村人達と似たり寄ったりの粗末な布服を纏った少女は、服装から見ても、モアレに住む農民の子に違いないであろう。古びた納屋の裏庭で死んだように横たわって、か細い呼吸を苦しげに繰り返して胸を上下させている少女の左腕は、手首から先が切断され傷口は焼かれて黒く炭化していた。
「……なんて惨い仕打ちを」
義憤に耐えかねたように歯を食い縛っているエリスが怒りを露わにするのとは裏腹に、アリアの方は奇妙に冷めた眼差しで少女を見つめていた。
「兎に角、此の侭に放置しておく訳にもいかぬだろうよ」
云って少女をそっと抱き上げると、アリアは納屋へと歩き出した。
先に納屋に駆け込んだ半エルフの娘は、隅に山と詰まれた藁を使って急ぎ寝床を整えていく。
藁の寝床に慎重に降ろすと、黒髪の女剣士は村人の付けていたマントを持ってきて少女に掛けてやった。
納屋の隅に詰まれている小枝や藁を積んで薪とし、火を付けた。
山積みされた藁を螺子っては、焚き付けに放り込んでいく。納屋にいる二人の娘は焚き火の傍で顔をつき合わせ、浮かない顔で対話する。アリアはやはり藁の上に寝転び、エリスは憂鬱な表情で土壁に寄り掛かっていた。
「まだ村にはオークがうろついているに違いないね」
連れの呟きにもアリアは反応を返さずに、難しい顔付きをして炎を見つめていた。
気にした様子もなくエリスは戸口から覗く蒼天を仰いで再び呟いた。
「夕暮れには、まだ幾らか時間があるけど……」
「オークの中には夜目が効く連中も混じっている。移動するなら早いうちだぞ」
アリアが炎を眺めながら独りごちるように呟いた。
人族の娘の言葉に頷いてから、エルフの娘は視線を転じて藁の寝床に眠る村娘を見つめた。
焼かれた腕は、今は膏薬と包帯で丁寧に止血されている。
「具合は如何だ?」
「分からない。……傷の毒素が全身に廻らなければ、多分、助かりそう」
出血が少ないのが幸いしたか。エリスの見立てでは十中八九命は助かりそうだった。
身内を全て失い、不具となった状況で一命を取り留めるのが果たして幸せなことかどうか確信できぬまま、エルフの娘は少女に手当てを施している。
油でも在れば、惨く焼かれた傷口に塗って痛みも幾らかは軽減できたかも知れない。泣きたくなるような気持ちを抑えて、エリスは俯いていた。憂鬱な気持ちに沈んでいる翠髪のエルフの娘を少しだけ優しげな眼差しで眺めた後、アリアは話題を転じた。
「水と食料はどの位在る?」
「三日分」
エリスは即答し、アリアは眉を顰めて瞑目している。
「節約して?」
「節約して」
暫しの沈思の後、アリアは云いにくい事をきっぱりと口にした。
「連れてはいけないぞ」
「……分かってる」
二人の娘は顔を見合わせた。
焚き火がぱちんと音を立てて爆ぜた。
「……仕方のないことだ。見ず知らずの娘だし」
自分自身の言動に唾を吐き捨てたい気持ちになりながら、翠髪のエルフの娘は言葉を続ける。
「うん、足手纏いになる。せめて目覚めてくれればね」
アリアにしてからが、さすがに背負って連れて行くほどの体力の余裕はない。
気のいい半エルフの娘にとっては、仕方がないと思いつつも辛い判断なのだろう。
切れ長の蒼い瞳に切なげで沈痛な光が宿っていた。
黒髪の女剣士はほろ苦い自嘲の笑みを浮かべてから、話題を再び変更した。
「私はモアレから北……と言うより此の辺りの地理には詳しくない。東国の人間だからな」
翠髪のエルフの娘は、顔を上げて東国人の女剣士をじっと見つめた。
「君は如何だ?」
「私は南。レイジーヌ近くにあるエリオン森の生まれ、といっても知らないよね」
「うむ。レイジーヌもエリオンも知らぬな」
「結構、大きな港町だと思うんだけどね」
エリスは少し強張った微笑を浮かべてから、肩を竦めた。
「南の街道は何度か通り抜けた事が在るけど、其処から外れた土地となると……」
「分からぬか」
アリアは声を落とし、前髪を苛立たしげにかき上げる。
「……北への道は、丘陵を縫うようにして続いているとだけ聞いたことがある」
「……北へ抜けるか。南へ戻るか」
エリスが歌うように呟いて、アリアを意味深に見つめた。
「南は問題外だ」
「そうかな。本隊さえ何とか避けることが出来れば……川を渡ってしまえば」
エリスの案にも一理あるので、アリアは頭を振った。
「では、難しいと言い換えよう」
言い直して、黒髪の女剣士は手近な枯れ枝を手に取った。
無造作にへし折ると焚き火に放り込む。揺らめく炎が二人の娘の顔を照らしていた。
「とは言え、奴らが南下してきた部族だとすれば、北にある道中の村々や農園も荒されているであろうし、落伍した者や逸れたオークの兵がうろうろしているやも知れぬな」
「大規模な侵攻の先触れかな」
「なら、なお悪いぞ?」
翠髪のエルフ娘は訝しげな瞳を女剣士に向けて、無言で問いかける。
「きっと要所要所に少なからぬ兵が駐屯しておろう」
遥か北方の曠野や高山地方に勢力を誇るトロル王や配下のオグル、オークの首長たちは度々軍勢を起こしては南下して、ヴェルニアの人族やエルフ族の諸国家を脅かしている。
「まさか。北方の王たちやその騎士団がそう容易く破られるとも思えんが……」
憂鬱そうに呟いたアリアは顔色が悪かった。
出血の為というよりは、想像の翼が悪い方向に働きかけたのだろう。
「……十年か前。城砦群を迂回したオークの大規模な別働隊が中部地方を荒らしまわった事がなかった?」
如何にも嫌そうな翠髪のエルフの娘の言葉に、黒髪の女剣士は頤に指を当て頷いた。
出身地から遠く離れた中原での話とは言え、当時のオーク族の侵攻で引き起こされた災禍は凄まじく、その伝聞は彼女達の郷土まで伝わっている。
往時の記憶は未だヴェルニアの人々にとって生々しく鮮明であり、今も娘達に幾らかの不安を覚えさせていた。
その時、少女が苦しげな呻き声を上げた。
立ち上がったエリスが、水筒の水を木の椀に注ぐと少女の唇へと持っていく。
左腕から全身に伸びた嫌な熱の縄で身動きできなかった。奇妙な熱と寒気が同時に躰を苛んでいる。
身体中が乾燥していた。芯までからからに乾いてしまっている。血が蒸発してしまったかのようにも感じられた。
苦しくて溜まらずに呻き声を上げた時、ふと唇に湿り気を感じた。濡れた布で優しく額を拭かれる。
「姉……さん?」
「あっ、目を覚ましたよ」
少女が目を醒ますと、煙るような美しい蒼の瞳の驚くほどに綺麗な若い女性が覗き込んでいた。
尖った耳から、きっと噂に聞くエルフなのだろう。
「ほう、目を覚ましたのか」
欠伸を噛み殺しながら、狼の毛皮のマントをつけたもう一人の女性がしなやかな動作で藁から起き上がる。
此方も艶やかな黒髪に整った顔立ちの美貌だったが、残念ながら絶世というには些か目付きが鋭すぎた。
「大丈夫か?」
問いかけに少女は夢でも見てるかのようなぼんやりとした眼差しで、二人の娘の顔を見回した。
「……おねえちゃ……貴女たちは?」
「旅人だよ」
「旅人だ。其れと余り大きな声を出すなよ。まだ周囲にオークがいるかも知れない」
釘を刺してから、この様ではとても大声は出せまいとアリアは思った。
少女の顔色は酷く悪く、まるで半死人のように蒼白だったからだ。
「……旅人」
村の少女はポツリと呟いて、気づいたようにハッと息を飲んだ。
「……そうだ。オークが」
「君を襲った奴らなら、外で死んでいる」
黒髪の女剣士の言葉に外に目をやり、自分を襲った恐ろしいオーク達が死んでいるのを目にして、安堵だろうか。すっと涙を零した。
「……あ、貴女達が?」
「まだ起き上らない方がいいね。其処で休んでなさい。それとも火の傍がいい?」
翠髪のエルフが優しい声を出して、動こうとする少女を留めた。
「何があったか。話してくれないか?」
黒髪の女剣士が尋ねてきた。
「……オークが襲ってきて、お父さんも、お母さんも、皆……」
少女の瞳に涙が滲む。
「他には?彼らの数や武装とか、何時、何処から、どんな風に襲ってきたか。
オークについて村の大人たちは何か口に出してなかったか?何でもいい。思い出してくれ」
やや非難めいた眼差しでエルフ娘が見つめてくるが、黒髪の娘は大事な事だと思って性急に訊ねる。
少女は水を飲みながら、ポツリポツリと昨日の出来事から語り始めた。
「オークが襲ってきたのは、昨日の昼頃でした。隣の小父さんが扉を叩いて……」
「昨日か。……いや、続けてくれ」
黒髪の娘が興味深げに考え込みながら、少女に先を促がした。
「大人たちは武器を持って立ち向かいました。でも、オークは物凄い数だったから」
エルフ娘は首を振った。また気分が悪くなってきたようだった。
死体から目を逸らして、辛そうな顔をしている。
「……オーク達が南から攻めてきたって。女子供は村長の家に批難しろって……」
村中心の広場に面した村長の家は、大きく頑丈だったそうだ。村外れの農家の一、二軒が襲われたくらいの小規模な襲撃ならば、女子供を尤も大きな家屋に避難させるのはけして悪くない判断だったのだろう。
夕方が近づき、冷たい風が大地を吹き抜けていく。納屋では、少女が水を飲みながら、途切れ途切れに経緯を語り続けていた。
「……でも、姉さんは、オークの数は普通じゃない。
何時もと違うから、村長の家は却って危険だからって。
村の外れにある小山に二人で行きました。後で他にも逃げてきた人たちもいたんだけど」
「賢いお姉さんだな。続けてくれ」
「皆で一晩、隠れて……次の日の昼になったらオーク達は引き返していくのが見えたから……皆、戻ろうって」
其処まで語ってから少女が力なく俯いた。
「姉さん。姉さんはまだ早いって云ったのに……
あだじ、あだじがどうざんどがあざんがじんばいだってがっでに……」
暫らくすすり泣いて、
「村に戻ったのだけれど……村には、まだ沢山のオークがいたんです」
姉は再び少女の手を引いて、いち早く逃げ出したそうだ。数人の大人が武器を持って戦うもすぐに追い詰められ、残りは村長の家に立て篭もったが、すぐにオークが押し入ってきた。
「姉さんたちと一緒に此処まで来て……残った皆で戦ったけど、あの恐ろしい二匹のオークが、皆を次々と殺して……」
語り疲れた様子を見せていたものの、村の少女は最後まで語った。
「藁に隠れたけど……姉さんは抱きかかえられて、連れて行かれて……あの二匹が戻ってきて……」
語り終わると、村の少女は息を吐いて目を閉じた。
「……南から攻めてきたといったな」
「……はい」
「南と言ったか?確かに南だったのだね」
黒髪の女剣士は執拗に念を押した。
「……ええ、南です。南のオークはしょっちゅう襲ってきて」
「ふむ。やつらは北のオークではない。
いや、即断は早いが。巣が南だとしたら……」
黒髪の女剣士が深々と一人で頷いている。エルフ娘は眉を顰めた。
「……つまり?」
「つまりだ。奴らは北方を荒らしながら南下してきた大規模な部族の先遣隊や別動隊などではなく、単に南の丘陵地域の何処かに巣窟を構える部族で、手近な人族の村を襲っただけの事かも知れないと云うことだ」
翠髪のエルフは首を傾げて女剣士の言葉が意味することを考えるが、よく分からない。
「……なら北に位置する村々も無事という事?」
「うん。それに南の根拠地へそのまま帰還したとしたら?」
エルフ娘も気がついた。
「あ、宿屋や艀の渡し場が襲われなかった可能性もあるのか」
「南へ戻ってもいいかも知れない。
まぁ、鉢合わせしないように慎重に見定める必要はあるがね」
エルフ娘は軍隊の行動についてはよく知らないので、指針を立てようがない。
が、疑問に思う点がない訳でもない。
「……おかしいよ?奴らと遭遇するまで街道はそこまで荒れていなかった。
百人の軍勢が通れば、幾らなんでも分かる筈だ」
「南への道は……街道と丘陵地帯を通る二つの道があるんです」
村の少女の言葉にエルフ娘も顔を明るくした。
女剣士と顔を見合わせてなにやら頷き合うと、二人の旅人は熱心に話し始めた。
少女は武装した村人たちをあっさりと屠った二匹のオークの死骸をじっと見つめた。
それからその二匹を殺害した女剣士に視線を移し、懇願するような光を瞳に浮かべる。
「……確かめてみる必要はあるだろうが……」
「その後に……南を襲った可能性もあるけれども……」
「…………あの」
おずおずと声を掛けるも、二人の娘の耳には入らない様子だ。
「いや……丘陵地帯の何処かに巣を構えるオークならば」
「多分……帰還した可能性も……」
「……剣士さま」
「南へ戻る道が……なら」
「剣士さま!」
「……なんだ?」
興味を無くした様子で無愛想に訊ね返してくる女剣士の鋼のような瞳に怯みながらも、茶髪の少女は勇気を奮って懇願した。
「あの剣士さま。姉を……姉さんを助けてもらえないでしょうか?」
「先ほどの話では、オークは二十も三十もいるのだろう」
黒髪の女剣士に願い出てみるも、首を振って話にならないと一蹴される。
「一緒に来ない?」
翠髪のエルフの言葉は優しげだったが、がっくりきた少女は虚ろな眼差しで見上げたまま首を横に振った。
「此の侭、此処にいてもどうにもならんぞ。例え、オークに見つからないで済んでも……」
少女が首を縦に振らないので、黒髪の女剣士は肩を竦めると其れきり関心を示さず、オークの短槍を拾い上げてバランスを測り、穂先の鋭さを調べる。短槍は粗末な造りだが頑丈で、使い勝手は良さそうだった。
「ふむ……持ってろよ。エリス」
「……森にいた頃、兎を取るのに使っていたけど……」
差し出された半エルフは、首を傾げて短槍を眺めた。
「棍棒よりはましだろう。それにこの先、其れが必要になるかも知れんぞ」
「……確かに」
少し考えてから、翠髪のエルフ娘は短槍を受け取った。
構えたり、投げる姿勢を取って自分でもバランスを確かめていた。
二匹のオークの死骸を村人たちの死体の下へと隠して、裏庭の炎は念の為に消しておくと、
「では、私たちは行くぞ」
「本当について来ないの?」
少女は頷き、二人の旅人は顔を見合わせると肩を竦めた。
エルフ娘の方は心残りと言った様子だったが女剣士が引っ張ると、やがて足音が遠くなっていく。
立ち去ったようだ。
しょんぼりと肩を落としたまま、農民の少女は長く地面を俯いていた。
願いは聞き届けられなかった。他力本願なのは分かっていたが、非力な少女に他になにが出来る訳でもない。酷く心細かった。ついていくべきだったかもしれない。
オークがいなくなるまで隠れていても、その後にこの腕で暮らしていけるか如何かも分からない。
まだ腕は酷く痛んだ。泣きたい気持ちに耐え切れなくなって、再び涙が溢れ出た。
ほんの一日前までは、昨日と同じ今日。今日の続きの明日。
代わり映えしない、少し退屈だけど平穏な毎日がずっと続くと思っていたのに。
膝を抱えて少女が静かに啜り泣いていると、不意に近くで物音がした。
もしかして気まぐれで戻ってきたのかと眼を上げて、入り口に黒い影がさした瞬間、少女は顔を強張らせた。
不快な緑色の肌をした瘤や爛れのある小柄な亜人が四、五人。厭らしい嘲笑を浮かべて、少女を見下ろしていたからだ。
「おっほっほう、こんなところに猿の餓鬼が一匹隠れてやがったぜ」
「パ・ルンクの鼻は確かなのよ」
にやけた笑みを浮かべたオークが大股に近寄ってくる。
「全く狡賢い連中よ。猿共は。だが、オークを出し抜こうなんて百年早いのよ」
少女は脅え後退ったが、直ぐに背中は土壁に阻まれた。
緑色の太い腕が伸びてきて、少女の焦げ茶色をした毛髪を強く握り締めた。
絹を引き裂くような悲鳴が後方の納屋から聞こえてきた。
村の田舎道を歩いていた二人の娘は立ち止まり、互いの視線を交差させる。
翠髪のエルフの娘は天を仰ぎ、黒髪の女剣士は地を俯いてため息を漏らした。