大きく見開かれた蒼い目をそっと閉じさせてやると、アリアはエリスの傍らに座り込んだ。
赤毛の村娘は、所在無げに後ろで二人を見つめている。
長い間、黒髪の娘は地に倒れた半エルフをじっと見つめていたように思えたが、実際には四半刻程度だろう。
周囲に冷たい風が吹き始めて傷ついた躰を冷やし始めてると、漸く諦めたのだろう。
「また守れなかったか。そして君も、私を残して逝ってしまうのだな」
陰鬱な溜息を洩らしながら女剣士は立ち上がり、それでもやはり離れがたいのか。
針葉樹の前で亡骸に淡々とした口調で話しかける。
「なあ、エリス。私と知り合わなかったらまだ生きていたか?それとも……
どっちが良かったんだろうな。エリス・メルヒナ・レヴィエス」
エリオンの森の片隅に、老いたエルフが小さな庵を編んで暮らしていた。
簡素な骨組みに藁葺きの庵で、薬草や鉱石、本、得体の知れない動物の骨などが一見、乱雑に床の上に転がっている。
老エルフは薬草師であった。腕は確かであるが、偏屈な人間嫌いで通っていた。
村の薬草師の手に負えない病人が出た時を覗けば、半エルフ族の集落からも離れた此の庵を訪れるのは、集落の読書好きで好奇心旺盛な少女くらいのものだった。
春先であった筈だ。解き掛けた雪から地面が顔を出していたのを覚えている。
時刻は夕時で外には夕闇が迫りつつあったが、囲炉裏に炎が踊っていたから寒くは無かった。
「……黄泉の眠り」
エルフの少女は聞き慣れぬ言葉を舌の上で転がしてから、棒で鉢に入れた薬草を磨り潰している薬草師へと訊ねかけた。
「なにそれ?」
手元の作業を休まずに老いたエルフ薬草師は、翠髪の少女の問いかけに答える。
「心の臓が止まり、一見、死んだようになった人間の事じゃよ」
読んでいた薬草学の本から顔を上げて、少女は眉間に皺を寄せながら言った。
「それは死んでいるのとは違うの?お婆」
磨り潰した薬草に何やら怪しげな鉱物の粉を足しながら、老婆は手をひらひらと動かしている。
節くれ立った老エルフの指は、宙に複雑な紋様を描いていくのだが、少女にはただ指を動かしているようにか見えなかった。
焚き火の炎が壁に奇怪な影絵を浮かび上がらせている。
「違う。死んだ者はけして生き返らぬ。また、黄泉返ってもならぬのじゃ。それが自然の摂理というもの」
老婆の返答に、年若きエルフの少女は形のいい耳をピクリと動かしながら疑問を抱いた。
何故、死者が甦ってはならないのか。
親しい者が生き返るのならば、それは喜ばしい事ではないのか?
エルフの少女には納得のいかぬ言葉であったが、今は黄泉の眠りについて聞くのが先だろう。
「しかし時折、生と死の曖昧な境目に立つ者がいる。それが黄泉の眠りじゃ。
そして今から、黄泉の眠りに陥る為の薬草と、覚醒の為の調合を教える」
少女が頷くと、薬草師の老エルフは射抜くように鋭い視線を少女の瞳に向けた。
「念の為に言っておくが努々悪用してはならぬぞ。イリス」
「……私はエリスだよぅ」
双子の妹とも間違われて、エルフの娘はぶすっとして口を尖らせる。
老婆が暫し沈黙した。気まずげな空気が舞い降りる。
「……済まぬ」
「……別にいい」
親でも見分けが付かないのだ。
おかげで、しょっちゅう妹の悪戯のとばっちりを受けさせられていた。
「お主ならまず安心じゃな」
エルフ少女の機嫌をとるように老婆が言葉を続けた。
それまで読んでいた本を床に置くと、エルフの少女は訝しげに首を微かに傾けた。
「……悪用されるのが。
というより、それ程に危険なものなら、別に教える必要はないと思うよ。お婆。
私は未熟だし、イリスは悪戯者だもの」
立ち上がりながら少女がスカートの塵を叩くと、老婆は驚くほどに強い声音を出した。
「ならぬ。御主は否が応でも習熟せねばならぬのだ。
いずれは、薬草無しでも黄泉の眠りに陥れるようになる必要がある」
偏屈とは言え、普段の老エルフとは似合わぬ厳しい口調に対して、少女は戸惑いを隠せない。
「何故……理由が在るのね?」
「此れは本来、光エルフや森のエルフが、忌まわしき闇の者共に捕らえられた際、長く苦痛に満ちた死を逃れる為、そして魂を奪われ、より恐ろしい運命に陥るのを避ける為に作り出された調合じゃ」
突然に聞かされた話の、だが恐ろしさよりは現実感の乏しさにエルフの少女は微かに首をかしげた。
エリオンは基本的に平穏な森である。
閉じているが故に外国人の盗賊やオークも滅多に出ない土地柄で、荒事といえば精々が木を切ろうとする近隣の村の人族や、水場を巡っての森ゴブリンとの小競り合いくらい等である。
闇の者などといわれても、エルフの少女には御伽噺に出てくる悪役くらいの存在感しかない。
少女の困惑に気づかないのか、老婆は言葉を続ける。
「じゃが、生と死の狭間で人の魂は無防備となる。
故に暗示を掛けるなど、悪用しようと思えば恐ろしい力を持つのじゃ」
暫し押し黙ったままに囲炉裏に踊る炎をじっと眺めてから、少女は沈黙を破った。
「だけど、私は森エルフではないよ」
「それが良いことなのか、悪いことなのかは分からぬが、おぬしたち姉妹には生まれつき古き森の子等の血が色濃く出ておる」
言われて少女は、春の新緑にも似た自身の翠の髪先を撫でた。
「いずれ、闇の者共と対峙せねばならぬ時が来るやも知れぬ」
闇エルフか。本当にいるのかな。
老婆の重々しい言葉とは裏腹に少女は危機感のない様子で返答した。
「大丈夫だよ、婆ちゃ。だって、私はずっとエリオンで暮らす心算だもの。
森を出なければ、そうそう闇の者に出会うこともないしね」
老婆は苦く微笑みを浮かべながら、少女の頬を撫でた。
差し出された老婆の皺だらけだが暖かな掌に頬を当てて、少女は心地良さそうに目を閉じる。
「本当にそうなればよいのう」
悲しげに目を伏せながら、ぽつりと呟いた老婆の声が奇妙に大きく少女の耳に響いた。
冷たい。痺れる。体が動く。動かない。
そんな感覚さえ何一つ無かった。何も感じない。
虚無だ。
自分が起きているのか、横たわっているのか。
そもそも躰があるのかも分からない。
考えてみれば、随分と分の悪い賭けであった。
相手が間抜けでなく、容赦なく止めを刺してきたらそれでお終い。
五分五分で生き返れば無いでも、やはりお終い。
目覚めるのに余り長い時間が掛かっても、まずい。
動物なり蟲に喰われるなり、障害を負うかも知れない。
しくじったのだろうか。そもそも死んだ振りに使うものではないから。
此処は冥府だろうか。本当に死んでしまった。
いや、考えられるなら、私は生きてるのか。
でも、何も思い浮かばない。
思い出せない。自分の名前も思い出せない。
名前とはなんだ。自分とは。
闇に解け往く小さな意志に、何処からか遠い呼びかけが聞こえてきた。
「…………ス……」
そんな名前だったか?
果てから響いてきた憂いを帯びた綺麗な声が、意志を急速に呼び上がらせていく。
視野に急速に色が甦り、音が光を伴って弾け
微かに躰を揺らしている。
始めは目の錯覚かと思った。
だが、確かに唇から意味を持たない呻き声が漏れているのを耳にした。
指先が痙攣し、目が引き攣ったようにエリスの蒼い目がゆっくりと見開かれる。
痙攣が大きくなっていく一方で、アリアは喜色を顕すでもなく、しなやかな動きで立ち上がると冷静に距離を取った。
生き返ったのか、それとも……
足元に転がった長剣を拾い上げる。血糊が綺麗に流されていた。
磨いてくれていたのだろう。此れを洗う為にやってきて襲われたに違いない。
祖父の思い出の品とは言え、生きている友人に比べれば比べ物にならないものを……
唇を噛みながら、動き出したエルフの娘をじっと見つめる。
「わっ!わっ!生き返った!」
「そう思うか?」
傍らで五月蠅く騒ぐ村娘を一瞥しながら、動き出した友人をじっと見つめる。
エリスの顔色は土気色のまま、口元から緑色の液を吐きながら、ぎくしゃくとした動きでゆっくりと上半身を起こしている。
アリアの喉元が痙攣し、一瞬だけ苦しげに顔を歪めてから冷たい顔つきとなる。
前にも合ったのだ。
戦場で死んだと思えた友人が起き上がって、息を吹き返したかと糠喜びしたら不死となっていた。
あたら剛勇の騎士であった為に、迂闊に近づいた兵士が腕を引きちぎられたほどの怪物となっていた。
エリスも、激しい怨嗟を抱いて死んだに違いない。
そしてエルフ族の血肉は精霊に近い種族とも言われている。
たかがゾンビとは言え、その不死はどれほどの力を持っているだろうか。
短い付き合いとは言え、友人であったのだ。
もし彼女が不死となっているならば、地上を彷徨うよりは此の手で始末するべきであろう。
危惧しながらも切りかかる心算になれずに話しかける。
「最初に出会った時には、こんな終わりを迎えるとは思わなかったぞ、エリス」
黒髪の娘の声に翠髪のエルフは再び瞬きをして、話掛けた女剣士をじっと見つめる。
助けを求めるように手を伸ばしながら苦しげに喘いで、目を閉じると再び仰向けに倒れた。
「……エ……リ……」
口元から意味のある言葉。自らの名前を呟きに洩らしているように女剣士には聞こえた。
踏ん切りがつかないまま、アリアは迷っていた。
生きてるのか。それとも耳の錯覚だろうか。
ええい、侭よ。黒髪の娘はゾンビに襲われても構わぬと踏み込んだ。
「エリス。分かるか?エリス・メルヒナ・レヴィエス」
話し掛けながら慎重に歩み寄り、倒れているエルフ娘の傍らに跪いた。
「……エリ……」
エルフ娘は閉じていた蒼い瞳を真っ直ぐに見上げて、女剣士を見つめる。
「……エリス・メルヒナ・レヴィエス……思い出した……私の名前だ……」
黒い痣の刻まれた喉元を蠕動させて、エリスは酷く潰れた老婆のように醜くしわがれた声であったが、はっきりと呟いた。
「……アリア……貴女が呼び戻してくれた……アリアテート」
苦しげに呻いている翠髪のエルフの土気色だった顔に、幾ばくかの血の気が戻りつつあった。
もう間違いなかった。蘇生したのだ。
黒髪の女剣士が頬を撫でると、翠髪のエルフは薄い微笑みを浮かべながら心地良さそうに目を閉じた。