村を脱出したエリスは、改めて周囲の様子を窺いながら深い外堀に沿って足早に歩き始めた。
柵の内側での騒乱が嘘のように、深く静かな沈黙が一帯を支配している。
栗鼠やら小鳥やらの微かな気配や鳴き声すらしないのは、先刻まで繰り広げられていた戦闘に恐れをなして小動物の類やら何やらがいずこかへと逃げ去ったからに違いない。
程なく半エルフは、女剣士が降り立ったであろう場所にて人のいた痕跡を見出したものの友の姿は影も形も無い。
他に場所の心当たりがある訳でもなく、微かに狼狽して浅緑と赤茶に覆われつつある丘陵を見回しているうちに、やがて地表にある微かな足跡と血痕をその煙る蒼の瞳が捉える。
屈み込んで地面に残された痕跡を詳細に調べながら、さてはオークの追撃を恐れて丘陵地帯へと入り込んだのかと見当をつけて背を丸めながら一人頷き、今度は地面に残された痕跡を消し去りながらゆっくりと追跡を始めた。
耳元で数名の人間がなにやら言い争っていた。
不快な響きに眉を顰めて身動ぎしたと同時に、暗い闇の底に沈んでいた意識が急速に覚醒へと向った。
篭った熱を伴った苦痛が全身に纏わりついているので、直ぐに身体を動かすより少し待った方がいいと本能的に悟り、アリアは薄く目を見開いて辺りの様子を窺った。
薄暗い木造の小屋の片隅に己が横たわっているのに気づき、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
元の住人がいなくなってから一体何十年を経たのだろうか。
所々が崩れ落ちた茶色い漆喰の壁を矮樹の枝が突き破っている朽ち果てる寸前の小屋であった。
床の片隅に身を横たえている黒髪の娘の傍らに、三人の村人が陰気な顔を寄せ合ってこれからの方針を話し合っていた。
連れのエルフ娘の姿が見当たらない。心配になって黄玉の瞳を細めた。
村人達はなにやら会話に没頭しており、彼女が起きた事にも気づかない様子なので、黒髪の女剣士は暫し横たわったままに耳を欹ててみる事にした。
「南への街道は、勿論、北もオークたちに塞がれている。
のこのこ歩いていったら、殺してくださいというようなものだよ」
どうやら身なりのいい若い男が議論を引っ張っているように見えた。
「……だったら如何すればいい?
水も食い物も少ない。此の侭、ずっと此処に隠れている訳にもいかない」
「東に進めばいい。早ければ一日でローナの町に着けるだろう」
「東の曠野を抜ける心算?」
「だってお前……あそこは……」
不安そうに躊躇いの顔色を見せた屈強な青年と赤毛の娘を、身なりのいい青年は熱心な口調で説得し続ける。
「大丈夫だ。家族で何度か行ってローナまで抜ける道は分かっている」
「襲撃の後、暫らくの間は街道は危険だ。オークが出没するに違いない」
「いつもの事ね」
苦々しい思いと共に、嫌そうな顔をして赤毛の娘は頭を振った。
それから女剣士に憂いを帯びた視線を向けた。
「行くとして、彼女は如何するの?」
「置いていくしかない」
「この人を置いていく心算か?ジャン」
身なりのいい青年の判断に、屈強な青年が気の進まない様子で訊ねる。
「幾らこの御人が剣の達人でも、元気なら兎も角、今の有様では足手纏い以外のなんでもないよ。
それに彼女の荷物も助けになるだろう」
苦しげな咳が女剣士の口から漏れた。
「……足手纏いはその通りだな。だが、荷物はやれんよ」
喘ぎながら穏やかな口調で言葉を発した。喉が渇いている。
全身で水分が足りない気がした。無性に水が飲みたい。
「……起きていたのか」
決まり悪そうに眼を逸らして、身なりのいい青年が呟いた。
「エリス……私の連れは……どうなった?」
聞きながら上半身を起こそうとして、鋭く走った痛みに思わず躰を折り曲げると、再び咳き込んだ。
身体が思うように動かない。
疲労と出血、そして負傷にかなり弱っているようだと自己判断を下して、今度は慎重に躰を動かしながら、上半身で壁に寄りかかった。
苦しげに呼吸をしているうちに、身体のだるさは取れなかったものの、黄玉色の瞳に再び強い活力の光が戻ってきていた。
「あ、ああ。彼女は、村に……」
「……無事だと思うよ。多分ね。それよりもだ……」
じっと覗き込んできた屈強な青年が口ごもるも、ジャン青年に邪険な調子でそれきり話を打ち切られた。
何があったか、あれからどれ位の時間が経ったのか、此処は何処か。
色々と聞きたい事があったかが、三人の村人は自分のことで一杯一杯でとても余所者の怪我人などに構っている暇はないのだろう。
首を傾げて穴の空いた天井から空の色を見つめた。
外の明るさからすると、柵を越えてから四半刻も経っていないと思えた。
身なりのいい青年が、赤毛の村娘を熱心に口説いていた。
「……当てはあるんだ。ローナに親戚が店を持ってるし、東の抜け道はオークたちも知らない筈だ」
「……それは、でも」
「行くなら今すぐ出発するべきだ。ジナ、一緒に来なよ」
村娘は俯いて、考え込む素振りを見せていた。
傍目にも迷っている様子だったので、アリアは声を掛けた。
「……当てがあるのなら、行くのも一つの手だ」
赤毛の村娘は頷いたので、身なりのいい青年は朗らかな笑顔を浮かべながら今度は屈強な若者を見つめる。
「仕事とか生活とか世話してやれると思う。お前も来るだろう?」
口調は柔らかながらも押しの強い言葉に対し、特に自分にいい考えがある訳でもなく、手負いの女剣士を気に掛けながらも屈強な青年も頷いた。
赤毛のジナが女剣士の傍に屈みこんだ。
勝気そうな茶色の瞳に、不安そうな光が揺れている。
「……町についたら、助けを連れて戻ってきます」
大抵の人間は、何か行動を起こす前には、ああしよう、こうしようと色々と考えるものだ。
だが実際に町に着けば、彼女とて直ぐに自分の新しい生活だけで手一杯になるに違いない。
或いは、葛藤の末に再び妹を助けに戻ってくるかも知れないが、余所者の女剣士の面倒まで見るという事は有り得ないだろう。
全く期待をせずに黒髪の女剣士は億劫そうに頷いた。
「では、達者でな。私は連れを待つとしよう」
エリスなら、此処までわたしを探しに来るだろうという予感があった。
「……で、此処は何処だ?」
どうせ村の近くではあろうが、此れだけは聞いておかなければならない。
赤毛のジナは身なりのいい青年と顔を見合わせてから、説明を始めた。
「柵の外の……この辺りは元は村の一部だったんです。村は昔、もっと広がっていたんですけど、大きな地震の後に井戸が枯れて……
亜人が増えている事もあって、その頃は、まだ柵はなかったけど、元の住民は守り易い村の内側に引っ越しました」
「では、村のすぐ近くなのだな?」
確認を取ると、身なりのいい青年が赤毛の村娘の後を引き継いで説明する。
「そうだ。オーク達の集落は村を挟んで反対側だから、此処側には滅多に廻らないし、周囲の地形にも詳しくないと思うが、出来るだけ早く発った方がいいよ」
「ふむ……無事を祈ってる」
「そちらも」
言いつつ黒髪の女剣士は目を閉じて、楽な姿勢で壁に寄り掛かって黙考し始めた。
村人たちの気配が留まっているが、構わずに己が思案に没頭する。
エリスは捕まらずに村から無事脱出できただろうか。
脱出できたとしても、私を探すか。
その上で、さらに此処を探し出せるだろうか。
考えた末に六割方大丈夫だろうと結論を抱く程度には、エルフの娘の機転と人格を信頼していた。
出会ったばかりの相手であるから、生き別れになろうとも互いにまた一人旅に戻るだけだ。
最悪、オークに捕まりさえしなければ構わない。
翠髪のエルフ娘の身を案じながら黙考しているが、目前から村人たちの立ち去る気配がしない。
不信に思いアリアが再び目を開くと、身なりの良い青年がなお目前に留まって決まり悪そうにしていた。
何をしているのかと訝しげな眼で見つめると、少し言い難そうにしながら口を開いた。
「あー。ところで、食べ物を幾らかでも分けて貰えないだろうか。
急に村を出たので大して持ってこなかったんだ。
東の曠野は抜けるのに一日は掛かる。そちらは半日で南へ付くし、数日分を持っていると思うんだが……」
ジャン青年の背後から怒りの混じった尖った声が掛けられた。
「それはそちらの事情……荷物は置いていってもらわないと困るな」
村人たちは驚きながら小屋の入り口へと振り返った。
扉もない戸口に、長剣を手にして小柄な人影が立っている。
翠髪のエルフ娘は疲れている様相で戸口の梁に寄りかかっていたが、見たところ傷もなかった。
サンダルを履いた足をだるそうに引き摺りつつ、その癖、猫のように足音もたてずに小屋へ踏み込んでくると、しげしげと室内を見回して、埃っぽさに眉根を寄せて不愉快そうに細い眉根を寄せた。
それから黒髪の女剣士の傍らに歩み寄って屈みこむと、ぎゅっと手を握る。
アリアは乾燥した唇に笑みを浮かべると、遅れてきた連れに声を掛けた。
「どうやら無事なようだな……よかった」
「それは此方の……いや、私は無事だよ」
エリスはハンケチを取り出すと、アリアの額の汗を拭った。
「随分と遅かったな。気を揉んだぞ?」
屈みこんだエルフの娘の前髪を、女剣士は指先を伸ばして弄くりながら問いかけた。
「御免。剣と荷物を持ってきたから遅れた」
「……何をしてるのかと思えば」
顔を覗き込むエリスと彼女の手にした荷物や剣を交互に見比べながら、アリアは微かに苦笑を浮かべた。
「どうせなら、槍を持ってくればよかったのに……」
「お、お金は大事でしょうが……」
「でも、ありがとう。良かった。爺さんから貰った剣なんだ。
業物だから失くすには惜しいと思ってた」
抜き身のそれを嬉しそうに抱き寄せて、アリアは刀身にべっとりと張り付いた血糊や体液、骨髄を眺める。
鋼の冷たい匂いに、鉄錆びたような血と臓物の臭いが入り混じって鼻腔を微かに刺激した。
「……此の侭では錆びてしまうな」
呟き、エルフ娘を見上げた。
「血糊を洗いたい。水を貰えないか?」
「……水ね。でも、貴女の飲む分が先ね」
エリスに強請ったが、柔らかに拒否された。
手当てやら何やらと綺麗な水は何かと必要になるので、剣は後回しだと告げる。
村で幾らか使ったので、残りの水は二人合わせて水筒二個と半分程度しかない。
後で水を探してこないといけないと思いながら、エリスは立ち上がり、村人達に向き直る。
「なにか、よからぬことを相談していたみたいだけど……」
エリスは、三人の村人達からは思いも寄らぬ鋭い視線を向けてきた。
「誤解しないで欲しい。僕は……」
エルフの娘の物言いには、隠しようもなく刺々しさが混じっていた。
身動き取れない友人から荷を奪う算段だったのではと、警戒しているのだろう。
居心地悪そうに身動ぎしながらも、そんな心算ではなかったジャンは釈明しようと口を開いた。
たじろいでいる身なりの良い青年の言葉を遮って、少し好戦的になっている半エルフが唸るような声で噛み付いた。
「そう、誤解か。なら、互いにこれ以上の誤解の生まれないうちに、さっさと出発するといいよ」
「いや、分けてやろう」
アリアが口を開くと、エリスは怪訝そうに首を傾げて蒼い瞳をじっと友人の顔を覗き込んだ。
「……いいの?」
「構わぬ。わたしを此処まで運んでくれた訳だしな。
それほど多くはやれぬが、少しでも有ると無いでは大分違うからな」
取り成すような穏やかな言葉にエリスは渋々頷くと、革の背負い袋を開けて幾らかの食料を取り出し始めた。
木の実の固焼きパンや雑穀のビスケット、木の実、干し豆などの手渡された食料を鞄へと仕舞いこみながら、身なりの良い青年たちは礼を述べる。
「すまんな。ありがとう」
アリアは鷹揚に手を上げて応えた。
互いの無事を祈ってから、村人たちはそのまま小屋の戸口から出ていく。
見送りに外まで付き添ったエリスは、出発する赤毛のジナとすれ違う際につい呼び止めて話しかけた。
「妹さんだけど……」
「うん?」
「いや、無事に見つかるといいな」
言ってから、半エルフは言葉を迷ったように視線を宙に彷徨わせた。
「東の町に向かうにしても、南にも一人は村の窮状を告げる為の使者を出した方がいいと思うよ。
まあ、東の町についてから知らせてもいいけどね」
気をつけてと別れを告げると、エリスは踵を返して藁葺き小屋へと疲れた足取りで戻っていった。