊るした強そうな髭の男もいた。
村人からちらちらと視線を向けられていたが、気にした様子もなく手近な岩に腰掛けて何やら仲間と談笑していた。
エルフ娘たちからやや遅れて、灰色の服を着たホビットの農夫が河原へと飛び込んできた。
「勝ったぞ!勝った!」
河原の人々が顔を明るくして一斉に喚声を上げるが、ホビットは喚くように言葉を続けた。
「だけど、女子供はもう少し此処にいろ!オーク小人たちは村中にいるんだ!あいつらを追い出すまでは戻っちゃ駄目だ!」
腰に縋りついてきている娘の頭を撫でながら、農婦が笑顔でエルフ娘に頷きかけた。
「もう安心だねえ」
用心深そうな眼差しで村の方へと視線を走らせていたエリスも、農婦に頷き返した。
「そうだね……助かったみたいだ」
「……ッ!!……ッ!……めだッ!」
泣き喚く声や破れかぶれに叫んでいるような不快な声が耳に入ってきて、洞窟オークのゴ・ウルは目を醒ました。
「エルフ野郎は、いやがらねえ……」
エルフは、止めを刺さずに行ってしまったらしい。
「ちくしょう……舐めやがって」
立ち上がろうと身動ぎして、洞窟オークは凄まじい激痛に襲われて身体を丸めた。何をされたのだろうか。左肩に激痛が走っている。腕も動かない。凄まじい痛みは吐き気を催すほどで、全身から冷や汗が噴出してくる。汗だくで息を吸い込みながら、洞窟オークのゴ・ウルが休み休み身を起こして辺りを見廻すと、仲間たちが何やら叫びながら田舎道を駆け回っているのが見えた。
「もうあっちも駄目だぜ。反対から逃げよう!」
「どこからだよ!どっちにいっても、囲まれてるぜ!」
洞窟オークのゴ・ウルはよろめきつつ道まで出ると、何やら言い争ったり、泣き叫んでは右往左往している連中に近寄って話しかけた。
「グ・ルンの……グ・ルンの仇を見つけたんだ。手を貸してくれ、お前ら!」
「な、なんだ!お前!?」
びっくりしている洞窟オークを怒鳴りつける。
「聞こえないのかよ!グ・ルンの仇がそこにいるんだぞ!手を貸してくれ!」
「はあ?」
洞窟オークのゴ・ウルに怒鳴られた方は、怪訝そうな顔でぽかんとしていた。
「グ・ルンの仇をとるんだよ!」
「だって、お前。さっきからグ・ルムが討たれたってのに、何言ってんだよ!」
言い返されて、洞窟オークは絶句している、と他の洞窟オークたちは首を振った。
「仇討ちよりも何とか逃げねえとよ。邪悪な人族共に皆殺しにされちまう」
吐き捨てるように言ってから、洞窟オークたちは立ち去っていった。
「……嘘だろ」
洞窟オークのゴ・ウルは、暫らく途方に暮れた様子で立ち尽くしていたが、やがて複数名の叫び声が近づいてくるのに気づくとハッと顔を上げてから、慌てて近くへある葦の繁みへと身を潜めた。
仲間と合流しながら、暫らく村内を逃げ回っていた洞窟オークの族長グ・ルムだが、ついに足を止めると弱音を洩らした。
「だめだ。村の入り口にも人族の者共がどんどん増えている。もはや逃げ切れない」
「諦めんでくれ!グ・ルム!」
手下が叱咤していると、横から叫び声を上げて近づいてくる影が見えた。
一斉に武器を構えた洞窟オークたちだが、聞こえてきたのがオーク語の言葉なので警戒を解いた。
「おお!グ・ルム。流れ者共が討ち死にしたと話していたのを聞いて、このゴ・ウルめはてっきり……」
砂煙の向こうから、よたよたと駆け寄ってきた小柄な影は、同じ部族の洞窟オークであった。
「……ゴ・ウルか」
顔見知りが生き残っていたと知って、洞窟オークの長もホッと相好を崩してぎこちない笑みを浮かべる。生きておられたか!
「それにしても、よくご無事で!」
「……ジグ・ナがわしの身代わりとなって逃がしてくれたのよ」
沈痛な面持ちの洞窟オークの長に、忠実なゴ・ウルは絶句してから話題を変えた。
「それは……出口はまだありますぞ。まだ何人かの味方が南の方に逃れたのを見ました!
このゴ・ウルめが案内を」
「いや、皆が死んでしまった。わしの責だ。愚かなわしが、グ・ルンの仇を討つことに執着したから……今さらなんの面目があって帰れるだろう」
自棄になっているのか、それとも責任を感じているのか。大柄な洞窟オークの長は悔し涙を流しながら歯噛みしていたが、改めて生き残りの洞窟オークに訊ねかけた。
「だが、お主は何故逃げん?」
「グ・ルンの仇のエルフめを見つけてやっつけようと……ですが、此の様です」
顔を痛みに歪めながら折られた鎖骨を見せると、じっと見つめてから洞窟オークの長は、若い洞窟オークを呼んで、今すぐに村の南から逃げるように言い含めた。
「部族を頼んだぞ」と反論を封じてから、大きく頷いて獅子吼する。
「ようし、もはや夢は潰えた!帰っても皆に合わせる顔もない!
せめてそのエルフの首だけでも取って、弟の霊の慰めにしてやろう!」
他所から助けに来た農民たちや武装した村人が灰色の石くれが転がる河原を歩き回っていた。
未だに何匹かの洞窟オークが村の中を逃げ回っている故、女子供を守る為にも取りあえず屯っているのだが、勝敗が決した為か。洞窟オークの襲撃を警戒している筈の彼らのうちには、しかし、弛緩した雰囲気が漂っている。勝利に沸いている大勢の村人たちが、興奮冷めやらぬ様相で囁きを交わしていた。
「凄かったなぁ、あの姉さん」
「おいらも助けてもらったぞ」
「すげえよ。一人で何十匹も洞窟オークを切り倒してよ!」
黒髪の女剣士を褒め称える噂話を聞いて、満面の笑顔でニヤついているエルフ娘を不思議そうに眺めると、農婦は肩を竦めた。
「仲がいいんだねえ」
「無事でいてくれたからね、嬉しいとも」
上機嫌で頷いたエルフ娘は、我が事のように喜んでいる。
農婦は傍らの娘の頬を優しく撫でながら、頷いた。
「まあ、分からないでもないさ。あたしも……」
何かを言い掛けた農婦が、突然、口から血を吐いた。鮮血が、地面の灰色の石を赤く濡らした。何処からか飛んできた槍が、農婦の背中に突き刺さっている。
「……え?なんだ……これ」
「……おかあちゃん?」
「ノ、ノア?」
農婦が地面へと倒れかかるのを慌てて支えながら、エルフ娘は声を掛けたが、青銅製の槍の穂先は腹腔まで貫通している。一目見て致命傷だと思った。助けようがない。農婦は信じられないといった顔で、自分の胸から顔を出した槍を眺めると、泣きそうに表情をくしゃくしゃに歪めて娘に手を伸ばした。
「……ニーナ!」
「……外れたか!」
何やらオーク語で言いながら河原へ姿を現したのは、一匹の大柄な洞窟オークだった。傍らには、鎖骨の折れた洞窟オークが、エルフ娘を指差して喚いている。
「あいつです!グ・ルム!あいつです!」
「あ、あいつは……ッ!」
見逃した洞窟オークが仲間を引き連れて現れたことに、エルフ娘は驚愕し、ついで臍を噛んで己が甘さを悔やんだ。
ノアが死ぬ。私の責か?私があいつを見逃したから……
私の責で人が死ぬ。
強烈な恐怖と後悔がエルフ娘の胸の内に湧き上がり、心の柔らかい襞《ひだ》を鑢《やすり》のように切り裂いた。
二匹の後に続いて、洞窟オークたちが続々と葦の繁みを掻き分けて姿を見せてきた。葦の繁みから河原へと乱入してきたのは、つい先刻までは村人に追いかけまわされ逃げ惑っていた筈の一団の洞窟オークたち。
「女子供は、奥へ行け!」
「なんだ!何ごとだ!」
突然の乱入に、女たちから悲鳴が上がり、武装した村人たち。男衆や、女でも武装した者などは、慌てて武器を構えた。
一団の先頭には、大柄な灰色の肌をした洞窟オークが立ちはだかった。
小さい黄色い瞳に湛えたぎらぎらした殺気が、エルフ娘を真っ直ぐに貫いた。
私を憎んでいる?でも、何故?分からない。
だが、凄まじい負の感情が込められた憎悪の視線は、間違いなく彼女を射抜いていた。
エリスは息を呑んだ。かつてない恐怖に足が震える。
守られ易い中央にいながら、此処に留まっていては殺されると直感して素早く立ち上がった。
傍らには、石だらけの河原にへたり込んで荒い息をついている農婦がいる。助けを求めるよう、縋りつくような視線を向けてくる農民の母娘の存在に、エルフ娘は動きを止めた。
置いて逃げたら、彼女たちはどうなるだろう?
だけど、此処にいたら、私は確実に殺される。
エルフ娘の躊躇は、強制的に打ち切られた。葛藤している数秒の合い間に洞窟オークたちが吶喊してくる。大柄なオークと中心の数匹は、間違いなくエリスを目指して押し寄せてきている。
残党狩りの農民兵や村人が武器を構えると、喚声を上げて洞窟オークたちの一群に真正面から打ち掛かった。一瞬だけ目を瞑ってから、小さく悲鳴を洩らした母娘を見捨ててエリスは身を翻した。
助け合った顔見知りを見捨てることに忸怩たる想いを抱きながら、エルフの娘は助けを求めてる農婦ノアとニーナの母娘もその場に置き去りにして、一目散に逃げ出した。
大柄な洞窟オークは強かった。
その上、周囲にいる洞窟オークたちが必死の勢いで村人たちに襲い掛かり、血路を切り開いていく。
切りかかってきた旅の剣士や棍棒を振りかざしたゴブリンを突き飛ばして、大柄な洞窟オークは村人たちの列を突破した。
「追ってくだせえ!」
傍らにいた洞窟オークが、農民兵に切りつけながら大柄な洞窟オークへと叫んだ。
「おう!」
叫びながら追って来る洞窟オークに、後ろが気になって振り返ったエルフ娘は目を丸くする。
「……嘘!なんなの、あいつら!」
幸いにも農民の母子は乱戦に巻き込まれていないようだったが、数人を足止めに残して、大半の洞窟オークがエルフ娘だけを狙って追ってきていた。
特に大柄な洞窟オークは、人族やゴブリンに囲まれながら相手ともせずに突破している。体躯に劣る洞窟オークとしては、規格外な強さだろう。
何故、私を狙うのかは分からないが、捕まっては一溜まりもあるまい。
エリスは胸に罪悪感と焦燥を覚えながらも、田舎道を必死で逃げ去っていった。