「グ・ルンだ!グ・ルンを殺したエルフ野郎だ!誰か、捕まえてくれぇ!」
追跡者が張り上げる声が村道に響き渡ると、エルフ娘の行く手にある洞窟や繁みから数匹の洞窟オークたちが顔を出した。
ぎょっとしたエルフ娘の胸のうちで、心臓の動悸が跳ね上がった。
行く手を阻まれたか。いや、動きが鈍い。うん、今なら突破できる。
一瞬だけ目を瞠ったエルフ娘は、だが、瞬時に決断するや、さらに一層足を早めて村道を駆け抜けたが、追跡者の思惑に反して周辺に散って略奪に励んでいた数匹の洞窟オークたちは顔を見合わせただけで、誰一人エルフを捕まえようとする者はいなかった。
「こっ。此の野郎共!あいつはグ・ルンの仇なんだぞ!」
追跡していた汗だくの洞窟オークに詰問されて、歯の欠けた洞窟オークが鼻でせせら笑う。
「ああ、そうかよ。頑張って捕まえてくれ」
眼帯の洞窟オークが洞窟にあった柳の枝で作った篭を拾い上げ、眺めてから満足そうに手にしたずた袋へと仕舞いこむ。
「……知ったこっちゃねえよ。
俺たちゃ、美味い食い物や戦利品が期待できるってんで参加しただけよ。
大体、エルフの娘っ子なんざにやられちまうような奴だろ、
どのみち戦で死んでいただろうぜ」
一匹が吐き捨てると、他の洞窟オークも嘲笑してから再び略奪に励み始めた。
怒り狂った追跡者の洞窟オークが槍を構えると、他の洞窟オークたちが一斉に小さな牙を剥きだして武器を構え、追跡者を威嚇する。
「部族の戦士さまよ。勘違いすんなよ?ここにはお偉いグ・ルンの一党は一人もいねえ。
皆、何にも属していねえ自由の民よ!お前ら、飼い犬と違う誇り高い狼の兄弟たちよ!」
「……野良犬共がよ!畜生。俺だけでもグ・ルンの仇だけでも取るぜ」
「けっ……好きにしな。グ・ルムも旗色が悪そうだしよ。俺たちはそろそろとんずらするぜ」
放浪の洞窟オークたちの嘲笑を背中に受けると、悔しげに唸りを上げながら洞窟オークは再びエルフ娘の姿を追いかけて走り始めた。
今の問答で随分と引き離されている。これ以上離されたら姿を見失ってしまうかも知れない。
悲壮な表情を浮かべた洞窟オークは、心臓が割れても構わない心算で死に物狂いで足を動かした。
丘陵と沼地に面した村の一角へと逃げ込んだエルフ娘だが、件の洞窟オークがなおもしつこく追いかけてくる姿は遠目からも窺い見ることができた。
「そう上手くは振り切れないか。ああ、それにしてもしつこい奴だな」
軽く呼吸を整えてながら、エルフの娘はうんざりした口調で呟いた。
数箇所で上手く隠れた、或いは引き離したと思ったのに、執拗な性格なのか。仲間思いなのか。
洞窟オークは、やたらと執念深く追いかけてくるのだ。
朝から動き回っているエリスも、実は結構、疲れている。足も痛いし、喉も渇いていた。
水筒の水で口を潤おしてから、袖口で口元を拭って
「……あいつだって、喉が渇いただろうに」
角を曲がって姿を見せた洞窟オークを睨んでから、エルフ娘は逃走を再開した。
沼地に面した草地でエルフ娘を見失った洞窟オークは、途方に暮れた様子で周囲の背の高い繁みに視線を凝らしていた。
森エルフ族に隠れられたら、とてもみつからねえ。
だけど、探すんだ。グ・ルンの仇は絶対に取ってやらねえと。
暫らく周囲の繁みに槍を突き入れたり、払ったりしていた洞窟オークだが、足跡が村道のあばら屋へと向かっているのに目を止めると、意気込んで後を追って走り始めた。
「向こうに隠れやがったか!」
粗末なあばら家へと辿り着いた洞窟オークは、恐る恐る室内へと踏み込んだ。
乱戦の痕跡が残されたあばら家には、床に血痕と足跡、そして壊れた杖を手にした洞窟オークの死骸が転がっている。
ギョッとして後退りした洞窟オークは、仲間の死骸に恐怖を覚えたのか、落ち着かない様子で室内を見廻していた。
考えてみれば、単独行動している最中、他の手強い人族やホビットに遭遇しないとも限らないのだ。
急にこみ上げてきた恐怖に唇を舐めると、洞窟オークは自分に言い聞かせるように囁き声で呟いた。
「大丈夫だ……落ち着けよ、俺……エルフを探すんだ。此の辺りにいるはずだ」
きょろきょろと見廻すも、何処にもエルフ娘の姿は見当たらない。
あの足跡はエルフのじゃなかったのか?
不安に駆られて額の汗を拭った洞窟オークの目に、水の入った大きな壷が目に入った。
蓋が外されて、中には並々と水が満たされていた。繁みの直ぐ前に置かれている。
洞窟オークは壷に歩み寄ると、屈みこんで掌に水を掬い、喉を潤おした。
甘露の味わいに目を細める。
もう一口と気を緩めた洞窟オークが再び壷に手を伸ばしたまさにその瞬間に、横合いの繁みに潜んでいたエルフ娘が、まるで真横の位置に立つのを予期していたかのように飛び出してきて鮮やかな一撃を見舞ってきた。
思い切り叩きつけられた棍棒の強打に、洞窟オークの鎖骨が鈍い音を立ててへし折れた。
「ギャッ!」
激痛に飛び上がった洞窟オークに、エルフ娘は容赦を見せなかった。
さらに棍棒の第二撃を振り下ろすと、首の付け根を思い切り強打された洞窟オークはしゃっくりのような間抜けな音を洩らして地べたに伸びてしまった。
「あれだけ走り回ったんだもの……喉は渇くよねえ」
エルフの娘は、掌で水壷から水を掬い取ると口を潤おして笑った。
白髭のドウォーフの周囲では、逃げ惑う洞窟オークが怒り狂った人族やホビット、ゴブリンの農夫たちに追い掛け回されている。
今は死力を尽くして村人に抵抗している小柄な亜人たちだが、抵抗が尽きるのも時間の問題であろう。
毛皮のマントをつけた族長の首なし死体を一瞥したドウォーフの老戦士は、用心深く乱戦から距離を取りながら土手の上で休んでいる女剣士へと視線を向けた。
生かして捕まえたいとは言っていたが、難しかったのだろうか。
白髭のドウォーフは、土手の頂で億劫そうに岩に腰掛けている女剣士に歩み寄った。
「まずは、勝ったな」
嬉しそうに声を掛けてきたドウォーフほどには、勝利を素直に祝う気持ちになれずに女剣士は怜悧な顔立ちに何とも煮え切らない表情を浮かべて溜息を洩らした。
「討ち取った奴は影だよ。最後の護衛だろう。
族長であろう頭目を逃がす為に、マントを交換したのだ」
「……なんと」
絶句するドウォーフに鋭い一瞥を向けて頷いてから、女剣士は俯いて思案を凝らした。
族長を討ち取ったのと叫んだのは戦の趨勢を有利に傾ける為であり、詐術に誤魔化されてはいなかった。
「……敵ながら天晴れな奴よ」
黒髪の女剣士は忌々しげに賞賛しつつも辺りを見回すが、四方八方へ逃げ惑い散って行く洞窟オークのうち、誰が頭目格なのか。もはや見分けもつかない。
「洞窟オークにしては、大した忠誠心だな。名のある戦士でもおかしくない」
ドウォーフの言葉に頷きつつ、女剣士は何気なく呟いた。
「或いは腹心だったかも知れぬが……しまった!」
自分の口にした言葉に掌で顔を抑えて、黒髪の女剣士は呻き声を上げる。
「側近なら内幕を知っていたとしてもおかしくない。
腹立ち紛れに首を取ったが、生かしておいたほうが役に立ったかも知れぬ」
自身の言葉で自身の迂闊さに気づいて、苛立たしげに音高く舌打ちした。
集団戦から追撃戦に移行して、陣頭指揮を取る必要がなくなったからであろう。
それまで村人たちの指揮を取っていた村長が、乱戦の渦から抜け出して女剣士とドウォーフたちに駆け寄ってきた。
「た……助けられたねえ」
開口一番、喜色満面の表情で礼を言うが、女剣士とドウォーフは浮かない顔をしていた。
「ううむ。だが、族長を逃がしてしまったかも知れぬのだ」
白髭のドウォーフが女剣士の推論を打ち明けると、村長の顔も曇った。
「雑兵に紛れ込まれては、洞窟オークの区別など……」
首を振って呟いた女剣士に、しかし、村長が異議を唱える。
「いや、ずっと目の前にいたから分かるが、頭目格は他の奴よりもずいぶんと大柄な体躯をしていたよ。面魂も他の連中とは一味違ったし」
村長の言葉に気を取り直した様子で、白髭のドウォーフが鉄の槌を握りなおした。
「おう、それなら区別がつきそうだな。面魂も他の者とは違うのならば、今からでも追ってみぬか?」
ドウォーフは族長を探してみる心算らしい。
女剣士も頷きつつ、岩から立ち上がって愛剣の血糊を払った。
「そうだな。駄目で元々、やってみる価値はあるかもしれない。私も行くとしよう」
今だ喧騒に包まれている村内を見廻して、女剣士が歩き始めるとドウォーフが背中に声を掛けた。
「二手に別れた方がよかろうな。後で会おう、アリア殿」
「グルンソル、出来るだけ生け捕りでな」
「わかっておるわい」
言葉を交わして東西に足を向けたドウォーフと女剣士に村長が声を掛けた。
「ああ、あんたたち。後でお礼をさせておくれよ」
村長の言葉に頷きながら、ドウォーフと女剣士は二手に別れて田舎道を歩き出した。
何十人もの人間が一斉に叫んだような大歓声が、村の中央部の方から響いてきた。
びっくりしたエリスが立ち竦んでいると、目の前の村道を数匹の洞窟オークが必死に駆けてくる。
「やられた!グ・ルムがやられたぁ!」
「うわああ!追ってくる。お助け!」
駆けてきた洞窟オークたちが口々に叫んでいるその後方からは、鍬や棍棒を振りかざしている村人たちの姿が急速に迫ってきていた。
周辺を徘徊していたオークたちも、流石に動揺したのか。布や穀類の袋を抱えたまま右往左往し始めたり、略奪品を放り出して出鱈目に走り出したりしていた。
「旦那!ご慈悲を!仕えます!お仕えしますから!」
転んだ洞窟オークが怒り狂ってる村人に囲まれた。
跪いて慈悲を乞うが、村人たちは棍棒の打撃を雨あられと降り注いで、容赦なく殺してしまう。
「あっ……勝ったんだ」
ホッと溜息を洩らしてから、エリスは額の汗を掌でゆっくりと拭って地べたに座り込んだ。
今日は今朝から色々あって、流石に疲れていた。
意味もなく枯れ草や野花に視線を彷徨わせていたが、ふと隣で気絶している洞窟オークに視線を止めた。
殺しておくべきだろうか。
しばし思案を巡らせてから、溜息ひとつを洩らすとエルフ娘は踵を返した。
見逃すのは良くないかも知れないが、正味な話、エリスは殺生を好んではいなかった。
他の村人が殺すかもしれないが、其処までは責任をもてない。
旅人なのでいずれ此の土地を離れる予定であるから、怨まれても別に問題はない。
見逃した洞窟オークは、傷が癒えてから人を襲うだろうか。
できれば、後生は大人しく暮らして欲しいと思いながら、エルフ娘は草地を立ち去った。
エルフの娘は、疲れ切った足取りで村の片隅へと戻ってきた。
土壁の前に倒れている洞窟オークの横を通り過ぎ、繁みを掻き分けて荷物を隠した岩陰へ歩いていく。
「ああ、良かった。ちゃんとあった」
幸い、荷物は置いた時のままに放置されていた。
誰にも持ち去られる事もなく、荒らされた様子もないので、エリスはほうっと息を洩らして革鞄の紐を肩に掛けた。
「……」
その場を立ち去ろうとして、ふと何かに違和感を覚えたエリスは立ち止まった。
辺りに視線を走らせてみる。
特に異常はないように思えるが、何かが引っ掛かった。
よく考えてみれば、先ほどの道にぶん殴って倒れていたオークがいなかった。
意識を取り戻したのだろうか。だとすると……
訝しげな表情で考え込んでいたエリスは、幾らか注意力が散漫になっていたのか。
今度は自分が奇襲を受ける破目に陥った。
雄叫びと共に何者かが飛び掛ってきて腰の辺りに体当たりすると、華奢なエルフの娘はそのまま地面に押し倒された。
上に乗りかかったのは、倒れていた洞窟オーク。即頭部は腫れあがり、殺気の籠もった血走った目でエルフの娘を睨みつけてくる。
「死ね。しねええ!」
髪を振り乱し、食い縛った口の端から泡に似た涎を垂らして喚きながら、洞窟オークが石斧を勢いよく振り下ろしてきた。
大事な荷物といえども、命には代えられない。
エリスは咄嗟に革の鞄を盾にして防いだが、洞窟オークは、狂ったように幾度も幾度も石斧を叩き付けて来る。
もがいているものの逃げられない。
まるで氷塊が滑り落ちたかのように半エルフの背筋を冷たい感覚が走り抜けた。
「誰か!誰か、助けてええ!」
小柄な洞窟オークとは思えない恐ろしい力に叫び声を上げて助けを求めるが、誰もくる気配はない。
なんとかしないと……
洞窟オークは頭に血が昇っていたのか。
片手で鞄を盾にしながら、もう片手が蜘蛛のように地面を這いまわった。
砂粒、小石!何でもいいから。
目潰しになりそうな量を掴み取ると、不意を突いて洞窟オークの目に投げつけた。
不用意に投げつけた砂粒は、しかし、エルフ自身の瞳にも入り込んでしまう。
……しまった!ありえない!
視界を潰してしまいさすがに慌てながら、今度はむやみやたらと手を伸ばして闇の中で何かを掴んだ。
洞窟オークが唸り声を上げて、乱暴に何かを動かそうとする。
腕か!腕を掴んでいる。離したら殺される!
息も荒く必死に腕を掴んでいるが、洞窟オークも必死であった。
口を開くと二の腕に思い切り、噛み付いてくる。
「ぎっ……ァ!」
悪戦苦闘しながら揉みあっていると、横合いから誰かが駆け寄ってくる。
「大丈夫かい!」
横から洞窟オークに棍棒を叩き付けたのは、今朝方、助けた農婦であった。
必死の農婦に棍棒で乱打され、流石にたまらず洞窟オークは悲鳴を上げて口を離した。
農婦はそれでも攻撃の手を緩めずに滅茶苦茶に洞窟オークを叩き続ける。
洞窟オークは腕を伸ばして必死に身体を庇っていたが、やがて鈍い音と共に頭部に打撃を受けるとついに崩れ落ちてしまう。
「どうだい!がつんとやってやったよ!」
エルフ娘が安堵の溜息を洩らしていると、胸を張った農婦が手を差し伸ばしてきた。
「……助かったよ」
謝意を述べると闊達に農婦は笑った。
「命の恩人だからね。あんたには、助けられたから……
それに、今朝のことも謝ってなかったし」
云って照れくさそうに頬を掻いた。
エルフ娘も笑うと荷物を拾い上げ、二人は安全であるだろう河原へと向かって歩き始めた。