身内を亡くした雌のオークや子供のオーク達の悲痛な甲高い叫び声が、幾十と連なって草原に木霊していた。
連れ合いや息子、或いは父親を亡くしたオークたちが、その亡骸に縋りついて身も蓋もなく泣き叫んでいた。
のた打ち回ったり、狂ったように叫び続けている雌のオークもいた。
他方には、父親の一部を切り取って口に入れるオークの子供もいる。
それで父の強き血と肉が子へと受け継がれ、子供はより強く成長すると信じられていた。
その風習自体がかつて矛を交えた戦士種族の模倣ではあるが、今は力を求めるオーク達の間で深く根付いていた。
何処からか朗々とした詩吟の声が響いてきて、ガーズ・ローの耳を打った
見てみれば、老いたオークの吟遊詩人が坂の上にたたずみ、死者に向かって両手を伸ばしながら朗魂送りの詩吟を唱えていた。
比べれば拙い歌声ながらも、詩人を取り囲んだ弟子らしき数人の若いオークが唱和している。
種族や信仰する神を問わず、弔いの夕べに魂渡りの詩吟を諳んじるのは、北の高地地方において広く行われている風習だった。
此れを行わないと死者は安んじて冥界の門を潜る事が出来ず、最悪、不死となる恐れもある。
神聖な儀式でもある魂送りの儀式を横目で見ながら、黒オークのガーズ・ローは、部族の有力なオーク達が話し合ってる農家へと歩み寄っていく。
次期族長と目され、部族でも高い地位についているオーク達は、だが有力では在るがさして有能な訳でもない。
顔を寄せ集めて先刻から埒もなく話し合いを続けているが、一向に何らかの結論が出てくる様子もなかった。
突然の族長の死と損害の大きさに動揺を隠せない様子で、常態の怒鳴りあいやいがみ合いも鳴りを顰め、
不景気な顔で互いに睨み合いつつも、普段とは打って変わってむっつりと陰気に黙り込んでいた。
黒オークが顔を見せると、オーク達の誰もがホッとしたように顔を上げた。
「おう、ガーズ・ロー」
「一体、なにがどうなっている?説明してくれ」
口々に説明を求めてくる幹部達に、ガーズ・ローはつっけんどんな口調で言った。
「ラ・ペ・ズールが殺された。殺したのは村人の一人だ」
「村人?村人共が此れをやったのか?」
まずは言うべき事を云う為に、黒オークは手を上げて、更なる質問を牽制する。
「一から説明すると、族長の甥であるオ・アッゾが宴の席でサルの雌奴隷に殺されたのが始まりだ。
奴隷はその場を逃げ出し、族長は手勢を連れて追跡に出た」
「其処までは知ってる。さっさと要点を言え」
若いオークがせっかちに先を促がした。嘲りを孕んだ尊大な口調。
己を有能かつ偉大そうに見せようと肩肘を張っている。
「……早々に族長気取りか?偉そうに」
オークの部族社会では、舐めた口調をされて放っておくと、それだけで軽んじられ、生きづらくなる社会なのだ。
ガーズ・ローは心の底から馬鹿馬鹿しいと思いながらも、面子を守る為に沈黙し、睨みつけると若いオークは口篭った。
「他の奴から聞くがいい」
云って、黒オークが踵を返した。
「ガーズ・ロー。此の馬鹿は放っておいて話を続けてくれ」
血の気の失せた顔で立ち尽くしている若いオークを、他の有力者がにやにやと眺める。
次期族長として権威と権力を示そうとして、逆に衆目の中で面子を失った。
こんな簡単なことでもう族長の目はなくなる。
一方で、他のオークたちはガーズ・ローを侮りをそのままにしない男と見做し、黒オークはさらに一目置かれるだろう。
まるで子供の意地の張り合いだ。
駆け引きを心底から馬鹿馬鹿しいと思いつつ、黒オークは状況の説明を再開した。
「村に迷い込んでいたらしいサルの剣士とエルフの娘だ。剣士は恐ろしい手練だった。
或いは、腕長のガル・グや騎士討ちガンハッグに匹敵するかも知れん。」
「馬鹿な。何を云ってる」
幹部の一人が喚くように云った。
片や、トロルの戦士を決闘で倒したオークの勇者、片や人族の騎士団長を討ち取り、戦場でのオーク族の勝利に大きく貢献した北のオークの英雄の名に困惑する。
「俺の知る限り、単独で二十もの戦士を屠れそうなのは奴らくらいだ」
北にいた頃のガーズ・ローは、それらオークの高名な戦士たちと交友を持っていたから話には説得力が在った。
云いながらも内心では、その豪傑たちでさえ単独では到底こんな真似は出来ないと考えていた。
オーク二十匹は勿論、その半分さえ相手取れるか怪しいものだと思っていたが、無論、表情には億尾にも出さない。
「一人。此れを一人でやったというのか!」
悲鳴を上げるように、目をひん剥いて恐れの表情を浮かべていた。
「なにかの間違いではないのか?!」
「だが、酋長を……酋長の仇を取らなければ、我らタータズム族の名は地に落ちるぞ」
騒いでいる幹部オークたちを落ち着けるように、黒オークは敢えて冷静な口調で話を続ける。
「話は最後まで聞け。此の虐殺を為したのと、ラ・ペ・ズールを殺したのは、別の者だといっているだろう?」
「殺したのは誰だ?」
「ただの村人よ。見ていた者たちの言うところでは、大族長ラ・ペ・ズールが剣士と和平を結んだ所を騙まし討ちにされたらしい」
いずれ尊いオークの血を流した彼奴らサル共には、その百倍の血で購わせねばならん。
だがその前に、まずは卑劣にも酋長を騙まし討ちしたその村人を血祭りに上げ、ラ・ペ・ズールの無念を晴らさねばなるまい。
それがタータズム族の有力者達がだした結論だった。
嬉々とした様子で抵抗も出来ない女子供を血祭りに上げる様を計画しているオークの有力者たちを前に、湧き上がってくる蔑みを鉄面皮で隠してガーズ・ローは佇んでいた。
戦場で殺された戦士達の倍の人族の戦士を屠ってオーク戦士たちの魂を慰めるのだとか、勝手気ままに放言している。
黒オークのガーズ・ローにしてからが、裏切りと陰謀が常の人族や、高慢にして冷酷なエルフ族を嫌ってはいるが、だからと言って無力な女子供を殺して悦に入るようなやり方を好んでいる訳でもない。
肩に伸し掛かってくる徒労感に、ガーズ・ローは顔を顰める。
「……で、追跡はどうする?」
「追って捕らえよ!八つ裂きにするのだ!」
「南北の街道には、既に追っ手と哨戒を出した。が、網を張るには人数が足りん。
俺達は此の辺りの地理に詳しくはない。
対して村人、そして恐らくは旅の者も周辺の抜け道や間道を周知しているだろう」
黒オークに対して、オークの有力者達が激昂する。
「取り逃がしてはならぬぞ!ガーズ・ロー!」
「言い訳は許さぬ!取り逃がせば、お前もただでは済まぬ!」
ガーズ・ローは、剣の柄を分厚い掌で撫でながら、冷たい無情な瞳で脅してきたオークを見つめた。
「ほう?なにがどう、ただではすまんのだ?」
脅し文句を口にしたオークが黒オークの鋭い視線に凝視されてうっと息を飲む。
「俺に命令するな。お前らは族長ではない。今は、まだな」
ガーズ・ローは考え込むように顎を指で撫でた。
「それとも手勢を連れて自分で出るか?
その場合、捕まえられなかったらそいつにも責任は負ってもらうがな」
実際には誰かを責める際には居丈高になるが、自分が責任を負わされるのは御免な奴ばかりのようで、オークたちはいっせいに黒オークから視線を伏せたり逸らしたりする。
まるで出来の悪い喜劇だな。
馬鹿馬鹿しいが一々言質を取っておかないと、後で責任を追及されたりもする。
情けない光景に忸怩たる想いを抱きながら、ガーズ・ローは言葉の矛を収めた。
「俺は誰が族長になろうと文句はないし、自分が族長になる気もない。
族長の仇を討ちたいのは、皆、一緒だろう?それに、手がない訳でもない」
「……では、どうしろというのだ?」
ガーズ・ローへの認識も変わったようだ。
口先で脅せば走狗に出来る男ではないらしいと、有力者たちが話を聞き始めていた。
漸くに意見を纏めたと見てから、黒オークは提案する。
「黒エルフは……奴らは曠野の生活においての狩りと追跡の名手でもあるから、雇い入れるのだ」
ガーズ・ローはチラリと横目で窓の外にいる取引相手の黒エルフたちを窺った。
荷車の周りで何やら忙しく立ち働いている彼らの大半は黒檀の如き肌をしていたが、数名は褐色の肌を持っている。
どんな視力をしているのか、放浪のエルフの一人が見られている事に気づいたらしい。
或いは、鋭い聴力によって話を聞いてさえいたのかも知れない。
楽しんでいるような笑顔を浮かべて、黒オークに手を振っていた。
「黒エルフは貪欲な商人だ。既に沢山の物をわしらからだまし取ってる」
オークたちはあからさまに渋い顔をした。
「我ら、高貴なオーク族が卑しい黒エルフの行商人共に力を借りるのか」
不貞腐れたり、苛立たしげに舌打ちするオークもいた。
舌打ちしたいのは此方だと思いながら、ガーズ・ローは説得を続けた。
面倒臭いと思う。本来、交渉など彼の得意とする領分ではないのだ。
「力を借りなければ、逃がす恐れがあるぞ。
俺たちは既にして、もう危険なほどに遅れているのだ」
「移動すべきだな」
物憂げに呟いた黒髪の女剣士を凝視してから、エルフの娘は頭を振った。
「無理だ。少なくとも一晩は休まないと」
手当てをする前に、傷口の洗浄だけはしておくべきだった。
血に染まって切り裂かれたアリアの上着の服を脱がせると、形のいい双丘が露わになったが、
美しい小麦色の肌にものたうつ赤い蛇のような傷がはっきりと刻まれており、翠髪のエルフ娘は微かに息を呑んだ。
四箇所か、或いは五箇所か。全身に切り傷や刺し傷を刻まれながら、幸運にもその全てが急所を全て避けていた。
出血の割りに傷も浅い。いや、恐らく幸運の賜物ではないのだろう。
大人数を相手に幾度となく疵を負いながらも、深手を受ける事は避けていたのだ。
自分だったら間違いなく膾にされている。戦士の技とは凄いものだと思いながらも、傍目にもアリアが疲労困憊しているのは明らかだった。
今も青い顔をして、少し喋っただけでだるそうにしている。
「今日は休んで、明日移動しよう」
せめて一晩は休ませたかった。
懸念していた出血も思ったよりは少なく、危険なまでの量を失った訳ではないから、
一晩をじっくり休ませれば幾ばくか体力も回復する筈であった。
エリスの提案に、アリアは鋭い眼差しを伏せるようにして沈思していた。
残り少ない水を飲ませてから、全身の傷口をよく洗っていく。
アリアは痛みに目を瞑り、歯を食い縛って耐えているが、額には脂汗が吹き出して、時折、辛そうな呻きを洩らしていた。
肩や太股、脇腹や胸など大小の目に付いた傷を全て洗ってから、油脂にタンポポやガマの穂に混ぜた血止めと毒消しの膏薬を塗り、最後に清潔な布で包帯を締め始めた。
本当は布も煮沸したかったし、薬も古いものだから効き目は薄いだろう。
くどくどと言い訳しながら、エリスは止血を優先した巻き方で傷口を塞いでいく。
包帯の上から改めて別の布でややきつめに縛り、兎に角、アリアの手当てを終えてから、
顔をそっと覗きこむ。
「本当は縫いたいんだけど……此処だとしっかりした手当てはできないし」
呟いた半エルフだが、手当てするには綺麗な水が必要不可欠で、しかし残りは少ない。
黒髪の女剣士は全身から脂汗が吹き出していたが、出血は殆ど収まってきた。
「……躰を洗いたいな。べとべとする」
乱れた黒い前髪をかき上げながら、全身を朱に染めたアリアは脱力して、溜息を洩らした。
ずたずたに切り裂かれたお気に入りの上着を手にとって凝視してから、アリアは悲しげに鼻を鳴らすと襤褸布と化したそれを床へと投げ捨てた。
「直ぐに移動したほうがいいと思うがな」
予備の衣服を着込みながら、明晰さを回復した口調でエリスに話しかける。
「だけど、もう夕方でじきに日も暮れる」
破れた天井から覗く空の色は徐々に茜色に染まりつつあった。
「だが、オークなら兎も角、黒エルフ共に追跡されたら不味かろう」
懸念を口に出されるとエリスも内心、不安になったが、アリアはつい先程まで気絶していたのだ。
距離を稼いだ方がいい選択なのは重々承知していたが、今、動くのはどう見ても無理が在った。
「在るかな?族長を殺されても連中は動かなかった。それに水が足りない」
躰を拭ったり剣を磨くのは愚か、手当てにするにも移動するにも、綺麗な水が足りない事を告げた。
「……集めてこないと」
やや強引に話を打ち切ってから、空の水筒を五つぶら下げて立ち上がった。
「今は此れを飲んでいて」
最後の水筒を泥だらけの床に横たわった黒髪の女剣士に渡すと、屈みこんで顔を近づけた。
「もし綺麗な水が見つからないと、それだけで一晩、持たせないといけないから。
飲む時は少しずつ、ゆっくりとね」
「分かってるさ」
耳元で口煩いのに苦笑して、アリアは頷いた。
心配しているのは分かるから、小言も嫌な気持ちにはならない。
頷いて立ち上がったエルフ娘だが、やはり疲れているのだろう。
何時もに比べてやや重い足取りで外に出ていくのを見送ってから、黒髪の娘は水を一口だけ含んで喉を潤おした。
愛剣が血糊に汚れているのが気になったが、どれ程水が大切かも重々承知している。
「……砥石も掛けられんな」
廃屋に漂う空虚な静寂にどうにも落ち着かなかったが、エリスの云うとおりに、少しでも体力の消耗を抑えようと、横たわって目を閉じた。
恐らく時間が経てば、今は麻痺している傷の痛みが猛烈に全身を襲うに違いない。
苦痛は嫌いではなかった。少なくとも生きている証に思える。
やがて目を閉じてるうち、疲労したアリアの意識は緩やかに闇へと落ちていった。
丘陵と丘陵の谷間である麓には、幾つかの粘土壁の廃屋がまばらに点在している。
昔は此の辺りまでモアレ村の一部だったのかも知れない。
水の手が枯れたとか、亜人が増えたとか、何らかの理由で破棄されたのだろう。
「……人が暮らしていたなら井戸もある筈」
独り言を呟きつつ廃村を見回しながら、翠髪のエルフ娘は助けになりそうなものを探して歩いた。
家屋の中心に近い位置に向かうものの、だが其処にある古い井戸は枯れていた。
舌打ちすると、今度は自然豊かな丘陵の斜面へと向かった。
指先で地面に触れると土は微かに湿っている。雨をたっぷりと吸い込んでいるようだ。
植物が茂っているのだから、水の手は在るだろうとエリスは推測する。
薪になりそうな枯れ枝を集めたり、水気のある紫色のベリーなんかを詰んだりしつつ歩いているうち、やがて目当ての植物を見つけて足早に駆け寄った。
緑の蔦に絡まっている捻れた白っぽい巨木であった。
見上げてから、水を貰うねと謝意を呟くとエルフの娘は木々に絡んでいる蔦を小刀で千切った。
空の水筒を木の枝に縄で縛り付けて固定すると、蔦の先端部を水筒の口へと差し込む。
やがて蔦の先端に水滴が生まれ、滴り落ち始めた。
こうしていると一晩で一口か二口の綺麗な水が溜まるのだ。
勿論、足りる量ではないが、かといって有ると無いではだいぶ違う。
他の水筒も、蔦や蔓を千切って同じように水を溜める仕組みにする。
全ての水筒を彼方此方に設置し終わると、エリスは溜息を洩らして高い空を見上げた。
夕暮れの茜色が徐々に大空を覆いつつあった。
もうじき日が暮れる。その前にしておく事はないだろうか?
傷は洗った。縫うには水が足りないが取りあえずの手当てはした。
一番大切なのは、夜の間に怪我人の体温を保つ事。
一晩中、火を焚けるだけの薪を確保しておかなければならない。
それから兎に角、水を飲ませる事。
幸い、辺りには水気を豊富に含んだベリー類が散見している。
自分が水を飲まず、水筒の水と木々から貰った分を廻してぎりぎりか。
考えながら歩きまわっているうちに、窪んだ地面に水が溜まっているのを見つけた。
飲んだり、体を洗うには不向きだが、剣を洗うにはいいかも知れない。
取りあえず、集めた薪だけでも小屋において、剣を持ってこよう。
枯れ枝を両腕一杯に抱えたエリスは、踵を返してアリアのいる小屋へと歩いていった。
辛くも村から脱出した三人の村人は、モアレ東部の丘陵地帯を南に大きく迂回する形で間道を進んでいた。
丘陵と丘陵の狭間を縫うようにしながら、時に木立と根が生い茂り、時に起伏が激しい間道を慎重に進んでいくのには訳がある。
人口密度は低いながらも、丘陵地帯の深い処にも僅かだが人が暮らしている。
丘巨人を筆頭として、人族やホビット族の追放者、半オーク、洞窟オーク、ゴブリン、どぶドウォーフなど雑多な住人たちが思い思いに丘陵の彼方此方に住み着いているのだ。
彼ら丘の民は基本的に閉鎖的で排他的であり、村人に会っても非友好的な反応を示すのが殆どだった。
流石に村人とは多少の交流はあったものの、縄張りに入ってくる余所者に対してはけしていい顔をせず、 旅人に対して追剥になったり、村人からすればまれに家畜を盗まれたり、畑を荒されるなどあまり愉快ではない隣人たちであったから、彼らの縄張りは避けて然るべきであった。
彼らは誰に対しても不愉快で排他的な存在であったから、例えオーク部族が追ってきて丘の洞窟オークや半オークたちと遭遇しても、ひと悶着ある事は間違いなかった。
まして人族やホビット、丘巨人なら尚更であった。
とは言え、部族のオーク達が踏み込んでくるなら大人数であろうし、人数の少ない丘陵の民は、
恐らく大人数の武装集団と戦うよりは隠れてやり過ごす事を選ぶだろうから、足止めを期待するのは虫が良すぎるというものだった。
三人の村人は丘陵の高い位置に昇って、岩に腰掛けながら休憩を取った。
「ここら辺は皆の共有地だ。逆に云えば誰の縄張りでもない。
此の岩からは、街道を往来する旅人や近づいてくる者が一目で見渡せるのさ。
しかも、向こうからは頂が影になって見えないんだ」
ジャンが口を開いて説明すると、屈強な青年は露骨に感心した様子を見せた。
「よく知ってるなぁ」
「僕の家は丘の民と長年、商いをしていたからねぇ。
連中に布や服を売ってやって、毛皮や薬草なんかと交換する。
餓鬼の頃から十余年も付き合いがあればさ、多少は気心も知れる」
それでも迂闊に縄張りに入るべきではないよと云いながら、身なりのいい青年は干し豆を口に運んだ。
「友達もいるんでしょう?通してもらえないの?」
赤毛のジナの当然の問いかけに、ジャンは曖昧にほろ苦い笑みを浮かべた。
丘の民は、他所で散々に痛めつけられて最後にどうしようもなくなって此処に逃げ込んできた奴らの集まりだ。
だから連中自身にも、己の中にある他人を恐れ、疑う気持ちはどうにもならないのさ。
長年付き合った末、ほんの少しだけ丘陵の民の胸のうちを理解できたような気がしたジャン青年は、しかし何も言わなかった。
云っても分かるまいし、軽々しく口にするべきでもないと思ったからだ。
「残念だけどね、どうにもならないんだよ」
少し暗い声で呟いて、代わりに周囲に視線を配った。
今のところ、オークの追っ手は影も形もない。何とか自分と、友達二人だけは救えそうだった。
丘陵の稜線や狭間にも、近くに人影は見当たらなかった。
だが、その更に向こう側。丘の麓に、遠目にふらついている人影に気づくと、さっと顔を強張らせた。
「誰か近づいてくるぞ!」
仲間たちに警告を発しながら稜線に身を伏せて、青年は目を細めて様子を窺う。
「……何者だろう?オークかな」
赤毛の村娘が呟きながら目を凝らした時、屈強な青年が大音声で呼ばわった。
「いや、あれはクームではないか!」
顔見知りと気づいた屈強な青年が立ち上がろうとするのを、身なりのいい青年が慌てて腕を掴んで押し留めた。
「待て!声を出すな!」
「な、なんでだ!」
戸惑う屈強な青年を制止しながら、身なりのいい青年は低く囁いた。
「オークを引き連れているかも知れない」
追っ手が近くにいるのではとの危惧は的中し、逃げる村人の背後からさらに二つの人影が姿を現した。
何やら喚きながら追われる村人に迫る二匹のオークを目にして、大柄な青年は鼻息も荒く手斧の柄を握りしめた。
「たった二人だ!不意を突けば!」
「他にもいるかも知れないと何で考えられない!」
飛び出そうとする屈強な青年を抑えながら、だが、ジャンも悔しげに歯噛みしている。
追いかけられている若い青年は、起伏の多い丘陵の斜面を必死に昇っているが、中々、オークを振りきれない。
息をのんで見守る中、ついにオークの武器が追われる青年を捉えた。
背中を切られて横転し、丘陵の傾斜を転がり落ちていく若い青年をオークは執拗に追いかけ続ける。
屈強な青年が喉の奥から唸り声を発しながら、勢いよく立ち上がった。
「もう我慢ならん!」
制止する間もあらば、追い詰められた仲間目掛けて猛然と走り始める。
オークは必死にはいずり回り、逃げ惑う青年に気を取られている様子で、突進してくる新手の敵手に気づく様子はなかった。
「うおおおお!」
が、屈強な青年は雄たけびを上げた為に、不意打ちにはならなかった。
オーク達は素早く向き直ると、粗末な小剣を手に構えを取った。
「……止むを得んか」
ジャンも立ち上がった。
「わしらの丘を侵す余所者めが!」
杖を振りまわし、訳の分からない叫びを上げながら丘陵を駆け下りていく。
その叫びを耳にしたオーク達は顔を見合わせた。
何度も目前に追い詰めた若い青年と駆け寄ってくる正体不明の二人組を見比べていたが、
さらに新手の三人目が丘陵の陰から飛び出して駆け寄ってくるのを目にして、未練たらしく獲物を睨みつけながら背中を見せて遁走に移った。
「はっはっ、臆病な奴らだ!」
「お、大きな声を出すな」
丘の民を恐れるジャンが制止するも、屈強な青年に耳に入った様子もない。
屈強な青年が走り寄ると、よろめき近づいてくるくすんだ青年はまさしく村人の一人であるクームだった。
「無事だったの!クーム」
赤毛の村娘が話しかけると、くすんだ赤毛の青年クームはどこか虚ろな目で地面を俯きながら呻き声を上げた。
「ミナは?」
屈強な青年が訊ねるが答えない。連れ合いの一緒にいないことから察していた身なりの良い青年が気まずそうに屈強な青年を肘で付いた。
「兎に角、此処を離れよう。オークが二人だけとは限らんからな。
仲間を連れて戻ってくるかも知れない」
年下の友人であるクームの腕を掴んで立たせながら、ジャンは丘陵の彼方へと視線を走らせる。
荒れた坂道をとぼとぼと歩きながら、クームが口を開いた。
「……あいつら、しつこく追いかけてきて……ずっと走りっぱなしで……何度も撒いたのに」
「でも、よく無事だったな。あいつら、お前を捕まえようと必死だからな」
ジャンが屈強な青年の言葉に怪訝そうに顔を上げた。
「族長の仇だもんな」
身なりのいい青年がぎょっとした様子で村の仲間を凝視した。
「……クーム、君は族長を殺したのか?」
緊張した口調で訊ねると、悪気のない口調で屈強な青年がうんうんと頷き、質問を肯定した。
「そりゃあ連中も必死だよな。クームを捕まえれば次の族長だもんな」
険しい顔で見つめられ、事情の飲み込めない年下の青年は苛立った口調で云い返した。
「……如何いう事だよ?俺がなんだって?」
「君を東には連れて行けない、一緒だと此方が危険だからな」
苦い口調でジャンが宣告する。
「如何いう事だ?なんでだ!」
唖然とした様子で立ち竦んでいたクームに渋い顔をしながら、
「族長を殺した君はオークに狙われてるからな」
「何だよ、そりゃ!?村の仲間だろうが!」
いきり立って反論する年下の青年クームと厳しい口調のジャンを見比べて、残った二人は戸惑いを隠せなかった。
訳が分からないといった様子の屈強な青年が首を捻りながら怪訝そうに呟いた。
「一緒に連れていけばいいじゃないか」
「大勢のオークがクームの後を追ってくるぞ、それでもいいのか?」
「あ、そっか。……悪いな。おめぇを連れてったら俺達まで危ないや」
「ふっ、ふざけるな!どうして皆の仇を討った俺がこんな目に合わなくちゃいけないんだ!
感謝してもいいくらいだろ!自分だけ助かりゃそれでいいのか!」
ジンは歯がみしながら抗議するも、ジャンは頑として譲らなかった。
屈強な青年も申し訳なさそうな顔をしながら、しかし身なりのいい青年の意見に同調していた。
「もういいさ!お前たちなんかに頼まねえ!」
赤毛の青年は険しい目で三人の村人をにらみ回した。
激高したまま踵を返した赤毛の青年に村娘が声を掛けた。
「クーム!昔の村の場所……あそこに剣士さまとエルフさんがいる」
聞いているのかいないのか返答もせずに足早に去っていく青年の背中に言葉を続けた。
「もしかしたら助けて貰えるかもしれない」
呼び掛けの声も耳に入る様子もなく歩み去っていくクームの背中を見送りながら、
見捨てた当の本人であるジャンが、ポツリと小声で呟いた。
「ミナ……いい子だったのに。辛いだろうな」
「俺も、母ちゃんがいなくなるなんて想像もしたくないぜ。早く助けを呼んで戻らんと」
屈強な青年の呟きに、村娘は暫らく俯いて何かを考えていたが、やがて視線を転じて身なりのいい青年の顔をじっと見つめた。
「……ねえ。ジャン。ローナの執政官は、本当に援軍を出してくれると思う?」
真剣な眼差しで赤毛のジナに見つめられ、ジャンは顔を曇らせる。
暫し待って、村娘が溜息を洩らしながら俯いた時に返答が返ってきた。
「……分からない。だが、他に手はないだろう」
丘陵の彼方に遠ざかっていく友人の背中を見つめながら、身なりのいい青年は擦れた声で呟いた。